前編
開かずの金庫。それは並みならぬ魅惑を秘めし存在である。
鍵を無くした、解錠の仕方が分からない、壊れてしまった。彼らが開かなくなった事情は様々であるが、その所有者がこの世を去ってしまい、中に何が入っていたのかも分からなくなってしまうと、途端に可能性の塊のように思えてしまうものだ。
お宝が入っているのではないかという期待を持つ者もいれば、ただ単に好奇心をくすぐられ、純粋に中を確認したいと望む者もいる。
しかし、そのわくわくも大抵は開けてみるまでのもの。中はからっぽであったり、どうしてそれを入れたのかと問いたくなるようなガラクタでしかなかったりするものだ。
そんなワクワクと落胆の現場に、私はたびたび同席していた。
開けるのは私の主人である霊である。
「無事に開きましたよ。中をご確認ください」
お店に持ち込まれるのは大抵の場合、手持ち金庫である。解錠の際は必ず所有者に同席してもらい、最初に開けて貰うことになっていた。それが、トラブルを回避するコツなのだとか。
ともあれ、今回もそうやって手持ち金庫は持ち込まれ、現在の所有者である男性が少し期待をした表情で中を開けて覗いてみた。そして、案の定、これまで同じような依頼でやってきたお客さんたちと同じような表情を浮かべるのだった。
「あー……」
力が抜けたようなその溜め息を聞いて、そっと覗き込んでみる。
なるほど、中に入っていたのはガラスのおはじきだけだった。
「仕方ないか……むしろ憑き物が落ちたような気持ちだわ」
そう言って、客の男性は霊に向かって微笑んだ。
「ともかく、お世話になりました。評判通り、あっという間で助かりましたわ」
「いえ、お力になれたのなら幸いです」
「ありがとうね」
何処か寂しそうにそう言うと、男性は会計を済ませると金庫を抱えて帰っていった。
店の扉が閉まるのを待ってから、私は霊に向かって言った。
「残念でしたね。今回もお宝じゃなかったみたいで」
「そうね。まあでも、そんなものよね。前に一度だけ白妙の本家で見つかった、開かずの大金庫を開けるというお仕事をしたことがあるの」
「し、白妙の!」
白妙とは百花魁の実家である。由緒正しき妖怪狐の家系で、昔はこの町の神として祀られていたこともあるらしい。今でこそ魔物と蔑まれることもあり得るただの人だが、その歴史や尊大さは衰えていない。
そんな白妙の本家で見つかったという、開かずの金庫。期待しないでいられようか。
「当然ながら期待したのよ。お狐様方が代々大事にしてきた金庫だもの。でも開けてみて何が入っていたと思う?」
「……何だったんですか?」
「食べかけの油揚げが入っていたの。たぶん、二百年くらい前の」
途端に寒気が走った。
人間らしい食事をとらなくなってしばらく経つが、それでもぞっとする話だった。霊もまた心底うんざりした思い出だったのだろう。
大きくため息を吐くと、そっと立ち上がると、何故だか私の背後へと回った。
「あれはがっかりしたわ。もっとも、私以上にがっかりしていたのは、白妙のキツネさんたちだったのだけど」
と、言いながら霊の手が背後から回ってきた。
「なんか思い出すだけで気分も悪くなっちゃった。こういう時こそ、花の香りのする美味しい血液をぐいっといきたいんだけどなぁ」
「霊さん、まだお昼過ぎですよ」
そう言ったものの、霊はめげずに寄り掛かってきた。
「いいじゃない。お客さんも帰っちゃったし。何なら、今から臨時休業しちゃおうか。それなら問題ないでしょう?」
「問題しかないです! 第一、あんまり食べ過ぎると太っちゃいますよ!」
「別にいいもん。私、太りにくい体質なの。脂質の多そうな人の血をぎりぎりまで吸ってもちっとも体重変わらなかったし」
何それ、羨ましい。私なんか魔女の性が満たされるたびに油断すると体重の微増が繰り返されることになってしまうというのに。
それって満たしすぎなのではと思わなくもないのだが、そう訴えたところで霊が加減してくれる気もしないので運動するしかない。それなのに、なんで。世の中はどうしてこうも不公平なんだ。
などと思っているうちに、霊の唇が首筋に当たった。牙が伸びているのが分かる。すっかりお食事モードだ。
「お願い……ちょっとだけ。ちょっとだけだからさ」
「ちょ……ちょっと待って霊さん、まだ覚悟が――」
どうやら、私の答えは端からいらないものだったらしい。
鋭い痛みが走ったかと思えば、いつものように血が吸われていく感触が伝わった。奪われていくその感覚は私にとってあまりに甘美なもので、必死に堪えるもむなしく、だらしない声はやっぱり漏れ出してしまった。
早めの食事がいけないのは霊のためなんかではない。
私自身のためなのだ。
「ぷはあ、美味しかったぁ」
あっさりと牙を抜いて霊は歓喜の声を上げる。リフレッシュできたようで顔色も表情も実に爽やかなものだった。
一方、私はというと、眼が潤んでしまうのを止めることもできず、荒くなった息をどうにかこうにか整えながら、物欲しそうに霊を見上げるばかりだった。
私の心臓が……魔女の性が言っている。
こんなんじゃ足りない。もっとめちゃくちゃにして欲しい。
「あらぁ、どうしちゃったの、幽? なんだか辛そうねぇ」
勝ち誇ったような霊の表情に、私は言い返すことすら出来なかった。
そんな私に対して、霊はとても優しい声で告げた。
「私、今すっごく気分がいいから、何かお願いがあるなら聞いてあげてもいいわよ?」
誘うような赤い目。支配的な表情。
表向きは自由意志を尊重しているように見えて、実はそうではない。今の私の苦しみと、求めているものを知り尽くした上でのこの態度だ。
霊の頭には一つの未来しか浮かんでいないだろう。私が想定外の選択をするなんて思ってもいないだろう。ああ、けれど、その通りだ。血を吸われた傷の痛みが広がるたびに、独のように欲望は巡っていった。
「霊さん」
限界に達したとき、私はとうとう訴えた。
「臨時休業……できますか?」
「いいわよ」
速やかにカーテンが閉まり、看板が裏返り、鍵もかけられて密閉空間はできた。
誰にも邪魔されない空間が出来てしまえば、お互いのちょっとだけはもはや建前ですらなくなり、夕食とさして変わらない触れ合いになってしまった。
さて、霊の食欲がすっかり満たされる頃になると、私の方もあらゆる欲望が満たされ、スッキリすると同時に冷静さと罪悪感が襲い掛かってきた。
何故、私はこんな時間にこんな姿に……。
そんな疑問と共に眺める時計はすっかり遅い時刻で、営業再開なんて微塵も考えられない状況だった。
「幽、いつまでもそんな恰好でいると風邪ひくわよ」
誰がこんな格好にしたと思っているのという言葉をごくりと飲み込み、私はのそのそと立ち上がった。
好き放題やられるのはいつものことだけれど、お店を途中で閉めてまでというのは久しぶりだった。久しぶりっていうことは前にもあったのかと笠に呆れられそうだけれど、それには理由があった。
寒気を感じつつ起き上がると、少しは冴えた頭で私は霊に訊ねたのだった。
「霊さん、魔力は回復しましたか?」
すると、霊は少しだけ表情を変えて私を振り返った。
澄まし顔だが、私は知っている。弱みや都合の悪い事を隠したい時、霊はいつも唇をぎゅっと閉じる癖がある。今もそんな表情を浮かべていた。
「誤魔化しても無駄ですよ。いくら霊さんでも、理由なくお店を閉めて欲望に流されるとは限らない。そういう時は何かしらの理由があるものです」
視線が向いたのはカウンターに置かれたままの鍵〈マルティム〉だった。そんな私の指摘に、霊は呆れた様子でため息を吐いた。
「いくらって何よ。失礼しちゃうわね。でも、その通りよ。お陰様で少しは回復したわ。まあ、欲を言えば、あともう少し欲しいのが本音だけれどね」
目を赤く光らせながらそう言う彼女の表情に、満たされきったはずの被虐欲が疼いてしまう。しかし、なけなしのプライドが邪魔をして、私は目を逸らし、素直でない態度で霊に言ったのだった。
「霊さんがどうしてもって言うのなら、もう少しあげてもいいのですけれど……」
すると、霊は微笑みながら言った。
「ここではやめておく。さすがに、ひと休憩挟まないと」
つまり、ひと休憩後に続くということだ。
愛する人に血を捧げる幸福と共に、不安や恐怖も感じてしまう。今日が私の命日とならぬことを祈りながら、私と霊の理性がわずかでも残ることを願いながら、私は床に散乱していた自分の服を回収してまわったのだった。
いつまでも裸でいるのは心もとない、なのでさっさと服を着ようと思ったのだが、その途中、霊が〈マルティム〉をケースにしまおうとしているのを見て、私はふと彼女に声をかけたのだった。
「あの、霊さん」
振り返るその美しい顔に、私は問いかけた。
「前々から言おうと思っていたのですが、金庫の鍵を開けるくらいなら、今の私にだって出来ます。その鍵にお願いするよりも、解錠の魔術を使う方が――」
「それは駄目」
あっさりと霊に遮られ、私は即座に訊ねてしまった。
「どうしてですか?」
すると、霊は怪しげな表情を浮かべて答えてくれた。
「あなたは確かに魔女として成長したかもしれないけれど、未熟な点があるわ。それは、自分が魔女であることを隠しながら魔術を使うという器用さ。今は力を発揮するのに集中するので精一杯でしょう? 緊急事態ならまだしも、金庫を開けるという簡単なお仕事でいちいちハラハラさせられちゃ、心臓がいくつあっても足りやしない。ただの人間ならいいけれど、ひょっとしたら〈赤い花〉に興味を持ったお客様がいらっしゃるかもしれないものね」
呆れ口調で言われ、私はムッとしつつも言い返せなかった。
霊の言う通り、私は魔女としてはまだまだだ。特に、器用さに欠けると言われれば、反論の余地もない。それなら、言われた通り、霊の言葉に従って控えているのが正解なのだろうけれど、それでも私は気にしてしまうのだった。
「なら、せめて、〈マルティム〉の使い方を私にも教えてください」
不満を押し殺してそう言うと、霊はとぼけた様子で首を傾げ、訊ねてきた。
「どうして?」
その愛らしい声と仕草に負けないようにと目を逸らしながら、私は言った。
「心配だからですよ。〈マルティム〉を使うから、魔力が足らなくなるのでしょう? その負担を少しでも軽くしたいんです」
視線に負けることなく言い切ると、霊は黙ったまま〈マルティム〉をケースにしまい、私のもとへとやってきた。
じっとしているうちに、すっとその手で背中に回り、怪しげな空気が生まれる。ざわざわとしたものを胸の奥に感じていると、霊はとても小さな声で呟いた。
「可愛い人ね、あなたは」
そして、あっさりと身を引くと、〈マルティム〉を鍵付きの戸棚にしまいにいった。背中を向けたまま、彼女は続けた。
「いいわ。教えてあげる。この店の者なわけだし、あなたもいくらかは知っておかないとね。でも、それは明日にしましょう」
振り返るその目は、再び赤く染まっていた。
「またちょっとお腹が空いて来ちゃったの」
色っぽいその囁きに、全身が熱ってしまった。
身体の疲れはまだまだ取れないけれど、私の方もつられてお腹が空いてきてしまったらしい。




