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U-Rei -72の古物-  作者: ねこじゃ・じぇねこ
11.心に忍び寄る草履〈グシオン〉

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後編

 霊の誕生日祝いに他ならぬ自分を捧げる事となって一週間が経った。

 アイアンメイデンという恐ろしい誕生日プレゼントが使用された後、一週間ほどは店に出なくていいとかねがね言われてきたものだった。そんな大袈裟な、と思ったものだったが、確かに一週間という期間はちょうどよかった。

 この一週間のことを振り返ると、何だか妙にそわそわしてしまう。たまに霊は冗談交じりに私に大怪我をさせて介護したいというような恐ろしい願望を語ることがある。その程度は他人に話すのをはばかってしまうほど強烈で、認めたくないが魔女の性が反応してしまうような危険極まりないものなのだ。しかし、この度のことはそこに片足を突っ込むような形となったわけだ。


 満足に動けない間、霊は始終優しかった。だが、その優しさが身に沁みて、怖いと思ってしまった。愛しい人であるし、守りたい人でもある。だけど、外敵の踏み込めない二人きりの状況下では、単純に彼女の恐ろしさに怯えることが出来るのだ。

 この世に二人しかいなければ、私はきっと永遠に強くなろうと思わなかったかもしれない。こうして大部分では屈服し、ほんの一部だけ抗ってしまうのも、まだ私が霊とこういう関係になって一年ほどだからだと言われれば納得できてしまう。もしも、これが二年、三年と重なっていき、やがて数えるのも面倒なほどの時間を共に過ごしたとなればどうなるのか。少しずつ時間をかけて、いつしか反抗心すら忘れてしまうこともあり得るのではないか。


 未来の関係をあれこれ妄想してしまうと、とても不安になる。

 ただ、今のところは身も心も霊に全てを委ねっぱなしにするつもりはない。


 自分である程度の事が出来るという自由は、やっぱり尊いものだった。傷が癒えて治療が必要なくなってくるにつれ、その有難みを味わった。霊の方は少し残念そうだけれど、こうしてまたお店のカウンターに座れるようになってみれば、恐ろしく緊張したし、逆に解放感でいっぱいになった。

 アイアンメイデンはもうしばらく入らなくていい。地下で眠りについてもらおう。霊はまた使う日を夢見て楽しそうに手入れをしているみたいだが、この間が特別だっただけ。次に使用するのは、近くても一年後のはずだ。


「はあ、束の間のお楽しみだったわね」


 客のいない店の中に、霊のため息が響き渡る。ラジオの音すら、かき消してしまうそのため息は、外で降っている雨よりも重たそうなものだった。


「こっちはお腹いっぱいですよ。おかげ様で、蛍の光も成功したんですから」

「『明星』ね……って言っても、私まだ見てないんだけどなあ」


 霊が疑いの目でこちらをちらりと見つめてくる。

 そう、せっかく「明星」が成功したのに、一度寝て起きてみれば、あれは夢だったのだろうかという有様だった。しかし、心配せずとも「提灯」は出来た。ルミネセンスの一番近い応用なので、ようやくというところだが、とりあえず安心した。


「本当に『明星』だったの? 『提灯』の間違いではなく?」

「ほ、本当です! ふわふわと飛んで、自由に動かせたんですよ!」


 思い出すのは、「明星」に照らされる霊の寝顔だ。一人で満喫してからもう一週間と考えると、たしかに束の間だったかもしれない。

 そんな霊は今、私が誕生日プレゼントで購入した青空色のワンピースを着ている。個人的に彼女に着てほしかったプレゼントだが、私の快気祝いも兼ねて今日初めて着てくれるということで、見るたびにうっとりしてしまった。思っていた通り、良く似合っている。


「まあ、いいわ。『提灯』を自由に使えるのだし、すぐにまた出来るでしょう。……ああ、それとも――」


 そして、にやりと笑う。


「アイアンメイデンのお陰かしら。毎日のお食事が足りないのだとしたら、生活改善しなきゃね。もっとちゃんとお水をあげて、たまには肥料もあげないと、枯れちゃったら大変だもの」

「……じゅ、十分貰っていますって! お水や栄養のあげすぎも枯れる原因ですよ!」


 そう言いつつも、様々な期待を寄せてしまう自分が恥ずかしい。

 そんな私の本心は筒抜けなのだろう。霊は色っぽく、くすりと笑うばかりだ。


 と、そんな時、雨の音に混じって店の扉の開く音がした。何気なくそちらを見やり、はっとした。聞きなれた草履の音が先に聞こえたが、姿を見るまでは安心できなかった。だが、確かに彼だった。


「笠さん……!」

「お、おおう……元気していたかね、お二人さん」


 どこかバツが悪そうに片手をあげる。その姿は狸になっても包帯だらけだ。だが、顔つきは悪くなく、足取りもしっかりしていた。この間は紬の履いてきた〈グシオン〉を出来るだけ丁寧に脱いでしまうと、彼は狸の素足で店へとあがってきた。


「良くなったようで何よりよ」


 霊が落ち着いた声で応じると、笠は狸の顔に照れ笑いを浮かべた。


「いやあ、もともと傷は浅かったんだぁ。不意打ちとはいえ、これでも由緒正しき化け狸の血筋なもんでね。……紬の奴、なんか余計な事言ってなかったか?」

「別に何も。差し入れにいただいたお菓子もおいしく頂いたわ」


 紬から一週間前に貰ったお菓子はカスタードプディングだった。傷が癒えるまでは退屈しのぎもテレビかラジオばかりで、一日に一度だけ味わえる瞬間は、霊との食事にも匹敵するほどの楽しみになっていた。


「ああ……霊が誕生日だと聞くなり、街角の新しい洋菓子屋に電話していたからな。吸血鬼と魔女を相手に菓子とはって思ったんだが……」

「あら、私はとても嬉しかったわよ。それに、幽も美味しそうに食べていたわ。ねえ?」


 霊はためらわずに答える。


「たしかにご飯にはならないけれどね、こういうプレゼントは嬉しいものよ。だって、私たち、これでもこの社会で人間として生きているのだもの」


 そう語る彼女の横顔が何だか寂しげなものに見えてしまって、私はじっと見上げてしまった。笠の狸の目にどう映ったかは分からない。だが、彼は蘭花のテーブルへ直行すると、片手をあげてにやりと笑った。


「ふむ、そうか。それならいいんだ。お水いただける?」

「あ、はい、少々お待ちを!」


 笑う狸と何処か憂鬱としたものを目に浮かべる我が主人に見送られ、私は慌てて立ち上がり、暖簾をくぐった。復帰してから最初のお水運びだ。ソレイユの瓶はまだまだいっぱいあったと思うのだが、大丈夫だろうか。そろそろまた一緒に買い物に出掛けられたらいいのだけれど。

 そう思いながら冷蔵庫を開け、ソレイユの瓶を取り出す。紬から貰った菓子は昨日で最後だった。さり気ない毎日だけど、時間は確実に前へ前へと進むしかないのだと思うと、さっきの霊の表情を思い出して、私もまた何だか寂しい気持ちになった。


 ――お幾つになられたのかは聞いておかないわね。


 一週間前に聞いた紬の言葉を思い出し、反芻する。私もまた霊のように、自分の年を数えることを諦める日が来るのだろうか。実際の年齢と外見にズレが生じ、共に生まれ、成長してきた人たちとのズレを感じるようになれば、嫌でもそうなるのだろう。

 笠とこうして仕事が出来るのも、永遠ではない。そう思うと、霊の表情は私にとっても心に沁みた。


 ――それでも、この社会で人間として生きている。


 コップとソレイユの瓶を用意して、店へと戻る。長い廊下の床が軋む音が心地いい。笠と霊は何やら談笑している。暖簾を潜った先で、楽しそうに笑い合っていた。笠の表情や仕草は元気そうだ。その様子に少しだけほっとした。

 水を配ると、霊に椅子を引かれ、そのまま座る。それを待ってから、笠は切り出した。


「さて、今日、来たのは単なる快気祝いせびりじゃねえ。報告ついでだ」


 狸ながらに真面目な表情を見せられ、こちらもまたピリッとした緊張感を覚えた。霊の顔を窺うと、彼女もまたその眼差しに真剣なものを含ませている。


「俺を“襲撃”した連中の尻尾が掴めた。と言っても、末端中の末端なんだけどな。吸血鬼の一族だ。舞鶴でも銀箔でもねえ。鬼瓦おにがわらと名乗っている家だ。家っつっても、血縁関係のある一族じゃねえ」

「鬼瓦……屍蝋しろうのグループね」


 霊の呟きに、びくりとしてしまった。


 屍蝋という種族は、吸血鬼の一派である。しかし、彼らは生まれながらの吸血鬼ではない。屍蝋は屍蝋に選ばれた者が仲間になることで増えていく。非常にしぶとい体を持っており、その殺し方はいまだに分かっていない。そのため、彼らは不老不死の種族とされている。屍蝋がいったい何時から存在し、祖となるものが誰なのかという記録や研究材料はまだ見つかっていないらしい。


 謎に包まれているが、心配せずとも彼らは屍蝋になる段階で攻撃性を失ってしまう。万が一、彼らが敵対することになっても、屍蝋の生け捕り方や使役の仕方、封印の仕方は昔から何度も研究が繰り返され、多くの者たちが習得していると聞く。霊もその一人だ。合わせ鏡が誘ってくれる彼女の影の世界の何処かには、死ぬことも老いることも許されない屍蝋の女性が一人囚われている。その姿をずいぶんと前に見せられた。大人しくはしていたが、気まぐれに牙を剥いてきたこともあって、厄介なことになったのだ。

 彼女の件を思い出すと、やはり屍蝋が犯人という事実は不安になるものだった。だが、笠も霊も恐れてはいないらしい。二人とも恐怖など微塵も出さない表情をしていた。


「鬼瓦は面倒くさいわね。それで、あなたをやった奴は?」

「すでに曼殊沙華のお使い豚鬼ぶたおにさん方が可愛がってくれたとさ。豚鬼つったら、奴ら、斧なしで木をなぎ倒せる力があるからね。不死の吸血鬼でも戦いたくはねえ相手さ。不死っつっても、傷を一切負わないってわけじゃないわけだからなあ。その間に屍蝋狩りの御縄をかけたそうだ。今頃、何に封印してやるか話し合っているところだろう」

「あらまあ、可哀想に。でもま、笠に酷い傷を負わせた人だし仕方ないか」


 妙に目を輝かせて霊はそう言った。笠もけらけら笑っている。

 捕まったのなら少しは安心していいのだろう。曼殊沙華にそれだけの力と環境が整っているのなら、この件は彼ら任せにしても安心していいのかもしれない。ただ、心の底まで安心するにはまだ早い。


「そうそう、それでこの度の襲撃で伝えそびれていたお話もしておこう」


 笠が笑うのをやめてそう言った。


「実はね、鬼喰いと花売りの件もいいところまで見えてきたらしい。花売りは吸血鬼集団との関りが濃厚だが、鬼喰いは疑わしいとも言われていた。吸血鬼だって鬼喰いの獲物だ。そんな奴らがどうして舞鶴だか銀箔だかの言う事を聴くのだと。……舞鶴か銀箔かのどちらかが主導しているとしたら、そうなんだ。だがね、そうでないとしたら……吸血鬼集団も、翅人も、そして鬼喰いも、別の者たちにただ依頼されているだけだとしたら、また違ってくる」

「主導者が舞鶴や銀箔でもない?」


 霊の問いに、笠は肯いた。


「あくまでも可能性だ。曼殊沙華の御家々が知らない奴らの影があるんじゃないかって、そういう調査もしているらしい。……っていうのを、あんたらにも把握しておいてほしいってわけだ」


 この町でのほほんと暮らしているつもりでも、何処で見られているか分からない。それは、霊に初めて協力することになった日からずっと覚悟してきたことだった。何も知らず、魔女であることをひた隠しにしながら生きていた頃だって、何処かで私は危険な吸血鬼である天の娘として監視されていた。そのお陰で霊と出会えたのだから、結果的には良かったと言えなくもないけれど、だからと言って不安なものが何もかもなくなるわけではない。

 しかし、と、笠はまたしてもにやりと笑う。


「曼殊沙華もあんたらから貰った金の半分も働いてないわけでね、雷様に言わせれば、貰った金きっちり働かんと沽券こけんにかかわるし、あちらさんにも幼い鬼の子が大勢いるときた。憲兵隊にも取り締まれねえ領域だからって、物騒なまま放置するわけにゃいかんだろう。だから、これまで以上に手を尽くすそうだ」

「……有難いことね。ただの鬼じゃないもの。鬼神の末裔たちが監視しているとなれば、いかに鬼瓦でも大胆には動けないはずよ」


 慎重な姿勢を崩さずに霊はそう言った。私の方は何とコメントすべきか迷い、挙句の果てに何も言わない方が無難だろうという結論に至って黙っていた。ソレイユの水を飲むと、妙に舌が潤った。


「ああ、だから、そこまで怯えることもないさ。ただ、警戒は続けて欲しいとのことだ。あんたらの場合は、古物で身を守るか、二人一緒に行動するかってところだね。……まあ、とっくにそうしているのかも知れんが」

「外出は最低限にしているわ。それに、幽には悪いけれど、私の同伴以外で外出は控えて貰うことになったの。まだまだ魔法の練習の途中だから」


 ねえ、と霊に流し目で見つめられ、思わず惚れ直してしまった。何度好いても飽き足らない。まさに魔性のものだ。

 笠はそんな私の怪しい情動に気づいているのかいないのか、狸のつぶらな瞳をこちらに向けて、笑ったような表情で訊ねてきた。


「ああ、そうだったな。幽よ、そっちの調子はどうだい?」

「え、はい……あの私」


 急に話を振られると思っておらず、戸惑ってしまった。


「実は……虫の魔法を一つマスターしました」

「おお? ここで出来るやつ?」


 黙って頷くと、笠は目を輝かせた。


「そりゃすごいね。ちょっと見せてくれよ」


 まさか、小学生の子どものようにせがまれるとは思わなかった。だが、もともとの狸の容姿の可愛さも手伝って、ぜひとも見て貰いたい気持ちになった。


「分かりました。覚えたのは、蛍の光の魔術です。ルミネセンスの応用だから、習得が近いとしたらこれかなって期待していたのですが――」

「幽」


 と、緊張のせいか多弁になる私の手を、霊が怪しく触れてきた。その怪しげな手の動きに、笠の前だというのに妙な気持ちになってしまう。


「せっかくだから『明星』に挑戦してみない?」

「『明星』ですか……?」


 一週間前から一度も成功させていないのに?

 「提灯」ならすぐに出せる自信があっただけに、意外だったし緊張もした。だが、そんな私に霊は囁いてくる。


「あなたの生み出す明星を見てみたいの。きっと美しいのでしょうね。私のために、挑戦してみる気はない?」


 そんな風に囁かれて断ることが出来るだろうか。

 気付けば笠は、呆れたように私たちを見つめている。気心の知れた客人とはいえ、恥ずかしいことこの上ない。……だが、思い出してほしい。私のこの魔女の性、屈辱をもまた力に変えてしまうものなのだ。

 とくんと〈赤い花〉が音を立てた。胸に手を当てると、魔力を感じることが出来た。

 一週間前はアイアンメイデンによる純粋な恐怖と痛みがきっかけだった。だが、どうやらあそこまで追い込まれなくとも、「明星」は生み出せるらしい。


「分かりました」


 大人しく従い、私は心の中で集中した。


 ――蛍の光の魔術《明星》。


 体の一部を動かすように、魔法は簡単に発動した。指先に光が集まるのは基本的なルミネセンスと一緒だ。そこから光は極限まで絞られ、地上から見上げた明星のような大きさへと変わっていく。

 そして、ふわりと指先を離れ、店内を漂いだした。


「わあ、すげえ……」

「明星……」


 蘭花風のテーブルでぽかんとした表情の笠と霊の頭上を、明星は漂いだす。その動きは星というよりも、まさに蛍のようだ。しかし、蛍とは違い、私の意思で好きなところに動いていく。店内を好きなだけ巡らせ、もう一度、私たちの手元へと戻す。そうして、笠の鼻先に止まらせ、ややあって霊の手の甲に止まらせてみる頃に、少々目眩を感じ、魔術を中断させた。

 明星が消え、笠と霊がはっと我に返った。


「あ……とにかく順調のようだな!」


 笠が笑い、霊が興味ありげにこちらを見やる。


「ありがとう……綺麗だった」


 言葉はシンプルだったが、その眼差しに含まれている好奇心がちょっと怖い。


 それにしても、これでさらにはっきりとした。魔法が成功する確率は、私の中に眠る魔力の残量に深く関係している。思い返せば、「蜘蛛の糸の魔術」を成功させたあの日だってそうだった。とても危険な相手に追い詰められている状況で、私も霊も死んでしまうかもしれないという恐怖を感じたはずだった。でも、魔女の性は反応した。私の本能はあのピンチすらも楽しんだのだろうか。我ながら忌まわしいことだが、それが、あのように生存を引き寄せたのだとすれば、これはとんでもない秘密兵器ともなる。


 過信はいけないと分かってはいるが、色々試してみたいという気持ちにもなってしまうのだ。恐らくだが、霊も似たようなことを考えていそうだ。アイアンメイデンのお陰と言い出したのは彼女の方だし、この先も、あらゆる場面で支配欲を満たそうとしてくるだろう。時に絶大な恐怖を伴うことになるが、相手が霊である限り、恐怖に負けていてはいけない。


「蛍の光か……あとは攻撃できるようになったら心配もいらないな。これで、あんたも安心だろう?」


 笠が笑って霊に振るが、彼女は同じように笑いつつ首を振った。


「いいえ、まだまだね。虫の魔法を全部マスターしないと」

「厳しいねえ」


 笠が茶化すようにそう言ったとき、店内に置かれた時計の鐘が鳴る。笠がふとそちらへと目をやり、慌てたように立ち上がった。


「いけね、もうこんな時間か。そろそろ帰らねえとかみさんが心配する」


 そう言って椅子からぴょいと飛び降りると、そのまま玄関へと駆け寄り、手早く〈グシオン〉を履いた。その音が耳に入り、思わず意識してしまった。やっぱり、音が違う。紬の時とは違って、〈グシオン〉の音がよく耳に入ってくるのだ。

 その音を聞いたうえで、顔を上げて笑う笠の姿を目にすると、言われてみれば納得できるほどの親近感を抱いてしまった。


「そういうわけで、俺はお暇するよ。またね、お二人さん」


 そして、摺り足気味に音を響かせ、去って行ってしまった。通り雨と共に歩いていく笠の姿と、いつまでも耳について離れない〈グシオン〉の音。どうやら、心に忍び寄るというその力は戻っているらしい。草履の言葉が分かるわけではないが、笠に再び履かれることとなって、その音も何だか嬉しそうだった。


 きっと日常もすぐに戻ってくるだろう。そんな安心感を抱きながら、私は共に見送っていた霊にさり気なく視線を向けた。


「どうして、まだまだなんですか?」


 すると、霊は呆れたようにため息を吐き、腕を組んだ。


「だって、蛍の光だけじゃ強敵から身を守れないでしょう? ……それに」

「それに?」


 訊ね返すと、霊は何処か恥ずかしそうに、しかし、正直に答えた。


「……もうちょっとだけ、あなたに頼られていたいの」


 偽りのないその言葉が新鮮だった。出会ってからしばらく、彼女との力関係はあまりにも差がありすぎて、いつまで経っても私は守られる存在でしかなかった。吸血鬼と魔女なのだから仕方ないと思いかけもしたが、〈アスタロト〉が時々見せてくれる〈赤い花〉の記録の数例に目を通すだけでも、私だっていつかは霊の後ろではなく隣に立てる者になれるかもしれないという可能性を期待せずにはいられなかった。

 それでも、こうして甘えるように言われてしまっては、たまらない。この人は魔性だ。でも、完璧なわけではなく、ちょっと親しみやすく、そこが心地よくて好きなのだ。


「分かりました」


 愛しているからこそ、信頼しているからこそ、私は笑いかけることが出来た。


「魔術を習得するまでの間、頼らせてもらいます」


 そう言ってみて、妙に気恥ずかしい思いが生まれる。今更何を恥ずかしがることがと自分でも思ってしまうが、気持ちをそのまま言葉にするだけでも勇気がいることだってあるのだ。それでも、この人の為なら、そのちっぽけな勇気も振り絞れる。


 〈グシオン〉の音はもう聞こえない。人の心に忍び寄るというその力は、時に草履を履く人に対する恋心さえも抱かせるものらしい。

 だが、その力は万能ではないようだ。だって、私と霊の間には入り込めないのだから。


 きっと、これまでも、これからも、笠の足を支えながら、その力をそっと貸す程度のものだろう。だけど、だからこそ、古物たちは親しみやすく、愛おしい。

 一週間前に見た〈グシオン〉を慰める霊の姿を思い出しながら、彼女のモノに対する愛情に少しだけ想いを寄せてみた。歩み寄ろうとするその音は聞こえたりしない。それでも、〈グシオン〉の音を聞いている時の様な気持ちになれた。

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