前編
聖杯というものがある。ロザリオや聖母子の刻まれたメダイに並んで、個人的に触れるのが怖い代物である。
なぜ怖いのかは説明がしにくい。そこから感じてしまう謎の悪意の正体は、たぶん、幼い頃に図書館などで興味本位に読んだ魔女狩りという歴史への偏見なのだろう。
魔女狩りなんてもう300年ほど昔の話だというのに、やはり私は恐かった。
これらを作った教会のものたちは、今も私を汚らわしいものとして見ている気がする。この思いは、自分が吸血鬼と魔女の戦いの末に出来た赤子であり、母より〈赤い花〉を継いだ魔女であったのだという衝撃の事実を知ってしまった成人後に宿ったものだ。
しかし、それまでにも変だなと思った事はあった。無意識に感じ取っていたのかもしれない。本能が、とでもいうべきだろうか。そうじゃなければ、通いたかった女子校の説明会で学園を見守っていた聖母子像を目にして具合が悪くなるなんてこともなかっただろう。付き添っていた今は亡き母が私に何故か謝ってきたあの時のことが、今でも忘れられない。
とにかく、今も私はこれらのものが苦手だった。
それでも、霊の店には聖杯がある。そして、ロザリオとメダイ。ロザリオやメダイがこの店に置かれることとなった言われはよく知っている。この2つはとある人の遺品で、触れることくらいは平気になるくらい、身元はよく分かっている。
だが、聖杯の身元は話でしか知らない。〈アガレス〉とかいうその名前。聖杯の雰囲気に横文字の名前はあっている気もするが、〈アガレス〉という名前の由来を聞けば、やっぱり合っていないと意見を変えるしかない。
しかし、霊の言い分ではここに置かれた聖杯はもはや聖杯と呼ぶには呪われすぎたものらしい。大抵の聖職者ならば不気味がる代物だから、名前を付けて守ってやるしかないのだとか。
ちなみに霊はロザリオにもメダイにも聖杯にも平気で触れる。こういうものは気持ちの持ちようなのと平然と言いながら、得意げに笑う。吸血鬼がそんなことをしていると知ったら、一部ショックを受ける人もいるだろう。いや、今の時代だとそうでもないのだろうか。そもそも吸血鬼自体がむしろ一般人からロマンを抱かれるくらいに、今のこの世の中は魔に乏しい。
現代でこれらの信仰が戦わねばならないのは、得体の知れない魔の存在などではなく、誰の心にも宿る可能性のある悪という情動とそれによって発生するあらゆる悲劇の方だろう。誰かの不幸を願い、憎しみのままにいがみ合うことこそ、避けるべきことなのだと誰かが説いている姿は簡単に想像できる。
つまり、これらの聖なるものが魔女を魔女というだけで殺してもいいと許可するような価値観と付属しているわけではないのだ。今はもうそんな時代ではない。そう言い聞かせれば、ほら、私にも触れることが出来るはず。
――やっぱりちょっと無理だった。
開けたばかりのガラスケースをもう一度閉めて、私はふと応接用のテーブルで向かい合う霊と客人を振り返った。客人は何というかその、体が透けている。一目で人間ではないと分かる姿をしていた。でも、たぶん私たちが期待するような死霊ではないのだろう。そう思った理由は、他ならぬ霊が幽霊なんてこの世にはいないのだと主張していたからだ。
死んだ者は土にかえる。その死体が蘇ることがあったとしても、それは幽霊ではないし、かつて生きていた頃のその人ではない。同じ姿をして現れたものがいたとすれば、それは死霊だ。死霊は死霊でも、皆が期待するような死霊ではない。死人の姿を借りて、人に罪を唆す悪魔。男はフラーテル、女はソロルと呼ばれる悪霊である。
さて、今来ている客人は女性だ。彼女がソロルなのかと言われれば、それは違うと答えられるだろう。死霊は忌むべきものだと霊は言っていた。だが、今の霊は客人と親しそうに話している。その様子からは、忌むべきものを相手にしているようには見えない。
何を話しているのか、耳を傾けてみる。
さっぱりわからなかった。
そう、あの二人。もうここ三十分ほど、私には分からない言語で楽しそうに話し続けているのだ。何だろう、この疎外感。何の罰ゲームだろう。疑問に思う私を余所に、時折笑い合う二人がちょっと憎かった。
そして私が興味を抱いたのが、聖杯アガレスだったのだ。
特別な力を持つ聖杯。もしも、これが聖なる力によるものなのだと信じられたならば、霊の店で眠るようなことはなかっただろう。だが、その昔、この聖杯は忌まわしきものとして捨てられた。人を怠慢の罪に陥れると判断されたためらしい。その理由は、この聖杯の効果にある。
この杯で何かを飲めば、その者はすべての言語を知ることが出来る。
つまり、勉学に励まずとも異国の言葉を知ることが出来るのだ。
ただ便利なだけで結構じゃないかと思うところだが、どうやら聖杯を管理していた教会の者たちにとってはそうはいかないらしい。彼らによれば言語の違いというものは傲慢な人間たちへの神の罰であり、試練である。それを自らの努力ではなく、得体の知れぬ魔によって克服するのは神への冒涜なのだとか。
でも、そんな偉い人の評価なんて私にはどうでもいい。幸いなことに私は信者じゃないので、喜んでその力の恩恵を受けることが出来るはずなのだ。そう、出来たはずなのだ。これが聖杯なんかじゃなかったら。
嗚呼、可哀想な〈アガレス〉。
誕生を望んだはずの者たちには忌まわしいと捨てられ、この私には聖なるものだと恐れられて嫌厭されるなんて。
だが、生理的に無理なものは無理だ。残念だが、このドーピングであの二人の楽しげな会話の詳細を耳にすることは出来なさそうだ。ぐっと我慢して、私はただ時を待っていた。
結局、透けた体をしたお客さんが帰ってくれたのは、時計の針が夜の七時を回ったころだった。とっくに営業時間は過ぎている。迷惑な人だ。ちょっと不機嫌になっていたのは、お見送りする霊が上機嫌だったからだろうか。醜い嫉妬と分かっていても、透けたお客さんと二人だけで秘密の会話を楽しんでいるのが面白くなかった。
「さてと、もうこんな時間ね」
客を笑顔で追い出すと、霊は店じまいを始めた。私も無言でそれを手伝う。機嫌が悪くなっていることには気づいていないらしい。カーテンを閉め、応接用の椅子とテーブルの位置を整えていると、やっと霊は私の表情に気づいた。
「あらあら、ご機嫌ななめ? もしかして、妬いちゃった?」
「違います」
「ふうん。でも、確かにあの人、きれいだものね。体が透けているのが残念だわ。牙を食いこませられないから」
「相変わらず、女好きですね」
自分で思っていたよりも冷ややかにそう言った。しかし、霊にはまったく効果がない。すまし顔でさっさと暖簾をくぐり、居住空間へと帰っていく。置いてきぼりにされ、惨めな気持ちになる。そこへ追い打ちとばかりに廊下から店の電気を消された。
ひどい。
「ちょっと待ってくださいよ、霊さん!」
観念して追いかけてみるも、立ち止まりもせずに霊は階段をあがっていく。もしかして怒らせてしまったのは私の方なのだろうか。嫌われてしまったとかそんなことはないよね。不安になりながら、私は霊を追いかけた。自室へと入っていくのを確認し、すぐに続いて扉を開けて踏み込んだ。
「霊さん!」
扉を開けてすぐ。無意識に正面のベッドに座っているものだと信じて疑わなかった私の視界には、誰もいない。直後、真横から何かに捕まえられた。
その後の記憶は少し飛ぶ。気づけば私はベッドの上で手かせ足かせをつけられていた。
「あ、あれ? え? えっと……」
部屋が妙に暗い。抵抗をほぼ封じられた格好で心細い思いをしている中、見降ろしてくるのは魔物の目をした霊。主従関係を徹底的に叩き込む、とても素敵な目をしている。
「ご機嫌斜めのようだから、機嫌を直してもらおうかと思って」
機嫌を直す。なるほど、包み隠さない霊の性格はとても好きだ。つまり、今から強制的に機嫌を直さざるを得ないことになってしまうわけか。すごく楽しみなのだけれど、それを素直に口にするのは何だか悔しい。従属性を与えられているはずなのに、プライドだけは馬鹿みたいに高いのがこの私なのだ。
「吸血には付き合ってあげます。だから、これは外してください」
手かせ足かせで満足に動けない。具体的に言えば、右手首と右足首、左手首と左足首を固定されている。それ以上にどんな格好をしているのかを述べることはやめておこう。あまりいい美しい恰好ではない。その方面に美を感じる人ならば違うかもしれないけれど。
もがく私を見て、霊はくすりと笑った。その視線をまともに受けてしまって、身体がびくりと反応した。スイッチが入れられたみたいだった。なんて目をしているのだろう。心が、心臓が、震えてしまう。魔女の性が彼女を求めて手を伸ばしている。もっと笑ってほしい。もっと酷いことをしてほしい。美しい悪魔に身を捧げることのなんと楽しいことか。
「いい顔をしているわね、幽」
艶めかしい。肌をなぞられるだけで脳が溶けてしまいそうだ。優しく、残酷なことをされているような気分になるのは、霊の表情のせいだろう。牙を当てぬままそっと舌を首筋につけて、彼女は囁いてきた。
「世の中はいい女ばっかりよ。美味しい血の詰まった艶やかな肉体。捕まえて、抱きしめて、弄びながら血を吸うのはとても好き。でもね、幽。今の私にはあなたがいる。どんなに魅力的な獲物も、あなたから直接いただく血の恵みと比べたら、たちまちつまらないものになってしまうの」
「――そうですか。でも」
内心ぞくぞくしていながらも、私は強がってみた。
「あなたがお好きなのは〈赤い花〉なのでは? それなら、同じ心臓を受け継ぐ人は他にもいます。ええ、そうです。ダンピールの〈赤い花〉だって、この広い世界を探せばいるかもしれない。私じゃなくたっていいはずです」
「いたとしてもそれは幽じゃない。あなたの容姿、あなたの声、あなたの香り、そして被虐的な魔女の性。それらすべてが一致する人物なんているのかしら。いたとしても、今ここで手に入れられる代物じゃないわ。ねえ、私の……私だけの〈赤い花〉」
心臓をさぐるようになぞられて、緊張が増した。
世の中には〈赤い花〉を珍味として食す者がいる。魔を冠しない人間にだって、人肉愛好家なんてものがいると噂には聞く。そういった人たちは〈赤い花〉の魔女や魔人を高額で取引するらしい。かつては堂々と行われていた売買。今では犯罪に他ならないが、バレなきゃ犯罪にならないという恐ろしい言葉もある。
霊は吸血鬼だ。彼女の命の源は人肉なんかではない。そういう趣味もない。でも、怖かった。呼吸が乱れるほど、怖くて、心細くて、そしてぞくぞくした。今、私の命の行方は霊に預けられている。霊がちょっと気分を変えてしまえば、残酷に絞められてしまうかもしれない。その危ない綱渡りの感覚がたまらなかった。
「それとも」
ふと霊が指の動きを止める。
「あなたは吸血鬼なら誰でもいいというの? 誰かを蹂躙して喜ぶ淑女ならば、霊でなくとも誰でもいいと。あなたはそう言いたいのかしら」
「そ、そんな、違います。私は……私は霊さんじゃないと――」
慌てて弁解する口を唇で塞がれた。
不安でいっぱいだった分、とても幸せな味がした。満足に動けないながらも心身から味わっていると、霊は急に唇を離してしまった。
「安心しなさい」
私の髪を弄びながら、霊は静かに言った。
「冗談に決まっているでしょう?」
こうして、今宵の夕食は始まった。
愛とは何だろう。簡単に嫉妬に狂ってしまうのは愛のせいなのか。よく分からないまま、私は夕食にありついた。お互いがお互いの命を長引かせるこの行為。誰にも邪魔されずにいられれば、世界が滅びるまで二人で途方もない時間を過ごすことだってできる。
そうだ。誰が割って入ろうとも、私と霊は固く結ばれている。魔術は解けない。嫉妬なんかに支配されるのは馬鹿みたいだ。気にする方がおかしい。ただの商談じゃないか。
だから、今はただ、この悦楽に浸っていよう。それだけを信じて、私は幸福に沈んだ。