中編
「〈レライエ〉を使ってしまうと、こうやってひっそりと楽しむことも出来なくなるかもしれない。それでもあれで遊んでみたい?」
さんざん戯れ合って、幸福感と満足感に浸っていると、塞がりかけた首筋の傷跡を舐めてから、霊が耳元でそう言った。
「霊さんが巻き込まれた事件ってどんな事件だったんですか?」
すっかり疲れ切った意識の中で訊ねてみれば、霊は起き上がり、私の頭を撫で始めた。
「……実はね、あなたのお父さまと昔ちょっと争ったことがあるの」
「えっ?」
初耳だった。霊が私に声をかけてきたのは父の事についてだったが、それほど深く接したなどとは聞いていない。
驚く私を見つめ、霊は詳しく教えてくれた。
「その当時、天という吸血鬼はこの町の影の覇者として奔放に暮らしていたの。吸血鬼が本能を抑えずに過ごしているというのは多くの人たちが困ること。同じ吸血鬼も、そうでない者たちもね。だから、この町を支配する曼殊沙華や舞鶴、銀箔といった魔物の名家たちが、吸血鬼狩りの性を持っていた憐――あなたのお母さんとその仲間たちに依頼して、天を追い詰めようとしていた。ところが、天はその全てを翻弄したの。挙句の果てに、皆をあざ笑うかのように憐を誘拐してしまった」
その話は……知っていた。
母のかつての仲間たちは、今でも父を恨んでいるのだ。そして、天の娘として生まれた私の事も、彼らはあまりよく思っていない。母が亡くなってから知った事実は、あまりにも重たかった。霊に拾われるまでは、何故、自分が生まれたのか、その正当性がよく分からなかったくらいだった。
「はじめは吸血鬼狩りの仲間たちが憐を助けに行ったそうよ。けれど、彼らは失敗した。死人まで出てしまった。彼らが言ったの。天だけじゃない、憐が牙をむいてきたって」
「お母さんが……仲間たちを?」
――死人が出た。
それは思いがけず恐ろしい話だった。
食べるために吸血鬼たちを次々に殺していったという逸話も、覚えている限りの母の姿と全く重ならなくて信じられなかった。ましてや自分を助けようとする仲間に力を放つなんて。
「吸血鬼っていうのはね」
と、霊が声を低めながら囁きかけてきた。優しく頬を撫でられているのに、何故だか背筋が凍りそうだった。
「心より欲しいものを手に入れるためならば、何だってする。天は魅了の力と、ある道具によって、その欲しいものを手に入れた。長くそのからくりが分からなくて、誰も助けることが出来ないまま、憐は彼の妻としてしばらく過ごすこととなったのよ」
そして、生まれたのがこの私だ。そこまでして父が母を手放さなかったのは何故だろう。単なる欲望なのか、何か目的があってのことなのか。
いずれにせよ娘の私は吸血鬼としての能力をほとんど受け継がずに生まれた。そんな私を父はどのような目で見つめていたのか。
「もう助けることは出来ないのではないか。誰もがそう思いかけた頃になって、曼殊沙華に力を貸していたとある翅人が、憐の指にはまる奇妙な指輪に気づいたの。赤い宝石が嵌められていて、その輝きに禍々しいものを感じた。きっとあの指輪が鍵に違いない。指輪を外すか、石を壊せば、憐は元に戻るのではないか。でもどうやればいい。近づいた者に魔法を向ける彼女からどうやって指輪を奪えばいいのか。……そんな時、曼殊沙華の人々が注目したのが、この店に保管されていた〈レライエ〉だったの」
霊は玩具の矢でただ遊んでいたのではない。〈レライエ〉の力を試したのだ。
「地下の壁で試して実感した。〈レライエ〉はどんなに離れていても、思った通りのものを貫いてくれる。矢は何でもいいの。たとえ木の棒であろうと、正確に飛んでくれる。これなら遠くから石を壊すことも出来るだろう。直接、戦ったり、銃を向けたりするよりは正確だろうって」
「それで……霊さんが弓を?」
問いかけると、霊はにこりと笑って頷いた。
「〈レライエ〉は正確だった。屋敷で夜風に当たっていた憐の身体は傷つけず、ただ石だけを壊してくれた。でも、穏便には解決しなかったわ。天がすぐに異変に気付いて、指輪を壊された怒りを私に向けてきた。どんなに離れていても、偉大な吸血鬼から完全に隠れることは出来なかったの。〈レライエ〉ですぐに応戦したけれど、臨戦態勢になった彼相手には駄目だった。殺されることを覚悟したわ。でも、その時、助けてくれたのが指輪から解放された憐だったの。持て余した力を天に向けて、彼を追い払ってくれた……いいえ、彼を殺そうとした。指輪を外した彼女の目は血走っていたの。魔女の性に飢えていたの」
「霊さんは……」
「私も危なかった。でも、憐は狂ってなんかいなかった。欲を抑えて私に言ったの。『巻き込みたくない。出来るだけ遠くまで逃げて』って。だから、私は必死に逃げたの」
たしかに以前、私は霊から聞いた。
殺されそうになったことがある。だが、どういう状況だったのか、そして、どんな経緯があったのか、そこまでは聞けなかった。まさか、こんな事があったなんて。
「〈レライエ〉のお陰で、私は助かって、憐の方も娘のあなたと一緒に天の屋敷から逃げ出すことに成功した。そう、あの時のあなたは、まだとても小さかったのよ。その後は、憐が何を思って過ごしていたかは私にも分からない。石の壊れた指輪をずっと嵌めて、昔のように吸血鬼を積極的には狩ろうともせず、あなたを吸血鬼でも魔女でもないただの人間の娘のように育て始めた。きっと、あの当時は天の命を狙っている人たちがまだまだいたから、娘のあなたの存在を隠したかったのでしょうね。それを曼殊沙華や憐の仲間たちは静かに見守っていたの」
そうして私は、何も知らずに育った。自分が魔女であることも知らずに、ただの人間として一生を終えようとしていた。母が無事ならば、平凡でそれなりに幸せな日々を過ごせたのではないかと今でも思う。けれど、現実は違った。そんな日々が続くことを許してくれなかった。
霊の手に甘えながら、ぼんやりと考えた。母にもう会えないことは非常に寂しいが、それでも今は間違いなく幸せである。
「私の方は、ひっそりとはいかなかった。天のもとから人を救った純血の吸血鬼として私の名が銀箔や舞鶴にまで知られ、挙句の果てには無花果氏にまで知られてしまったの」
「知られた?」
「ええ、普通なら、私の行動や成果といった情報は曼殊沙華の人たちが絶対に流さないように気を付けるのに、何処からか情報が漏れだした。それが襲撃された天による報復なのか、口の軽い関係者がいたのか、はたまた〈レライエ〉の反動なのかは分からないわ。確かな原因だと言えるものは何も語れないけれど、ともかく、しばらくは大変だった。〈レライエ〉の副作用で発疹は出るし、体調不良だと言っても面会したがる舞鶴や銀箔、そして無花果氏の使いが来てしまうし……」
それで無花果氏や百花魁との繋がりが出来たわけだ。さきほど霊が言った通り、それもまた〈レライエ〉の効果と言い切るには証拠が足りないが、逸話がたくさん残されているというならば、疑っても仕方ない。
霊は再び寝そべり、私に縋るように寄り添ってきた。
「〈レライエ〉を使って助けたことは、本当によかったことなのか。長らく私には分からなかった。憐はある日突然、誰かに殺されてしまって、あなたは人間として育てられ、苦労しながら過ごしていた。それなら偽りの絆であっても、天の元にいたほうが幸せだったのではないかって何度も考えた」
潜めた声には力がない。その表情は見えないが、本気で悩んでいたのだろう。
父の元にいたならば、私はどのように育っていたのだろう。今まで感じたような苦労はなかったのだろうか。しかし、これだけは確かだ。〈レライエ〉がなければ、私の記憶にある母の笑顔はなかっただろう。
「霊さん……」
縋って来る霊を包み込むように抱きしめた。
「私の記憶にある母は、いつも穏やかに笑っています。それに、私も霊さんと一緒にいられる今が幸せです」
手を握ってそう言うと、霊は静かに微笑んだ。
私よりもきっと長く生きているのだろうとは思っていたけれど、霊と両親にそんな過去があったなんて思いもしなかった。あの母の笑顔は間違いなく霊のおかげだ。優しく抱きしめてくれた温もりも、穏やかな子ども時代も、霊の放った矢がもたらしてくれたものに違いない。
今こうして触れ合える奇跡を感じながら、私は霊に身を寄せた。あのまま父の元にいたらどうなっていたか、なんて私には分からない。ただ今は共にいられるだけで幸せだ。それだけで十分だった。
そして、次の日、私はまたしても一人きりで店番だった。
すっかり二日酔いも良くなった霊は、新しい依頼のために一人で外出している。物騒なことに〈ベール〉をお伴として連れて行った。気がかりだけれど、留守番していなさいという彼女の命令には逆らえない。遅くとも閉店時間までには帰って来るという約束を信じて、大人しく待っていた。
今日は桔梗もいない。何処となく寂しい空気に追い打ちをかけるように、さっきからずっと塵が降っている。塵のせいか、客足もほとんどない。言葉を喋らぬモノに囲まれて、私は一人ぼっちで時計の針の音を聞き続けていた。
それにしても遅い。閉店時間はもう間もなくだ。いつになったら帰って来るのだろう。不安に思いながら、閉店準備に取り掛かろうとしたその時、塵が降っているにも関わらず、通りに人影が現れた。
塵で霞んでよく見えないが、きっと霊だろう。いくら人の気配がないからといっていささか不用心だが、こんな天候で店にやって来るのは彼女以外に誰が居るというのか。
そう思っていたのだが、ふと私は気づいた。霊じゃない。まず、女性のシルエットではない。それに、やけにそわそわしている。周囲を窺いつつも、取り乱しているように見えた。
いったい、誰だろう。そう思っているうちに、彼は入店してきた。
「幽ちゃん!」
現れたのは幻だった。
「幻さん? どうしたんですか?」
警戒気味に訊ねるも、彼はお構いなしに近づいてきた。
「霊ちゃんが……大変なんだ」
蒼ざめた顔で彼はそう言った。
霊が、大変。言葉の意味を理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。気を失いそうになるのをこらえ、掴みかかるように幻に攻めよった。
「何が、あったんですか……?」
「私はただ話をしていただけなんだ。それなのに、突然、鬼喰いの連中が襲い掛かってきて――」
「鬼喰い……!」
以前も彼らの存在を聞かされた。吸血鬼も捕食するという恐ろしい魔物。あの時は、笠が命からがら助けてくれたのだ。
「霊さんを見捨てて一人で逃げてきたんですか!」
「ああ……幽ちゃん! どうか私を責めないでおくれ。吸血鬼にとって奴らはどうしても恐ろしい存在だ。自分が逃げるので精一杯だったんだ……」
どうしよう。
私は必死に店内を見渡した。
自分の魔法はまだまだ未熟だ。武器になる〈ベール〉は霊が持っていったきり。奇跡を信じて蜘蛛の糸を試すか。しかし、それではあまりにも頼りない。
と、その時、私の視界に入ったのは、立てかけられた脚立と壁にかかる〈レライエ〉だった。気づいてすぐに私は行動していた。脚立を使って〈レライエ〉を手に取る私を見て、幻は目を丸くした。
「幽ちゃん! それを使うつもりかい?」
これが何なのか、何をもたらすのか、彼も少しは知っているのだろう。しかし、構ってなんかいられなかった。だが、肝心の矢がない。
――たとえ、木の棒であろうと。
霊の話を思い出し、私はハッとした。この弓で飛ばせそうな鋭利なものなら、いっぱいある。昨日、桔梗と一緒に庭を掃除したときに集めた枝だ。まだ捨ててはいない。話通りなら、あれが使えるはずだ。
「幻さん、その場所まで案内してください」
「どうしても戦うつもりなのだね?」
「霊さんを助けないと!」
「……分かった。案内しよう」
そうして、本日は慌ただしい閉店となった。




