後編
百花魁によるタレコミがあった後も、私たちは通常通りに過ごしていた。
何処で誰が見張っているか分からない。お客の中には一般人のふりをした白妙が混じっている可能性だってある。だから、私も霊もまるで何も聞かなかったかのように過ごし続けたのだ。曼殊沙華への連絡すら、霊の判断により後回しになっていた。
もちろん、何もしなかったわけではない。〈エリゴール〉の置いてある場所。白妙という人々の手口。そして、私たちに出来ること。そういった事情を一つ一つ並べ、〈エリゴール〉を守るのにいい方法を考え続けた。差し出してしまえばという案は最初からなかった。私はきちんと知らないが、〈エリゴール〉をここに保管しなければいけないというのは曼殊沙華の判断であるが、他ならぬ霊の希望でもあったからだ。
このいわくつきの古物たちの処遇に関して、私は霊の判断を全面的に信頼している。だから、どんなに望月の動機に同情したとしても、〈エリゴール〉を守りたいという霊の意思を尊重したのだ。
黄金病の弟の話は可哀想だとは思うけれども、こればかりは仕方がない。
「――ってなわけで、私たちに出来ることはこれくらいね」
予定されている日の閉店後。カウンターで霊はそう言った。向かい合いながら座る私も肯いて、電灯に自分の手をかざしてみる。握って、開いて、血の巡りと共に魔力の流れを確認した。
捕らえる係はもちろん霊であるが、私の力も重要だった。魔女としての日頃の練習の成果を発揮する。最近、習得したばかりの新しい魔術がまさに鍵となるので、責任は重大だ。霊とふたりで〈エリゴール〉を守るのだ。そう意気込むと、不安だけではなく闘志も芽生えてきた。
「さて、そういうことだから、今日の腹ごしらえはとても大事よ。あなたが寝込んでしまわないだけの量を守りつつ、ふたりして満足しなくてはいけない。どうすればいいか、お分かりかしら、幽?」
急にうっとりとした様子で訊ねられ、芽生えた闘志が萎んでいった。
「え、えっと――それはその……」
分かっている。分かっているのだが、答えるのは普通に恥ずかしいことだった。
従属の性を満たすのはとても簡単だ。しかし、それだけでは私の血も霊の身体を支えるだけの高栄養にはならない。霊の吸血鬼の舌を唸らせ、一滴でも満足させられるほどの血にするためには、興奮が有効な手段だった。
と、霊に教えられているのだけれど、本当だろうか。ふと我に返り、疑問が浮かぶ。これって実はそれらしい事を言ってただ単にいけない遊びに付き合わされているだけなのでは。気づいてはいけない可能性に気づき、私はそのまま深い思考の海に沈もうとした。
だが、黙って沈ませてくれないのが霊である。私の反応が鈍い事に気づいたのか否か、強引に手を掴むとその圧倒的な眼差しだけで全てを持っていこうとし始めたのだ。
「さあ、来なさい」
嫌ですなんてとても言えない。言える雰囲気ではない。そもそも従属を好む私の魂が、こんなに美味しい強引さに抗うなんてことが出来るはずもなかった。
こうして、疑問は疑問のまま、私たちは店を去った。このまま風呂場まで連行かと思いきや、食卓の上に押さえつけられる。
「ちょっとだけ味見」
牙はすっかり伸びていた。噛みつかれると、視界がゆがむほどの快感が広がる。食卓の硬さと霊の身体の柔らかさに挟まれ、先程感じたはずの闘志って何だったっけというくらい心はドロドロに溶けてしまっていた。
予告通り、血はさほど抜かれなかった。味見以降は甘噛みが多く、二人で入浴している間もじゃれ合う程度で終わった。だが、その後の数十分間は、あまりにも濃厚で語る事すら恥ずかしい。興奮が血を呼び覚まし、心臓を高鳴らせ、魔女の性を瞬時に満たしていくほどのものだったとだけ言っておこう。
全てが終わる頃には霊の顔色は驚くほどよく、美しさが際立つほどだった。そして私の頭も冴えわたっていた。手のひらをかざして感じる魔力の流れが全く違う。痛みと喜びと苦痛の素晴らしき対比が、狙い通り私の調子を整えてくれたのだ。
あとは、侵入を待つだけだ。百花魁のタレコミが本当ならばの話だが。
「ガセであって欲しいわね」
真っ暗闇の店内の様子をカウンターの裏から共に窺いながら、霊はふとそうこぼした。
「そうだったら、あの女に借りをつくらずに済むもの」
そこで私はここ三日ほどずっと気になっていたことを思い出した。
今回の話を持ち込んだ百花魁。一瞬ではあったが、霊は本気で彼女に怯えを見せていたような気がしたのだ。もちろん、気のせいであってほしかった。主人であるこの人が、怯えを示す存在はあまり居て欲しくない。それが比較的多く店にやってくる客人ならば尚更のことだった。
私はまだあの表情の理由を知らないのだ。どうして、あんな顔をしていたのだろう。百花魁は、霊に何を求めているのだろう。
「……幽」
か細い声に呼ばれ、はっとした。
閉め切られたカーテンから通りはよく見えない。だが、外灯の明かりによって、カーテンに人影が写り込んでいた。ゆっくりと、しかし、堂々と、誰かかが歩んでいる。それだけならば怪しい事ではない。しかし、その人影は店の出入り口の前にやってくると、そのまま立ち止まったのだ。
――狐だ。
それは、白狐の面で顔を隠した人物だった。店内を窺う姿が外灯に照らされている。
あれが百花魁の言っていた偽狐というものだろうか。表情の変わらぬお面をかぶったその姿は、あまりにも奇妙で、不気味で、場違いなものだった。
「来たわね」
やっと聞き取れるほどの声で霊は呟く。
狐男は私たちが見ていることには気づいていないようだ。
迷いなく店の扉に手をかける。施錠はしっかりした。それは間違いない。しかし、そんな当たり前の事が通用しないからこうして待ち受けていることは分かっていた。
彼が扉に手をかけると、驚くほどあっさりと開かれた。
まさか、そんな馬鹿な。私の魔女の目には彼のオーラとも呼ぶべき色が見える。その色は青。深い海の色。リヴァイアサンの守護を受ける純朴の色。魔の力に頼らずに生きる、純血の獣たちの色だ。
つまり、普通の人間であるということ。そんな彼にあのような異様な力を貸しているのは何か。何も迷うことはない。おかしいのはあのお面だ。あの不気味なお面こそが、悪事を可能にしているのだ。私は確信した。百花魁の言っていた通り、裏には狐がいる。
幸いにも鍵が開いたところで密かに侵入するということは不可能だ。私や霊以外の者が、無断でここを開けたとなると、霊や曼殊沙華のお偉方に直接伝わってしまう魔術がかけられているためだ。恐らく、この魔術に関しては白妙も把握済みだろうとの事だった。それを踏まえて霊が推測する白妙たちの計画は、曼殊沙華の者達が駆けつけるより前に盗んで去らせるというものだろうとのことだ。
だが、そうはいかない。
私は集中して、店内をうろつく彼の動きを監視した。迷いなく彼は〈エリゴール〉の収納されている棚へと向かい、そして、施錠されたその棚すらも開けてしまう。
そして、〈エリゴール〉を手に取ったのを確かに見たその時、私は叫んだ。
「封印の鍵!」
祈るような気持ちで私は魔術を発動させた。
日ごろの行いは良かったようで、無事に魔術は発動し、部屋全体が黄緑色に輝きだした。
これは、いつも練習している虫の魔術ではない。百年ほど前にマグノリアにて結成された神秘学者たちによる結社「神秘の扉」が編み出したとかいう鍵の魔術という魔法である。〈アスタロト〉によれば、彼らは世界のさまざまな神秘や呪術、魔の世界に関する知識を深め、魔術などを新たに生み出すなどし、書籍にまとめた集団だったそうだ。きっと魔人か何かだったのだろう。
封印の鍵は、私のいる部屋から誰も出ることが出来なくなる技である。私の許可を受けなければ、廊下にすら逃れられなくなるのだ。詳しい仕組みはよく分からないのだが、何でも調べてくれる〈アスタロト〉が見つけた「神秘の扉」による絶版書物に練習の仕方が書かれていたため、それに従って習得したものだった。少し不気味だが霊の役に立つかもしれないと思ってのことだが、こうして早くも役に立つとは。
侵入者が慌てて周囲を見渡し、カメラを抱えたまま慌てて店の唯一の出入り口へと逃れる。だが、入ってきたときは違い、扉は開かなかった。鍵を回そうとしているようだが、意味はない。私の魔術はどうやらしっかり発動したらしい。
「さあて、お仕置きの時間ね」
袋の鼠と化した侵入者を見つめながら、霊が優雅に立ち上がる。
その手には何とかの木刀〈ベール〉が握られている。いつの間に持っていたのだろう。暗くて気づかなかった。
「霊さん、それはさすがに――」
しかし、遅かった。霊は〈ベール〉を手に侵入者へと襲い掛かっていったのだ。その形相たるやまさに怪物以外の何者でもない。古来、この国の人間たちが吸血鬼を神として畏れ、怒らせないように慎重に接したのだという話を〈アスタロト〉から聞いたことがあるが、その当時の人間の気持ちがよく分かった。
店の床を心配せずにはいられない音が響き渡り、私は思わず目を逸らしてしまった。恐る恐る視線を戻してみると、そこには思わぬ光景が広がっていた。
どうやら〈ベール〉の狙いは逸れたらしい。それはまだいい。だが意外だったのは、相手の態度。全く委縮することなく抵抗していたのだ。狐面の下ではどんな表情をしているのか。それは分からないが、明らかに吸血鬼としての本性が漏れている霊を前にしても恐れていない様子だった。
「霊さん!」
慌てて私は手をかざした。しかし、とっさに魔法は思いつかない。下手をすれば、霊まで巻き込んでしまう。どうするべきか。迷いに迷い、私は侵入者をじっと見つめた。狐のお面。あれを外すことは出来ないだろうか。
なぜかは分からない。だが、そう思ったのだ。あのお面が彼を人間でなくしているのではないか。瞬時に考えが浮かび、私は虫の魔術の一つを心の中で唱えた。
――鍬形虫の鋏の魔術《裁断》!
それは、いつもならばただの便利な魔術だった。鋏が手元になくても大雑把に物を切れる魔法。しかし制御さえ出来れば、離れた相手の紐や服の一部を切れる。装飾品を奪ったり、落としたりして、少しでも気を逸らすのが目的であるらしい。基本的に蜘蛛の糸では切れないもの、切りにくいものが対象となる。お面を脱がすにはぴったりの魔術だ。
ただし蜘蛛の糸並みに制御は難しい。その上、今は魔力の消費が著しかった。覚えたばかりの封印の鍵の直後だから当然だ。私はまだまだ見習い魔女に過ぎない。あらゆる記録に登場する魔女たちのように、自由自在に魔術を放てるわけではない。
それでも、臆している場合ではなかった。侵入者は今にも霊に殴りかかろうという勢いだし、あの不気味な狐面にはまだまだ知られざる力が秘められているかもしれない。何かあってからでは遅いのだという思いが、霊の身を案じる思いとぶつかり合って、心臓が破裂しそうなほど動悸が激しくなった。
だからだろう。私の魔術は発動した。
封印の鍵だけで精一杯だと思っていたのに、きちんと発動したのだ。
鍬形虫の大顎のような鋏は霊ともみ合っている最中の男のすぐそばに亡霊のように呼び出され、狐のお面の紐をあっという間に切断した。男が異変に気付くより先に、狐面は床へと落ちていく。その瞬間、人間と吸血鬼という生まれ持った種族の差が一気に現れた。
やっぱり、そうだった。
あれほど勇ましく、対等にもみ合っていたのに、あっという間に彼は霊によって取り押さえられてしまった。すぐさま〈エリゴール〉を奪われ、床へと抑えつけられた彼は、それでもどうにか抵抗しようと手を伸ばしている。
私はふらつく足でどうにか歩み寄り、霊から〈エリゴール〉を受け取ると思いっきり狐面を蹴飛ばした。
「くそ……」
無言だった彼がここにきて初めて悪態を吐いた。間違いない。暗い店内でも顔が薄っすらと見える。百花魁の言っていたことは、本当だった。
「――望月さん」
名を呼ぶと、彼は大きくため息を吐いた。
「あと少しだったのに」
ちっとも反省の色を見せずに、彼はそう言った。必死さがあふれ出している。敵意しかないその様子を見ても、百花魁の話してくれた事情を思い出すと複雑な気持ちでいっぱいになった。だが、霊の方は違った。
「幽」
赤く光る目で彼女は私に訊ねてきた。
「まだ魔力はある?」
私は応える。
「霊さんが命じてくださるのなら」
正直、身体は辛い。いつ倒れてもおかしくはない。けれど、私の性は従属。霊の圧倒するような目と命令だけでも、少しは糧となるものなのだ。
「そう。それじゃあ、やりなさい。拘束して」
その威圧的な低い声に、左胸が脈打つのを感じた。
――蜘蛛の糸の魔術《緊縛》!
またしても、魔術は発動した。もがく望月の身体を拘束しはじめ、霊は巻き込まれないようにそっと退いた。ほっとするのと同時に、身体がとても重くなった。ここで気を失えば、せっかくの拘束も解けてしまう。どうにか起きていないと。
呼吸が荒くなる私の頬を、霊はそっと撫でてくれた。
「鍵はもう解いていいわ。座っていて」
優しくそう言われ、私は〈エリゴール〉を抱えたまま座り込んだ。霊に命じられたせいだろうか。意識せずとも封印の鍵だけが解除される。周囲がいつもの店内に戻ったのを見届けると、霊はもう一度、望月へと向き合った。
「望月さん」
彼は眉を顰める。
「どうしてこんな事をしたのか、事情は知っているわ。黄金病は不治の病。愛する家族を脅かされたあなたの心境は計り知れない」
だが、望月の目には怒りが宿っている。霊と、そして私に向けられるその眼差しは敵意に他ならなかった。
「うるさい」
望月は唸るように言った。
「お前たちに何が分かる。俺たちの無念を理解できるはずがない。何が黄金病だ。何が不治の病だ。狐野郎どもから俺は聞いたぞ。お前たちはあの恐怖とは無縁なのだと……化け物どもめ」
暴れようとする彼が恐ろしい。何よりも、すっかり過去の世界のものだと思い込んでいた魔への差別的な眼差しを、今、ここで向けられることが怖かった。
だが、恐怖が勝る私に対して、霊の様子は違った。
「言いたいことはそれだけ?」
とても冷たい口調で訊ねてから、霊は私の持っている〈エリゴール〉へと視線を向ける。
「私たちが化け物ならば、あのカメラの秘密をあなたに教えてくれたという白妙だってそうよ。それは分かっているのでしょう?」
返って来るのは舌打ちだけ。それでも霊は動じずに彼と視線を合わせた。その眼差しを正面から受け、望月は渋々答える。
「あのカメラがあれば、名声が得られる。俺も第二の千景になれる。そのきっかけをくれただけでも十分だ。たとえ相手が化け物であろうと、あれを独占するお前たちよりもずっとマシだ」
「独占しているわけじゃない」
霊は淡々と返す。
「カメラで成功した人間は、必ずしも幸せになるとは限らない。第二の千景さんになれたとしても、一度の成功で幸福を感じる心が奪われてしまうから、どんな称賛も心から喜ぶことは出来なくなる。大切な心が、奪われてしまうの。そんな話を彼らはあなたに教えてくれなかったの? だとしたら、教えましょう。あのカメラはあなたを幸せにはしない。曼殊沙華の許しがなくても譲ることはできないの」
霊は落ち着いた声で望月に語り掛ける。
私は手元の〈エリゴール〉を見つめた。かつての持ち主であった千景というひとは、〈エリゴール〉ではなく通常の一眼レフへとカメラを変更した後も、評価されていったらしい。だが、どんなに名声を集め、どんなに称賛されても、常に冷静で感情的にならないクールな女性として有名だったらしい。心が強く、余裕がある人だからだと世間からは言われていたそうだが、彼女の孤独と淡々とした寂しさ、世間には知られていない不幸な事情を知る身近なものはいた。
――昔はもっと楽しい事を楽しいと言える人だったんです。それなのにどうしてでしょう。
切なげに故人を語るある者のことを思い出し、私はひとり納得した。
そうか。〈エリゴール〉だったのだ。〈エリゴール〉が冷静沈着な美人写真家という人物像を作り上げていたのだ。
成功の代わりに人の幸福感を奪うカメラ。その代償が大きいのか小さいのか、判断はそれぞれなのかもしれない。現に望月は納得していない様子だった。
「……俺の幸せが何だ」
彼は俯き、唸りだす。
「いつの時だって、あいつは支えてくれた。憧れてくれた。あいつに尊敬される兄であろうという気持ちが、俺をここまで成長させたんだ。約束したんだ。成功すると。そのために、お前も前向きに生きてくれと……」
蜘蛛の糸に縛られたまま、望月はしきりに身をよじる。抑えきれない感情に揺れるその体をしっかり拘束し続けられるのかとても不安だった。
そんな私の心配を余所に、望月は吠える。
「弟の身体は常に蝕まれている。新薬の力で安定していても、いつ、あの病が牙を剥いてくるか分からない。生きているうちに、言葉が届くうちに、時間が遺されているうちに、伝わればそれでいい。俺の写真と成功で、勇気を与えたい。尊敬される兄として、力を与えたいのだ。その後などどうでもいい。俺の幸せなんて、どうでもいいんだ……」
伝わるのは深い悲しみと強い希望。自分の未来を諦めてまで求めている。その感情は、触れるだけでも圧倒されそうなほどだった。
「そのカメラを譲ってくれ。頼む貸してくれるだけでもいいんだ。金なら……金ならいくらでも払うから――」
しかし、霊は譲らない。通用しない。彼女の答えは絶対に変わらない。
「不幸はあなただけのものじゃない。どんな苦しみがあろうと、そのカメラを渡す理由にはならない。特別扱いは出来ない。そのカメラの力を……〈エリゴール〉の力を、悪用させるわけにはいかないの」
突き放すようなその目に、望月はとうとう言葉に詰まった。
怒りと不満の果てに、彼は泣きだした。私たちの前にも関わらず、心が破裂するような嗚咽を漏らしながら、弟の名前を繰り返していた。
「この店の扉を不当に開けたからには、もうじき、曼殊沙華の者達が来るでしょう」
霊はそんな彼にそっと告げた。
「詳しい話は彼らのところで。いいですね、望月さん」
彼は霊を睨みつけている。失敗した悔しさと恨みは治まりそうにない。どんな理由を並べられたところで、彼は絶対に納得しないだろう。
それでも、私は彼に声をかけた。
「望月さん」
伝わらなくてもいい。理解されなくてもいい。ただ、これ以上黙っているのが辛かった。
「私はあなたのことも、弟さんの事も、よく知りません。でも、弟さんが憧れているのは、〈エリゴール〉の力を使ったあなたの写真ではないはずですよね。尊敬するお兄さんの心がこもった写真ならば、きっと、弟さんに生きる希望を与えられるのではないでしょうか」
「――幽」
咎められるように霊に名を呼ばれ、そのまま口を閉ざす。
望月はじっと私を見つめ、そのまま反論もせずに俯いた。きっと言いたいことは山ほどあるだろう。しかし、何を言ったところで拘束は解かれないと諦めたのかもしれない。
分かっている。私の意見など、赤の他人だから言える無責任な慰めに過ぎないと思われる可能性が高い事を。でも、そうであっても、私は信じたかった。謎めいた古物の力で可能にした作品の評価よりも、その人自身の魂が込められた作品の方が通用する場面だってあるはずだと。
その後はあっという間に収束した。
店にかけられていた魔術のおかげで、異変はすぐに曼殊沙華側に伝わったようだ。
どんな時であっても、この店の万が一の時には必ず誰かが駆けつけられるようにしているとのこと。その通り、今回は霊が話していなかったにも関わらず、すぐに数名の鬼たちが駆けつけた。霊の説明がさほどなくとも彼らには何が起こったか大体把握できたらしい。望月はすみやかに連行され、狐のお面もまた回収された。
無事だった〈エリゴール〉の管理については、念のためにランクをAに上げてアルバムや付属品ともども開かずの部屋に移動することになったが、とりあえずは没収されずに済みそうだとのことで、霊はほっとしていた。
白妙については、曼殊沙華の方がしっかりと追及するようだが、そちらもまた霊の仕事ではない。となると、私の仕事でもない。おおかた解決してしまえば、残ったのは後味の悪さとモヤモヤだけ。
望月の罪については、曼殊沙華も事情をよく考慮してくれるらしいが、私にとって問題はそこだけではなかった。私の言った言葉に同意してくれなくてもいいから、せめて、彼が心から納得できることがあるように。あの恨みのこもった目から、憎しみと悲しみが少しでも薄れるように、祈るしかなかった。
「色々とあったけれど、一件落着には変わりないわ」
暗い気持ちを引きずる私とは違い、霊はそう言って、日常生活に戻っている。だが、本当にすべてが一件落着なのだろうか。いや、そうではない。モヤモヤの種がもう一つここに潜んでいる。そう、この件を密告した女狐さんのことだ。
望月のことがあってから三日後、ようやく通常業務に戻れたその日の夕暮れ、閉店準備をしながら私はふと霊に訊ねた。
「ところで霊さん、あの……百さんへの報酬は――」
言いかけて振り返ると、いつの間にか霊はすぐ前まで迫ってきていた。
カーテンも閉めたし、施錠もした。それでも、誰かが見ているような気がしてドキドキしてしまう。それに、抵抗もあった。
またこの人は都合の悪いことを誤魔化そうとしているのではないか。私に触れて欲しくないから、知られて欲しくないから、関わって欲しくないから――。
しかし、疑いや知りたいという気持ちを邪魔するものは、何も霊だけではない。私の魔女としての本能が、今にも与えられそうな悦楽に釣られてしまうのだ。
結局、それ以上の追及は出来なかった。
いつもと違っていきなり噛みつかれるのではなく、唇を重ねられ、深く、もっと深く攻め込まれていく。混じり合うような濃密なキス。まるで私の気持ちなど尊重していないようなその乱暴な振る舞いが、どうしても魔女の性に共鳴してしまうのだ。
私はこの人に抗えない。抗う事は不可能だ。
キスが終わっても魔法は解けない。むしろ、今まさにじわじわと体に沁みわたっているところだ。牙が食い込み、絶妙な痛みと快感に体が痺れるようだった。
それでも、私の想いまでは消え失せなかった。霊は何かを隠している。何かをひとりで抱えている。私はそれを支えられないだろうか。力を貸すことは出来ないだろうか。
「霊さん」
店内での簡単な食事が終わり、互いに抱きしめ合いながら、私は霊に囁いた。
「この先、何があったとしても私は霊さんの味方ですからね」
隠し事があったとしても、そこに不都合な真実があったとしても、私がついていくのは霊だけである。彼女が望むのならば、私はそれに従うだけ。けれど、従う範囲の中で、出来る限りの協力をしよう。
今後も〈エリゴール〉を求めて誰かが訪れるかもしれない。その中には、望月のように強硬手段に出る者もいるかもしれない。あるいは、白妙という人々がもっと強気に行動を起こす日が来るかもしれない。
そんな時、戦うことを霊にだけ任せてはいけない。私は〈赤い花〉の魔女。母より受け継いだこの心臓には、さまざまな歴史がある。怯えて暮らすだけが私たちではない。
誇り高く生きるために、魔法を極めていこう。
ふたりの未来を守るために、そして〈エリゴール〉を含めた霊の愛するすべての古物たちを守るために。




