後編
再び目を覚ました時、私は布団の上にいた。全身汗びっしょりで、とても寒い。眠気も酷く、すぐにまた布団に潜ってしまった。だが、そこで我に返り飛び起きた。
そうだ。さっきまでのあれは、夢なんかじゃない。
「霊さん!」
探すまでもなく、彼女は布団のすぐ隣に座っていた。私とは違って身支度も整えている。そこで気づいたのだが、こちらはほぼ裸というあられもない恰好だった。寒いはずだ。布団に潜って体を隠す私を見つめ、霊は目を細めた。
「おはよう、幽」
「お……おはようございます」
「気分はどう? 目は覚めた?」
「はい……気分は、まあまあですけれど――」
「それならいいわ。じゃあ、幽、今の私はあなたの目にどう映っている?」
目は赤くない。今の霊は普通の人間と変わらない。いつもの、ただ綺麗なだけの、愛する恋人の姿である。
「いつもと変わりません。私の大好きな霊さんです」
思ったままに言うと、霊はますます笑みを浮かべた。
「そう、ありがとう」
そこでため息を吐いて、気だるそうに姿勢を崩した。
「どうやら〈ゼパル〉の効果はちゃんと切れたようね」
何をもってか、彼女はそう判断した。
「思っていたよりも厄介で、ちょっと焦ったわ。けれど、あなたと夜蝶のお陰で、力の仕組みが少しだけ分かった。要は、ターゲットの自立心を奪って、自分の中にしまいこむことで心身を自由に出来るということね。子を産ませる仕組みまでは謎のままだけれど、危険性が分かっただけでも十分よ」
「……あの、霊さん」
「何?」
こちらを見つめるその顔に、籠の中にいた夜蝶の表情が被る。
夜蝶はあの場所から何を見つめ、何を知っているのだろう。私にとって理想のご主人様で居てくれる霊の、本来の顔だろうか。私に見せようとしない、本心だろうか。
さまざまな想いが頭を過ぎり、不安と疑問、そして願望と欲求が交差した。知りたい。訊いてみたい。確認してみたい。しかし、霊に見つめられているうちに、それを口から吐き出す勇気が少しずつ減っていく。
結局、私の口から出たのは、全く違う話題だった。
「〈ゼパル〉はこれからどうするのでしょうか?」
「方針は変わらないわ。ここで管理するの。ただし、ランクはAからSにあげて、本当に滅多なことでは触らないし、使わない」
「そ……そうですか。そんなに危険なものだったんですね……」
震える私を見つめ、霊はそっと笑みを深めた。
「〈ゼパル〉の効果が深まった頃のあなたはね、茫然としたまま私の思うままに動いてくれた。返答もしたし、会話も出来たわ。けれど、その瞳に生気は宿っていなかったし、言葉も曖昧だった」
「よく分かりましたね、私の意識があの場所にいるって」
「直感よ」
霊は私の頬を撫でながらそう言った。
「あなたの心の最も大切な部分が私の影の中にいるような気がした。何故だかわからないけれど、確認しなければと思ったの。だから、姿見の〈バラム〉とコンパクトの〈アロケル〉に手伝ってもらって、急いで合わせ鏡の道を作ったわけ。まさか夜蝶にまで〈ゼパル〉の効果が移っているとは思わなかったけれどね」
ため息交じりに霊は呟く。
「まさか、夜蝶に会っているなんて」
気まずさを感じて、私は目を逸らした。メタの助言に従っただけではあるが、その危険性に気づかなかったのは私が悪い。
「すみません、霊さん。あんなことになるとは思わなくて」
「いいの。あなたは何も悪くない。今回は〈ゼパル〉の効果が重なったのよ。それがなければ、夜蝶も口だけの存在だもの。間に合ったのだし、気にすることはないわ」
本当に、そうなのだろうか。霊は断言していても、私の不安は消えなかった。夜蝶は何を知っているのだろう。本当に口だけの存在なのだろうか。とても不気味だった。
だが、今はそれよりももっと不気味な存在がある。座敷の机にぽつんと置かれている〈ゼパル〉である。障子の向こうから差し込む光を浴びて、きらきらと輝いていた。霊もまたそれを見つめながら、うっとりとしたため息を吐いた。
「ただの水が媚薬になる。そして少し不思議なことに子どもまで出来る。そのくらいのものだったら良かったのだけれどね」
霊はそっと立ち上がり、〈ゼパル〉を手に取り俯いた。
「これがもしも、私たちをよく思わない人や、曼殊沙華の御方々と対立する人々に手に渡ったら、とても大変なことになる。効果に制限があったとしても、恐ろしい武器になり得るもの。悪用されないうちに、ここへ舞い込んできたのは幸運だったのかもしれないわね。私もあなたも、〈ゼパル〉の影響を受けかねない女であるわけだから」
ぞっとした。
もしも、〈ゼパル〉が別の誰かの手に渡り、悪用されていたら。〈ゼパル〉が悪意のある人物に使われでもしていたら。その力が私たちに――霊に向けられたりしたら。
考えれば考えるほど、恐ろしくなる。
「ねえ、霊さん……」
「なあに、幽」
「その……〈ゼパル〉は……壊さなくていいモノなのでしょうか」
不安のあまり、私はそう言った。普段、目の前の愛する人がどのような心でモノに接しているのかも忘れて。だが、霊はとくに怒ったりはしなかった。ただ、呆れたようにため息を吐いてから、落ち着いた様子で答えてくれた。
「壊したとしても、無効化できるとは限らない。破片一つが新たな脅威になることだってある。だから、そのままの形で保存することこそ何よりの対策だと雷様は度々強調されているの。私もこれには同感よ」
それに、と霊は首を傾げ、〈ゼパル〉を抱きしめた。
「〈ゼパル〉が可哀想じゃない」
情のこもった声で、彼女はそう言った。
「存在することで疎まれる品々。〈ゼパル〉を持ってきた奥様の態度を覚えている? この子が憎くて仕方ないようよ。しょうがないわ。この子は家庭を狂わせてしまったの。人々を傷つける品物だもの。けれど、〈ゼパル〉がそうしようと思ってしているわけじゃないの。モノはただそこにあるだけ。そこにあるだけなのに、人々を傷つけてしまう。まるで私みたい。マテリアルなんかに生まれてしまった私にそっくり。だから、せめて守りたいの」
切なげな霊の表情に、私はとても後悔した。
「あなたの不安よりもモノを大事にしてしまう。こんな私に、あなたは愛想をつかしてしまうかもしれないけれど」
霊の呟きが、私の心を揺さぶってきた。
なんてことを言ってしまったのだろう。霊がいつもどのような気持ちを抱えているのか間近で見てきたはずなのに。同じようなことを何度聞いてきただろう。そして、何度誓ってきただろう。
分かろうとしているはずなのに、些細なことで私は霊を傷つけてしまっている。
「ごめんなさい、霊さん。変なことを言ってしまって」
「幽」
「ごめんなさい。霊さんのモノを愛する心は知っていたはずなのに」
「いいの、謝らないで」
情けなさに沈む私を、霊はそっと抱きしめてくれた。
「謝らないで」
柔らかな口調の中にわずかながら命令が込められている。そう感じて、私は口を閉じ、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「あなたが怖がるのも無理はない。ここにはそんな品々ばかり集まっているのだから。それでも、あなたがついて来てくれるのなら、私はあなたと未来を歩みたい。〈ゼパル〉のもたらしてくれる明るい可能性も信じてみたいの」
霊の身体に抱かれながら、私は幸福の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
愛する人の香りは、それだけで病みつきになる。たとえ〈ゼパル〉の効果が切れていても同じ事だ。しかし、〈ゼパル〉はそれ以上の喜びの可能性にもなり得るのだ。
「あなたはどうなの、幽?」
問われ、私は霊の顔を見つめた。心より恋焦がれるその瞳に向かって、正直に答えた。
「私も信じたいです。霊さんがそれを望んでいるのなら」
唇を重ねられ、幸福の味は深まっていく。そのまま朝食へと至り、心身が温まっていった。
〈ゼパル〉を幸せのために使える日はいつ来るだろう。それまでに、恐ろしい事は起きないだろうか。今も霊の中にいる夜蝶は、不安と希望の間で求め合う私たちをあざ笑っているかもしれない。牙を剥く準備をしているかもしれない。
それでも、私は信じよう。愛する人の歩む道を。
固く心に誓いながら、私たちはそのまま愛を燃やしていった。〈ゼパル〉の力を借りずとも、私たちは燃え上がった。求めても、求めても、飽き足らず、そのまま時間はどんどん過ぎていき、結局、その日は臨時店休になってしまった。
まったく欲望というものは底なし沼のようだ。けれど、愛する人の沼ならば、たとえ溺れてしまったとしても、きっと後悔したりはしないだろう。




