中編
翌日、私は全身の怠さに苦しんでいた。
服で隠せているところは隠せているが、どこもかしこも傷だらけだし、深すぎる愛の痕がたくさん残されている。その一方で、傷も痣もない部分の肌はつやつやだし、頭もすっきり冴えていた。昨晩は過剰すぎるほど魔女の性が満たされたし、今朝もそうだった。きっとこの半日で私の体重はさらに増えたかもしれない。
一方で、霊の方もまた健やかな様子だった。太らない体質の彼女が愛しくて憎い。相談すると運動が必要なのねと言って、朝食がてらすぐに楽しい愛のお遊びに持っていこうとするその強引さが憎くて愛しい。だが、〈サロス〉を外した彼女に、異常なほど惑わされることはもうなかった。
〈サロス〉は今日、本来の持ち主に返却される。その効果を味わうことになったことを思うと、少し惜しい気もしたが、これ以上惑わされる前に迎えに来て欲しいというのもまた本音だった。
いったい、百花魁はこれを使って普段どのように過ごしているのだろう。
疑問に思ったところで、約束の時刻は来た。
「お世話になったわね。昨夜は楽しめたかしら?」
見透かしたようなその眼差しにドキッとしてしまったが、霊の方はまったく動じることなく、〈サロス〉を手渡しながら頷いた。
「ええ、お陰様で激しい夜を過ごせたわ。それで、あなたの方はどうなの、姐さん?」
言葉のカウンターだ。
しかし、相手は百花魁だ。華麗に決まるはずもなく、百花魁は面白がるようにひとしきり笑い、促された先の蘭花のテーブルについた。
座ると同時に、色気のある人間の女性の姿から、二足歩行のキツネの姿へと変わる。一見すればファンシーで可愛らしい姿だが、その目に見つめられるとドキッとしてしまった。
「お陰様で、〈サロス〉に頼らずともどうにかなったわ」
穏やかだがやや冷たいその表情に、霊はそっと目を逸らしてから切り出した。
「そう。それなら何より。さすがは姐さんね。じゃあ、預かってあげた分と使わせてもらった分でチャラってことで」
「あら、霊様、あなたらしくないわ」
百花魁はそう言って、手慣れた様子で〈サロス〉で頭に簪をくっつけると、私たち二人を見比べてきた。というか、その簪、どうなっているのだろう。差しているわけではなさそうだし。
「預かってもらった分の迷惑料と二人でお楽しみだった分の使用料。どうも後者の方がかなりお高いように感じるのだけれど」
「そんなの気のせいよ。さあ、そろそろ戻っては? ご主人様が心配なさるわ」
「しょうがないわね。でも、その前に、一つだけ聞かせてちょうだい」
穏やかだが、店に来た時とは何かが変わった。〈サロス〉だ。頭にくっつけただけなのに、たったそれだけで、彼女の雰囲気が大きく変わった。
「〈サロス〉の働きに問題はなかったかしら?」
率直なその問いに、私は赤面してしまった。
昨晩から今朝の私はいつも以上に霊の奴隷だった。私の存在が霊を悦ばせるのだと分かると、生まれてきたことすら嬉しくなるくらい幸せになったし、霊が何かを望んでいると思うと、命を懸けてでもそれを叶えなくてはと思ってしまった。おかげで質問にはすべて正直に答えることになったし、それがいつもならば恥ずかしいようなことでも、躊躇いすら生まれなかったのだから。
いくら魔女の性が従属だと言っても、あれは異様だった。
〈サロス〉のせいじゃなければ、いったい何のせいなのか。
私は百花魁から目を逸らした。
「どうやら、相当熱い夜になったのね」
「姐さんには関係ないでしょう。それに、〈サロス〉の効果だったら、姐さんが一番よく知っているはずでしょう?」
「ええ、それもそうね。あなたもまた、〈サロス〉の力で言いなりになる体験をしたことがあるものね」
――え?
その言葉に、思わず顔をあげてしまった。
霊が〈サロス〉の言いなりに?
だが、問いかけるより前に、百花魁と目が合ってしまい、私は固まった。
「幽ちゃん、今度ははっきりと聞くわ。〈サロス〉の力を感じることが出来た?」
答えなくては。何故かそう思った。
「出来ました」
素直に即答し、そしてやっと俯けた。直後、恥ずかしさでいっぱいになる。そんな私に対して、さらに追い打ちをかけるように百花魁は言ったのだった。
「そう。でも、よくよく考えたら、幽ちゃんは従属の魔女だったわね。〈サロス〉なんてなくたって、霊様の言いなりなのでしょうよ」
控えめに笑う百花魁を前に、私はますます肩を竦めてしまった。そんな私をそっと庇いながら、霊は冷たく言い放った。
「それはそうだけれど、〈サロス〉の力の確かさは今はっきりとしたわ。だって、幽が私以外――それも百花姐さんの命令を聞いて、即座に従うなんてあり得ないもの」
突き放すようなその言葉に、百花魁はますます笑みを深める。霊が怒れば怒るほど、百花魁には逆効果であるらしい。相変わらず厄介な関係だし、居合わせる私の方は肝が冷えるばかりだった。
それに、また新たな悩みの種を植え付けられてしまった。
――あなたもまた、〈サロス〉の言いなりに体験をしたことがあるものね。
霊さんはそんな事を微塵も語ろうとしなかった。ただ単に語る必要がなかったのか、私に語りたくない事情があるのか。その判断はつかない。少なくともじっくりと質問できるまでは。そして、それは今すぐのことではない。
百花魁がいる限り、その機会はいつまで経っても訪れないだろう。
おかげで、私はそわそわした気持ちを抱えることとなった。閉店時間が待ち遠しい。もちろん、昨日のような不純な動機ではない。霊にしっかりと確認できる時間が欲しかった。
「それもそうね」
百花魁はくすりと笑いながら口を開いた。
「霊様の言う通り、間違いなく〈サロス〉の調子は良さそうだわ。そうと分かれば長居は無用。お邪魔ギツネは大人しく立ち去りましょう」
そう言って、百花魁は蘭花の椅子から立ち上がった。途端にその姿はキツネから人へと変わり、目が覚めるような、或いは、逆にうっとりとする夢に引きずられてしまうような、妖艶な女性の姿へと変わった。
「それじゃあ、お世話になりました。また近いうちにお会いしましょう。くれぐれもお外のケダモノには気を付けて」
「ええ、言われずとも」
霊の冷めた返事に微笑み、百花魁はそのまま立ち去っていった。
二人でその後ろ姿を見送ってしまうと、私は恐る恐る霊の横顔を確認した。
客の気配はない。店の中から窺える、昼下がりの眩い通りに人気はない。時間帯的にも、店に客が来るのはもう少し先の事だろう。
閉店時間を待つまでもない。聞くならば、今だ。
「霊さ――」
「幽」
だが、私の勇気はそのたった一言で阻まれてしまった。
霊は百花魁の去った方向を見つめたまま、きっぱりと断ってきた。
「質問はベッドの上でね」
私の魔女の性は隷属だ。従うこと、従わされることで性は満たされ、生きることや魔法を使うことが出来る。そうは言ってもそれは身体的な都合であって、心やプライドの全てがその性に支配されているわけじゃない。
だから、いつだって私は矛盾の中にいたし、心身が引き裂かれそうになることも多々あった。それでも、私は憎むことが出来ない。せっかく手に入れた完璧な主人を、心を何度も奪われてしまったこの人を、嫌う事なんて出来ない。
ベッドの上で、私の質問はどのように扱われるのだろう。
またはぐらかされてしまうのか、それとも、この身を捧げた分だけ、ちゃんと答えて貰えるのだろうか。
どっちにしたって、私の想いはきっと変わらないのだろう。
霊にどんな過去があったって、私はもう彼女の隷従である。取り消すことの出来ないこの魔術で縛られている限り、私たちの繋がりも切る事が出来ないのだから。
それからしばらく経って、店にはいつものようにお客さんがやってきた。常連の学生さんたちの和気あいあいとした会話に少しだけ癒されながら、私は心の隅で閉店時間を待ちわびていた。
霊はいつもと同じだ。
暗すぎず、明るすぎず、来店客と接している。
ここへ来る客の大半は霊が吸血鬼だなんて知らない。そもそも吸血鬼なんてものが実在するなんて思ってもいない。何処まで行っても光の世界のものである人間たちにとって、闇黒の者、狭間の者は想像上の存在でしかない。
けれど、その違いを全く悟られることなく、霊は優しいお姉さん店主を今日も演じていた。
ここへ来る人間のお客さんたちは、きっと想像もしないだろう。美しい店主とたった一人の従業員が、毎晩どのように食事をとっているかなんて。
閉店時間後、店の看板が伏せられ、鍵が閉まり、カーテンが閉まった向こうで何が起こっているかなんて、考えもしないだろう。
そして、私が今、どのような心情でいるかなんて。
「時間ね」
時計の鐘の音が鳴り、私は我に返った。
店内にはすでに客もおらず、通りは暗い。私は慌てて霊と一緒に閉店準備に取り掛かった。約束を思い出しながら、妙にそわそわしながら、鍵を閉め、カーテンを閉める。途端に、店内の閉塞感が増す。背後から鋭い視線を感じる。普段は恋人でも、この時間帯は捕食者と獲物に等しい。じりじりとした緊張が深まるかどうかというその時、背後から霊の手が伸びてきた。
震えの止まらない中、霊の囁きが聞こえてきた。
「まずは一口ちょうだい。お腹が空いて仕方ないの」
はい、と言う間もなく、噛みつかれた。
血が吸われていく感触が、心地よかった。
愛する人が求めている。虜になっている。力で捕らえられているのは私の方でも、私の〈赤い花〉の血は彼女の心を狂わせる。心を捕らえてしまっている。霊が食事に夢中になればなるほど、興奮気味に私を抑えれば抑えるほど、その優越感で胸がいっぱいになった。
だから、霊が満足して牙を抜く時は、いつも酔いが醒めるような物寂しさを感じてしまう。たとえ吸われ過ぎて貧血気味になっても、霊に優しく支えて貰いながら、はやくもっと吸って欲しいと思ってしまうくらい、私もまた食べられることに夢中になっている。
だが、今日はいつもと違う。
――質問はベッドの上で。
霊に肩を貸してもらいながら、共に風呂へ入り、テレビも何も見る前にベッドへと向かう。昨日は〈サロス〉も一緒だったけれど、今日は違う。これまでと変わらず、ふたりきりの夜だ。
褥では、身も心も裸になってしまう者が多い。
そうは言っても、私は伝説の遊女などではないし、霊は欲望のあまり口が軽くなるタイプとは思えない。
それでも、霊は約束をしてくれた。だから、私はわずかな希望を捨てずにいた。
「霊さん、教えて下さい」
ベッドに寝かされながら、見下ろしてくる彼女を見つめた。霊の目は赤い。血は十分足りているだろうが、支配欲の方はまだまだ満足しきっていないらしい。そんな彼女の欲望と、快楽の中に引きずり込まれてしまう前に、私は訊ねた。
「百さんが言っていたこと、知りたいんです。〈サロス〉の力で言いなりになったって。一体、何があったんですか……」
霊はすぐには答えず、黙ったまま私の服を奪ってしまった。
その後は、危惧していた通りの状況となった。
私は手玉にとる伝説の遊女ではなく、手玉にとられる客の方らしい。
分かってはいたけれど、〈サロス〉なんてものがなくたって、私は霊に逆らう事が出来ないのだ。知りたいことがあっても、やりたいことがあっても、霊が何かを優先したいと願えば、私はその通りに従ってしまう。それは義理でも愛でもなく、そういう魔術で縛られているからだ。
そして、さらに厄介なことに、私の性もまたそれを望んでいた。
望みどおりにならないこと、ぞんざいに扱われること、強引に従わされること、酷い目に遭わされること、そういったことに心が傷ついたとしても、魔女の性は満たされてしまう。
声がかすれるまで、疲れ切るまで、時は過ぎていき、二人して興奮も覚め、落ち着いた時に、ようやく霊は私に答えてくれた。
「話せることは、ほんの少しだけよ」
眠気に呑まれそうになっていた意識が途端にはっきりとした。霊へと視線を向けると、彼女はすまし顔で膝を抱え、気怠そうに壁際を見つめていた。噛み傷に引っ掻き傷、様々な傷跡の疼きを感じながら、私は体勢を変えて霊を見つめ、頷いた。
「構いません」
すると、霊は小さく息を吐いてから頷いた。
「あなたと出会うよりも少し前にね、この辺りで吸血鬼同士の抗争があったの。曼殊沙華のお方々も巻き込まれそうになって、私もはぐれ吸血鬼として駆り出された。その時にちょっとばっかり危ない目に遭ってしまって、白妙のサイドから動いていた百花姐さんに助けられる羽目になったの」
吸血鬼同士の抗争。
舞鶴や銀箔など、いまでもいがみ合っている者は多い。だが、その諍いの何処かに私はある気配を感じてしまう。実の父である天の気配を。
父絡みの話なのか。そこをはっきりさせたい気持ちは山々だったが、生憎、霊は深く話すつもりもないようだった。
仕方なく私は静かに耳を傾け続けた。
「助けてもらった以上、借りは返さないと。そこで譲ったのが〈サロス〉だったの。あれが私の手元にやってくるまでにもまた色々とあったのだけど、元はと言えばあれは白妙のお家のもの。その血を継ぐ彼女ならば相応しいと思ってね。けれど、それが大きな間違いだった。いいえ、客観的に見れば正しかったのでしょうけれど、少なくとも私にとっては不利なことだったの」
そう言って、霊は体勢を変えて、私を抱きしめてきた。
ぎゅっと抱かれながら、私は兎のように身を丸める。背中を撫でられながら、私は黙って耳を傾け続けた。
「ある時ね、曼殊沙華のお家から、とある古物を押し付けられたの。美しい扇子でね、私はそれに名前を付けた。〈ガアプ〉という名前よ。けれど、貰ってすぐに困ったことが発覚したの。〈ガアプ〉は魔の血を引く者が持ってはいけない古物だった。魔に対する拒絶反応が大きすぎて、私の店には不向きな代物だったの。〈ガアプ〉に振り回されて、仕事どころじゃなくなった。そんなある日、話を聞きつけてやってきたのが百花姐さんだった」
当時から百花魁が懇意にしていた無花果という男性は、魔の血を一切引いていない人間だと聞いている。それでいて魔の世界に精通し、曰くつきの古物にもある程度の理解があった。
そう、〈ガアプ〉を持つに相応しいのは誰なのかを思い出させるために、百花魁は訪れたのだ。霊が困っていることを聞きつけて。
「勿論、ただじゃなかった」
ぎゅっと私を抱きしめながら、霊は語った。
「〈ガアプ〉を無事に運んで無花果氏に届ける条件として、彼女が求めてきたのはお金じゃなかった。拒否しようと思えばできたはずよ。話し合えばいいはずだった。でもね、〈サロス〉がそうさせてくれなかったの。私が名前を付けた古物が、あの時、牙を剥いてきた」
私は両目を閉じて、その話に耐えた。
何があったのか、何を求められたのか、はっきりと聞き出せない。何故なら、分かり切っているからだ。聞くまでもないし、聞きたくもない。聞かなくたって分かる。
〈サロス〉を使われ、拒否できなかった。
それだけ分かればいい。
「拒否できないなら仕方がない。開き直るしかない。私ならそれが出来るはず。愛がなくたって、身体を許すことくらい。でもね、開き直ったところで、ずたずたにされたプライドはどうにもならなかった。だから、あの日以来、あの女の事は苦手なの」
霊はそう言って小さくため息を吐いて、語り続けた。
「でもね、幸いなことに、百花姐さんはああ見えても最低限の常識はある。〈サロス〉を使って治安を乱すようなことはしないし、〈ガアプ〉だってちゃんと保管してくれている。どちらも私の元にいた時よりも幸せそうだもの。そこは感謝しているわ。それに、苦手だろうと生き延びるためならば私はプライドをいくらでも殺してみせる」
けれど、と、霊は私のことを強く抱きしめてきた。力が強くて息苦しい。興奮していることは、肌で分かった。私の血に夢中になっている時と同じ息遣いだ。その捕食者らしさに内心怯えてしまう。霊にはきっとこの怯えも伝わっているだろう。しかし、むしろそれを喜んでいるようだった。
「あの女はあなたに興味を持っている。今じゃ、〈赤い花〉を抱ける機会なんて滅多にないもの。でも、それは駄目。それだけは許せない」
「霊さん……」
激しい独占欲にわずかながら魔女の性が満たされ、その名を呼ぶも、心にはモヤがかかった。魔女の性と理性は本来違うものなのだ。そのことを思い知らされた。
「私は……」
――私は、私だって。
私だって嫌だ。霊が別の誰かに抱かれるなんて嫌だ。仕事のためだとしても、そこに愛がないのだとしても、私の為だとしても、この理想的なご主人様を独占できないことが、時々、魔女の性を満たす以上に苦痛になる。
本当は私だけのご主人様でいて欲しいのに。
百花魁の誘いなんて突っぱねて欲しいのに。
いっそのこと、私の方を差し出してほしいのに。
だが、勇気を振り絞ってしようとしたその主張は、口づけで封じられてしまった。濃厚なその交わりだけで、主人である彼女の意図が沁み込んでくる。主従の魔術が、隷従の性が、私の意思を削いでいった。
霊が口を放しても、結局私は何も言わず、彼女に身を寄り添うばかりだった。
そんな私に、霊は囁いてきた。
「あなたを差し出すなんてことは出来ない。だって、あなたの心身は私だけのものだもの。あの女の香りなんて染み込ませたりはしない。あの女が女体をご所望なら、これまで通り、私が一人で行くわ」
――そんなの、勝手すぎる。
抗議をしたくて彼女を見つめた。だが、言葉は出なかった。霊は……私の主人なのだ。主従の魔術は絶対で、術者である私自身すら振り回される。理想のご主人様を願ったのは私だし、従うと決めたのも私だ。だが、そのご主人様の命令までを制御することなんて、一流の魔女ですら出来ないのだ。
ましてや、この魔術が発動したのが奇跡だったほど未熟な私なんて。
もやもやとした気持ちを何処へ発散させればいい。苦しみながら俯いていると、霊はふと私を見つめて目を光らせた。
「また少し喉が渇いてきたみたい」
その一言だけで、私の思考は停止した。
夜明けはまだまだ遠いらしい。




