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U-Rei -72の古物-  作者: ねこじゃ・じぇねこ
18.何処にでも繋がる鍵〈マルティム〉

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後編

 息を殺しながら、私は周囲を窺った。

 静かだ。だが、きっと近くには誰かがいるはずだ。薄暗い空間の端々が蝋燭の日で照らされ、目を凝らしてようやくその全貌が見えてきた。赤塗りの柱が見える。だだっ広い板間に、格子窓が見える。モノは随分少ないが、ここもまた物置なのだろうか。

 そんなことを考えていると、視界の端で何かが蠢くのを感じた。

 緊張で息を飲んだのも束の間、よくよくそちらを観てみれば、求めていた、心から願っていた人物がそこにいた。


「れっ――」


 思わず声をあげそうになり、慌てて口を閉じた。

 後ろ手に縛られ、寝かされている。私の存在には気づいていない。というより、朦朧としているように見えた。たまらず近寄ってみれば、ようやく反応があった。


「だれ……」

「私です。分かりますか?」


 そっと囁くと、見る見るうちに霊の目が大きく開いていった。まるで幽霊でも見るかのように、恐怖すら覚えているような目で、私を見つめると、震えながら彼女は言ったのだった。


「幽……さん?」


 その一言に、凍り付いてしまいそうだった。

 赤く染まる吸血鬼の目は、いつもの霊の目とは違う。けれど、私はその目を知っていた。初めて会った頃、私の主人になる前の彼女は、たしかこんな目をしていたのだ。


 舞鶴は、他人の心を書き換える。

 笠の言葉を思い出し、私は寒気を感じた。そんな私の前で、霊はぎゅっと目を閉じた。苦しそうに呻くその様子に、私は慌てて身体を支え、両手を拘束している紐を掴んだ。

 動揺はすさまじいものだったけれど、鍬形虫の鋏の魔術は発動した。赤い紐は見るからに霊力でもありそうな禍々しさがあったけれど、私の未熟な魔力でも「裁断」できるようなものであったらしい。

 解放されるや否や、霊は頭を抱え出した。


「大丈夫ですか、霊さん」


 思わず声をかけると、霊は吐息を漏らしながら私を見つめてきた。目は赤く、牙が少し伸びている。その表情は少しだけ、私の馴染んでいる彼女に戻ってきていた。


「幽……どうしてここに?」


 その口調に、ようやく私はホッとした。

 いつもの霊だ。間違いない。表情も、口調も、さっきとはまるで違う。私が、私の魔術で、捕えてしまった、理想の主人がそこにいる。


「まさか、曼殊沙華があなたを寄越したの?」


 怯えたような目で問いかけてくる彼女に、私は首を振った。


「いいえ、勝手に来ました」


 すると、霊はますます困惑した目を向けてきた。


「どうして……?」


 咎めるようなその顔すら、今の私には愛おしくてたまらなかった。


「どうしても、今すぐに、霊さんの顔が見たかったんです」


 そこで、彼女の視線が私の手に握られた〈マルティム〉へと向いた。どういう経緯があったのか、すぐに彼女には分かったのだろう。

 力の抜けたようなため息とともに、彼女は私に抱き着いてきた。


「幽のバカ。どうせ、お家で待っていなさいって言われたでしょう? それなのに、勝手に来ちゃうなんて」

「ごめんなさい。でも、どうしても……どうしてもじっとしていられなくて」

「血を吸われたかったの? お腹が空いていたの? 魔女の性が私を求めてあなたを狂わせてしまったのかしら?」

「違います。そんなんじゃないです。ただ、傍にいたかっただけなんです」


 ぼろぼろと涙がこぼれてきた。

 再会できた安心と、まだまだ安心できないという不安が入り混じる。霊のお咎めなんてちょっとキツめのお仕置きでしかない。それよりも怖いのは、ここから再び霊を失ってしまうような状況だった。


「帰りましょう。いますぐに」


 そう言って霊と共に立ち上がり、振り返ろうとしたその時だった。

 視界に第三者の影が映り込み、私は固まってしまった。それと、ほぼ同時に霊が素早く動き、私を庇うように抱きしめてきた。振り返ろうとする私を阻み、その人物を見せないようにしている。あるいは、その人物に私の顔を見せないようにしているのだろうか。


「そう言うことだから」


 呼吸を荒くしながら、霊がその人物に向かって言った。


「今すぐ帰らせてもらうわ」


 震えている。しかし、見上げて確認できるその目からは恐怖を感じない。どちらかといえば、怒りや敵意に満ちていた。


「困ります」


 返ってきた声は、男性のようだった。少々高めで、妙なほどに聞き心地の良い声だった。振り返りたくなる気持ちを抑え、私は静かに霊に従った。


「せっかくいらしたのですから、もっとごゆっくりなさってください。旦那様もそれをお望みです。勝手に帰られてしまえば、私が怒られてしまう」

「それはあなたの都合でしょう。私には私の都合があるの」

「それを言うならば、曼殊沙華にも曼殊沙華のご都合があることでしょう。話し合いが終わるまで、ここで静かに待っていることを私は強くオススメいたしますけれどね」


 呆れたように述べる彼を前に、霊はそっと囁いてきた。


「幽。じっとしていて」


 そして、手のひらで目元を覆われた。

 霊の手の温もりが目を温めたかと思うと、何か頭の奥でぴりっとした刺激が起こった。手を離されても、視界は問題ない。何かされたという感覚だけが残っていた。


「もう振り返ってもいいわ。けれど、私の手は離さないで」


 そう言われ、恐る恐る振り返ると、板間の入り口に鳥のお面を被った男性が立っているのが見えた。その表情は分からなかった。

 彼は首を傾げ、私をじっと見つめると、感心したように唸った。


「素晴らしい。いとも簡単に視界を操るとは。だが、それで守ったつもりならば、甘いにもほどがありますよ。やはり、旦那様がおっしゃる通り、あなた方はどちらも危なっかしい。無理にでもここにいて貰わないと」


 鳥面の彼はそう言って、両手を広げた。


 その瞬間、無数の紐が何処からともなく現れ、私たちを取り囲む。あの紐だ。「裁断」で切り捨てたあの紐。簡単に切れたものの、あれで縛られていた時の霊は様子がおかしかった。捕まってはいけないのだとそれだけで察することが出来た。

 ならば、片っ端から切ってしまえばいい。そう思って魔術を放とうと集中した。けれど、魔力はこみ上げてこなかった。

 眠気が酷く、寒気がする。身体が疼き、苛々する。自分の皮膚をかきむしりたい衝動に震え、気を保つのに必死だった。力が足りない。そのことにやっと気づいた。

 〈マルティム〉を使った分と、さっきの紐を切った分で、終わってしまったのだろうか。


「じっとしていて」


 恐らく察したのだろう霊に言われ、従った。

 指輪の嵌る手で光を放ち、霊は周囲の紐をズタズタにしていく。魔物を使役する青い指輪〈ロノウェ〉と共に嵌められている、赤い指輪〈ハウレス〉の力によって、魔力が補強されている。それでも、過信は出来ない。敵が多ければ、多い程、不利なのは確かだ。

 増援が来る前に早く逃げないと。

 紐を全て千切り捨てても、立ちふさがる鳥面の男は動揺していなかった。どうやら霊の事を全く恐れていないらしい。


「お見事。ただでさえ厄介なマテリアルの力さえも最大限に引き出すその指輪。改造されたものとはいえ、奇跡の力は伊達じゃない」


 余裕と共に挑発してくる彼を霊は睨む。


「そこを退いてくださる?」


 赤い指輪〈ハウレス〉の力を躊躇いなく向けるつもりだ。だが、鳥面の男は全く動じていない。向こうは向こうで梃子でも動かないつもりらしい。


「あなたらしくない振る舞いだ」


 彼は言った。


「ここで私に牙を剥けば、曼殊沙華と舞鶴の関係はさらに悪いものになるでしょうね。まさかそれが分からないあなたではあるまい。けれど、その目は本気の様子。気になりますね。あなたがそうやってムキになるほど〈赤い花〉は美味しいのだろうかと」

「この子の血の味は関係ないわ。ただ今すぐ帰りたくなっただけ。見たいテレビがあったのを思い出したの」

「そうですか」


 揶揄うように笑いつつ、鳥面の男は入り口をふさぐ。


「では、その番組は諦めてもらいましょう。お二人とも、座りなさい。これ以上、私に逆らわない方がいい」


 来る。

 寒気が強まるより先に、霊が反応した。

 〈ハウレス〉の力を躊躇いなく向けて、道を作ろうとしたのだ。紐をずたずたにしたあの力だ。直撃すれば大怪我では済まない。その危険は魔の血を引く者ならば誰だって警戒するはず。それを見越して、霊は私を引っ張って走り出そうとした。


 けれど、〈ハウレス〉の力は彼に通用しなかった。

 直撃する前に、その力は無効化されてしまったのだ。


「まだ分かりませんか? 無駄ですよ」


 鳥面の男が冷静に放つ前で、霊は奥歯を噛みしめ、動きを止めた。私はそのやり取りを茫然と見つめ、そして震えてしまった。

 一緒だ。私が霊の魔力を無効化することと一緒。


 私には魔女の血とマテリアルの血が入っている。心臓は母譲りだった為、身体の作りの殆ども魔女と同じだ。けれど、父親由来の性質も間違いなくある。その一つが、同じ種族であるマテリアルの力に対する抵抗力だった。

 〈アスタロト〉が前に詳しく教えてくれたけれど、マテリアルと他種族のハーフであるダンピールには吸血鬼を殺す力があると信じられていた過去があるらしい。その迷信は、ある一人のダンピールに由来した。彼は人間の母親と吸血鬼の父親を持つ子どもで、心から実父や吸血鬼の存在を憎んでいた。そして、人間を脅かす吸血鬼たちを討伐していったという伝説が残っているらしい。

 彼には不思議な力があり、その力はいずれも吸血鬼である父親由来のものだった。それがダンピールの言い伝えに繋がったという。


 けれど、ダンピールの持つ力――すなわち、その親となるマテリアルたちの特性には個性があるらしい。彼が受け継いだのは殺す力だったが、私が受け継いだのは、マテリアルの得意とするいくつかの術への抵抗。マテリアルの親を持つ子なら誰しも持つような珍しくない特徴だが、抵抗どころか一部を完全に無効化できてしまえるほどの耐性となると、実は特殊な家系のみだという。

 その力をくれたのは実父の天だ。同じような抵抗力を持つマテリアルがいるとすれば、それは――。


「まさか、あなた……」


 遅れて動揺する私の手を、霊はぎゅっと握り締めた。

 その温もりに少しだけ支えられながら、私は鳥面の下に隠されてしまった彼の素顔をどうにか探ろうとした。未熟な魔女の目では透視なんて出来ない。出来ることはせいぜい、彼が間違いなく赤いオーラ……人の血を継がない魔物である気配をまとっているということくらいだ。

 問題は、何の魔物の血を引いているかであった。


「あなたも、天の血を引いているの?」


 怯えつつ訊ねてみれば、彼が仮面の下で笑ったような気がした。

 年齢も、素顔も分からない。ただ、年の頃は私よりも少しだけ上のように感じる。その年の取り方が他の舞鶴たちのようなのか、マテリアルのようなのかは分からないけれど、少なくとも私より年下ということはないだろう。

 息を飲みながら見つめる私を、彼もまた見つめてきた。


「そうですよ」


 優しげな声だった。


「腹違いとはいえ、同じ父の血を引く者同士なわけです。仲良くしようじゃありませんか。ねえ、幽」


 震えが止まらなかった。動揺は覚悟していたものよりも大きかった。

 けれど、想定していなかったわけではない。

 何故なら、前に一度、母親違いの兄弟には会ったことがあるからだ。しかし、決して良い出会いではなかった。そして、良い別れでもなかった。


 まさか同じ母の子ではないだろう。前に対面した兄は純血のマテリアルだったけれど、この兄は違う。違うというニオイがする。きっと舞鶴の血族には違いないのだろう。対立している銀箔ともども華胄かちゅうと呼ばれる種族のニオイだ。ともかく、純血ではない。そのせいか否か、妹である私に向けてくる眼差しもまた、以前、出会って別れた亡き兄とはだいぶ違って穏やかなものに感じた。


 だとしても、油断はならない。霊が警戒している以上、心は許せなかった。


「そこを通して」


 霊の代わりに私は言った。


「通さないなら、〈赤い花〉の……母譲りの力をあなたに向けます!」


 精一杯の威嚇を込めて、私は彼を指さした。

 そこまで把握しているならば、私の母の事を知らないわけがない。霊すら恐れさせた吸血鬼狩りの魔女――憐のことを。

 だが、彼は呆れたようにため息を吐いた。


「母譲り、か。舐められたものですね。知っていますよ。あなたの母は確かに恐ろしいハンターでした。けれど、あなたは違う。そこにいる野良マテリアル一人に蹂躙されるような可憐な花。保護されるべきか弱い娘。そんなあなたに脅されて、どうして怖いと言えましょうか」


 一歩踏み出し、彼は笑う。


「向けられるものなら向けてみなさい」


 挑発してくる彼を前に、私はますます動揺した。


 怖い。

 同じ父の血を引く人物のことが。

 前にもこんな事があった。前の方がさらに深刻だった。鳥面で隠されているはずの彼の顔が、かつて私がこの手で葬り去った別の兄の顔と重なってくる。

 純血のマテリアルだった彼は私を憎んでいた。私を殺そうとしてきた。自分の母が、私の母によって、捕食されてしまったためだ。

 だから、彼は娘の私を恨んでいた。


「来ないで」


 目の前の彼と、亡き兄は違う。

 違うと分かっていても、私は怖かった。

 震える私の心情を察して、霊がそっと手を重ねてきた。〈ハウレス〉のせいか、その手はやけに温かい。


「幽……」


 静かに名を呼ばれ、私は我に返った。

 道は一つだけ。ここから帰るには、鍵穴のささる扉を探さねばならない。この中にない以上、どうにかしてここを出なければいけない。

 つまり、あいつを退かさないと。


「幽、落ち着きなさい」


 霊の囁きが頭に沁み込んできた。


「得体の知れない恐怖に支配されないで。あなたを支配していいのは私だけでしょう?」


 そっと手を握られ、ぞくりとした寒気と共に不思議なまでに力が湧いてきた。

 今ならいける。闘志は沸き起こり、それでいて冷静さまでは失わずに済んだ。〈ハウレス〉の力が私にも伝わってきたのだろうか。〈マルティム〉と鍬形虫によって消耗していたはずなのに、その魔術は容易く発動した。


 ――蝶の大群の魔術《幻想》!


 途端に指先から私も見たことのない程の蝶々たちの幻影が飛び出してきた。溢れんばかりの幻影たちは、鳥面の兄も予想外だったのだろう。挑発したときの余裕は何処へやら、向かってくる蝶の大群にまんまと怯んだ。

 その隙を、霊が逃すはずもない。


「行くわよ」


 ぎゅっと手を掴んで、彼女は走り出した。引っ張られるままについていった。足がもつれそうになっても、気合で踏みとどまるしかない。奇跡のような発動だったけれど、それでもまだまだ油断は出来なかった。

 鍵穴のある扉を探して、私は霊と共に走り続けた。

 ようやく見つけたのは、小さな物置だった。

 騒動はとっくに周囲に伝わっていて、屋敷の中は騒々しい。見つからずにここまで来られたけれど、時間の問題だ。霊に支えられながら、私は震える手でどうにか〈マルティム〉を差し込んだ。


 ――お願い、〈マルティム〉。


 気が遠くなりそうだ。それでも、前だけを見つめ、私は祈った。


 ――家へ帰して……。


 がちゃりと鍵を回し、扉を開くと、すぐに〈マルティム〉を外して中へと飛び込んだ。その先がどうなっているかを判断するなんて余裕はなかった。ただ、すっかり上がった息を整え、床に頬をつけたままじっとしているうちに、ようやくその床が馴染みのある私の部屋の床だと気づいた。

 霊が速やかに扉を閉めて、内側から鍵をかける。そして、再び鍵を開けて扉を開くと、その向こうを見つめてため息を吐いた。


「無事に帰って来られたみたい」


 その言葉にホッとした途端、視界が薄らいだ。

 〈マルティム〉を二回に、蝶の魔術。さすがに限界だったらしい。寝転がったままでいると、霊が優しく抱き起してくれた。その眼差しを見上げていると、心の底からホッとした。紐で縛られていた時とは違う。今の霊はいつもの霊だった。


「幽」


 名前を呼ぶと、霊はため息交じりに抱きしめてきた。


「無茶をしたわね、幽。あなたに〈マルティム〉の使い方なんて教えるんじゃなかった」

「でも……お陰で霊さんを迎えに行けました」


 眠気を堪えてそう告げると、霊は静かに笑った。


「曼殊沙華ならともかく、あなたの勝手な行動に助けられるなんて、惨めな気持ちよ。でも、そうね。もっと遅ければ今頃は――」


 そう言って、霊は口を噤んだ。

 自覚しているのだろうか。自分に起こりかけていた異変のことを。あの時の霊。私を「幽さん」と呼んだ彼女は、主従の魔術で捕らえてしまう前の頃の、私の主人なんかではなかった頃の彼女だった。

 あの紐には強力な魔女の魔術にすら抗えるだけの力があったのだろう。それを、腹違いの兄が操っていた。彼には恐ろしい力がある。名前も知らない鳥面のその姿は、頭に焼き付いて離れなかった。


「安心するのはまだ早いわね。曼殊沙華に伝えないと。それに、不安だわ。これで、はっきりとしてしまったから。舞鶴の理由がどうであろうと、私たちもきっと、これまで以上に巻き込まれていくのでしょうから」

「私は……怖くないですよ」


 片手で霊の手を握り、私は必死になって言った。


「私が怖いのは、霊さんを失う事だけです。その為なら、誰だって傷つけられる。たとえその相手が、血を分けた兄弟姉妹だったとしても……」


 愁いを帯びた霊の瞳が私を見つめてくる。

 私の理想の主人。彼女を手に入れた時から、私のこの手は血塗られている。もしもまた、舞鶴の兄が彼女を奪おうとでもすれば、次に向ける魔術は蝶々などではないだろう。しかし、それも先の事だ。そう信じて、私は霊を見上げた。

 霊はため息交じりに私を見つめ返すと、私の手から〈マルティム〉を取り上げた。


「どうやら〈マルティム〉で開けなくてもいい扉まで開けちゃったみたいね」


 霊はそう言うと、私の顔を覗き込みながら囁いた。


「そんな勝手な子には、あとでお仕置きをしないと」


 そっと撫でられながら、私は言葉に出来ない幸福感に包まれた。

 突如奪われかけた幸せ。〈マルティム〉がいたお陰ですぐに取り返せた。しかし、もしかしたら、この代償は高くつくかもしれない。何事もなく、穏便に済むとは限らない。きっとこれからも、似たような恐怖は再び私たちを襲ってくるはずだ。


 それでも、少なくとも今は、こうして触れ合える。

 その幸せを噛みしめながら、私たちは静かに遅めの夕食をとったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりの、そして多分初めての、幽ちゃんが本当に霊さんを助けるお話でした。 やっと、幽ちゃんが霊さんのパートナーとしての、座に近付いた話だったのかな? [気になる点] …話の間が延びたの…
[良い点] 幽さんのお父さんの血が絡んでくる……! 開けられない扉は、マルティムのおかげで、どうやらもう一つ開きそうですね。
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