前編
「これを処分して頂きたいのです」
店に来るなりその客人は、そう言った。
真っ黒な髪を束ね、ややきつい印象のある化粧を施し、小綺麗だがやや暗い印象のある衣装に身をまとっている。見た目の印象からすると、それなりの家の奥様らしい。しかし、名前すらあやふやなまま、店主の霊が対応していた。
年相応の気品さもある目元は、化粧や口調の印象と同じく険しさが含まれており、お馴染みの蘭花のテーブルに置かれた風呂敷への視線は、かなり冷たいものである。
これ、と呼ばれたその風呂敷を、霊は静かに見下ろした。
「開けてもよろしいですか?」
静かに訊ねる彼女に、客人は渋々頷いた。
どうも、目にすることすら怖がっているらしい。カウンター越しに、私も息を飲んでその様子を見守っていた。どんな恐ろしいものが隠されているのか。妙な緊張感が漂う中、風呂敷は開かれた。そして、露わになったモノを見て、拍子抜けした。恐ろしくも何ともない。そこにあったのは、美しく装飾された小瓶だったのだ。
霊が慎重に手に取って、小瓶を確認する。
「とても綺麗な香水瓶ですね」
うっとりとした口調で霊は言って、そして、小さくため息を吐いた。
「けれど、たしかに、あまりいいものではないようです」
その言葉に客人は頷いた。
「いくらでも構いません。何なら、処分費用をお払いしたっていいわ」
やや低い声でそう言うと、彼女は眉をひそめた。
「とにかく速やかに引き取っていただきたいのです。ここは……そういうお店だと聞いておりますので」
辛辣で、なおかつ、切実なものが含まれている。
そんな言葉を受けて、霊は香水瓶から手を放した。表情を変えず、ただただ美しい顔を客人へと向けて頷いた。
「分かりました。幽、書類をちょうだい」
「は、はい!」
慌てて持っていくと、霊は迷いなくすらすらと金額を書き始めた。
買い取るらしい。それはいいのだが、その額を見て驚いた。それなりの金額だったのだ。
「諸々のご事情はすでに日笠から伺っております。この金額でよろしければ、こちらで買い取りましょう」
客人もまた、驚いた様子で金額を見つめた。
処分費用を払ってでも、と言っていたくらいだ。不満などあるはずもなく、客人は喜んで承諾した。そして、帰り間際、ひと言だけ霊に向かって告げた。
「今後、その香水瓶をここでお売りになるのなら、十分お気を付けて」
霊は分かっているといった様子で頷いた。
一方、私はまたしても蚊帳の外だった。あの金額を用意できるほどのお金が何処から出るのか、私は全く知らない。知らないが、だいだいの察しはつく。何しろ、ご事情はすでに伺っております、である。私はまったく伺っておりませんのですが、いったいどういうことなのでしょうか。
客人が帰り、店の緊張感が薄まるや否や、私はすぐに霊に訊ねた。
「あの、霊さん、ちょっといいですか?」
「“ご事情”のことかしら?」
妙に得意げな表情でそう言って、霊は香水瓶を持ち上げた。
改めて見ると、本当に綺麗だった。ツートンカラーの美しいデザインで、光にさらすと、ステンドグラスのような青とオレンジの影が生まれる。煩わしい日光を避けつつも、霊は香水瓶の反射を見つめ、そして微笑みを浮かべた。
「本当に綺麗ね。ニンファエア国生まれで、昼と夜をモチーフにした香水瓶なのですって」
「ニンファエア生まれ、ですか」
ここからかなり遠くの国だ。正直、壁画や金字塔のイメージしかない。だが、言われてみれば確かにと納得できるエキゾチックな魅力があった。
「それで、これにまつわる“ご事情”っていうのは?」
「せっかちさん」
牙をちらつかせながら、霊は目を赤く光らせた。揶揄うようなその態度に、思わず口を尖らせてしまった。
「内緒にすることないじゃないですか」
「別に内緒にしていたわけじゃないわ。この話が来たのは昨夜のこと。あなたが無防備な姿で美味しそうな素肌を晒しながら、私の下ですやすや眠っていた頃の事よ」
揶揄うような目が途端に捕食者のような目に変わり、思わずぞくりとしてしまった。
昨夜といえば、いつもの事ながら夕食のお楽しみにどっぷりと浸かっていた。ほぼ毎晩、退屈から逃れるように食事をとる私たちだが、昨日の霊はいっそう激しかった。
今も服の下は傷だらけだが、その大半は私が眠っている間につけられたものである。気を失うまでお楽しみは続き、意識を手放した後で観た夢もまた激しいものだったのを覚えている。きっと眠った後もゆっくり楽しまれてしまったのだろう。
思い出すと、心身がむずむずとした。
「つまり、私を無理やり気絶させた後で電話が来たわけですね?」
「そういうこと。話そうと思っていたんだけど、すっかり忘れていたの。ごめんね、幽。わざとじゃないのよ。だから、ね、許して」
にこりと笑いかけられると、心が奪われそうになる。しかし、私にだってプライドはあるのだ。従属が性であろうとも、そこは関係ない。関係ないはずなのだが――。
「わざとじゃないのなら、まあ……いいですけれど」
あざとく首を傾げながら許してなんて言われると、許さざるを得なかった。
だって可愛いのだもの。
「ありがとう、可愛い子さん。お許しも得たところで、この香水瓶のお話をしましょうか。この香水瓶はね、あのお客様のお父様の秘蔵の品で、あるとんでもない効果によって数多くの人間関係を崩壊させていった代物よ」
「人間関係を?」
訊ね返すと、霊は笑みを深めた。
「名前は〈ゼパル〉と決めてあるの」
「名前……」
その言葉に、はっとした。
「つまり、その香水瓶も滅多なことでは売れないのですね」
「ええ、そういうこと。簡単には売れないし、管理も厳重にしなくては。ただ、なかなか興味深いモノでもある。どんな効果か聞きたい?」
怪しげに問われ、おずおずと頷いた。
〈ゼパル〉と名のついた香水瓶を光らせながら、霊は満足そうに目を細める。ニンファエアの衣装など身につけていないのに、妙に霊のイメージにも合っている。オレンジと青の光が床を輝かせているのが目に焼き付く中、霊はそっと教えてくれた。
「この香水瓶は、いかなる水も瞬く間に魔法薬へと変えてしまう。その香りを操れば、しばらくの間、望みの女性を好きなように出来るのですって」
嬉々として語る霊の表情に、思わず唾を飲んでしまった。そんな私の反応を面白がるように笑い、霊はさらに教えてくれた。
「話によれば、子を授かるかどうかさえも操れるのだとか。それに、これは本当かどうかとても疑わしい話なのだけれど、対象が女性でありさえするならば、使用者が女性であっても効果があるのですって。もちろん、子を授かるかどうかってところも」
「つ……つまり」
固唾を飲みながら、私は目を白黒させた。霊はそんな私を見てくすりと笑いながら囁く。
「女同士で子どもの有無だなんて不思議よね。ねえ、幽、興味深いと思わない?」
その視線、その口調に、服の下の傷が疼いた。
心臓がどくどくと脈打ち、胸が痛くて息苦しい。欲望を掻き立てるような霊の態度に、まんまと反応してしまっていた。血を吸われたくてたまらない。心身が昨日の夜の続きを求め始めている。まだ昼間だというのに。
ぐっと堪えながら、冷静な態度を心掛けて、私は霊に反論した。
「ず、ずずずいぶんと非科学的ですね。そんなの、う、う、嘘に決まっていますよ!」
結局、動揺は隠せなかった。
女同士で子ども? 霊との子どもを授かれる?
一度、思考が巡り始めると止まらなくなってしまった。考えるまでもなく諦めていたはずの、私と霊の愛の結晶。それを約束してくれる魔性の代物が目の前にあるのだ。
笑い飛ばそうとしても、目を逸らそうとしても、本心は興味深くて仕方がなかった。
そんな私の動揺を、霊はさらに煽ってくる。
「何なら、試してみましょうか? “あなた”が本当に、“私”の子を授かれるのか」
「え……?」
霊の妖艶な眼差しに心を貫かれた。身体の震えが生まれ、膝から下の力が今にも抜けそうだった。香水瓶を片手にさり気なく近寄って来る主人から逃れることも出来ず、私はただその場に立ち尽くしていることしか出来ない。肩から背中へと腕を回されて、ようやく息を飲むことが出来たくらいだった。
見つめ合ってしばらく、胸と胸とが重なり合ってしばらく、息が詰まって死んでしまうのではと緊張した頃になって、霊は……突然、笑みをこぼした。
「冗談よ」
短くそう言うと、あっさりと身を引いてしまう。お預けをくらった私がどんなに求めるように視線を送っても、彼女は取り合おうともしない。〈ゼパル〉をそっとカウンターに置いてから、霊は小さな声で付け加えた。
「そういう時が来るとしても、まだ先のことよ」
「まだ……先……」
期待と動揺を隠せない私をちらりと見つめ、霊はため息と笑みを漏らした。
「私だって、本当は今すぐにでも試してみたいわ。でもね、いまは環境が悪い」
不満そうに霊は言う。
「万が一、うまく行ってしまったらどうするの? 産まれてくる子が〈赤い花〉だとしても、マテリアルだとしても、ただでさえこの世は天敵だらけ。ましてや、こんなにきな臭い世の中じゃ……。少なくとも、今はまだ、私たち二人の平和を守るので精一杯だわ」
「でも……いずれは……」
どきどきしながら呟くと、霊は怪しく笑う。
「そうね。いずれは」
その返答に、心臓を貫かれたような気持ちになった。
いずれは。このたった四つの音の中に底知れぬ願望がふんだんに込められている。
試すということは、そういうことだ。愛する人と家庭を持ち、次世代を育てるという悦び。飽く迄も可能性だ。必ずしも叶うものではないかもしれないが、それを試すことが出来るという希望は計り知れなかった。いつか、そんな夢を見られる日が来るなんて。……ってあれ? なんだかナチュラルに私が産むことになっていることに今気づいたのだが……まあ、いいか。
「本当に生まれるとすれば、女性同士の子は必ず娘になるそうよ」
霊は言った。
「あなたと私の血を引く娘。どちらに似たとしても、きっと信じられないくらい可愛いのでしょうね」
その笑みに再び息が詰まりかける。
いつもとは違う悦びの責め苦に耐えることしか出来ない。想像すると気持ち悪いほどの笑みが漏れだし、両手で顔を覆うしかなかった。とても熱い。霊はそんな私を見るとすっかり満足したようで、そのまま黙って、〈ゼパル〉をカウンターに置いた。昼と夜とを司るその美しい香水瓶を指の間からちらりと見つめ、私はゆっくりと深呼吸した。
その後の私はすっかり浮かれ頭になっていた。ふとした瞬間に霊を意識してしまい、全身の傷が疼いてしまう。閉店まであと三時間ほど。いつもならあっという間に過ぎるその時間が、ひどく長く感じた。
血を吸われたい。めちゃくちゃにされたい。
そんないけない欲望が沸き起こり、学生さんたちが下校がてら来店する時間になっても治まらなかった。見た目は爽やかで無害なお姉さんを気取っていても、中身は欲望まみれ。せめて悟られないように笑顔で距離をとりつつ、どうにか業務をこなしていく。
霊はいつも通りだ。いつものように綺麗なお姉さんのまま、さまざまな客人と無難に接している。常連客だって、彼女の本性は知らないだろう。まさか、私たちが裏であんなことやこんなことをしているなんて。
相変わらずこの人は内心を隠すのが上手だ。そういう世界に長くいたからこそ、なのだろう。実際に何年生きているか、何歳なのかはいまだ教えてもらえず、せいぜい私が幼児の頃に父母と深く関わったことがある程度だ。
私よりずっと魔の世界を知っているこの人。私の知らない時を長く生きている彼女。それでも今は、誰よりも私と近い場所に居てくれている人である。
従うということは、私の魔女としての性である。強い者に従い、命令され、屈服することで空腹が満たされる。その相手は特定のものでなければならないのか、はたまた、誰でもいいのか。実のところ、それは〈アスタロト〉にだって検索不能のようだ。
魔女の性は人それぞれ。個性が強すぎて、同じような者はいても必ずしも同じではない。だから、私の性のことが分かる人はこの世の何処にもいないらしい。もしかしたら霊以外の誰かであってもこの身体は喜びを覚え、生き永らえるかもしれないし、そうでもないかもしれない。確かなことは分からない。
けれど、私には心がある。私は、霊がいい。これは性でも何でもない。純粋な気持ちによる願望だった。
そんな霊と共に、夢を見られるとしたら――。
閉店後、カーテンを閉めると、店内の空気はがらりと変わる。いつもならば、待っていましたといわんばかりに私の首筋に牙が打ち込まれる。だが、今日はどうやら違うらしい。目を赤くはさせているが、牙は見せずに微笑みながら、霊は私に優しく囁いた。
「ねえ、幽。お風呂を入れてきて?」
甘えるようにそう言われ、私はたじろいだ。まさかのお預けだ。全身が震え、心の底が揺さぶられる。身体はすっかり霊の牙を受け入れる準備をしていたのに酷いものだ。それでも、このお預けこそが後々に効いてくるのだと私はすっかり叩き込まれていた。
それに、文句を言えるわけもない。霊の瞳は言っている。これは命令なのだ。どんなに優しい囁きであっても、逆らうことは許されない。
「わ、分かりました」
震えの止まらないまま、私は逃げるように店を後にした。
暖簾をくぐり、長い廊下を小走りに抜け、浴室へと直行する。何かに急かされるようにそそくさと浴槽を洗い、無心になって湯を沸かした。
全てが終わり、やれやれ居間へと戻ろうと振り返り、少し驚いた。いつの間にか脱衣所に霊が来ていたのだ。
「霊さん、いつからそこに?」
何故だろう、さっきよりも不思議な印象をまとっているように見えた。
「さっきよ」
短くそう言ってにこりと笑い、霊はこちらに手を差し伸べる。
「ご苦労様。お待ちかねでしょうから、さっそくお食事を始めましょうか」
目は相変わらず赤く、牙が見え隠れしている。
その瞳に引き寄せられるままに近づけば、呆気なく捕まってしまった。交わす言葉はないまま、当たり前のように衣服を脱ぎ、脱がされていく。互いに生まれたままの姿になると、ねっとりとした食事は始まった。今宵は入浴も兼ねたものなのだろう。
抱きしめ合うと、とても温かく、そして妙な気分になった。いつもと何かが違う。大好きな霊の香りに混じって、鼓動が跳ね上がるような望ましい匂いがした。まるで、初めて恋をしたかのような甘酸っぱいものを感じる。これは、何だろう。
「さあ、おいで」
甘くとろけそうな声に誘われ、私たちは入浴を始めた。
一日の汚れを落とすというとても単純な目的も、愛するふたりでとなれば瞬く間に歪なものへと変わる。それにしても、今日はなんだかおかしい。お預けのせいだろうか。その気にさせられて、させられて、捨て置かれて、ようやくご褒美の時間がやってきたためだろうか。あまりにものめり込みすぎていることは、自分でも分かった。
体を洗うことが目的ではなくなっている。そして、羞恥心や抵抗すらも力を失っている。今の私は完全に、霊のためにだけ存在する玩具のようになっていた。
どうしてだろう。
ふとした疑問を抱えたまま、私は霊に抱えられながら座敷の一間へと連れていかれた。組み敷かれ、肌が触れ合うと全身の傷跡が疼き、震えた声が漏れ出した。霊はそんな私の唇を突き、くすりと笑う。指先で私の腹部をなぞり、そして囁いた。
「効いたようね? これが、〈ゼパル〉の力よ」
「え……?」
驚いて訊ね返そうとする私に霊は覆いかぶさり、唇を重ねてきた。
甘酸っぱい香りはそのせいなのだろうか。入浴後だというのにちっとも香りは薄まっていない。それだけでも、ただの香水でないことは明らかだった。考えられたのはそこまでだ。唇が離れ、血の滴る傷跡に舌を這わされたその瞬間、思考は蕩けて何も分からなくなっていく。
「安心して。子を産ませるわけじゃない。ただちょっと〈ゼパル〉の効果の程を試してみたいの。だから……ね? 力を抜いて、楽にして」
霊の囁きはまさに悪魔のようだ。肌に手が触れただけで、言葉にならない悲鳴が漏れ出す。強すぎるその快楽は、まさしく責め苦に違いなかった。
今宵はいつもと違う。そんな暗示にかかったのだろうか。いつもならば、もうちょっとだけ抵抗できるはずなのに、今日はまったく駄目だった。
心の全てが霊の手に委ねられてしまっている。考える前に強い感情の波の力に呑まれ、沈んでいくかのようだ。必死にもがいても、心は溺れていくばかり。今の私は心身ともに、霊の奴隷に違いなかった。
そして、どろどろに溶けあうように悦楽を貪っていくうちに、私の意識は睡魔に襲われ、沈んでいった。




