後編
笠がようやくやってきたのは、〈ビレト〉を求めてやってくる過激な客の数が二桁に届きそうだという頃だった。
一度断れば二度と訪れてこなかったものの、今度は違う事情を抱えた客がやってくる。そんな状況が続くものだから、一人きりで神妙な表情で入店してくる客がいると自然と身構えてしまっていた。たいていは普通の客だが、忘れないうちに〈ビレト〉を求めてくる者はいる。
このまま半永久的にこの状況が続くのだろうか。明らかに〈ビレト〉を管理するための依頼料と負担が見合わない。途方に暮れてしまいそうなところで、曼殊沙華の依頼を受けて笠はやってきたのだ。
「噂の出所は分からねえ」
狸の姿で笠はそう言った。
「ただ、もともと奴を黙視していた連中の仕業ではなさそうだ。人の噂は少しの綻びから漏れ出すものだ。ここに持ち込んだ依頼主の近辺からが疑わしいが、今となっちゃ、優先すべきは犯人捜しではなくどうするべきかだ」
「それで、私たちはどうするべきなの?」
面倒くさそうに霊は頬杖をついている。ここ連日、〈ビレト〉目当ての客を説得してきたのだ。気疲れしてもいるのだろう。私も同じだ。霊ほど疲れてはいないはずだが、さまざまな客のさまざまな事情を聴いているうちに、精神的な疲労が蓄積してしまったらしく、倦怠感は常に残っていた。普段、寝不足になるほど霊との食事に付き合わされても疲れないというのに厄介なものだ。
そんな私たちの前に笠は風呂敷を置いた。包み方から察するに瓶のように見える。
「これを使えとの事だ」
そう言って取り出したのは葡萄酒だった。途端に霊の目が活き活きとする。いけない。こんなところで酒飲みのスイッチを入れてはいけない。だが、すぐに笠が笑いながら霊の前からボトルを遠ざけた。
「おっといけねえ。こいつはあんたのもんじゃねえ、〈ビレト〉……だったか? フープピアスちゃんのためのもんだ」
それを聞いて、霊の表情がすぐに不満そうなものになった。
「別に飲みたいなんて言っていないでしょう。もっと美味しいお酒はいっぱいあるもの。それに、幽の血の方がずっと美味しいから全然欲しくない」
「ふうん、吸血鬼様の御好みはよう分からんね。幽、失血死する前に曼殊沙華のお家にでも避難するんだぞ」
げらげら笑いながら悪戯っぽく助言されたが、冗談にならないのではと思い当たる場面が多すぎて引き攣った笑いしか出ない。しかし、そんな私は置いといて、話は進んでいった。
「この葡萄酒はクロコ国のイムベルという地域で作られ、普通に売られているものだ。だが、古来、イムベルでは悪魔憑きだと民衆を騒がす怪しげな物品が出るたびに、現地で生産される葡萄酒に浸して清めてきたという。曼殊沙華の御方々が記録者どもをとっちめて吐かせたところ、もともとあのピアスリングもそうやって浸されていた時代があったらしい。その頃はただならぬ存在感を出しつつも、ごく一部の財宝目当ての盗賊以外は寄せ付けなかったそうだから、効果があるかもしれねえ」
「試してみろという事ね」
そう言って手を伸ばそうとする霊から、笠はさらに葡萄酒を遠ざけた。
「……というわけで、幽。この葡萄酒を頼んだぞ」
自然な流れで私の手元にボトルが置かれる。さすがは酒飲みの霊だ。付き合いの長い笠に全く信用されていない。それだけ酒にまつわる情けない姿を見られてきたということだろうか。かくいう私も此処で働き始めてそんなに経っていないはずなのに、我が主人と酒という組み合わせは出来るだけ避けたいと思うほどだった。
「何よ、二人して。だいたい〈ビレト〉は人の血を引く幽に触れさせるなって言っていたじゃない。いくら私でも、ちょっと珍しいイムベルだからって、大切な葡萄酒をほんの少しだけでも飲んでみたいだなんて……」
すごく思っていそうな表情なのは気のせいだろうか。
「とにかく、私が行き場のないモノを管理してどのくらい経つと思っているの? これまでだって曼殊沙華の御方々からの預かりものに手を出した覚えはないはずよ!」
腕を組んで怒る霊はちょっと可愛い。実際にどのくらいこんな生活を続けているのかは、あまりよく知らないのだが、普段からのモノに対する愛情を身近で見てきた。同時に酒におぼれる姿も見てきたが、少しだけ常識的な方が上回ると言ってもいいだろう。
笠は狸の顔でにやりと笑った。
「冗談だよ冗談! ちょっと揶揄っただけじゃないか!」
小さな手でぱしぱしとテーブルを叩くおっさん狸を見つめながら、霊は頬杖を突きながら呆れ顔をする。
「面白くない冗談だわ。それで、〈ビレト〉は具体的にどうしたらいいわけ?」
「適当な小皿を用意しろ。そこに葡萄酒をどっぷり入れて、ピアスを浸すんだ。ピアスの全体が沈むくらいの深さがいいな。八日に一度、日差しの当たらない場所で真っ赤な葡萄酒に浸してやるんだ」
「八日に一度、これまた手のかかる子ね。分かったわ、しばらくその方法を試してみましょう」
そして、霊は流し目で私を見つめた。
「あなたは絶対に触っちゃダメよ。いいわね、絶対よ」
言われれば言われるほど触りたくなるのが不思議なところだが、シャレにならないことが起きそうなのでぐっと我慢すべきだろう。それに、霊の言いつけを守らずに愛想をつかされるようなことになれば、死ぬよりもつらい。
「はい、絶対に触りません!」
「あらまあ、素直でいい返事ね。ご褒美をあげなくちゃ」
ご褒美。いったいどんなご褒美なんだ。瞬時に心をかき乱され、自分がどんな顔をしているかも分からない。きっと情けない顔だったのだろう。笠に呆れられている。
「いちゃいちゃするなら俺が帰ってからにしてくれ」
心からの要望らしかった。
笠が帰ると、さっそく〈ビレト〉のための準備がはじめられ、触れることの出来ない私も傍でそっと見守った。受け皿にはまだ煙草の臭いを知らない灰皿が選ばれた。古物ではなく、昔、百花魁伝いで無花果氏からいただいたお土産品らしい。マグノリア産の金属製の水を張れる形のもので、霊のイメージによく合った薔薇のデザインである。霊は喫煙しないので、多分、来客用にとの事だったのだろうけれど、来客用の灰皿はすでに存在しており、結局、倉庫で埃をかぶることになってしまったという可哀想な代物だ。まさか、本来の用途以外に役目が来るとは思わなかっただろう。
「一度も使っていないだけあって綺麗なものよ」
「でも、いいんですか? 灰皿ですよ?」
「いいのよ。〈ビレト〉にとって大事なことはそこじゃないもの」
そう言って、霊は灰皿の中にピアスを置いた。場所は物置の棚の中だ。日が当たらない場所が選ばれているが、見ようと思えば見ることが出来る。そんな場所だった。葡萄酒を開けると途端に芳醇な香りが伝わってきた。霊の顔を見てみれば、飲みたくて仕方がないという気持ちが端々に現れていた。
「霊さん?」
「分かっているわよ。美味しいお酒は他にあるもの」
そう言って、とくとくと灰皿に酒を注いでいく。〈ビレト〉の全身が浸かるあたりで止めると、きっちりと蓋を閉めて、ため息を吐いた。
「〈ビレト〉、珍しいイムベルに満たされた気持ちはどう? お願いだから、これで落ち着いて頂戴ね」
そして、葡萄酒ともども棚にしまい込んで鍵を閉めると、葡萄酒よりも少しだけ赤い目がこちらをちらりと見つめてきた。
「さてと、ご褒美をあげるんだったわね」
「ご、ご褒美ってなんですか?」
忘れかけていた言葉に固唾を飲む私に、霊は微笑みを浮かべる。頬を撫でられると、興奮なのか恐怖なのか判別のできない身震いが生じた。その反応が、霊の笑みをさらに深めたらしい。支配的なその眼差しがたまらない。
霊は耳元で囁く。
「分かっているくせに」
そのままもたらされたのは、残酷な痛みでも焦らしでもなく、素直な口づけだった。肌がカッと熱くなって、こちらからも求めてしまった。どちらが捕食者なのか分からない濃厚な触れ合いがしばらく続くと、ふと霊が棚にしまわれた〈ビレト〉へと目を向けた。
「〈ビレト〉を求める人たちは、こういった温もりが欲しいのでしょうね」
「……でも、その代償が死というのは重すぎますよ」
「そうかしら。もしも私がその立場だったら――」
言いかける霊の横顔をまじまじと見てしまった。今の私たちを強く結んでいるのは、私のかけた魔術のはずだ。それでも、先に手を出してきたのは、霊の方だった。もちろんそれは、ただ食欲を満たすための捕食であって、恋愛感情なんてないものだと思っていたけれど、本当はどうだったのか霊が語らない限り分からない。
「その立場だったら?」
恐る恐る訊ねてしまう。もしも、私たちが人の血を継ぐもの同士だったら、主従の魔術も使えなかった。ならば、どうなっていただろうか。
しかし、霊は答える代わりに首筋に軽く口づけをくれた。
「たらればなんて、言ってもしょうがないわ。……いただきます」
そうして、今宵の食事は倉庫の中――たくさんの古物たちが息を潜めている空間で行われることとなった。求め、求められながら、恍惚の端々で私は〈ビレト〉の潜む棚を見つめた。そこにはたくさんの想いと悲劇が眠っている。運命を共にすることを願った人たち。私たちはせめて、生きながら、〈ビレト〉と運命を共にしよう。
葡萄酒が効いたのだろうか。その後日、〈ビレト〉を求めて訪れる客足はぱったりと消えてしまった。




