前編
実らない恋を育んでしまった辛さをどう解消するべきか。
いつだって人生なにもかも上手くいくとは限らない。欲しいもの、進みたい道を諦めて、違う選択をしなくてはならない時だってある。運命の恋だと信じていても、相手にとってはそうでないという場合だって存在するものだろう。
もしも、心より愛する人が自分を振り向いてくれない人だったとしたら、どんなに願っても、手の届かない場所に居るとしたら、そして、その状況を覆してくれるモノが手元にあるとしたら、私はどうするだろう。
これを身に着けて願えば、両想いになれる。持ち込んだ女性がカウンターに置いたのは、そんな噂がついた小さめのフープピアスだった。金のリングはシンプルでいて上品なものだ。高級感が漂う以外は何の変哲もないピアスに見えるが、言葉に言い表せない雰囲気は確かに存在した。置かれた瞬間に我が主人であり、店主である霊の顔つきがわずかに変わったのもそのせいだろう。何がとはうまく言えないが、このピアスは目にしたときから不気味だった。
持ち込んだ女性は落ち着いた様子ながらもピアスに触れるのを躊躇っていた。そもそも、これは彼女の私物ではないらしい。
「姉がどうしても手放したいのだと私に託してきたのです」
静かな声で彼女はそう言った。
「恋が叶うピアスだと。その力はきっと確かなものだと姉は信じていました。それでも、このピアスを目にするのも嫌だって、自分で売りに行くのさえも怖いといって本気で怯えていて、それで私が……」
「もしかして、このピアス……もともとの持ち主はお姉さんではないのでしょうか」
霊が訊ねると、客人はすぐに肯いた。
「ええ、ええ、そうなんです!」
とても言いにくそうに、背景を語る。
「このピアスは、姉の親友が海外の市場で購入したものだそうです。店主から聞いたというピアスの魔力を聞かされて、姉も半信半疑で聞き流していたのだと。けれど、それから間もなく、姉の親友は長く片思いをしていた相手と交際し、そのまま結婚したんです」
けれど、結婚が決まったその直後、その親友は幸せそうな生活の片隅で、時折、明日が来る不安を訴えるようになったらしい。どうやら、店主に聞かされたピアスの魔力には続きがあったようだ。このピアスはただ両想いにしてくれるわけではないのだと。ピアスに念じた縁は強固なものであり、代償も決して小さくはないのだと。ピアスによって結ばれた二人に待ち受けているものは、決して良い未来ではないのだと。
「それから三年後、姉の親友は愛する旦那様ともども亡くなりました。夫婦で旅行していた先でのことだそうです。珍しい事故ということになりましたが、残されたピアスの処理を姉に託すという手紙が見つかってから、姉もこれを恐れるようになったのです」
亡くなった。良い未来どころではない。非常に強い魔力がそこにあるのだとしたら、その死が、その事故が、このピアスのせいであるのだとしたら、危険な古物であることは間違いないだろう。
「お願いです。どうかこれを引き取っていただけないでしょうか。処分費用がかかるのでしたら支払います。これが手元にあると、姉も私も怖くて普通の生活に戻れないのです」
霊はじっとピアスを見つめ、艶めかしい手つきでリングに触れている。しばし、その手触りを確かめてから、客人に向かって答えた。
「分かりました。お預かりしましょう。その後の処分については、しばらくお時間いただいて此方で判断いたします。後日、またお電話差し上げてよろしいでしょうか」
こうしてピアスは私たちの手元に転がり込んできた。
救われたような表情で客人は去っていく。そんな彼女を見送ってから、霊は改めてピアスを見つめた。
「この子には、あなたも触らない方がいいかもね」
「そんなにまずいモノなんですか?」
「さあね。詳しいことは曼殊沙華の人たちに判断してもらわないと。ただ、念のためよ」
ピアスを握り締めながら霊はそう言った。
このピアスの力で人が死んだかもしれない。そう思うと、こうして霊が握り締めていることだけでも心配してしまった。
さて、曼殊沙華の人たちはこのピアスをどう判断するのか。数日後、その答えを持ってきたのは、いつもと変わらず笠であった。
「こいつは、とんでもねえ代物のようだ」
赤い小箱を手にしながら、狸姿の笠はそう言った。小箱にはピアスが収められている。中から出す気は全くないようで、鍵がしっかりとかかっていた。それでも、あの中にピアスがあるのだと思うと、妙に恐ろしく感じてしまった。
「曼殊沙華の御方々が少し調べたところ、すぐにこのピアスと思われる事件記録が出てきたらしい。このピアスは前科者だ。少なくとも五組の夫婦と三組の恋人たちの死にこのピアスが関わっている。組み合わせは様々だ。男女だけではなく、同性同士もいたらしい。ただ、その全てにおいて魔物は含まれていないという特徴があった」
「全員、人の血を引いていたのね」
霊の言葉に笠はゆっくりと頷いた。
「それも魔の血を引いていれば免れるわけでもなさそうだ。一組が翅人同士だったからね。生前または死後にピアスを誰かに譲り渡していたらしい。早々にこのピアスのまずさに気づいて監視している者がいたらしくてね、そいつらから色々聞きだしたらしい。単なる記録者であって、救いのヒーローなんかじゃねえ。ただじっとピアスの犠牲者を眺めて記録していただけだったそうだ」
「そんな人たちからどうやって情報を聞き出すのかしら。曼殊沙華の人たちって相変わらず不思議よね」
茶化すように霊は言ったが、笠は咎めるような表情をした。
「とにかく、このピアスの管理は厳重に行ってくれ。ランクA以上の扱いで頼むぞ。間違っても客人の目に届く場所に置くな。それと、念のため幽は触れるんじゃない。あとは名前を付けるなり、可愛がるなり好きにすればいい」
自由がありそうでそうではない。こちらで預かることはほぼ確定しているのだから。ランクA以上となれば負担もそれだけ重い。それも、私は触れてもいけないなんて恐ろしすぎる。ただし、人が死んでいる背景がある以上、このピアスを無責任に放置するわけにもいかないだろう。そもそも、我が主人の眼差しを見れば、異議を申し立てたくなる気持ちもぐっと抑えられた。警戒し、慎重になりつつも、その瞳の奥には確かにモノへの慈愛がある。恐れられ、死の呪いを重ねていく忌まわしき代物であっても、霊にとっては居場所のない哀れな存在なのだろう。
愛すべき主人の意思に従うのが私の幸せ。魔女の性によってそう刻まれている以上、疑いようがない。それに、私は隷従という立場を忘れたとしても、純粋に霊の気持ちを尊重したかった。
「分かったわ、笠。雷様にお伝えして。この代物を二度と人の愛憎に利用させたりはしないと」
やっぱり、私の考えは正しい。霊の眼差しに、小箱に入ったピアスへの侮蔑はいっさい含まれていないのだから。
「相変わらずだな、あんたは。分かった。確かにお伝えしておこう。国内一、モノを愛している吸血鬼様の手元なら、無能な記録者たちの仕事も退屈なもんになるだろうってよ」
豪快に笑いながら笠はそう言った。私もまた彼の意見にある程度は同調する。霊は決して弱いわけじゃない。古物を無責任に手放すこともない。悪用することもない。このお店がなくならない限り、ピアスが外に出て行くなんてことはあり得ない。
笠も帰ったその日の閉店後、霊はピアスの小箱をテーブルへ無造作に置いてしまうと、鼻歌混じりにこう言った。
「名前は〈ビレト〉にしようかしら」
上機嫌な様子で私に近づいてくる。逃げる間もなく、肩をぐっと掴まれてしまった。
「今日からこの店の住人になるのだもの。少しでも歓迎してあげないと可哀想だわ」
危険なものなのに、という言葉が出かかった。いや駄目だ。そんなことを言ってはいけない。取り扱いを慎重にすれば、死人の出たピアスだって静かに過ごせるはずなのだ。それに、私が何かしらの意見を言う暇なんて与えられなかった。
食事には不必要な触れ合いが続き、思考がだんだんと鈍っていく。霊の香りに包まれると、罠にかかった獲物のように動けなくなってしまう。そんな私を霊は強く抱きしめて、ゆっくりと食事を始める。痛みと、苦しみと、快楽と、安堵がここにある。いつものことなのに、飽きる予感が全くない至福の時間だった。
血が抜かれていくうちに、視界が暗くなっていく。立ち眩みがして、力が抜けて行っても、すぐには解放してもらえない。今宵はお腹が空いていたようだ。ちょうど私もそうだった。明らかな貧血の症状と一緒に、言葉に出来ないほどの解放感に満たされて、普段考える殆どの事柄が頭から抜け落ちていった。
しかしそんな時間にも終わりはやってくる。満足した霊が牙を抜き、ただ私を労わるように撫で始めた。その優しい手つきと、脱力に甘え、私は霊の膝枕を堪能した。見上げれば、霊の優しい眼差しと視線がぶつかり合う。その眼はまだ吸血鬼の赤色に染まっている。沈黙の中で触れ合っていると、霊は優しく語り掛けてきた。
「笠も言ったけれど、あなたは〈ビレト〉に触れては駄目よ」
無言で頷いてから、ふと疑問に思ったことを訊ねた。
「〈ビレト〉はどうして、自分の結んだ人たちの命を奪うのでしょうか。奪うくらいなら、そんな力、初めから与えなければいいのに」
「与えなければ、奪うことが出来ないじゃない」
即答されてぎょっとした。
「〈ビレト〉は人の命を欲しがっているのですか? どうして?」
「その動機について、確かなことは私にもまだ言えないわ。もしかしたら、〈ビレト〉は別に人の死など望んでいないのかもしれない。ただ、モノの心は生き物の心とだいぶ違う作りで出来ている。人の世が生んだ善悪なんて、モノの世界にはないに等しいことが多い。分かっていることは、〈ビレト〉は奇跡の力で人を番わせ、その力で番ったふたりは近いうちに不幸に見舞われることだけ……それでも」
「それでも?」
「世の中には人の命を欲しがって悪魔のような力を与えるモノも存在するのは確かよ。悪気があってしているのではないわ。私が人の血を求めるように、あなたが……支配されることを望むように、人の命を絶えず求めてしまう。そういうモノは廃棄すべきなのかしら。私はそうは思えない。別の方法を考えて、安全な場所に隔離する方が正しいと信じている」
憐れみを持つような目から赤みがだんだんと失われていく。それに従って、私が魂より求める威圧感が薄れていった。それでも、今ならはっきりと言える。魔女の性を満たしてくれない霊であっても、私は愛している。もしもこの人が私の理想とする主人でなくなったとしても、永遠に傍に居たい。
「それは、〈ビレト〉が可哀想だから、ですか?」
訊ねてみれば、霊は私を見下ろしたまま微笑みを浮かべた。
「そうね。可哀想。私の勝手な気持ちだろうけれど、存在そのものを否定されるモノを放っておくことは出来ないの」
そしてため息交じりに視線を外した。
「それに、曼殊沙華の人たちのご命令でもあるの。いわくつきのモノを何も分からないまま廃棄して、その廃棄物が未知のモノに変化したら恐ろしいことになる。だから、厳重に保管して欲しいと言われたものは、どんなに危険な噂があってもその通りにしなくてはいけないの」
モノを憐れみ居場所を守りたい霊と、危険物の管理を徹底したい曼殊沙華の一族。目的は同じだが、その志は完全に等しいわけではない。ここは絶対に忘れてはいけない部分だ。曼殊沙華の家は絶対的な味方というわけではない。私が従うべき存在は霊であって、それ以外の誰でもない。どんなに危険であろうと、彼女が〈ビレト〉を守りたいというのなら、私もそれに従うだけだ。
そんな思いを秘めながら、夕食後、私たちは〈ビレト〉を物置の中で眠らせた。そこではランクA以上の古物たちが異様な雰囲気を醸し出している。鍵のかかる棚には古物たちがひしめき合っている。いつかここにしまい込んだ〈バルバトス〉など、名前の付いたものもいくつかがここにある。だが、名前もつかず、所有者の依頼でここに保管されているモノもあるらしい。正当な持ち主は霊ではないが、もうずっとここで静かに待っているモノたちだ。そんな彼らの安らかな眠りを妨げないこともまた、私たちの役目である。
「〈ビレト〉」
小箱を撫でながら、霊は語り掛ける。収納棚の中に丁寧にしまうと、微笑みを向けた。
「今は何もかも忘れて、ここでお休みなさい」
幼い子どもを諭す母親のようだ。相手が人の死を招いたと疑われる代物だとはとても思えない。だが、そんな彼女のモノに対する態度は嫌いじゃない。この眼差しを守りたい。そのためにも、私はせめて寄り添って、彼女の支えにならなくては。




