前編
ここに簪がある。とても見覚えのある、梅柄の簪だ。
簪はカウンターの上に置かれたまま。とくにケースに入れられているわけでもないが、不用意に触る事を主人である霊は許そうとしなかった。
一見すればただの簪だ。しかし、独特な香りが沁みついている。いつもこの簪の持ち主がまとっている匂いだ。その人物の事を、霊は心の底から嫌っていた。
「霊さん。もうすぐお客さんがたくさん来る時間です。この簪、もっと手元に置いておいた方がいいんじゃないでしょうか」
そう言って伸ばした手を、霊は猫のようにぴしゃりと叩いてきた。
「駄目よ。この簪に触れては駄目。あの女のニオイがあなたの身体に沁みついたらどうするのよ」
「そんなに百さんのことが嫌いなんですか?」
そう、この簪の持ち主は百花魁である。
かつて神の使いと信じられたという狐の一族――白妙の血を引く女性。ミステリアスかつイケない色気がむんむんな彼女のことを、霊は相変わらず嫌っている。嫌っているというよりも、警戒しているようなのだが、どちらにせよ歓迎していないのは変わらない。
「だいたいこの簪はもともとこのお店のものなんでしょう?」
呆れながらそう言って、私はじっと梅柄の簪を眺めた。
この簪の名は〈サロス〉というらしい。
だいぶ前に対価として百花魁に譲ったそうだが、それ以来、彼女には通常の白妙とは別に特別な力が宿ったのだという。
ただ、その力が今回は邪魔になるとのことで、一晩預かることになったのだ。
「そうよ。元はうちの子よ」
霊はそう言いつつ、私の横で頬杖を突いた。
「でもね、この子の今のご主人様は奴なの。だから、身も心もあの女の色にすっかり染まってしまっている。それは仕方がないことよ。私も納得して譲ったもの。でも、香りだけは別。あの女のニオイが薄れるまでは、ここに置いておきましょう」
「そんなに気になります?」
確かに香りはするものの、不快なものというわけじゃない。もちろん、好みはあるだろう。だが、少なくとも私からすれば霊がたまに愛用するものとそんなに変わるようには思えない。それなのに、霊ときたら。
「ええ、不快なほどにはね」
と、威嚇する猫のように簪を睨みつけるのだった。
やけに過敏すぎるのはどうしたものか。一体何の因縁なのか気になるところだが、と、私は横目で霊の姿を見つめた。
正直言って、霊と百花魁の因縁を深く聞くのは怖い。
かねてから両刀であることを隠さない百花魁は、ごく当たり前に霊の事もそういう目で見ている。〈赤い花〉に絡めて彼女が私を揶揄うことだって、本当はきっと霊の反応が楽しめるからに違いない。
そして、霊はそれに対し、過剰なまでに怒りを見せる。そんなやり取りを何度も目撃してきたのだ。いくら馬鹿な私でも、二人の間に何かあったのだと気づかないはずがなかった。
聞くべきか、否か。
いや、やっぱりやめよう。深く掘って幸せになるとはとても思えない、
「あれだけ水で洗っても落ちないなんて。あの女に似てしぶとい香りね」
苛立った様子で呟く霊をそっと見つめ、私は訊ねた。
「あの、でもこの簪、明日まではちゃんと保管していないといけないんですよね?」
「ええ、そうよ。預かりものですもの。それに、あんな女でもね、ある程度は信用もある。〈サロス〉が赤の他人の手に渡るようなことは、あってはならないもの」
「そんなに危険なものなんですか?」
訊ねる私を、霊は見つめてきた。
美しく好みな顔が急にこちらを向いてきたものだから、狼狽えてしまった。そんな私の様子に少しだけ満足そうな笑みを浮かべてから、霊は言った。
「そういえば、言ってなかったわね。サロスのお話」
そう言って、何故か私の手に触れると、霊は語りだした。
その昔、ここから少しばかり離れた先に花街があったらしい。
今はもう語られるもの、記録されているものでしか、当時の様子を窺い知ることは出来ないのだが、その中で知る人ぞ知る逸話があったそうだ。
若く美しく、そして聡明な尾花という遊女がいたのだが、この人物がいわく付きで、何人もの客が骨抜きにされたらしい。褥では身も心も裸にしてしまう者が多いというのは昔から言われているが、それにしても彼女の前では誰も彼もが異様なまでに財布と一緒に口まで軽くしてしまう。そのため、彼女は伝説の遊女として慕われていたのだと。
本当ならばもっと高貴な身分だったとか、くノ一だったのだとか、様々な説もあったそうだが、彼女自身はただただ年季明けを願っていたとされている。物悲しい運命を担いながら多くの人々を魅了した、そんな伝説の人だった。
「けれどこれは人間たちに伝わるお話。私たちの世界では、ちょっと違うの」
「違う?」
「ええ、尾花はただの遊女じゃなかった。もっと言えば、ただの人間じゃない――いいえ、人間ですらない。彼女はね、白妙の家のものだったのよ」
「ええっ?」
思わぬ名前を聞いて、私は実に素直に驚いてしまった。
白妙といえば、神の使いだと尊ばれてきたはずの一族。その出の者が、どうして遊女になっているのだろう。ただの遊女じゃない。その言葉に、私はぞわりとしたものを感じてしまった。
「まあ、白妙の事情なんて詳しく知れることではないのだけれどね。褥では多くの男が心も体も裸にされてしまう。くノ一みたいなものかしらね。年季が明けるまで、尾花は実家のためにそのお役目を担い続けたのですって」
それでね、と、霊はため息交じりに〈サロス〉を見つめた。
「尾花が愛用していたとされるのが、その簪〈サロス〉なのよ」
指を差された梅柄の簪を、私はまじまじと見つめた。
「それで……これはどういう力があるんですか?」
緊張気味に訊ねてみると、霊は不意に手を伸ばし、あんなに嫌がっていた簪に触れた。香りは少しだけ残っている。それでも、もう我慢できるようで、ぎゅっと握り締めた。
「〈サロス〉にはね、人たらしの才能があるの」
人たらし。
いまいちピンと来ず、首を傾げていると、目の前で霊は髪を一つに括り、まとめた髪に〈サロス〉を刺した。雑な使い方だが、一応、落ちそうにはない。
と、その時、霊の眼差しが少し変わったような気がした。何が、とは言えないのだけれど。
「少しは分かった? 人たらしよ」
霊はそっと微笑み、黙ったままの私の唇に親指を添えた。
「この簪を身につけているとね、狙った相手の心を素っ裸に出来るのですって。この力を利用して、尾花はあらゆる情報を聞き出して、実家に伝えていたと言われているの。けれど、尾花がこの世を去る頃に、〈サロス〉は行方不明になってしまった。そして、時を経て、巡り巡って、この簪はうちの店にやって来た。それ以来、長く眠っていたのですけれどね、どうしてもあの女に報酬を与えなくてはいけない時があって、譲ったの。白妙からすれば、あるべきところに戻ったってことなのでしょうけれど」
「じゃあ、百さんはこの簪を……」
言いかけたものの、続く言葉は見つからなかった。
あまり口に出さない方がいいかもしれない。霊に見つめられていると、何故だかそう思ったのだ。これも、〈サロス〉の力なのだろうか。
「少なくとも百花姐さんが愛用しているのは確かよ。でも、今度の依頼先では、予めお断りをされていたのですって。〈サロス〉の噂や効果を知る魔の者は多いの。でも、人間はまだまだ知らない人が多いから、〈サロス〉も役に立ち続けている」
「なかなか怖い話ですね」
そう言って苦笑いをして、私は目を逸らそうとした。だが、目は逸らせなかった。
「幽。〈サロス〉の力、よく分かったかしら?」
「わ、分かりました。さあ、仕事に戻りましょう」
焦りつつそう言ったのだが、空気は元に戻らなかった。身体が熱り、心がせわしない。血が滾っているようだ。心臓もばくばく言っている。
重ねられた手を、妙に意識してしまう。その上で霊は、私の指の間に自身の指をするりと滑り込ませてきた。その軽い刺激に、全身が震えてしまった。
「幽、なんだか辛そうね」
「霊さん……!」
叱るつもりで名前を呼んだのだが、意図せず切実な声になってしまった。まだ夕食まで時間があるというのに。そんな私の無様な様子に満足したのか、霊はにっこりと笑って指の間を撫でてきた。ぞぞっと震えつつ、心の中にある種の期待が芽生え始める。
だが、霊はやはり霊だ。そんな私の内心を分かっているだろうに、彼女はあっさりと手を引っ込めて、何事もなかったかのように誰も来ない通りを見つめ始めたのだった。
お預けだ。
こちらとしてはいつでも食べられていい覚悟が出来ていたのに。
一度芽生えた欲望の扱いに悩みながら私は霊を見つめた。懇願するように見つめたって無駄だ。それは分かっている。楽になるには、恥じらいも何もかも捨てて、声に出して願うしかない。
だが――。
「……霊さん!」
声に出したところで、望みのものが手に入るとは限らない。
とくに主従関係ならば尚更の事。
「幽」
霊は流し目でこちらを見つめ、〈サロス〉を髪から抜いてことりとカウンターに置いた。
「仕事に戻りましょう」
にっこりと笑われて、私は心の中で血の涙を流しながら頷いた。
「わかりました」
その後、何処となくもじもじとしながら数時間、私は耐えに耐えた。
学生の客が多く来る時間になれば、少しは気も紛れる。それでも、彼らが帰って少しだけでも店内に静かな時間が戻ってくると、一度芽生えて放置された欲望が私の心を蝕み始める。そわそわしながら何度も時計を見つめ、溜息ばかりが漏れ出した。
一分一秒が異様に長い。
今すぐ血を吸われたい。
めちゃくちゃにされたい。
だが、その一方で、この我慢もまた私の理性を狂わせるご褒美のようなものだった。欲望に耐えなくてはいけない事自体が、苦しくて、悩ましくて、私の魔女の性もそれはそれでご満悦のようだった。
とはいえ、早く楽になりたい。このままでは壊れてしまいそうだ。
涼しげな顔をキープしながらする仕事に身は入っていただろうか。どうだろうと、訪れた客たちが私の接客に不審を感じた様子はなさそうだったので何よりだ。
そして、とうとう念願の閉店時間となった。
カーテンを閉め、扉の鍵を閉め、軽く掃除をしながら気を落ち着ける。いつだって食事の時は期待しかないものだが、今日は異様だ。いつもそう感じているかもしれないけれど、今日こそは異様に感じた。やっぱり〈サロス〉のせいなのだろうか。それとも、ただ単に私の欲望が底なしであるだけなのか。
分からないうちに、掃除が終わるか終わらないかで背後から霊に抱きしめられた。
「ご苦労様。よく我慢できたわね」
その声と共に吐息がうなじに当たる。その瞬間、思考が止まりかけた。
混沌とした意識の中で、私はどうにか考えようとした。〈サロス〉だ。振り返らずとも、何故か分かった。霊はきっと〈サロス〉で髪をまとめている。だが、考えられたのはそこまでだった。
霊に抱きしめられると、言葉すら出てこなくなってしまった。
「お利口さん。今夜はたっぷりとお食事を楽しみましょう」
そして、あとは酒にでも酔ったかのようにふらふらとリビングまで連れて行かれてしまった。入浴の準備も疎かに、食卓に仰向けに寝かされる。覆いかぶさって来る霊の美しい顔を見つめ、確かにその髪が〈サロス〉でまとめられていることを確認した。
そういえば、百花魁もこんな感じで刺していた。
そんなことを考えているうちに、すっかり食事モードになった霊の牙が、私の首筋に食い込んできた。小さな悲鳴が勝手に漏れていったが、途端に何とも言えない幸福感に支配された。いつもと違う。霊に抱かれ、血を吸われることが、いつも以上に嬉しかった。
どうしてだろう。どうしてこんなにも嬉しいのだろう。食事とは、こんなにも嬉しいことだっただろうか。
考えようとしたところで、存分に血を吸った霊が口を放した。
「気持ちよかった?」
その問いに嫌に素直に頷くと、霊は満足そうに嗤いながらさらに訊ねてきた。
「じゃあ、これで終わりにする?」
その言葉を聞いて、私は途端に目が覚めてしまった。
いつもならば恥じらうところだし、口に出すことは出来なかったけれど、気づけばあっさりと首を振っていた。
そんな私を見て、霊は面白がるように笑みを深め、さらに訊ねてきた。
「じゃあ、言って。この後は何をされたい?」
その問いもまた、今の私には抗えないようなものだった。
口に出すのもはばかれるような淫らで倒錯的な頼みをすらすらと。いくら命令があったとしても、いつもならば絶対に躊躇うような激しい内容のおねだりを、私は霊にしていた。
頭はぼんやりとして、まるで酒に酔っているかのよう。霊と目を合わせているだけで、正常な判断が出来なくなっている。それは理解できたけれど、抵抗する気すら起こらない。
今の私が期待しているのは、たった今、自分で口にしたいやらしい願いを霊が叶えてくれることだけだった。
霊はそんな私に再び覆いかぶさってきた。まるで獲物を食べる愛らしい猫のように抑え付けてきた。いつでも窒息させられてもいい覚悟で、彼女を受けて居ていると、霊は落ち着いた声でこう言った。
「今宵は特別よ。今から全部叶えてあげる」
こうして、私たちは夜更かしをする羽目になった。




