中編
鍵をかけ、鍵をあける。
その単純な作用だけならば、私の魔術にだって存在する。
鍵の魔術は〈アスタロト〉が教えてくれた便利な魔法で、虫の魔術とは別に〈赤い花〉の魔女が身につけておいて損のないものだとされていたものだ。
実際、この魔術が役に立ったことはある。部屋全体をロックしたり、それを解除できたりするのは、戦闘となった時に強力なのは間違いない。
幸いなことに、鍵の魔術は複雑な工程が多い虫の魔術たちよりもずっとシンプルで、魔女見習いの私であっても、どうにか使いこなすことが出来ていた。
けれど、この不思議な鍵の〈マルティム〉というアイテムは、そんな私の得意技よりさらに不思議な秘密を抱えていた。
「これはね、何処にでも繋がる鍵なの」
昼下がり、小さなケースを手に、霊は私に教えてくれた。
昨夜は散々血を抜かれたので多少疲れは残っていたけれど、とはいえ私も魔女の性の方はだいぶ満たされていたので、頭もしっかりした状態で聞くことが出来た。
そのため、霊の言葉の些細なニュアンスも聞き逃しはしなかった。
「何処にでも繋がる?」
何でも開けるとはちょっと違う。
解錠という概念を忘れてしまった頑固な鍵の心を不思議な力で開かせるとかそういう類ではなさそうだ。
霊は私の質問に満足そうに微笑むと、鍵を取り出してカウンターの上に置いた。
「そう、繋がるの。開かない扉が開くというのは、この鍵の力の一部でしかない。本当の力は、開いた先にあるの。〈マルティム〉はね、使用者の生命力と引き換えに、扉の向こうを願った場所に変えてくれる力を持っているのよ」
何かそれ、似ている便利道具をアニメで見た!
とは思ったものの、いちいち話の腰を折るような真似をすれば、霊の機嫌を損ねて今宵体験できるかもしれないお仕置きを我慢しなくてはいけない破目になるかもしれない。
だいたいあれは鍵じゃなくて扉そのものだったはず。
ともあれ、私はいい子に口を閉じて、霊の話に耳を傾けた。
「〈マルティム〉を一回使うだけでも、生命力はガッツリ持っていかれちゃうの。ただの人間が使うとなったらきっと大変でしょうね。純血の吸血鬼だって疲れちゃうくらいだから。でもまあ、私にはあなたという非常食がいるから大丈夫なんだけれど」
「非常食……」
ごくりと唾を飲み、私は震えた。
普通なら怒るべきところなのかもしれないけれど、ついうっかり嬉しくなってしまうのは、魔女の性のせい。これ以上ないまでに甘やかしてほしいほど愛している相手にぞんざいに扱われる苦しみと、それに伴う悦楽を想像するだけで、全身の血がざわついてしまうのだ。我ながら卑しいものだ。せめて顔に出さないだけで必死な状態だが、恐らく霊の事だからとっくに気づいているだろう。
私はごほんと咳払いをしてから、霊に訊ねた。
「つまり、霊さんはそれを使って単に鍵を開けていたのではなく、依頼物の中身に繋がるように願いながら使っていたってことですね?」
「そゆこと」
微笑みながら霊は頷いた。
その度に、膨大な力を消費したのだとしたら、その後の霊の見境のなさにも頷けるものがある。すぐに面倒くさがるし、何かと店を休みにしようとする店主だけれど、実際に店を休みにしてしまうほど欲深くなることは殆どない。そうなってしまう背景にこの鍵があったと考えると、なるほど、覚えている限りでは納得のいくものがあった。
しかし、同じく覚えている限り、霊はその苦悩を表に出してはいなかった。飽く迄も気まぐれで欲しがっているという体で私を誘い、食事に持ち込んでいたものだ。
今更ながらそのことに気づいて私が口を開こうとすると、霊の方が先に言葉を発した。
「ついつい隠してしまうのは、吸血鬼の本能とでも言いましょうか。私たちは人の姿をしているけれど、所詮、野生動物のようなものなの。特に美味しそうな獲物の前では常に強い存在であらねばと思うものよ」
「もう、誤魔化さないで下さいよ。霊さんは野生動物じゃないでしょう。そういう大事なことは、ちゃんと口で教えてくれないとダメですよ」
「その言葉通り、このお口で伝えているつもりだったのだけれど」
くすりと笑う色っぽい仕草に、ますますドキっとしてしまった。
口で教えられたといえば、その通りだ。〈マルティム〉を使った後の霊はより激しく、噛みついてくる力も強かった。本当に肉が噛み千切られてしまうのではないか、吸血鬼ではなく食人鬼にでもなってしまったのではないかと思うくらい獰猛で、その命の危険にすら喜んだものだった。
昨夜のことを思い出して身体が熱くなる中、それでも私は理性を保ち、〈マルティム〉に手を伸ばした。
「実際に使わせてもらってもいいですか?」
ダメだと言われそうだと覚悟したが、霊はあっさりと鍵を渡してくれた。
「試すなら、そうね。まずは鍵付きの引き出しあたりで試してみるといいわ。対象の大きさや行先の広さでも消費する生命力は変わってくるから」
受けとった〈マルティム〉は思っていたよりもだいぶ重たかった。鍵付きの引き出しといえば、真っ先に思いつくのがカウンターだ。鍵の魔術の練習にも使う場所で、大きさも手ごろだろう。
鍵がかかっていることを確かめてから、さっそく私は〈マルティム〉を引き出しの鍵穴に近づけてみた。鍵穴はとても小さく、どう見ても〈マルティム〉のサイズと合わない。それでも、ここで働いてしばらく経つのだから、戸惑いはしなかった。案の定、〈マルティム〉を差し込むと不思議なまでにあっさりと嵌り、回った。
願ったのは勿論、この中だ。いつも目にするその内部。あらゆる帳簿がぎっしりと詰め込まれたその中を思い描いて、引き出しを引っ張った。問題はなかった。いつもの鍵で開けた時と結果は変わらない。勿論、鍵の魔術で開けた時とも同じだ。
中を確認してホッとため息を吐くと、霊はカウンター越しの色っぽく覗き込んできて、声をかけてきた。
「うまくいったようね。でも、〈マルティム〉の力はこんなものじゃない。余力があったら、もう一度試してみなさい。今度は……そうね。あの金庫の中を願いながら開けてみるの」
「あの金庫ですか……」
ドキドキしながら私は開けたばかりの引き出しを閉じた。
「鍵をかけるのを忘れないで」
霊の助言に頷き、再び〈マルティム〉を差し込んで回してみた。
すると、いつもの鍵や鍵の魔術で施錠したときのように、引き出しは開かなくなる。これだけならば、ロックされた場所を解除する力とそう変わらないけれど……。
――ここからが〈マルティム〉の真価か。
何故か緊張しながら私は思い描いた。指定された金庫は、いつも使う金庫ではない。店の片隅にもう一つあるもので、中には依頼人から預かったまま引き取られることなく長く経っている古物や、査定や今後の扱いが保留となっている品物が保管されている。そこを開けるのはいつも霊であるので、私はあまりその中の事を覚えていない。
覚えていなくても繋がるのだろうか。
疑問に思いながらも、私は〈マルティム〉に願いながら開けてみた。
開けた瞬間、心臓がぴくりと痛んだ。息苦しさを一瞬だけ感じつつ、中を覗いてみた。
結果は成功だった。引き出しの中はいつも目にする光景ではない。開けたその先が、確かに金庫の中になっていたのだ。ちょうど金庫の上部に穴をあけたような光景だろうか。
手を伸ばせば、あの金庫に入っているはずの古物たちに触れることが出来た。
「気をつけて。中のモノはちょっと繊細だから」
霊に言われ、私はハッとした。
「ほ、本当に繋がりましたね」
ビックリする私を見つめ、霊は微笑んだ。
「言ったでしょう? 〈マルティム〉は凄いの」
呆れたようにそう語る彼女の顔を見つめていると、再び胸がきゅっと締め付けられた。心臓がバクバクと音を立てている。急な動悸と眩暈にふらついてしまった。
貧血のようなこの感覚。覚えはある。無理に魔力を使ってしまった時に訪れる反動だ。
「霊さん……」
具合の悪さに心細くなる私を見つめ、霊は妖しく微笑むと私から〈マルティム〉を奪い取ってケースにしまった。
「いきなり二回も使わせるのはちょっと無理があったかもね。大丈夫?」
「……はい。ただちょっと、魔力が足りないみたいで」
渇き。それは、魔力を使いすぎた時に訪れる欲求でもある。どんな症状なのかは魔女の性によっても変わってくるだろう。私の場合は言わずもがな。霊だって知っているし、毎日のように飽きるほど満たしていることでもあった。
ただ、やっぱり私にだって恥じらいがあるもので、言葉に出すのは恥ずかしい。もじもじとしている私を見て、霊は小さな声で笑った。
「しょうがない子ねぇ。今日も臨時休業にしないとかしら」
「霊さん……」
まさかこの人、こうなることを分かっていて?
そんな突っ込みをする余力もないままの私を椅子の上に放置して、霊は店の戸締りを急速に進めていった。
「待っていて。すぐに補充してあげるから」
とても悲しい事に、今の私には彼女を咎めることなんてとても出来なかったのだ。
使いすぎた魔力の補充には、数時間ほどかかった。
歩けるようになると、霊に支えられながら奥の畳間へと向かったのだが、ただでさえ長い廊下がさらに果てしないものに感じられて気が遠くなるくらいだった。魔力の足らない私の心身は理性なんてものが概念ごと吹っ飛んでしまっていて、与えられる苦痛をひたすら貪ることしか出来なかった。
性が満たされ続けると、奪われた魔力もだんだんと戻ってきた。そうなると、心身にも余裕が生まれ、ぼんやりとではあるけれど考えることも出来るようになった。
霊はいつもこれほどまで力を奪われているわけだ。勿論、私よりもずっと逞しい人ではあるけれど、これからは〈マルティム〉を使った後はもっと労わろう。
「顔色が良くなったわね。もしかして、これはいらない?」
鞭を手にした霊に問われ、私は素直に頷いた。
「有難うございます。十分良くなりました。鞭はいりません」
しかし、霊は鞭を手放す素振りを見せない。
「そう。それは良かった。……でも、私もそろそろお腹が空いてきたのよね。ここに一鞭入れれば身が引き締まって、美味しい味の血になりそうなんだけどなあ」
私はそっと口を閉じた。
魔女の性が満たされてしまえば、それ以上の苦痛はただの苦痛でしかない時もある。特に、満たされた直後はそうだ。たとえるならきっと食事だろう。魔女の性が目覚める前はよくあったことだけれど、空腹の時は魅惑でしかない好物の香りが、満腹の時は忌避したくなるほど嫌なニオイとなる。ちょうどあんな感じだ。
しかし、目の前にいる愛しい人は、美味しい血の味をご所望だ。この数時間、散々私の為に労力を費やしてくれたのだ。その対価を払わないなんてことが出来るだろうか。
私は息を飲みながら、覚悟を決め、霊に言った。
「分かりました。お望みのままに……」
すると、霊は今日一番の笑みで鞭を抱きしめた。
その後は大体いつもと一緒だった。霊の気が済むまでお食事を続けながら、私はぼんやりと考えていた。
〈マルティム〉を使いこなすのは大変だ。けれど、その力は確かなものではある。きっと、今後、〈マルティム〉の効果に縋る日が来るだろう。
親しんでおくことは、決して悪い事ではないはずだと。
そうは思っていたものの、だいぶ軽い気持ちではあった。
まさかこの事がすぐに役に立つなんて、濃密な霊のお食事に付き合っているこの時は、全く考えもしなかったのだから。
それから数日経ったある日の夕方、私はひとりきりで、笠と向き合っていた。
通り雨も止んだというのに、気分が重たいせいか不快な湿気を感じてしまう。その気持ちは隠しきれるものではなく、笠もまた狸の顔ながら私を気遣うような表情を浮かべていた。
「言っておくが、これは現状報告だ。これからどうするかは曼殊沙華のお偉方がこれから決める。だから、その、辛いと思うが幽はここで待っていて欲しい。方針が決まればすぐにでも、あちらさん側で上手いこと交渉してくれる。それを信じて待つんだ」
「待て、ですか」
ため息交じりに私は答えた。
相手が霊であれば、こんな態度にはならないだろう。それに、いつもならば、魔物の世界に私よりもずっと詳しい笠の言うことならば下手に反抗したりはしない。
けれど、今回は違った。笠の言葉に、私は苛立ちを抑えられなかったのだ。
「どうして……どうして霊さんが」
理由は笠の持ってきた、恐ろしい知らせにあった。
事の始まりがいつだったのかは分からない。ただ、私たちのもとへ連絡が入ったのは昨日の事だった。電話の詳しい内容は、教えて貰えるはずもなかった。とにかく面倒なお仕事みたいとだけ言って、彼女は準備に入った。
どうやら駆り出されるらしい。ならば、私もと申し出たが、あしらわれてしまったのだ。
――あなたには、まだ早い。それよりも店番をお願い。ここをしっかりと守る事もまた、今のあなたに出来る大事なお役目よ。
やんわりとした命令に、私が逆らえるはずもなかった。
それに、納得もあった。霊は強いし、何も一人で無茶なことをさせられるわけじゃない。味方は優秀な鬼たちだし、他の魔物や魔族の味方もいるらしい。
では、一体何をさせられるのか、何をさせられようとしたのか、それが、どれほど危険な事なのか、私は少しでも真面目に考えただろうか。
いや、違った。
「霊さん……」
彼女は今、舞鶴のお屋敷にいる。
舞鶴の長が町の権力者と重鎮と秘密の会合をするらしい。その内容が問題のないものかどうか、影より盗み聞くのが今回の霊の役目だったらしい。
その役目はいつもならば翅人の味方のものだった。しかし、いつも曼殊沙華が力を借りる翅人女性は今回動けず、代わりがいなかった。ならば、不可思議な力を持つ古物と、それに熟知した吸血鬼の霊ならば、と声がかかったのだ。
しかし、彼女は囚われた。
舞鶴の護衛の方が上手だったらしい。
「一応、舞鶴はいずれ無傷で返すと言っているらしい。しかし、交渉次第では分からない。舞鶴の恐ろしい所は他人の心を書き換える術に長けている者が多いことだ。その血筋で成り上がったとも言われている」
「じゃあ、霊さんも……」
真っすぐ問いかけると、笠は言葉を濁した。
「とにかく、幽。伝えることは伝えた。あんたはここでじっとしているんだ。今の霊がもっとも恐れていることは、自分の事よりもあんたの事のはずだ」
はっきりと言われ、今度は私の方が黙りこんでしまった。
もっと強ければ、こんな想いはしないで済むのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
再び振り出した通り雨のなかで笠を見送った後も、一人きりでこの家に残されて、わたしは不安に駆られていた。
落ち着かない。落ち着けるはずがない。
いつもならこの時間は、霊との食事の時間だ。優しく名前を呼んでくれる彼女の顔が浮かぶと、その愛おしさの分だけ恐怖は深まっていく。こうしている間にも、交渉は進んでいるのだろうか。本当の、本当に、無傷で返してくれるのだろうか。
いや、そもそも、身体は無傷であっても、心の方は――。
あらゆる不安が極まり、頭痛が酷くなった。怒りと無力感でどうかなってしまいそうだ。
落ち着けるはずがない。今だって私の魂が、霊を求めているというのに。
「このままじゃ、頭がおかしくなっちゃいそうだ……」
どうにか戸締りを済ませ、私はトボトボと店を後にしようとした。と、その時、ふと私は、その存在に気づいたのだった。
振り返る先は、店の隅にしまわれた古物。つい最近、やっと使い方を教えてもらったばかりの〈マルティム〉だ。
思い出したが最後、私は吸い込まれるように〈マルティム〉に近づくと、迷いもなくケースを開け、鍵を握り締めた。
「これ……これがあれば……」
躊躇いはあった。
勝手なことをして、曼殊沙華が良い顔をするはずがない。念を押すように笠はじっとしていろと言っていたのだ。それに、私が失態をおかせば、交渉はさらに悪くなるという可能性だって――。
手が震え、足が震え、心臓が震えた。
一度握った〈マルティム〉を、どうしても離すことが出来ない。
これさえ、あれば。
霊の捕まっている場所に行ける。何処であろうとすぐに迎えに行って、傍まで行ける。霊のもとへ行くことが出来る。
その誘惑は重たかった。
「ごめん、笠さん……」
私はどうしても、一人で待っていることが出来なかったのだ。
使い方は覚えている。だが、試したのは引き出しだけだ。一回目は鍵のかかった状態で中へ繋げて、二回目は全く違う金庫の中へと繋いだ。練習したのはそこまでだった。
けれど、霊さんは言っていた。
この鍵があれば、〈マルティム〉に願えば、家の扉から願った場所に行けるのだと。
何処の扉でもいい。通れるところならば、どこでもいい。そわそわしながら、私は二階の倉庫となっている一室を思い出した。
思い出すなり、私は駆け足で廊下を渡り、階段を登っていた。
準備をしようという冷静さなんて何処にもなかった。服装もこのままで、武器らしい武器もない。頼れるものは日頃〈アスタロト〉に教えてもらっている魔法くらいのものだろう。その魔法すら、冷静に使えるかどうかも怪しい。
そんな状態でありながら、私はいつも鍵をかけている物置部屋の扉の前に立ち尽くした。
「霊さん……」
引き返すことは、出来なかった。
「今行きます!」
鍵穴に〈マルティム〉を差し込み、願いながらそれを回す。
決められた鍵でしか開かないはずの鍵が開き、扉は開かれた。その向こうに広がるのは、たまに掃除や古物の整理で訪れる埃っぽいあの部屋ではなかった。
全く知らない、全く見たことのない、初めて見る、薄暗い乙女椿伝統風の板間が広がっていた。




