前編
猫の声が外から聞こえてくる。
どうやら町の何処かで、喧嘩をしているらしい。恋の季節だろうか。そんな時期でもあるかもしれない。そんなことを思いながら、私は豆茶を淹れていた。
猫が発情期ならば、我が主様も発情期の季節なのかもしれない。そうだとすれば、ずいぶんと長い発情期だ。そう思いかけて、私は一人で首を振る。いやいや、あれはただ単純に性にだらしないだけ。性に開放的な血がちょっと濃いだけなのだろう。
しかし、そんな霊の誘いに易々と応じてしまうのが私という隷従の悲しき性質でもあるわけだから、棚上げすることは出来ない。
やれやれと自分に対しても呆れながら、淹れたてのお茶を盆に載せ、私は鼻歌交じりに二階へとあがっていった。
昨夜の霊は相変わらず激しかった。
仕事のためにひとりで赴いた無花果氏のもとで、また百花魁に揶揄われて神経を逆撫でされるようなことを言われたらしく、溜め込んできた不満はそのまま食欲と愛欲として私にぶつけられた。
おかげで今日の私はいつにもまして肌艶が良い。魔女の性が違う形だったら、こうはならないだろう。現に、攻めていた方の霊は疲れてしまったのか朝食に起きたと思えば二度寝をしてしまっていた。
「霊さん、豆茶を淹れましたよ」
そう言って寝室の机に盆を置くも、霊の反応はすこぶる悪い。掛布ごともぞもぞと動いている。その下は寝た時と同じ――ほぼ全裸のままで、用意してやった着替えはむなしく床に落ちていた。
別に焦ることはない。本日は定休日だ。昨日の疲れもあるだろうし、思う存分寝かせてあげたい気持ちは当然ながらある。しかし、当の霊が昼にならない内には起こしてほしいと言っていたのだから困ったものだ。
私は近づいてそっとその体に触れてみた。
「ねえ、霊さん。今日は昼過ぎから何か予定が――」
「つかまえた」
しまった罠だ。離れようとするも遅く、腕をがっしりと掴まれて寝台の中へと引きずり込まれてしまった。
珍しい事ではない。こうした狩りはむしろ日常的とも言っていい。ここで共に暮らしてから何度もやられた来たことだし、回避することだって出来ることだ。
しかし、本日はすでに朝ご飯は済ませていたこともあり、まんまと不意を突かれてしまった。
「霊さん、朝ご飯はもう食べたでしょう?」
引っ張られながらも言い聞かせようとしたが、霊はすっかりその気だった。掛布の下で目を赤く光らせている。そして厄介なことに、半分寝ぼけているらしい。
また淫らな夢でも見ているのだろう。夢見心地のままやられれば、せっかく整えが身支度がめちゃくちゃにされてしまいかねない。私はどうにか逃れようとした。だが――。
「お昼ご飯はまだだもの。じっとしなさいよぉ」
寝ぼけていても主人は主人。間違いなく寝言といってもいいその命令にすら、心身がついつい従ってしまうのだ。そうこうしている間に霊の魔の手によって、せっかくきちんと着ていた普段着もするすると剥がされていった。
「霊さん、せめてちゃんと起きてください!」
必死に呼びかけるも、寝ぼけたままの食事は始まってしまった。
厳密にいえば、昨夜の続きだった。せっかく整えた髪も、服も、乱れてしまう中で、なけなしの反抗心も段々と飲み込まれていく。気づけば私の方がすっかりその気になっていて、食事をさんざん楽しんでしまった。
霊は私の上で寝そべりながら満足そうなため息を吐くと、猫のようにうーんと背伸びをしながら私を見下ろしてきた。
「おはよう、幽。爽やかな朝ね」
「もう昼だし、全然爽やかじゃないです!」
朝から濃厚すぎる。お陰で豆茶も冷めてしまった。
こうして、色々とすっきりした私たちはその冷めた豆茶を飲んでから、ようやくいつもよりだいぶ遅い朝を迎えた。今日は休みだが、昼過ぎから客の訪問がある。無花果氏のもとで働いている釧という人物である。
口犬と呼ばれる部隊の一員で、常日頃、無花果氏の身辺警護などをしているという。その本性は人間ではなく魔物であり、古くから無花果氏と結びつきの強い人狼の名家の息子でもある。
以前、人狼特有の病を〈ブエル〉で癒してからも、釧はたびたび店に遊びに来た。口犬の生活はミステリアスかつ忙しいようなのだが、この店の雰囲気が好きであるらしく、貴重な休みを使ってここにやってくることが度々あるので、訪問自体は珍しくない。
だが、今日はいつもとは違い、わざわざ店の休みの日に約束をいれてまで会いに来るという。いったいどんな用事なのだろう。少しだけ興味を抱いているうちに、約束の時間はやってきた。
釧は時間ぴったりにやってきた。
いつもながら真面目そうな面持ちで軽く挨拶をし、蘭花のテーブルに座ってからもいかにも深刻そうな悩みを抱えた面持ちで俯いていた。事前に話はしていたのだろう。迎え入れた霊は速やかに戸棚へと向かい、いくつかの古物を手に取っている。
カウンターから私が見守る中、霊は軽く笑いかけながら釧の前に古物をいくつか置いた。
「そう思い詰めることはないわ。生き物が集えば揉め事というものはどうしても起こるものだもの」
「分かってはいるのだが……」
ため息交じりに釧は唸る。その野性味ある眼差しと唸り声は外見が人間と変わらない今の姿であっても狼らしかった。
「どうしても責任を感じてしまうのだよ。とくに我が先祖は森林の鳥獣や里の人間たちの争いごとを鎮めてきた山の神々であったというからね」
「昔と今は違うの。昔は神様であっても、今はただの人間。いえ、正体が知られれば人間扱いだってされない魔物に過ぎないのだから」
「魔物……まあ、確かに。お袋が聞いたら目を吊り上げそうな言葉だが、決して間違ってはいない。だが、おれは無花果氏にも期待されているからね。やはり解決しなくては」
「そうね、無花果氏のお気に入りが巻き込まれているわけですものね。……ここに置いたのが今回役に立ちそうな子たちよ」
見たところ、ランクの低い古物や名前のついていない品々が選び抜かれている。中でも目に付いたのが、〈オロバス〉という名前の付いた香炉だった。使用者をある程度の害意から守ってくれるそれは、物騒な案件に飛び込む前の霊がたまにその力を頼っていることのある代物だ。霊によればお守りのようなもので、盲信していいものではないというが、何にせよ〈オロバス〉が登場するということは揉め事であることは間違いないらしい。
何とも嫌な感じだ。口犬や無花果氏の絡む揉め事といえば、やはり曼殊沙華やその他、町の有力者たちが絡む抗争を連想してしまう。不安を抱きながら見守る私を余所に、釧は霊の持ってきた品々を一つ一つ手に取って確かめていた。
「うん、どれも使ってみない事には分からないな。ここにあるものは借りて行っても問題ないものばかりなのだよね? 可能なら、二、三個借りていって片っ端から試してみたいところなのだけれど」
「大丈夫よ。少しずつ持って行って試してみた方がいいかもね。必要ならば私も暇なときに同行しましょうか」
「非常に心強い。その時は改めてお願いするよ」
そう言って、釧は霊の用意した古物をいくつか借りる手続きをした。〈オロバス〉の他、名前のついていない品物が二、三。そして、具体的に何が起こっているかは語られないまま、彼は店を去っていった。
「いったい何があったんですか?」
戸締りをしながら何気なく訊ねると、霊は怪しげに目を細めながら呟いた。
「人でない者たちの抗争よ。今のところ、私たちには関係のない世界のお話。でもね、こういう小さな火種がだんだん大きくなることだってある。とくに今回は無花果氏のお気に入りが巻き込まれているものだから放っておけないわ」
「そのお気に入りってどんな方なんですか?」
何気なく気になった。
察するに、百花魁ではないようだ。男なのか、女なのか、その他諸々のことが妙に気になる。霊が以前より警戒しつつ付き合い続けている無花果氏を心配させ、口犬の貴重な若手である釧まで悩ませるような存在とは。
「ひと言でいえば、とてもマイペースな御方ね」
霊はますます微笑みながら首を傾げて答えた。
「でも私は嫌いじゃないわ。なんたってあの百花姐さんさえ手玉にとれる唯一といっていい存在だもの」
「えっ、あの百さんを手玉に?」
素直に驚く私を見て、霊は面白がるように笑った。そこで話はお終いであるらしく、その後は呆気なく居間へと戻っていってしまった。
しかし、私は心の片隅でずっと気になった。あの百花魁さえ手玉にとれる無花果氏のお気に入りって一体どんな人なのだろう……。そして、その人はどんな状況に立たされているのだろう。夕食中も、その後の団欒のひと時も、そこはかとない不安だけが心の奥底に残っていた。
後日、釧は再び店を訪れた。借りていった〈オロバス〉や名前のない品々を大事に風呂敷に包み、返却と同時にため息交じりの報告をした。
「駄目だったよ」
受け取った霊も予想はしていたといった様子でため息を吐いた。
「そう。残念だわ。他のも試してみる?」
「そうだね」
がっくりと肩を落とすその様子は、人間の姿をしていても項垂れる犬のようである。だが、代わりの品々を目にすると、少しだけ希望を取り戻して借りていった。
霊もよく恩恵に縋る〈オロバス〉が役に立たなかったのは驚いたが、一度失敗したくらいでめげるということもなさそうだ。長期戦になることもまた二人とも覚悟していたのだろう。
だが、それからまた数日後、やはり釧は肩を落としてとぼとぼと来店してくることになると、さすがに霊も頭を抱えていた。新しい古物を悩みながら貸し出し、今度こそはと希望を取り戻して店を出て、そしてまた数日後に戻って来る。そんなことが三回も繰り返されると、いよいよ痺れを切らしたらしく、霊もまた釧に同行することになった。
そもそも問題の詳細を聞かされていない私だが、いよいよ霊が赴くとあって他人事ではなくなってしまった。何が起こっているかはともかく、恐ろしい事が彼女に降りかからないといいのだけれど。心配が深まれば深まるほど落ち着かない。せめて一緒に行けたらと思うのだが、それは他ならぬ霊が許してくれなかった。
霊が出発する前日、食事がてら私は霊に訊ねた。
「今回はまたずいぶんと厄介な案件ですね。一体どうして解決しないのでしょうか」
「釧のワンちゃんによれば、いがみ合うふたりが互いに譲らないことが大きいわね。無花果氏のお気に入りはもちろん、彼女と対立している方もプライドが高すぎて退く様子が見られないの。私が所有している古物――とくに〈オロバス〉は解決を目的としていないからダメだったみたい。このままだと互いに傷つけあって、ひょっとしたらどちらかが死ぬまで解決しないかもしれないわね」
大きくため息を吐いて、霊は呟くように付け加える。
「もしかしたら季節のせいでもあるかもしれないけれど」
「季節、ですか?」
訊ね返す私を見て、霊は目を薄っすらと赤く染めた。
「お喋りはこのくらいにしましょう」
霊は甘い声で囁いた。
「明日の煩わしさに備えて、今はただ楽しみをちょうだい」
そうして、私が具体的に訊ねる機会は血と一緒に吸い取られていってしまった。
さて、散々痛めつけられて屈服させられて霊を楽しませた次の日、釧と共に諍いの舞台へと赴いた霊は、難しい顔をしながら戻ってきた。
お手上げだとでも言いたげだが、釧が諦めない限り出来るだけ協力をしようと約束をしているらしい。とはいえ、古物に出来ることは限界がある。釧には騒動の行く末を見張ってもらうことにして、良い案はないかとずっと考え込んでいたらしい。ずっと頭を悩ませる霊を心配しつつ、私はただ見守っていることしか出来なかった。
次の日は朝から雨が降り続いていた。店は通常通り営業していたが客足は遠く、このまま殆ど誰も来ないだろうと思われるほど周囲も静かだった。雨の音しか聞こえないなか、霊は蘭花のテーブルに座って古物の棚ばかりを見つめている。それだけ難しい問題だったのだろうか。いまだ詳しく聞かされていない私もいよいよ気になって、下手に口出ししない方がいいと分かりつつも訊ねてしまった。
「あの、霊さん。もしよかったら、私も――」
と、その時だった。
カランと店の扉が開く音がして、私は慌てて姿勢を正した。
店の入り口には黒髪の女性が立っている。その姿を見て、私はハッとした。ツグミの柄の入ったチョーカーをつけている彼女は、私と霊を見つめると目を細めてふっと体の力を抜いた。
「い、いらっしゃい、ヤヤ子さん」
しばらく見なかったが、知っている客人だ。突然の訪問に驚く私たちの目の前で、彼女――ヤヤ子は黒い猫の姿へと変わった。何処からどう見ても人の姿から何処からどう見ても猫の姿へ。我が物顔で堂々と店を歩くと、ヤヤ子はひょいとカウンターへと飛び乗って、私と霊とを見比べた。
「ちょいと久しいなぁ、ふたりとも」
猫撫で声でヤヤ子は言った。
「今更ながら〈エリゴール〉で揉めたという話を聞いたぞ。独善狐どもからよく守ってくれた。褒めてつかわそう」
「ヤヤちゃん、今回はどうしたの? アルバムを見たいのなら別の日にしてもらえるかしら」
霊が優しく、だが諭すように声をかけると、ヤヤ子は長い尻尾をゆらりと揺らした。
この喋る黒猫、ヤヤ子は化け猫の一種である。人と猫の姿を持つ生き物で、その特技を利用して普通の猫や人間の間に紛れ込んで暮らしている。だが、変身は得意なのだが人間の言葉を話すことは本来できない魔物だった。
そこで活躍するのがヤヤ子の嵌めているツグミ柄の首輪であるのだ。
元は霊の所有していた古物で、〈カイム〉という名前がついている。魔物も含めたあらゆる生き物の言葉を人間たちにも分かるように翻訳してくれる代物で、かつては多言語を訳してくれる〈アガレス〉と共に重宝していたそうだ。しかし、〈エリゴール〉を引き取る経緯で、カメラに特別な情を抱くヤヤ子に対価として渡し、今に至るというわけだ。
そう、この猫こそが危険な二眼レフカメラ〈エリゴール〉をこちらに持ち込んだ張本人。カメラの元の持ち主である写真家の千景のもっとも傍に居た人物である。それ以来の付き合いだが、ごくたまにこうして遊びに来る変わったお客でもある。
後ろ脚で頭を掻きながら、ヤヤ子は霊に言った。
「そういう退屈しのぎのために、雨の中わざわざ来ると思うか? この度は困っていると聞いて来てやったのだ。山神の末裔であらせられる山犬殿と偉大なる吸血鬼様が揃いも揃って頭を悩ませていると聞いたのでね」
「揶揄いに来たわけ?」
呆れたように訊ねる霊に、ヤヤ子は前脚で手招いた。
「まあ、そう不機嫌になるな。〈エリゴール〉を守ってくれた礼に力を貸したいだけなのだよ。正直に言って、本来は部外者であるお前たちふたりがあれやこれや試すよりも、私みたいなのが手を貸した方が早いと思うのだが」
首を傾げて緑色の目でじっと霊の様子を窺いながら、ヤヤ子は付け加える。
「そろそろ猫の手も借りたいところじゃないかにゃ?」
あざとい言動だが外見と声が相まって非常に可愛い。
だが、可愛さで釣られる霊ではない。可愛いものは可愛いと認めて素直に愛でつつも、おいしい部分だけ存分に堪能しておいて忖度は決してしないのが我が主人のクールなところなのだ。
蘭花の椅子からこちらを振り返ると、霊は笑いかけながらヤヤ子に訊ねた。
「それで、何がお望みなの?」
するとヤヤ子は不満そうに尻尾をぶんと振りつつ答えた。
「なんだつまらん。この私のせっかくの好意をそのように疑うとは……まあ、強いていうなれば、天気の悪い時や寒い日にこの家で寝泊まりさせてもらって、ついでにノミ取りと美味い飯が堪能出来たら言うことはないのだが……」
「仕方ないわね。好きなだけ家にいなさいな。ヤヤちゃんにあげようと思っていたおやつもあるからそれを食べなさい」
「わぁい、おやつ! おやつ!」
おやつという三音によりこれまでのキャラを捨ててヤヤ子は喜んだ。どんなに偉そうにしていても猫は猫。その正体が人間に変身できる化け猫であったとしても、基本は普通の猫とあまり変わらないらしい。
おやつの存在にしばし浮かれて小躍りした後、ふと我に返ったのかヤヤ子はけほんと咳払いしてから言った。
「さてと、褒美を確認できたところでさっそく我が知恵を一つお貸ししよう」
そう言ってぴょいとカウンターから降りると、ヤヤ子は店内を歩き回り、ある棚の前で座り込んだ。そこにあるのは保留棚とも呼ばれる棚だ。さまざまな縁でこの店にやってきた古物たちを売品と非売品に分ける際、時たま霊であってもその判断が難しいものがある。そういったものが置かれる棚である。
ヤヤ子はその棚を見上げ、前脚を上げて背を伸ばしながら上段に置かれている品々を覗こうとしていた。
「そこにある物を私に見せてくれるかえ?」
前脚で指示したのは蓋のしまった小瓶だ。それが置かれた日の事を私は覚えている。中に入っているのは小さな牙。その持ち主のこともまた私はよく知っていた。
牙の正体は鬼の乳歯。鬼神の末裔の家に生まれた鬼幼女、玉美が私の血の対価に持ってきたあの乳歯であった。




