中編
翌日の昼下がり、私は居たたまれない空気の中にいた。
蘭花のテーブルに座るのは二人。片方は店主である霊であり、もう片方は艶やかな印象の美女――百花魁であった。
私はカウンターから見守っていた。近づくなというのが霊の命令であったからだ。百花魁に触れられた場所はヤスリで削りますというのが彼女の脅しである。それはさすがに痛すぎるので、しっかり守ることにした。
にしても、居たたまれない。霊さえ許せば今すぐにお茶汲みに行くのだが、生憎、それはさっき終わらせた。おかげで今にも戦い始めそうなこの二人――というか、霊を見守らなくてはならない。
百花魁は含み笑いを浮かべ、霊を見つめている。どうやら、自分があまり歓迎されていないことすらも面白がっている様子。強い。
「相変わらず美しいわね、霊様」
そう言って百花魁はさり気なく手を伸ばし、霊の右手に重ねた。
いつもならばこのあたりで白狐の姿をしてくれるはずなのだが、今日はどうやら色気むんむんの人間姿の気分であるらしい。
蘭花のテーブルの向かい合う二人の美しい女性たち。こうして第三者として見ていると、ある意味お似合いのような気がしてしまって心穏やかでなかった。
だが、そんなことよりも怖いのは、霊の機嫌である。かなり悪くなっている。過去に一体、何があったか知らないが、百花魁のことはいつまでも苦手であり、嫌いであるらしい。
「百花姐さん、今日はどういう要件なの?」
「まあまあ、そう焦らずに。久しぶりに会ったのだから、もっと触れ合いましょうよ。ねえ、幽ちゃん。あなたもこっちにいらしたら」
「駄目よ、幽。ステイ!」
犬扱いされつつも、私は大人しくカウンターから一歩も出なかった。そんな私たちを見て、百花魁は楽しそうに笑いだす。
「警戒心も嫉妬心も相変わらずのようでぞくぞくしちゃう」
「用がないなら帰ってくださる? あなたと遊んでいるほど暇じゃないの」
どこまでも冷たい態度の霊を前に、百花魁は目を細めて手を離した。
力を抜くと、そのまま艶やかな衣装のままの白狐の姿に変わる。テーブルで頬杖を突く姿は、どこかの絵巻物から逃げ出してきたようだ。モフモフさは笠といい勝負である。
「冷たい人。でもまあいいわ。私もそんなに暇はないの。とても残念だけれどね。今日はきちんとした用事があって来たの」
「無花果氏の依頼?」
緊張気味に霊は訊ねる。
曼殊沙華と並ぶ得意先だが、前々から私を遠ざけたがる人物である。人間であるはずなのに、その圧力は人間を軽く超えている。この世界においてベテランであるはずの霊がここまで緊張する相手ともなれば尚更だった。
だが、百花魁は首を振る。
「いいえ、違うわ」
ねっとりとした声で否定し、狐の顔に妖しい笑みを浮かべた。
「今日は私用なの。個人的に、お話しなくてはと思ってね。昨日、ここに来たはずの若いお猿さんの話よ」
その言葉に別の緊張が走った。販売も貸し出しも禁じられている〈エリゴール〉。無意識のそちらへと視線が向いてしまった。
百花魁が猿と呼ぶのは人間のことである。魔物である彼女にとって、魔の血を引かぬ者たちは皆等しく獣であるのだという。彼女が認めている人間は無花果という男性だけ。それ以外の人間たちについては、男も女も無邪気な子供も猿だとしか思えないらしい。
昨日来たお客。それも人間で、彼女が話題に出すとすれば望月の事しか考えられなかった。そして、嫌な予感は当たる。
「〈エリゴール〉。あなたはそう名付けたのだったわね。名声をほしいままにするあの禁断のカメラのこと」
「それがどうしたの?」
突き放すような霊の反応に、百花魁は首をかしげる。
「あなたは知りたくない? どうして彼があれほどまでにカメラを欲しがったのか。そして、今日は訪れるのかどうか」
――僕は諦めません。
必死な形相の彼のことを思い出し、落ち着かない気持ちになる。宣言通り、きっとまたやってくるはずだと思えば憂鬱にもなるが、なによりもその詳細を百花魁の口からこのように出されると不安が煽られるものだ。
百花魁という人物は、はっきり言って胡散臭い女狐だ。しかし、嘘つきであるというわけではない。語る真実と語らない真実があるだけで、信憑性のない話をわざわざ持ってくるような人ではない。
そのことは私よりもずっと付き合いの長い霊の方が理解していた。
「そうね、知りたいわ」
静かに霊はそう答えた。百花魁はくすりと笑う。
「素直で良いお返事ね。録音したいほどよ」
「おふざけに付き合う気はないの。いいから、さっさと教えて!」
傍から見守っていると、愛する我が主人が百花魁の手のひらで踊らされているように見えてしまって気が気でなかった。
そもそも、あの女狐さまは霊のこういう反応を楽しんでいるようにしか見えない。隙あらば私をナンパすることだって、きっと霊の反応があってこそのものだろう。彼女が楽しむのは私の戸惑う姿ではなく、霊の動揺する姿なのだ。
どちらにせよ、私は悔しかった。私にとって絶対的な主人である霊が、他の誰かにいいように操られるなんて嫉妬が追い付かない。まだ仕事のために他の誰かと深い関係を持たれてしまう方が耐えられる。だって、そちらはまだ霊の主体性が守られている。しかし、百花魁相手だと、霊が弄ばれているように見えてしまって変な気持ちになるのだ。
単なる嫉妬か、はたまたそれすらも私の〈赤い花〉が屈辱を感じて高揚してしまうのか、それは分からないのだが。
しかし、ここで私が動揺していても仕方がない。静かに心を落ち着けて、ふたりの話を見守った。
百花魁はキツネの――本人曰く、決して前脚ではない――手で器用にティーカップを持つと一口飲み、その味を存分に嗜んでからようやく答えた。
「その前に確認だけど、彼の名前は望月、であっているわよね」
霊が頷くのを見ると、百花魁はカップを置いた。
「あなたはあまり知りたくないかもしれないけれど、〈エリゴール〉の存在を知り、興味を持っているのは望月だけではないの。あのカメラのことはね、一部の写真家志望の若者たちに伝わってしまっているようよ。それを流した人物の特定は出来ていない。でも、噂を知っている者のなかで、本気でそれを欲しがるという人物はある集団によって特定され、注目されている」
そこで百花魁は声を潜め、妖しく目を細めた。
「白妙のお家よ」
白妙、と霊が呟く。
白妙とは曼殊沙華は勿論、銀箔でも舞鶴でもない一族の名前である。曼殊沙華とは協力関係にもライバル関係にもない。しかし、霊はもちろん、私だって全く知らないわけじゃない。これまでに深く関わったこともあった。鬼や富豪とは別に活動し、この辺りの地域の治安を彼らなりの方法で守ろうとしている少し厄介な一派であるためだ。
その本拠地はこの地域の片隅にある神社。世界的に見れば魔物に分類される彼らだが、己らの事は頑なに妖であり、古来よりの神の使いであると主張する一族。魔の界隈では有名な白い化け狐の一族だった。
ついでに言えば、百花魁の実家だと聞いている。
霊が苛立ち気味に息を吐く。
落ち着かないその様子に、百花魁が大きな耳を愛らしく傾けて訊ねた。
「少しは興味を持ってくれた?」
「ええ、とっても」
警戒を強めたその返答に、百花魁は狐語混じりの声でひとしきり笑ってから語りだした。
「頻繁に帰る実家とは言っても、私はそこを出た身ですからね。何を考えているのか、誰の指示なのかといった詳しい事は分からないの」
断ったうえで、百花魁は声を潜めた。
「ただ、白妙の家の留まる可愛い従妹が私にこっそり教えてくれたのよ。それによれば、彼らは千景の二眼レフの噂を知っていて、かつ、それを信じている写真家志望の若者にこっそり近づいて、あることを唆しているそうよ。一度に大勢というわけじゃない。一定期間にひとりだけ。多くの場合は怖気づいたり、胡散臭さに信じてもらえなかったりしてここに来ないで終わるようだけれど、ええ、そうね、望月という若者は違ったようね」
まさかそんな所から漏れていたなんて。しかし、腑に落ちない。どうして白妙が〈エリゴール〉のことをきちんと把握しているのか。カウンター越しに最も疑わしい女狐を眺めながら、私は事の成り行きを見守り続けた。
霊は少しだけ落ち着きを取り戻し、腕と足を組みなおした。
「そうよ。昨日は大変だったの。駄目ですといっても全然帰ってくれなかったのだもの。……そう、白妙のお陰だったの。さすがはあなたのご実家。影でこそこそ糸を引いて物事をかき乱すことがお得意のご様子ね」
どうやら我が麗しの主人も嫌味を思いつくくらいには余裕が出てきたらしい。
だが、百花魁は軽く受け流し、狐の目をさらに細める。
「そう、しつこくて腹が立っちゃったのね、可愛い人。でも、そうでしょうとも。だって、望月は他の若者たちとは違うの。名声をどうしても早く手に入れたいと強く願っている。この先、あなたにこっぴどく振られても、簡単には諦めるようなお猿さんじゃないわ」
やけに断言する彼女に不安を覚え、私はカウンターからそっと訊ねた。
「どうして、そこまで欲しがっているんでしょうか」
すると、百花魁はちらりと私を見つめてから、答えた。
「仲のいい弟さんがね、病気なのですって」
「――病気?」
一気に興味を引かれる私に対して、霊はあまり動じていないようだ。
ただじっと、百花魁を見つめている。
「詳しく聞きましょうか」
霊がそう言うと、百花魁は頷いてから口を開いた。
「ええ」
一言頷いてから、彼女は語りだした。
「望月はただの若手写真家じゃないわ。彼の撮る写真には心が宿っている。あらゆる人を虜にするその温かみは、有名でなくともじわじわとファンを増やしていっているの。全く、妖力に恵まれていないお猿さんの何処にそんな力があるのかしらね。そんな彼のことを当然ながら両親は勿論誇りに思っているそうよ。そして、望月と八つほど離れた弟もね」
百花魁は語った。
ある若き写真家の青年と、その弟の話を。非凡な才能を持つかどうかなど関係のない、ごく普通の日常的な兄弟の話を。まるで見守って来たかのように話した。
「芸術方面に秀でた兄と違い、弟は学問に秀でていた。だから、兄とは違う方面で成功しようと難関校に合格し、良い大学を目指して勉学に励んでいたそうなの。けれど、病魔はそんな貫の若き体を蝕んでしまった。妖の血を引く高貴な者ならば絶対に罹らないような不治の病――黄金病になってしまったの」
黄金病と聞いて、私は暗い気持ちになった。
それはかつて自分の事を人間だと信じて疑わなかった頃に、私も恐れていた病気の名前だ。体中の血液が変質し、身体の循環に異常をきたす病。まるで黄金のような色になってしまうことからつけられた原因不明の不治の病だ。魔に由来する特徴や性質、呪いなどを病気や障害と伝えることが多いこの世界においても、黄金病だけは魔とは無縁の普通の病であった。
魔に由来する治癒の力であっても、科学でも魔力でも説明できない奇跡であっても、この黄金病を完治させたという例はほとんど聞かない。だからこそ、医学でどうにもならないとなれば諦めるしかないという恐ろしいものだ。黄金病は死の病として有名なもので、未来に向かって成長を続けるはずの少年少女を蝕むとしても有名だった。
夢にあふれる若い彼らの命を奪う死神。姿は見えずとも、そのおぞましい姿を絵に描いてきた魔の血を引かぬ人々の気持ちが私にも分かるような気がするものだった。
「弟の容態は日に日に悪化していくばかり。新薬が出るたびに試すけれど、確かな効果は得られないうえに副作用に蝕まれる。望月の弟もまた少しずつ弱っているそうよ」
百花魁は語る。
「黄金病を患いながら長く生きている人間はね、最終的には運の良さと生きる希望に賭けるしかない。そんな彼を励ますために、望月は良い写真を撮っては写真家としての成功を狙っていた。個展も写真集も出ているのよ。彼の技術は悪いものじゃない。仕事にも困っていないらしい。けれど、彼はもっと上を求めている。弟を勇気づけるため、自らが生きる希望となるための成功を求めているの」
それで、〈エリゴール〉を求めたのだ。どうしても、弟が生きている間に名声を得たくて。
頭に浮かぶのは、昨日見た必死な形相の望月だった。あんなに長い時間粘られて、正直言って迷惑だった。帰ってくれてホッとしたくらいだ。しかし、今ではそう思ったことに罪悪感を抱いてしまった。
理由があったのだ。どうしてもと粘りたくなるような理由が。
カウンターから私は蘭花のテーブルを見守った。我が主人はどんな顔をしているのか。どんな判断を下すのか。それとなく確認してみて、はっとした。霊の表情は――あまり変わっていない。眼差しは冷たいまま。情動が感じられなかったのだ。
「事情は分かったわ。それで彼は来るの? 来ないの?」
淡々とした様子でそう訊ねる我が主に若干のショックを覚えた。だが、じっと口を閉じて私はカウンターから離れずにいた。何であれ、私が口を挟む場面じゃない。
いっそ電話でも来てくれたらと思いもしたが、百花魁の話が気になって離席するのも躊躇われた。有難い事に、電話も訪問客も来なかったわけだが。
さて、せっかちな霊の質問に対し、百花魁はゆっくりと答える。
「来るわ」
断言だった。
「そのために、私は話しに来たのですもの。彼は来るわ。三日後の夜に。ただの訪問客ではなく、偽狐として。白妙の息のかかったお面をかぶり、あなたの許可なくこの店に入って〈エリゴール〉を手にするでしょう」
「それはつまり、白妙の協力のもと、彼がここに侵入するということね」
「そうよ」
一気に寒気がした。
望月が侵入。白妙の人たちの協力を得て。
まさか〈エリゴール〉を強奪するということだろうか。どうしてそこまでして。ああ、望月にはそうまでしてほしい理由があるのだ。だが、白妙は何故だろう。何故、そこまでしてあのカメラを望月に渡そうとするのか。
私が抱いた疑問は、霊もまた同じく抱いたようだ。睨みつけるような眼差しで、彼女は百花魁を問いただす。
「教えて。白妙は何が目的なの?」
「それは分からないわ。さっきも言ったでしょう? 誰が何のために糸を引っ張っているのかまでは分からないの。ただ彼らは望月から多額の金を貰っているわけでもない。ただ〈エリゴール〉が彼の手に渡ればいいとしか思っていないようね」
「どうしてそんな事を――」
霊が動揺を見せる。吸血鬼らしい目つきになっているところから察するに、相当苛立っているのだろう。そんな彼女をまるで愛でるように眺め、百花魁は言った。
「きっと白妙にとって都合がいいことがあるのでしょう。あるいは、そうするべき道理が。あなた達、曼殊沙華の関係者には不気味としか思えないでしょうけれどね、白妙は白妙でこの地域に住む生き物すべての事を考え、古来から変わらぬ方法で地域を守っているのよ」
「だからって、他人の罪を唆すようなことは赦されないのではなくて?」
霊が即座にきつめの口調で言い返すが、百花魁には全く効いていない。
「まあ、そう怒りなさんな。私は白妙の血を引いているけれど、すでに家を出た者。あなたが困ると思って、私もわざわざ此処まで来てお伝えしたのよ。私には何の得にもならないはずなのだけれどね」
にやりと笑う女狐の目が、ちらりと私を見た。
目があって冷やりとしたのも束の間、すぐにその目は霊の方へと戻る。霊はといえば、苛立ちを隠す努力もせずにお気に入りの蘭花のテーブルを指でしきりに叩いていた。目は赤いし、たぶん牙も出てしまっているだろう。
だいぶ気が立っている。この後の事を考えると、少し気が重かった。
「――それで、見返りは何なの?」
低めの声で問いただす霊に、百花魁は笑みを深めた。
「あら、私はただ気心の知れた“お友達”としてお話をしに来ただけですのよ。でもまあ、私の忠告が役に立って、何かお礼をしてくれるというのなら、そうね、また昔のように二人きりでゆっくりお話をする時間を頂きたいわね。ああ、勿論、あなたがそれすらも拒むのなら、代わりに幽ちゃんでもいいのよ」
気のせいだろうか。霊が震えているような気がした。怒りのせいか、それとも。
主人のことが心配になったが、すぐにその震えは霊自身によって振り払われた。いつもの強い眼差しで、彼女は百花魁を睨みつける。
「幽を差し出すと思った? その時は私が行くわ」
「そう、それは嬉しいわね」
百花魁はあっさりと答え、椅子から立ち上がる。同時に、その姿は訪問時と同じ美しい人間の女性のものへと変化した。
「じゃあ、私はそろそろ帰りましょうか。幽ちゃん、霊さまと仲良くね」
にこりと笑い、彼女は去っていった。
見送ってからもしばらく、霊は落ち着かない様子だった。襲撃の知らせのせいだろうか。それとも、もっと違う何か――百花魁の残していった何かしらの圧力なのか。
いずれにせよ、私は寂しかった。隣にいても、共に仕事をしても、その後で抱かれていても、霊の不安を真に理解してあげられていない気がしたからだ。
どうしたらいいのか。不安の原因は何なのか。分からないまま、今宵も私はただ身を委ねていた。せめて、この血が主の癒しとなるように。今の私にできることは、それくらいだった。




