前編
少なくとも三時間、その客人は居座っていた。
彼の名は望月。清潔感のある見た目と爽やかな声の印象的な青年で、話していてもさほど強引な印象はない。しかし、一時間、二時間、そして三時間も経った今となっては、その評価を改めなければならないという使命感を抱くようになっていた。
蘭花のテーブルに通された彼は、いまだに帰る様子がない。断固として、己の求める答えを得るまで帰らないつもりであるのだ。相手をする霊は、初めのうちこそ丁寧に対応していたが、段々と素が出てきてしまっていた。
そりゃあそうだろう。約束もなしに三時間だ。迷惑すぎる。
だが、望月は必死だった。こちらの都合を考える余裕がないらしい。何が何でも自分の求める答えを霊の口から言わせようと粘り続けていた。
「お願いです、あのカメラを僕に売ってください!」
同じセリフを言って頭を下げるのは何度目だろう。
その度に、霊は同じ答えを繰り返す。
「何度も申していますけれどね、望月さん? あのカメラは売ってはいけない事になっているのです。どんなに頭を下げられても、売ることは出来ません」
「でしたら、貸していただくだけでも!」
望月は切羽詰まった様子でそう言った。
彼が欲しがっているもの。それは、店内の棚にしまわれている黒色の二眼レフカメラだ。直射日光を避ける形で鍵付きの棚に収納されているそれは、〈エリゴール〉という名前のついた古物である。
その昔、ごく普通に売られていたラヴェンデル製の商品だったのだが、いわくつきの力を報告されて霊の保管する持ち物となったらしい。以来、曼殊沙華の許可を得た霊のみが扱えるようになっている。貸し出しはもちろん、販売などは決して行われないことになっていた。
どんなに頭を下げても無駄だ。カウンターから彼を見守りながら、私は思った。
曼殊沙華の決まりに霊が逆らうはずがない。霊に頼んだところで時間の無駄になるだけなのだ。だが、その説明をしても望月はなかなか帰ろうとしない。曼殊沙華に断られたからここに来たのだと言うばかりだ。それなら尚更、霊が頷けるはずもない。
同じことの繰り返しに、霊の機嫌がどんどん悪くなっていくのがよく伝わってくる。
「どんな事情があろうと、出来ないものは出来ないのです」
霊が半ば呆れた様子でそう言うと、望月は祈るように訴える。
「お金なら、いくらでも出します。……ですから!」
感情的に望月は霊を見つめる。縋るようなその目だ。
だが、霊の吸血鬼の目は異様なほど冷たく感じるものだった。
「お引き取り下さい」
丁寧に、そして、きっぱりと、彼女はそう言った。
「これ以上の話し合いは無駄ですよ。あなたが訴えるべきは、私ではなく曼殊沙華の窓口です。どうしてもという諦めきれない事情があるというのなら、それを日笠に再度お伝えください。その上で、会議をすることになるでしょう」
霊の言葉に望月は俯いた。僅かな可能性にかけてここに来たのかもしれないが、これ以上は無駄だとさすがに分かっただろう。
「生憎、もう店じまいの時間です。……幽」
名前を呼ばれ、はっとした。納得のいかない様子の望月に声をかけ、どうにか立ってもらう。強硬手段に出ないか少し不安で緊張したのだが、そう思ったことが申し訳ないくらいには素直に従ってくれた。
「……分かりました。今日の所は引き下がりましょう」
がっかりした様子でそう言うと、望月は真っすぐ霊の顔を見つめて断言する。
「でも、僕は諦めません。失礼します」
そう言い残して、望月は去っていった。
困ったものだ。これだけ難色を示したのに諦めてくれる様子がないとは。世の中には強引な人もいるものだ。そんなことを想いながら、彼が力任せに閉めていった扉のベルの音を聞いていると、背後よりそっと肩を握ってくるいけないお姉さんが現れた。
「あれだけの情熱、いったい何なのかしらね」
耳元で囁かれ、びくりと震えてしまった。
「若くて活き活きとしたあの目の輝きは素敵だったけれど、とても迷惑。おかげで閉店時間を五分も過ぎてしまったわ。ねえ、幽、さっそく晩ご飯にしましょうか」
すっかり食欲に支配された霊の牙を見つめると、そこから感じる痛みと強引さに心が震えてしまう。しかし、と、私は強引に霊の手から逃れ、距離を保つ。いけない。まだいけない。まだ身をゆだねる時ではない。
「その前に、店じまいです!」
ばっちりと指摘するも、こちらを見つめてくる霊の目はすっかり赤い。吸血鬼の獲物を求めるときの眼差しだった。
「えー、いいじゃない。もうお客さんなんて来ないわよ」
「来ちゃうかもしれないでしょう! この間だって、ちょっと味見とか言って襲い掛かってきたときに下校中の小学生が来ちゃったじゃないですか!」
それは、非常に危ない瞬間だった。
大人として見せてはいけない姿をさらしてしまうところだったのだ。それなのに、霊ときたら全く反省していなかったのだ。
くすりと色っぽく笑いながら彼女は楽しそうに呟いた。
「あの時の幽ったら、本当に慌てちゃって。でもその日はお預けした分、たくさん可愛い姿を見せてくれたわね」
まさに顔から火が出そうな中、私はカーテンを引っ張った。
日没後はすぐに時間が経ってしまう。だから、霊のことは放っておいて閉店準備に取り掛かった。戸締りや掃除だけじゃない。やる事はいっぱいあるのだ。それなのに、どうして我が主人はこうも不真面目なのだろう。
私だって、今すぐに食事出来たら嬉しい。出来るだけ霊との時間を大切にしたい。そこは同じなのに。
「ちゃんとお仕事してくださいよ……」
あらゆる感情が混じりあったため息を吐くと、霊は呆れたように笑う。
「んもう、幽の生真面目さん」
そう言いながら、やっと彼女も閉店準備に取り掛かってくれた。
会計の締め、商品の位置や在庫の確認、簡単な掃除……望月の訪問で滞っていた仕事を少しずつこなしていると、ふと戸棚の中にある二眼レフカメラ〈エリゴール〉の前で手が止まった。
思い出すのは望月の必死な姿。どうしても、どうしても、このカメラが欲しいのだと言ってきかなかった。黒い体に大きな二つのレンズ。ラヴェンデル語のロゴには傷一つない。隣には専用のフィルムに露出計。
実は〈エリゴール〉が使われるところを見たことはない。だが、どういう力があるのかについては、大まかにではあるが知っていた。〈エリゴール〉の隣にあるえんじ色のアルバムもまた名前の付けられたいわくつきの古物で、ある女性写真家が〈エリゴール〉で撮影したさまざまな作品が収められている。
正方形の写真の中に映るのは、まだ無名であった彼女の目に留まった日常的な風景。美しいが取るに足らない日常。しかし、その写真には不思議な力が込められている。
「幽」
背後から霊が抱き着いてきた。猫か何かのように私にすり寄ってきたかと思うと、鋭く厳しいものを含んだ冷たい口調で彼女は訊ねてきた。
「何を見ていたの?」
正直に答えよという命令が込められた質問だった。
「〈エリゴール〉を……見ていました」
「どうして?」
「はい……その……望月さん、どうしてこのカメラの事を知っていたのかなって思って」
言葉にしてみれば、不安は一気に深まった。
このカメラを知る人はあまりいない。愛用していた女性は、千景という名の知る人ぞ知るプロの写真家だった。だが、彼女が愛用したカメラは一眼レフであり、現在、支持されている作品の多くもそのカメラで撮ったものである。
二眼レフを使っていたのは無名の頃だけであり、その逸話も語られているに過ぎない。当時のカメラと作品がまさかこんなところにあるなんて、彼女のファンであっても思いもしないだろう。
このアルバムもそうだ。彼女が亡くなったのはほんの数年前。世に出ているのは作品として彼女が発表したものだけで、プライベートな瞬間を撮ったこのアルバムは棚の中で寝かせてほしいと彼女のもっとも身近な人物に託されたものだった。
カメラはもちろん、アルバムのことも他言していない。曼殊沙華の人々は知っているかもしれないが、それ以外の関係者には語らないようにしているのだ。
「大方、幻の字が怪しいところだけれど」
霊は忌々しそうにそう言った。
「ひょっとしたら彼女の熱狂的なファンで追い求めるその情熱が有り余った結果、たどり着いてしまったのかもしれない」
そこまで言ってから、ため息をついて霊は首筋に牙を当ててきた。
「ま、どっちでもいいじゃない。考え事にだって……栄養が必要でしょう?」
胸をまさぐられて変な声が出そうになる。このまま黙っていると、もっと酷いことをされそうだ。それもいいかもしれない――なんて思考が流されつつあるのを自覚しながら、私はそれでもほんの一欠けらの自我を握り締めて、霊との会話を続けようと試みた。
「ど……どうして……あの人あんなに……カメラを――」
無理だった。
この人って本当は吸血鬼じゃなくて淫魔なのではと疑ってしまう時がある。今まさに疑っている。男も女もその気にさせる天才であり、そんな人の恋人になってしまった私は気苦労が絶えない。仕事だからと言い訳をして面倒臭くなるとくノ一のような手段で情報を聞き出すこの人との付き合いは、嫉妬なんてものを持っていたら身が持たない。
だが、どんなに不満を抱いても、最後には満足させられてしまうのだから悔しいものである。主従関係のせいだろうか。それとも、この人自身の魅力だろうか。初めはどんなに抵抗していても、結局は彼女の想い通りに身包みを剥がされてしまうことになるのだ。
そう、今も同じだった。望月の必死な形相や、〈エリゴール〉への情熱。そういったものから感じる不安や疑問の数々も、霊の手によって衣服と共にするすると脱がされていってしまうのだ。
――というか、ただの食事で身包みを剥がされる意味とは。
「ちょ、ちょっと待ってください、霊さん」
ふと我に返り、私は訴える。
「お店のスペースでは食事だけっていう約束では」
「そうよ。ここでは食事だけ」
「あの、それならどうして私ここまで脱いでいるんですか」
「そうしたら、美味しい味になるかなって思って」
にこりと笑う霊はとても美しい。いや、美しさに騙されてはいけない。
「駄目です!」
その後は必死の説得と抵抗により、全てを脱がされることは避ける事に成功した。どうやら霊も余裕はなかったらしい。望月に粘られた分、夕食の時間は押している。一度、口をつけてしまうともう耐えられなかったようで、あとは無言で吸血行為に浸り始めた。
ああ、気分がいい。
この美しい人が、私の血に夢中になっている。
赤子のように吸い付く吸血鬼に身を寄せながら、私は幸福に浸っていた。〈赤い花〉の血の味がどれだけ魅力的なのかは知らないし興味もない。けれど、この味が霊の心を虜にしているのならば、とても嬉しい。
血を奪われていく恐怖や意識が遠のく焦燥感、そして屈服の味にどっぷりと浸かっていく。今日もあらゆる古物たちに見つめられながら、カウンターの上に寝かせられると、天井を仰ぎながら心臓の鼓動の近くにまで牙を突き立てられる。霊の匙加減ひとつで私は死んでしまうのだ。その危うさが堪らなくて、ぞくぞくとしたものが心臓の奥底からこみ上げてくるものを感じた。そうしてようやく実感する。魔女の性が満たされている。私は満足しているのだと。
しばらく血を吸っていた霊が牙を抜き、そのまま私の上で寝そべり始めた。
「あなたの血の味は何にも勝る癒しよ」
疲れ切った様子で、我が主人はそう言った。
「どんなに面倒くさい事があっても、どんなに嫌なことがあっても、あなたの血を吸えば忘れられる。特にあなたが感じている時の味が大好き。私の手で美味しくなっているのだもの。心身を弄れば弄るほど、あなたは美味しくなってくれる」
その繊細な手つきに、心はすっかり彼女の虜になっていた。
このままではここでさらに深みにはまってしまいそうなくらいだった。
「霊さん」
恍惚と快楽の果てにうとうとしてくる中で、私はどうにか彼女に言った。
「そろそろ向こうに行きましょう」
すると、霊の目が輝いた。
吸血鬼らしい鋭い眼差しをこちらに向けると、私の両手を引っ張り起こしてそのまま抱きしめてきた。私の素肌と霊の衣服が擦れあう何とも言えない感触に怯んでいると、怪しげな笑みを漏らしながら彼女は頷いた。
「そうね。まずは湯船でゆっくり楽しみましょうか」
まだまだ満ち足りていないことがよく分かるひと言だった。
お風呂が真っ赤に染まるなどといった悲惨なことにならないように心の中で祈りながら、私は霊と共に店を後にした。




