中編
夕食がこってりとしていた為か、朝食は非常にあっさりとしたものだった。
特に不満はない。ただ血を吸わせるだけでも、その痛みは性を満たすのに十分なものだ。欲というモノは底なしだから、いつもそれ以上の行為に耽るだけで、本来ならば血を吸われ、血を吸わすだけでいい。
なので、不機嫌な気持ちになっているのは欲求不満によるものではないと述べておこう。
今日も私は昨日と同じ。店内の隅にてガラスケースをそっと開けていた。見つめるのは聖杯。やっぱり触るのは恐い。これでワインなんかを飲めたらトラウマも克服できるわけだが、水すら飲む気にならない。一応、何かを入れて飲むのに不都合はないと霊は言っていた。霊自身もこれをたまに使う。〈アガレス〉という名前を付けた通り、一生面倒を見るつもりでいるのだから。
そういうわけで、せめて素手で触って手入れしてやれるくらいにはなっておきたいのだが、今はそれ以上に〈アガレス〉の特殊な能力に頼りたかった。不機嫌なのと結びつく望みでもある。
理由は私の背後にある。
応接用のテーブルには昨日と同じ客がいる。体の透けた美人のお客さん。今日も私には分からない言語で談笑している。悔しい。霊と一緒にあんなふうに嬉しそうに笑っているなんて、それも、私にはちっともわからない言葉で。悔しい。霊を独り占めされているようで、悔しかった。
――この聖杯を使えば……。
入れるのは水でいい。ごくりと飲めばすぐに奴らの交わしている言語の意味が分かる。そもそもあれは何語なんだ。聞いたこともない言葉だ。どういう文字をしているのかも想像できない。もしかして、魔界の言葉なのだろうか。魔女や魔人などベヒモスを頂点に置く魔族にも伝わらないような、ジズを頂点に置く魔物の世界だけの言葉だとか。
昨日はうまく誤魔化されてしまった。今思えば、私に隠し事をしているからこその濃厚な夕食だったとしか考えられない。それなのに、ああ、なんて私は情けないのだろう。もたらされるものの大きさに我慢できずに怒るのも諦めてあんなに曝け出して。
霊の満足そうな顔を思い出して、ぞくりとした。今宵も甘えたら同じように愛してくれるだろうか。いや、それでは同じことだ。冷静になったときにむなしいだけ。問題の本質を解決するには、あの二人の交わしている会話の正体を掴まねば。
聖杯の置かれている棚を見つめ、私は勇気を溜めた。溜めた先から何処かに漏れ出していくようだった。
触って指の先が溶けたりしたらどうしよう。
霊が使っていて平気だというのに、そんな被害妄想染みた想像を巡らせて、指をひっこめてしまった。
やはり信仰というものが怖い。
「幽、お客さん帰るって」
急に声をかけられて、はっとした。気づけば、時計は七時を回っている。昨日と同じだ。今日もなかなか長かった。いったい何を話しているというのだろう。
霊が丁寧に送り出すのを見ながら、私は閉店の準備を進めた。簡単に掃除して、カーテンを閉めて、テーブルと椅子をそろえる。霊が店の鍵を閉めるのを確認すると、昨日よりはちょっと控えめに、私は声をかけてみた。
「……あの、霊さん」
「今日はここで食べてもいい?」
「え、あの」
「お腹空いているの。朝が少なめだったから」
その顔に浮かぶ野獣の眼光に内心はすっかり翻弄されていた。しかし、押し切られる前に、私は訊ねるだけ訊ねた。
「それは構わないのですが、その前にちょっと聞かせてください。いったい――」
と、話が終わらぬうちに霊は私に迫ってきた。そのままカウンターへと追いやられ、びくびくしながらも言葉は出し切った。
「いったい、あの人と何の話を――」
カウンターに押し倒されて、その続きは曖昧になった。情報料と言わんばかりに血を吸わせ、満足したと思われるところで改めて聞こうとするも、全ては霊の掌によって転がされる。
全く、私はどうしたらいいのだ。
「ねえ、幽。今日は一緒にお風呂入ろうか」
「あの、私の問いに答えてもらいたいのですが……」
「久しぶりに背中を流してあげるわ。隅々までたっぷりと」
駄目だ。露骨にはぐらかされている。しかも、悲しいことに涙が出そうなくらい嬉しい気持ちが生まれている。これは駄目だ。何が駄目って、私のどうしようもない性質が駄目だ。
冷静な交渉術はいつか、この世のありとあらゆる学問を教えてくれる古書〈アスタロト〉に教えてもらおう。しかしそれはいまではない。
「……分かりました」
いや、〈アスタロト〉に聞くまでもない。
大昔に乙女椿にいたという密行調査に特化した傭兵なんかの話を思い出す。タヂカラとクノイチという者たちだ。このうちのクノイチは、敢えて艶っぽい行為に及んで大事な情報を聞き出す技に長けていたと聞く。私にも同じようなことが出来るのではないだろうか。
お風呂でもいいし、その後の本格的な夕食の時でもいい。うまいこと霊に甘えながら、あの客人と話していたことをついうっかり教えてもらうことが出来るのではないだろうか。
これが出来れば私もなかなかのものだ。試練ということで、ここはひとつ頑張ってみようじゃないか。そんな強い信念と共に、私は霊に連れられて共に入浴へと向かったのだ。
しかし、それからしばらく、わりと長い時間をかけて、私はただ自分の無力さを知ることとなった。気づけば朝で、いつもと変わらぬ関係のまま、いつもと変わらぬ一日が始まった。
結局、夕方以降に至るまで、私は霊の口を滑らせることは一切できなかった。朝食も同じようなもの。気持ちは負けないつもりでいても、いざ、霊に牙を剥かれれば口から飛び出すのは悦びばかりだった。
まあいいか、と嫉妬すら忘れかけていたのも昼過ぎまで。三日連続、あの透けた体の美人の客が訪問したとあっては、もう我慢できなかった。
仏の顔も三度目はなかったようだ。
霊と客人が蘭花のテーブルにつき、お茶を持っていったその帰り道、私はそのまま機械的にガラスケースの引き戸を開けて聖杯〈アガレス〉を見つめた。触れれば溶けてしまうかもしれないなんてもう思わない。嫉妬に狂った私の心は、トラウマすらも克服させた。
掴んだ。聖杯。〈アガレス〉。使う。飲む。
獣のような単純な思考で聖杯を持ち去り、店をこっそり去ってリビングへと向かった。水だけでいい。水を飲むだけでいいのだ。水道水でいいというわけだから、あまり飲むには適さない水を少量入れてみた。
さて、持ち去ることはできた。触れる分には聖杯というものも悪くない。やはり、いつか霊に言われたように、聖杯への恐怖は先入観のせいなのだろう。それはいいのだが、私は躊躇っていた。
触れるのと口をつけるのはまた違う。水自体は飲めないというほどではないが、聖杯に入れられているのを見ると、禍々しく見えてしまった。飲んだら体の内側から溶けてしまうのではないか。恐ろしい。
しかし、そんな私に勇気を与えたのは、店の方向から響いてきた談笑だった。何を話しているのだろう。何を笑っているのだろう。好奇心と嫉妬と不満が爆発し、私は一気に〈アガレス〉の水を飲み干したのだった。
直後、眩暈がした。視界がぐらりと揺らぎ、頭が急に重くなった気がした。どうにか聖杯を落とさぬように気を付けて、私は一歩踏み出した。ああ、何か変化が生じた。それは分かる。眩暈が消えると、私はさっそく店へと戻った。聖杯を手にしたまま、こっそりと霊と客人の談笑するその場所へと向かったのだ。
そして廊下を渡り、暖簾をくぐる前に、変化はよく分かる形で示された。