中編
鬼神の乳歯は特別な薬になるそうで、魔族や魔物の界隈にて高値で取引されるそうだ。
霊の知り合いの中にも、そうした薬の素材を集めて商売している者がいるそうで、予定では受け取ったらすぐにその人物に連絡を繋ぎ、引き渡すはずだった。
だが、いざ玉美から歯を受け取ると、その後、霊はしばらく考え込んでその乳歯を保留棚に入れてしまった。
具体的な根拠があるわけではないのだが、少し気になるものを感じたらしい。その正体がはっきりと判るまでは保留しておこうということだった。
あれからしばらく。その存在すら忘れかけていたのに、まさかこうしてヤヤ子に目を付けられることになるとは。
霊が黙って小瓶を取って、蘭花のテーブルへと置いた。ヤヤ子はすぐにテーブルの上に登ると、小瓶の中をじっと見つめて何度か頷いた。
「やはり感じる。霊、この牙は鬼の子のものだろう? それも、ただの鬼ではなく、古来よりこの辺りの人々を束ね、支配していたという鬼神の種族――曼殊沙華の家の子だな? その昔、世界がまだ信仰に満ち溢れていた時代、この辺りでは曼殊沙華の鬼たちが牙を見せてひと睨みすれば人間たちは恐れをなして争うことすら忘れたという。その血をこの牙より感じ取れる」
「けれどこれは抜けた歯――それも乳歯よ。元の持ち主はただの子ども。強い霊力があるわけでもない」
霊の言葉にヤヤ子は眉間にしわを寄せた。
「子どもとて鬼神は鬼神。霊験あらたかなものに強さなど関係ない。むしろ、七つまでは神のうちとまで呼ばれてきたような、か弱き子どもこそ奇怪な現象に取り憑かれるものだ。さっさと解決したくば、悪い事は言わん。猫を信じよ」
ヤヤ子は自信たっぷりにそう言い切った。
その判断を見縊ることは出来ない。かつて〈エリゴール〉の異常性を真っ先に気づいたのだってヤヤ子であったのだ。それほどまでに化け猫の勘は鋭い。だが、〈カイム〉がいる今とは違って、その当時、彼女の言葉は千景に届かなかった。そのことを寂し気に語っていたものだった。
しかし、〈カイム〉があれば、ヤヤ子の鋭い勘を私たちも簡単に知ることが出来る。そして、その機会を甘く見る霊ではない。
「分かった。信じましょう。次に釧と一緒に行くときはこれを持って行ってみる」
「その際は私も同行する。幽も一緒に」
「え、私も?」
突然の強制参加通知に驚いてしまった。
そんな私にすり寄りながら、ヤヤ子は上目遣いで語り掛けてくる。
「抱っこされるなら幽が良い。そこな吸血鬼の抱き方は妙に艶めかしくて落ち着かぬし、山犬殿はゴツゴツしすぎぢゃ。しかし、幽ならば程よく抱っこしてくれる。時折、外猫と触れ合っておるだろう? 実を言えば、猫界でも一定の評価があるだよ」
そうなんだ。全然知らなかった。
次にまた猫と触れ合う時があるかもしれないので覚えておこう。
ともあれ、ヤヤ子のご希望ではある。だが、私はひとまず主人の御機嫌伺をすることにした。
忘れもしない。この案件には無花果氏が絡んでいる。直接ではないにしろ、彼のお気に入りとやらが巻き込まれているというわけだから、その人物にも直接会うことがあるかもしれない。
厚意により口犬でありながら私の秘密を守ってくれている釧はともかく、そのお気に入りに私の正体――〈赤い花〉であることが知られることは、霊にとって宜しいことなのだろうかと。
この不安もきっと的外れというわけではないのだろう。霊はしばらく眉間にしわを寄せ、もやもやとしたものを消化しきれないままに渋々ながら頷いたのだった。
「しょうがないわね。自分の足で歩きたくないお嬢様のために、我が一番の僕の手をお貸ししましょう」
ため息交じりの彼女を見つめ、ヤヤ子は目を細めた。
「相変わらず心配性だなあ。私らよりもずっと強い吸血鬼のくせに。まあ分かれば良い。あとは釧を待つ間、ここで美味い飯に温かな布団を堪能させてもらうぞ」
上機嫌なヤヤ子に、霊は音もなく近づいていくとその頭から背中をそっと撫でていった。黒猫が似合うのは魔女という印象だが、この場においては私よりも霊の方が良く似合う。ただでさえしどけなくも色気のある霊に、同じように気ままな猫が合わさることで、ますますイケない雰囲気が漂うようだ。
とはいえヤヤ子がいる間は、あまり激しい事も出来まい。残念だけれど箸休めということで受け止めよう。
「幽、お風呂を入れてきてくれる?」
ひとり残念がっていると、霊がヤヤ子を撫でながらそんな事を言ってきた。
「お風呂ですか?」
訊ね返すと霊はヤヤ子を抱きかかえた。ヤヤ子はすっかり安心し、下半身がすっかり脱力して伸びてしまっている。その柔軟さに感心しつつも、霊の目は何処か冷めたものがあった。その視線で、私は何となく察した。
「分かりました。今、入れてきます」
幸いなことに、と言っていいのか、ヤヤ子はまだ気づいていないようだった。たったいま、悪魔のようなやり取りが交わされたというのに、暢気にゴロゴロ言っていた。
それからしばらくして、私は生まれて初めて猫という生き物をお風呂に入れる大変さについて身をもって味わうことになった。そして、生傷だらけになりながら、改めて〈赤い花〉を受け継いだことで開花した魔女の性に感謝することとなったのだ。
「自ら毛繕いも出来ぬような不器用で汚らしい人間ならまだしも、この美しい毛並みの私を風呂に入れるとは何事ぢゃ!」
事後、ヤヤ子はそう怒鳴り散らして怒りの毛繕いを始めた。畳間でぺろぺろと全身を念入りに舐めていく。ノミを潰しながら細かなところまで洗うことは出来たが、お陰で私達――特に私の方は傷だらけだった。
すぐに霊に手伝ってもらいながら消毒したけれど、その手当すら、霊の愛撫に思えていっそう身に沁みた。その時の反応を霊が見逃すはずもない。風呂上がりのヤヤ子が疲れて眠っている隙に行われたその日の夕食は、いつもよりは控え目とはいえ、それはそれで味わい深いものとなってしまった。
さて、小さな猛獣が同居してしばらくして、ようやく釧はやってきた。すでにヤヤ子のことは聞いていたらしく、来店するなり彼はヤヤ子を言葉通り猫可愛がりしたのだった。動物好きだとはかねがね聞いていたが、真面目な名犬のような顔つきからは想像も出来ないギャップに驚いてしまう。
ヤヤ子の方はすでに経験があったのだろう。やれやれと言った様子だ。しかし、心から不快なわけではないらしく、釧が望むままに抱かれていた。
「さて、今回は幽も同行すると聞いたのだが……」
我に返った彼の言葉に霊は落ち着いて頷いた。
「そこにおわします女王陛下のお望みよ。現場まで運んでくれるのは幽がいいのですって」
「はあ、ヤヤちゃんのご希望か。それじゃあ、仕方ないな」
苦笑しながら釧は言った。
「あの方も一緒だということを忘れちゃいないだろうね?」
釧の言葉に霊は大きなため息を吐いた。
「忘れてはいないわ。それもまた悩みの種だもの。でも、信頼もしているの。一応は偉大な御方なのだから懐も深いのでしょうねって」
「勿論、約束は守ってくださる御方だ。秘密をぺらぺら喋るタイプではないし、たとえ旦那様から多大な好意を寄せられていて、それを受け入れてはいても、魂の底から仕えているわけではない。だが、そうは言っても常に旦那様のもっとも近くにいらっしゃる御方に違いない。そこがちょっと不安といえば不安だな」
釧の言葉から想像するに、気に入られていても従順というわけではないらしい。いったいどんな人なのかますます気になる。
「それもそうね。……幽、念のためよ、現場で無花果氏のお気に入りに会ったとしても、口も魔力も出しては駄目よ」
「分かりました。気をつけます」
そうは言っても不安は不安だ。ここ連日、吸血鬼と人狼が力を合わせても解決できない揉め事の現場に行くのだから。
その解決策が力ない化け猫のお墨付きである鬼の乳歯一本とは何とも心細い。もしもそれが役に立たなかった場合、こちらが襲われるようなことはないだろうか。そうなった時は、ついつい魔法を使ってしまいそうだし、そのせいで〈赤い花〉であることが無花果氏のお気に入りとやらにバレてしまえば……。
考えだせばきりがない。
ともあれ、こうして、すっかり毛並みの良くなったヤヤ子を抱きかかえながら、私は悶々とした心情のまま霊たちと共に現場へと向かうことになった。
現場は思っていた以上に入り組んだ路地裏迷路の先にあった。もしもここではぐれたら、私は一生町に戻れないかもしれない。そんな不安の付きまとう迷宮の果てに、突如として現れたのは忘れ去られた廃噴水であった。
周囲は高い建物が取り囲んでおり妙に薄暗い。きっと、周囲の建物は後から出来たのだろう。そう思うような入り組み様だった。そして特記すべきは、人が大勢立ち入れるような場所ではない点だ。それを知っていたからだろう。釧はとうに人間の姿であることをやめ、いつか目にした柴色の中型犬のような姿――乙女椿特有の小さな狼の姿で共にいた。
〈ブエル〉を手に様子を見に行った時は、本人の意図とは関係なくその姿を晒したわけだが、今回のように自らの意思でその姿を晒すとなれば、やはり気高さが違うらしく、ピンと立った耳と尾には誇りを感じられる。人間の時の面影のある顔つきで周囲のニオイをしきりに確認すると、犬のような鼻でふんと大きく息を吐いた。
「間違いなく辺りにいるようだ。だが、いつもと違うメンバーがいるせいか警戒している」
釧が私たちを振り返ってそう言った直後、噴水にぴょいと飛び乗る影が現れた。突然のことで、思わず声をあげそうになったが、その姿を見て、途端に力が抜けた。
ただの猫だ。
よくよく見れば長毛の白猫で血統の良さそうな風貌。ヤヤ子とは違い、こういう場所には不釣り合いなハイカラ猫だった。その猫を見て、ヤヤ子が反応した。猫同士、気になるのだろう。私の腕からぴょいと飛び降りると、その白い猫の元へと駆けよっていった。
「やあ、つっこ。元気していたか? 私だ。ヤヤ子だよ」
つっこと呼ばれた白猫は睥睨するような恰好でヤヤ子をじっと見つめた。オッドアイの美しい目が印象的である。黙ったまま彼女はヤヤ子から目を逸らし、私を見つめてきた。探るように見つめ、深く考え込む。何だか妙だ。あまり猫らしくない。
そう思っていると、白猫はさも当然のように口を開いた。
「そこの女子があなた達の言っていた助手なわけだな?」
一応言っておくが、その白猫も首輪はしている。だが、〈カイム〉が二つあるなんて話は聞いた覚えもない。にもかかわらず、あまりに当然のように話すものだから、私は混乱のあまり、ぽかんとしてしまった。
それともひょっとして、猫という生き物は元来人の言葉を喋る生き物だっただろうか。
理解が追い付くより先に、釧が狼の姿で頭を下げる。
「そうです、月子様。幽という方で、霊さんの助手で――」
「ああ、その辺の諸々はどうでも良い。名前さえ分かれば十分だ」
月子様。どうやらそちらが本名らしい。様付で呼ばれた彼女は、噴水から飛び降りてヤヤ子の横に立った。銀色の片目でちらりとヤヤ子を見ると、大きくため息を吐いた。
「この首輪もまた霊の店で持つ怪しげな物品というわけか。旧友に乙女椿語で話しかけられて心臓が飛び出るかと思ったわ」
「そう驚くな。人間の姿にもなれるこの私が言葉を喋れるようになるくらいおかしなことではないだろう?」
「まあ、そうだね。天と地がひっくり返る程度のことだろうな」
皮肉っぽく月子はそう言った。
私は置いてきぼりのままだ。天と地をひっくり返しているのはむしろこの月子という存在なのだが、それを素直に口に出して良い雰囲気ではなさそうだ。釧が下手に出ており、霊もまた今のところは失礼な態度を取っていない。そんな状態で私が何を言えるだろう。
だが、月子自身が私の戸惑いを敏感に感じ取ったのだろう。オッドアイの双眸をこちらに向けると、おや、と小さく首を傾げた。
「どうやら幽とやら、この私を見て驚いているらしい。さてはあなたたち、十分な説明を怠ったな?」
「必要性を感じなかったので」
霊が平然と答えると、月子はやれやれと項垂れた。
「ちゃんと話すことは話してやれ。可哀想じゃないか」
至極まともなことを呟くと、月子は私へと近づいてきた。
「改めて自己紹介しよう。私は月子という。数年前から無花果のところで世話になっている。祖父母の代より乙女椿で暮らしているが、それ以前はマグノリアの由緒ある血筋の家で生まれた。それ以前はカシュカーシュの王族の花として守られ、さらに辿ればニンファエアで神として崇められた猫の一族にたどり着く。つまり猫神の末裔である」
つまりやんごとなき血筋の御方であるらしい。一応、釧や霊も乙女椿でかつて神として崇められていたと聞いた気がするのだが、そんな二人よりもさらに偉そうなのは猫という種族ゆえだろうか。
それにしても、こうも当然のように人語を話すとは。茫然としていると、月子はふんふんと私の服の匂いを嗅いで、納得したように肯いた。
「なるほど、釧のワン公が私の口を結ぼうとした理由を把握した。無花果に語らないでやるのは容易い。だが、その代わりと言ってはなんだが、今回がまた失敗に終わっても次もまた尽くして貰えるとありがたい。小鬼の牙でこの騒動が収まればいいのだが」
「失敗なんかしない」
と、そこへヤヤ子が口を挟んだ。
「私の勘は狂わない。たしかに小鬼の牙に過ぎないが、そこに宿る力は確かなものだ。まさか神の血筋ともあろう君にそれが分からないはずはないだろう?」
揶揄うようなその調子に、月子はやや不満そうな顔をする。
「神の血筋であるからこそ、あらゆる想定に頭を悩ますというわけさ。……と、まあ、それはいい。そんな無駄な論争をしている時ではない。奴らはもうすぐここへ来る。下手をすれば血を見ることになるだろうよ。その前に新しい手を見せて貰いたいところだね」
月子の言葉に頷いて、霊は鬼の歯の入った小瓶を取り出した。何のことはない。中に入っているのはただの歯だ。尖りすぎているので何かの生物の牙だと思う人が多いだろう。変わっていることといえばそのくらいだ。
しかし、ヤヤ子は自信たっぷりであるし、何と言っても霊が何かしらのものを感じて売り飛ばさなかっただけのものではあるのだ。その直感を信じる形で、私はドキドキしながら奴らとやらの到着を待った。
そしてしばらくすると、音もなく忍び寄る複数の影が現れた。奴らだ。いくつもの眼光に囲まれ、気づけば出口は塞がれている。薄暗い路地裏をぐるりと取り囲むその姿はいささか不気味で、逃げ場がないという状況を考えると不安になる。
不安にはなるのだが……。
「え、あの……霊さん」
話しかけようとする私を、霊は静かに制した。
集まってきた彼らのうちのひとり――一匹というべきだろうか――が、月子へと近づいていく。男らしく逞しい手足に荒々しく欠けた耳、そして顔に残る無数の傷跡からその性格までもが窺える。目つきは鋭く、長い尻尾がすらりと伸びている。そして目を見張るべきは全身を覆いつくすオレンジの体毛とそこに入る美しい縞模様。
威風堂々と歩くその姿はまさしくオスの猛虎……を彷彿とさせる虎猫であった。




