前編
何も知らない私がその長椅子に初めて座らされたのは、霊の本性を知ってから間もなくのことだったと思う。アンティーク調のカウチで、長椅子というよりも寝椅子と言った方が相応しいだろうけれど、古物の詳細を記録してあるリストには長椅子と書かれていた。いかにもふわふわとした座り心地の良さそうな見た目なので、勧められるとついつい座ってしまうと思う。というか、まさか椅子に座るという単純な動作にまで警戒する人なんてそんなにいないだろう。
しかし、霊との関係は一瞬たりとも気の抜けないものであった。それを日々思い知らされたうちの一つが、この長椅子の存在である。
椅子を前に立っている私と、背後から両肩を抱いてくる我が主人。客足という不定期かつ不確実な助けを期待しようにも、今は閉店時間である。
「そんなに怖がることないじゃない」
面白がってそう囁く霊の声に震えてしまった。目で確認したわけではないが、おそらく彼女の方はすっかりお食事モードなのだろう。だが、単に牙を食い込ませて血を飲むという栄養補給では満足してくれないのが今の彼女だ。かつては眠っている私を起こさないように気を付けながら勝手にお食事をしていたというのに、自分の正体がばれて以降の霊は堂々としすぎている。どちらがマシかと言われれば、ぎりぎり犯罪かどうかの差で今の方がずっとマシだろうとは思うけれど。
あれから半年以上は経ってはいる。一年未満とはいえ、正式に恋人関係になってからは、お互いの事をよく知ってきたものだ。すべてを見せたと言っても過言ではない。アイアンメイデンコースという天国と地獄を同時に味わった日だってあった。
それでも、この長椅子を前にすると、躊躇いは生じた。何も知らずに座らされた日の記憶はまだまだ薄れそうにない。
「ねえ、いいでしょう。久しぶりに見てみたいの。それに、〈シトリー〉だって退屈していると思うのよ。このところ、この子を使ってお仕置きできる相手もいなかったし」
「だ、だとしても、この〈シトリー〉は――」
主人の軽い推奨くらいでは自ら座ることが出来ないのには理由がある。この長椅子はただの古物ではない。それは名前がついていることからも分かるだろう。ランクはBで、主に拷問に使われるものだ。ただ、拷問と言ってもアイアンメイデンのように分かりやすく暴力的なものではない。座ったものが感じるのは苦痛ではなく、快楽と恥辱、そして疲労だ。長椅子には〈シトリー〉と名付けられた何者かが取り憑いており、女性の幻影が現れて座った者の精神を汚濁するのだ。その感触は非常に悩ましく、座っただけで眠っていなくても淫らな白昼夢を見せられてしまう。
何も知らないで座った私の末路がこれでお分かりかと思う。非常に腹立たしいことに、〈シトリー〉は特定の人物を主人と認める。主人には牙を剥かず、与えられる獲物を楽しみにしているらしい。もちろん、霊はその主人だ。したがって、共に座ったところで霊は淫らな夢を見せられたりしない。
あの時もそうだった。狂わされたのは私だけ。そのなんと恥ずかしいことか。それに、かなりの疲労もあった。朝ではなく夜に使われるのはそのせいだろう。このまま躊躇い続けるのもいいが、きっといつまでも抵抗は出来ない。今のままでは足も動きそうにないが、そこを動かすのが霊である。
「私の願い、聞いてくれないの?」
耳元で悲しそうに囁かれてしまえば、心が乱される。当たり前のひとりの“人間”として持っていたはずのプライドも、主従の魔術の影響に愛情が重なって、抵抗感すらも砕かれてしまうのだ。
霊の触れる感触すら心地いいというのに、これ以上は……。そう思いつつも、甘えてくる我が主人の願いに結局逆らえず、気づけば私は〈シトリー〉に座らされていた。途端に、ふんわりと生暖かい感触が全身を包んでいく。霊も共に座ったが、彼女の方は全く動じていない。何も異変が起こっていないのだろう。私の方は気が気でない。霊が触れるのとは別に、何者かの柔らかな手の感触が確かにあった。
耐え切れずに目を閉じると、瞼の裏に女性らしき影が映りこんだ。霊の姿とは違う。これが〈シトリー〉なのだろう。
「いい子ね、幽。そのまま我慢してちょうだい。私が血を吸う前に〈シトリー〉に飲み込まれたりしたら、許さないんだから」
安定の無茶ぶりである。〈シトリー〉の力に影響されないからこその無理解である。「それなら何故、座らせたのだ」などと突っ込みたいところだが、そんな余裕は全くない。それに、霊の理不尽さに腹を立てるほど私は冷静ではいられない。主従の魔術という絆があろうと、私の心のどこかには常に嫌われる恐怖というものがあり、その中枢には従属を悦ぶ魔女の性が息を潜めているからだ。
それにしても、今宵は何だか妙に勿体ぶる。許さないとか言っておきながら、私が〈シトリー〉に負けるのを期待しているかのようだった。そうとしか思えないほど、霊は牙を食い込ませるまでにかなりの時間をかけてきた。
「霊さん……は、早く……」
耐え切れずに求めると、霊は実に楽しそうに笑みを漏らした。
「仕方ないわね」
そう言って、〈シトリー〉に負けず劣らずといった具合で直に触れてくる。霊の手にかかれば、どんなに脱がしにくい服も半裸になってしまうものだ。ただ、今回は〈シトリー〉を意識してか、隙間から侵入するに留まっていた。
だが、霊の武器は手ではない。吸血鬼である彼女の真の武器は美しいその牙だ。毎日、二回は噛みつかれているわけで、生傷は絶えない。同じ場所を何度も噛むというわけではなく、消毒や絆創膏は欠かさない。というわけで、毎回新しい傷跡が増えることになる。ただ、傷だらけになっても逃げだしたくならないのには理由があった。
この噛みつきすら、魔女の性を満たすのに十分なのだ。吸血鬼の手法は魅了と快楽であるらしい。霊にもその力は十分ある。しかし、ただ快感をもたらして獲物を縛るだけではない。私の本質を知っているからこそ、彼女はわざとその力に手を抜く。
「……痛い」
恐怖と緊張に震えるこの瞬間は、霊や〈シトリー〉のもたらす快楽も忘れてしまうものだった。涙目になるくらいこの瞬間は痛いときがある。それでも、この痛みを期待している自分もいるのだ。霊はそれをよく分かっている。分かっていたからこそ、こういう関係になってしまったのだろう。血を吸われる間も、〈シトリー〉の気配は消えなかった。それでも、一度、霊の存在感が増してしまうと後はいつもと同じような展開しか続かない。
「はあ、期待した通りね」
口を離すなり、霊は満足そうにそう言った。
「縛ったり、痛めつけたりっていうのもいい味がするものだけれど、〈シトリー〉を使うのも美味しい味がする。色んなタイプの興奮がそれぞれ違う香辛料になるの」
「……たまには素材本来の味を楽しんでもいいのでは?」
〈シトリー〉の気配の消えぬ中、どうにかそんなツッコミをしてみた。どんな隠し味もなく、ただ単に血を吸われただけという日もあることはある。だが、それは私の具合が悪いときくらいだ。あのシンプルな感覚が今はあまり思い出せない。
霊はうっとりとした眼差しを浮かべつつ、呆れたような声で答えた。
「あらまあ、そんな事言っていいの? きっと、お料理しないと素材も退屈してしまうと思うのだけれど」
「そんなこと……ありません!」
必死に否定しようとしたちょうどその時、〈シトリー〉が忘れないでと言わんばかりに手を強めてきた。目を閉じようものなら、絶世の美女におもてなしされる夢を見せられる。本来、男性向けの罠とされているものではあるが、女性の私でもその夢は非常に悩ましい。罠、という言葉がぴったりな代物だ。
「ほらほら、肩の力を抜きなさい」
霊がくすりと笑う。
「夜は始まったばかりよ。せっかくの夕食じゃない」
そうして霊は一人、私と〈シトリー〉から離れていく。向かうは店内のカウンター。いつも座ってお客を待っているその場所に、いつの間にか用意されている物品がある。かつて私の誕生日に何故かラヴェンデルから取り寄せられた代物だ。どう見ても人間用ではない短鞭。人に使うには頑丈すぎるが、厳密には人でない私には大丈夫だろうとセールスマンの陽炎お姉さんと霊によって勝手に判断されたものだ。何故、用意されているかなんて考えるまでもない。
「霊さん……あの……」
〈シトリー〉に惑わされて甘い夢を見ながらも、すぐそこまで迫っている展開に怯えずにはいられなかった。そんな私を霊は振り返り、にっこりと微笑んだ。本当に楽しそうな笑みだ。少なくとも、朝起きたばかりの時や、仕事中には見せてこない活き活きとした表情である。
「不安なの? 可愛い人ね。でも、安心してちょうだい。私、手加減は得意なの」
そう言って、短鞭でビュッと風を切った。
楽しそうなその表情を見るに、信用していいものか悩んでしまう。しかし、逃げる場所なんてない。逃げる気持ちすらない。魔女の性はそれほどまでに根深く、愛欲もまたそれほど深刻なものだった。霊が満足するのならば、血塗れにだってなれるのだから。
そういうわけで、今宵も私たちは単なる食事とは言い難い夜を過ごすこととなったのだ。付き合わされた〈シトリー〉がもしも喋ったとしたら、どんな愚痴を言い出すことやら。そのくらい、私たちの夜は冷静になってみれば変態的でしかない。
だが、霊に言わせれば、〈シトリー〉は定期的に使ってくれる人を好み、その内容に関しては文句を言わないらしい。誰かを座らせて理性を狂わせる。そうすることで、自分がこの世に存在する悦びを感じているのだという。
勿論、私は古物の声なんて分からない。よって、答え合わせなんて出来ないので半信半疑だ。それでも、多くの人に古物を任せる人物として信頼されている霊が言うのだからむやみに否定は出来ない。それに、嘘くさくても愛している主人のいう事ならば、否定する気にもなれないものだった。
とはいえ、そう何度もこういう夜を過ごす羽目になるのはさすがに怖い。甘すぎる体験は心身に毒だと思う。ただでさえ霊と暮らす毎日が常識的な感覚が麻痺してしまいそうなものだというのに、この上に〈シトリー〉と何度も遊ぶとなると気が狂ってしまうかもしれない。さすがにそれは嫌だった。
それにしても、不思議だ。私が来る前だって、〈シトリー〉はこの店にあったはずだ。一体誰が〈シトリー〉を満足させていたのだろうか。
「霊さん……」
ベッドの上で共に眠りながら、まだ起きているはずの主人に向かってそっと声をかけてみる。別々の寝室がありながら、それぞれの場所で眠る夜は珍しくなっている。留守番をしている夜くらいだ。それ以外は、私が霊の寝室に招かれているか、私の寝室に霊が忍び込んでいるかのどちらかだ。今宵は、招かれている方だった。
「なあに、幽。眠れないの? そろそろ寝ないと寝坊しちゃうわよ」
「あの……〈シトリー〉のことで訊きたいことがあって」
「〈シトリー〉のこと? 明日じゃ駄目?」
とても冷たい。食事を十分満足した後はよくこんな態度を取られてしまう。ただ単に眠いだけかもしれないが、寂しさを感じずにはいられない。
「今、気になったんです。ちょっとでいいので聞いてくれませんか?」
「うーん……とりあえず、言ってみて」
「〈シトリー〉っていつから此処にあるんですか? 私が来る前は、欲求不満にならなかったんですか?」
霊が言うには〈シトリー〉は定期的に誰かを喜ばせないと気が済まない。しかし、主人はその対象外となるため、霊以外の誰かが座らなければならないのだ。私がたまに座らされるのもそのためということなのだが、それでは、私が来る前はどうしていたのだろう。まさか、笠が? そんな疑惑も浮かぶなか、返答を待った。
「そんなことをどうして知りたいの?」
ぱちりと大きな目を開けて、霊が私の顔を覗いてくる。暗闇でもわずかに光る吸血鬼の瞳には、並々ならぬ好奇心が窺えた。
「気になったからです」
素直に答えると、霊は息をつき、しなやかな猫のように伸びをする。
「ふうん、まあいいわ。教えてあげましょう。あなたが来る前は、〈シトリー〉に座りたがるお客を取っていたの。非常にグレーな業務よ。曼殊沙華の人たちと相談して、〈シトリー〉の問題行動を防ぐためにやむを得ないってことでやっていたの。曼殊沙華の雷様がうまく取り次いだものだから、憲兵さんなんかもお客さんで来たことがあったわね。あなたが来てからは無事に廃業となったけれどね」
「え、じゃあ、〈シトリー〉のことを知っているお客さんもいるんですか?」
「ええ、そうね。今でもたまに顔を見せてくる人もいるわ。もちろん、〈シトリー〉に座らせたりはしないし、そのことはちゃんと分かっている紳士ばかりだけれど」
一気に怪しげな臭いがしてきた。〈シトリー〉に座りたがるお客さんっていうと、男性客がメインだろうか。そういう目的でこの店を訪ねていた人がいたとすると、不安と心配が一気に増す。そういうお客は美しい女店主のことをどんな目で見ていたのか。廃業したことをどう思っているのか。
心配症と言われても仕方ないが、通っていたお客の中には霊に色目を使っていたようなものもいたのではないかと思うと、嫉妬と独占欲といった感情がぐるぐると渦巻いてしまった。
「まあ、気を抜けないのは確かね。〈シトリー〉は何度か盗まれそうになったことがあるの。性的な欲望はお金の話に繋がりやすい。〈シトリー〉のことを知って、よくないことに利用しようとする人たちもいるのよ」
「そう……なんですね」
拷問に使われることもある〈シトリー〉。その力を正しく制御できるのは主人である霊だけだと思うのだが、盗もうとする者たちがそのことをきちんと認識しているとは限らない。
考え込んでいると、霊がふと起き上がった。さっきまで眠そうにしていたというのに、その眼はぎらりと光っている。吸血鬼特有の目だ。思いがけず見つめられてしまうと、その鋭さにいつも怯んでしまう。
「幽」
甘い蜜でも含んでいるような声で、霊はにこりと微笑む。
「眠れないのなら、眠らせてあげる」
そんな言葉と共に、もうずいぶんと抜かれたはずの血がまた抜かれていった。




