前編
雨が降っている。通り雨だ。もう長い事、ごく自然の通り雨というものが珍しくなってしまった気がする。霊のもとで働くようになって一年足らずだが、私にとって通り雨というものはすっかり化け狸予報になっていた。
今回もやはり自然の通り雨ではなかった。ただし、予想していたものと少し違う。
いつものソレイユの瓶とコップを三つ。長い廊下を歩き、霊とお客の待つ店まで向かうにつれ、会話が聞こえてくる。どちらも女性の声だ。暖簾を潜り、改めて、この度の客人の顔を眺めてみる。
蘭花のテーブルについているのは、二足歩行の狸に間違いない。ただし、笠ではなかった。霊が勧めた通り、狸の足にもぴったり合うスリッパをきちんと履き、笠よりも幾分か行儀よく椅子に座っている。水を配る私に対して微笑みつつ軽く頭を下げるところも、笠とは雰囲気が違う。狸の顔なんて見分けられないけれど、さり気ない仕草や表情でだいぶ違いがあった。
彼女の名は紬。女性の化け狸で笠の妻である。
「うちの人からかねがね聞いていましたけれどね、まあ、本当に〈赤い花〉だなんて驚いたわ。百ちゃんがすごく興味を持っていたようでしたからね。わたくしも一度お顔を拝見したかったのよ」
そう言って朗らかに笑うものだから私の方は冷や冷やしてしまった。
「座りなさい、幽」
そう命じる我が主人の声は意外にも穏やかなものだ。しかし、ちらりと視線をやって確認した先の微笑みは、ここ最近ずっと共に暮らしている私から見れば非常に薄っぺらいものだった。少しでも彼女を苛立たせないように大人しく従う。
霊は真っすぐ紬を見つめ、妖しく目を細めた。
「百花姐さんのお話は止しましょう。それよりも紬さん、今日はどうしてうちの店に?」
そして、ちらりと彼女は玄関へと視線を向ける。
「〈グシオン〉をあなたが履いてくるような事態が起こったのですか?」
そう、そこにきちんと揃えられている草履は、かつてこの店で保管していたという古物〈グシオン〉だ。いつも笠が履いているはずのその草履を、何故だか今日は彼の妻である紬が履いていた。
すり足で歩き、その音を響かせると人々は心を開いてしまうのだという。この力を利用して、笠は仲介役や交渉役を任されている。もちろん、笠自身の人柄によるところも多いし、〈グシオン〉の方も誰にでも扱えるわけではない。あの草履が笠に譲られたのは、そうするべきだと曼殊沙華の家と霊の両者が判断したからだと聞かされたことがある。その草履を、何故、紬が履いてきたのか。事態、と霊が言うからには、想定されることなのだろう。
「ええ。お察しの通りよ、霊ちゃん。今ね、わたくし、雷様に言われて、うちの人の代理でお勤めしているの」
「まあ、いったいどうして?」
「それがね、うちの人、襲撃されたのよ」
「――襲撃?」
思わず会話に入ってしまった。そうせざるを得ないほどの衝撃だった。そんな物騒なお話が飛び出してくるなんて思わなかったからだ。それも、日頃よく接する者だからこそ、ショックは大きかった。
紬と霊とを見比べると、両者とも何やら考え始める。霊はそのまま考え込んでしまったが、やがて、言葉を選ぶ様子を見せながら、紬は肯いてくれた。
「ええ、襲撃って聞いたわ。あの人、お仕事中だったのだけどね、〈グシオン〉もちゃんと一緒に居たのですけど、その効力の及ばない人に背後から撃たれてしまったのよ」
「……ええ?」
思いがけず悲鳴染みた声になった。瞬時に脳裏に浮かぶのは、猟銃で撃たれて担がれ、持ち帰られてしまう哀れな狸の姿だ。もちろん、不吉すぎるイメージだとは自覚している。
霊の方は私と違って非常に落ち着いていた。真面目な顔をしつつも、慌てることなく紬に訊ねる。
「それで、容態は?」
「大丈夫よ。すぐに曼殊沙華の人たちが、いいお医者様を呼んでくださったものでね。乙女椿に古くから住まう妖ならだいたいのひとが診て貰えるの。曼殊沙華の侍医を代々してきたそうね」
「……それなら、安心ですね」
静かに、だが、ちっとも安心していない様子で霊は答えた。またしても、何事かの思案に囚われている。そんな彼女の意図を読み取ろうと、私の方もあれこれ思考を巡らせた。
「そうね、そちらは大丈夫よ。うちの人、逞しいから。……でもね」
と、そう言って、紬はひょいっと椅子から降りた。小さなスリッパをぺたぺたとさせながら店の玄関まで行くと、〈グシオン〉を掴み上げて此方を振り返った。
「〈グシオン〉が大丈夫じゃないみたいなの。襲撃の時のショックかしら」
「力が弱まったのですか?」
霊が訊ねると、紬は首を横に振った。
「ちがうの。そちらは良好。おかげさまで久しぶりのお仕事だけれど、上手くいっているわ。そうではなくてね、わたくしの夢の中で〈グシオン〉が泣いている気がするのよ」
私にとっては、とても不思議な訴えだった。
ちらりと霊の反応を窺う。彼女は興味深そうに目を細め、そして立ち上がった。一人残されそうになった私もつられて立ち上がり、何かしらの雑用があるかもと後に続く。霊はというと、私の方は一切振り返らなかった。彼女の関心は〈グシオン〉だけに向けられている。思わず嫉妬してしまいそうだった。
霊がしゃがみ込み、紬の持っている〈グシオン〉をじっと見つめる。そっと触れてから、またしても何やら考え込み、その後で紬に向かって言った。
「紬さん」
その顔は真剣そのものだった。
「襲撃の犯人については何か聞いています?」
「いいえ、何にも。曼殊沙華の人たちも、調査中ってばかりで。うちの人も襲われる覚えがないか、もしくは、ありすぎて分からないってくらいよ。お仕事絡みなのか、通り魔なのかも分からないままよ」
「〈グシオン〉を履いていたのに襲われた……」
そう呟く霊の声に、こちらも不安になった。
「わたくしの勝手な考えですけれどね」
と、紬が霊の表情を窺いながら語る。
「音が通用しない相手ではないかしらと思うの。でも、そんな種族の方っていたかしら」
「魔の血は多種多様ですからね。そういう人がいてもおかしくはありません。ただ、それを悪用して襲ってきたとなれば問題です」
霊はそう言って、〈グシオン〉に向かって語り掛けた。
「〈グシオン〉、そう落ち込まないで。お前のせいじゃないわ。お前は出来ることをしただけ。今は大人しく、紬さんに従いなさい」
語り掛ける不思議な光景を見つめていると、紬が不思議そうに〈グシオン〉を見つめた。
「あら、聞こえたのかしら。なんだか急に軽くなったわ」
そう言って持ち上げる。私には何が起こったのかさっぱりだ。だが、霊は満足そうに微笑み、こう言った。
「淀んだ心は水気を含みますからね。私の言葉が少しでもこの子の心を軽くしたのだとしたら、何よりですわ」
「さすが、モノを任されているだけあるわね。だったら、今日はこのままお暇してみようかしら。……ああ、お手当はさっきの差し入れの中にありますからね。取っといて頂戴」
そうして、彼女はそそくさと〈グシオン〉を履き始め、そして、もう一度立ち上がった時には、即座に人間の姿へと変わっていた。笠と同じ年頃の中年女性だ。ふっくらとしていて百花魁のような妖艶さはないが、代わりにとても人の良さそうな明るさや温かみがある。
紬は思い出したように霊を見やる。
「そうだ、霊ちゃん。誕生日って聞いたわ。おめでとう」
「ありがとうございます」
「お幾つになられたのかは聞いておかないわね。マテリアルの年齢なんて、年を取って死ぬだけのわたくし共とは世界が違いすぎますから」
「そうでもありませんよ」
霊は静かに笑みを返す。
――マテリアルか。
その名はかつて〈アスタロト〉が教えてくれたことがあった。年を取らぬ吸血鬼。しかし、死は常に隣にあり、子孫を残すことを許されている。
霊も、そして、私の父である天も、一応、そういう名前で呼ばれることになっている。だが、個人的にはあまり積極的には使いたくない名前でもあった。少なくとも、霊のことはそう呼びたくない。
その名を調べた時に読むこととなった、差別的な記録。それに、霊のことを何も分かっていなかった頃の吸血鬼という存在への偏見。それらを思い出してしまうものだから、どうしてもその名を愛する人たちに当てはめたくないというのが私の気持ちだ。
もちろん、だからと言ってその名を平気で使う人の全てを嫌うわけではない。魔という存在自体が真面目に語られることが少なくなったこのご時世。マテリアルという名前がどうして生まれたのかを知る者はあまりいないものなのだ。
霊自身だって、時折、その名を使用していた。躊躇いはないらしい。だからこれは、私個人の防御でもあり、意思であるのだろう。
「じゃあね、お二人さん。また調子が悪くなったら伺いますわ」
そうして、紬は帰っていく。草履の音は軽く、いつも笠が響かせる音とはだいぶ違う印象があった。
「〈グシオン〉が通用しない……」
紬が帰ってしまうと、霊は声を低めてそう呟いた。振り返る彼女は何処となく蒼ざめているように見える。その眼が私を捉えるまでに少々の時間がかかった。
「悪いけど、ちょっと店番していてくれる?」
「え、はい」
答えたかどうかのところで霊は歩き出した。向かう先は暖簾の向こう。何をしに行ったのかですら分からないまま、私は言われた通りにする。飲みかけのコップとソレイユの瓶の置かれた盆を持ってカウンターに向かうと、誰も来なさそうな店の扉を見つめ、しばしぼんやりと座った。
そうして数分後、長い廊下の向こうから話し声が聞こえてきた。電話のようだ。相手は誰だろう。霊の声もはっきりと聞こえるものではないし、ましては電話の相手の声なんて絶対に無理だろう。気にしてもしょうがない。
そういうわけで、私はただ前を見つめたまま、今し方あったことを振り返っていた。笠が怪我をしている。撃たれたというのはただ事じゃない。通り魔かどうかなんて言っていたが、我が国乙女椿でそういう類の犯罪は滅多にない。この国では、銃なんて誰でも持っているものではないからだ。相手はいったい誰だろう。
そもそも、〈グシオン〉が効かなかったのは何故なのか。その件に関して、霊はただいま、電話をしているというわけだ。相手は曼殊沙華だろうか。それ以外にかける相手はあまり思い浮かばない。あるとして、無花果氏の関係者だろうか。
――たとえば、百さんのような?
恐ろしい白狐の顔を思い出し、急いで思考するのをやめた。
気を取り直して、別の事を考えようとしたときに出てきたのが、紬の言い残した「マテリアル」という言葉だった。
マグノリアの言葉で、「原材料」を意味する。マテリアルの種族について〈アスタロト〉に訊ねた時、真っ先に出てきたのもまたマグノリア王国で書かれたという記録だった。
著者は怪しげな錬金術師で、どうやら吸血鬼の悲鳴を餌とする魔人だったらしい。彼はマテリアルと名付けた吸血鬼種族の子どもを使用し、様々な実験を行っていた。その一方で、マテリアルの生態を世に広め、人々に注意喚起をすると共に、居場所を無くさせて子どもたちを次々に手に入れていた。書かれていたのは、本当に酷い実験の記録だった。
そんな人物のつけた名前。彼らが居場所を無くしていった歴史は、語られることなどほとんどないが、実際にあったことなのだ。
初めて知った時は何も思わなかった。だって、彼らは憎き父の種族だ。私の中にもその血が半分入っていたとしても、気にならなかった。でも今は違う。この世で最も愛する人の種族でもある。だから、マテリアルという種族名がすっかり嫌いになってしまったし、過去の人物だとしても、この魔人のことは絶対に好きになれないし、恐ろしかった。
現代でもこういう性に囚われる魔女や魔人がいたらどうしよう。愛する霊を守る私の魔力はまだまだ足りないのに。
電話が終わったらしい。霊が戻ってくる。
振り返ると同時に、暖簾を潜る彼女の顔と目が合った。
「曼殊沙華のお家ですか?」
すかさず訊ねてみると、彼女はそっと目を細めた。
「そうよ」
その顔は、相変わらず綺麗だ。
今の世の中、霊や私の父のような人々を嬉々として追い詰める空気は、なかなか生まれないだろう。それでも、私は不安に思ってしまう。誰かが常にこの人を利用しようとしている。曼殊沙華だって、無花果氏だってそうだ。年を取らず、決して弱くはないといっても、霊と言う人は危険に対して万能的な強さを誇るわけではない。もしも、笠のような目に遭ったとしたら。そう思うと怖くて仕方がなかった。
「幽、ちょっと聞いて」
そう言って、霊は私のすぐ前に立つ。
「笠が襲われたのはね、どうやら報復だそうよ」
「……報復?」
「ええ。少し前、曼殊沙華のお家に依頼をしたでしょう? 花売りと鬼喰いに関すること。それで、前にあなたを襲った花売りのお仲間が数名、曼殊沙華のお家の何処かに“居候”することとなり、鬼喰いが三名、いなかったことにされたの。その報復」
「……それって」
震えあがってしまった。つまり、私たちへの報復だ。笠個人の問題でも、曼殊沙華だけの問題でもない。私たちの依頼に対する怒りなのだ。
「つまり、私たちのせいで、笠さんが……」
「残念だけどそのようね。この件で分かったことは、まず、花売りと鬼喰いの件には同じ者が関わっていること、そして、その者はそれなりに力の強い者であること」
「舞鶴のお家でしょうか?」
「それはまだ分からないそうよ。あの花売りはそう主張したけれど、ただ舞鶴の名を騙っているだけかもしれないもの」
本当は何処であろうと、私たちの依頼がそいつらを刺激したことは間違いない。笠のことは大丈夫だと言っていたけれど、やはり不安は消えない。どうして、花売りと鬼喰いなのか。そう思うと、恐ろしい想像に至ってしまうのだ。
花売りに、鬼喰い。
もしかして、初めから私と霊を狙っていた? この店をよく思っていない輩の仕業?
「それともう一つ、はっきりしたことがあるわね」
霊はため息交じりにそう言って、美しく輝く双眸を私に向けた。
「幽、悪く思わないで」
そう断ってから、彼女は“命令”してきた。
「騒動が落ち着くまでの間、あなた一人での外出を禁じる。外出する際は、私と一緒にしてもらうわ」
「え……?」
間違いない。“命令”だ。命令なんていつものことだが、この度の雰囲気は少し違った。
霊に自覚があるかどうかは分からないが、主従の魔術で縛られているのだ。彼女が主人で、私が従者。術者は私であったし、そう決めたのも私だ。しかし、この魔術は侮れない。以前、〈アスタロト〉が読ませてくれた花売り向けのマニュアルにも書かれていたのだ。「〈赤い花〉にこの魔術を許可するのならば、絶対に、魔物を主人にさせてはならない。もしも魔物が主人になれば、唱えた魔女や魔人はその魔物を愛するあまり逆らえなくなってしまい、我々の手に負えなくなるのだろう」と。
従属の性を持つ私にとって、愛する人からの命令は、いつもならば無条件で嬉しい場面のはずだ。しかし、その一方で、命令というものには加減が必要であることもよく分かっている。なぜなら、魔女の性に陶酔しきってしまうほど私は狂っていない。人として育ったために最低限のプライドはあるものだし、こんな私でも、恥じらいが全くないというわけではない。
だから、今回の場合は、単純にショックなものだった。きっと、私の戸惑いも、霊は予測していたのだろう。
「いつ、何処で、襲われるか分からない。これまでとは状況が違うの。お願い、分かって」
それでも、いつにもなく申し訳なさそうに言われてしまうと、抗う気にもなれなかった。
ただひたすら悲しくなった。
日頃の吸血行為も彼女の命令に従うことは多かった。仕事に関してもそうだ。彼女が雇い主なのだからそうだし、私がこういった性質の者であることをよく理解しているから、霊だってわざとそうしてきた。けれど、私の自由を脅かしてきたことはなかった。友人に会いに行く時だって、目的もなく外出するときだって、嫉妬や心配こそしたが、禁じることはなかったのだ。
そのいずれも、今の瞬間ほど悲しい気持ちになったことはない。こんな命令を受けたことなんてあっただろうか。
ああ、でも、前にも似たような事はあった。初めて出会った頃、身の危険を理由に私は外出を制限されたのだ。もちろん、命令ではなく、協力要請だ。その頃はまだ霊と私は主従でもなんでもなく、ある事件を鎖として繋がっているだけの関係だった。
そうだ。あの頃に戻っただけだ。そう思うことにした。状況が状況だから、仕方のないことなのだ、と自分に言い聞かせた。自由が制限されるのは嬉しくない。自由を愛する魔女には苦痛が強すぎる。魔女の性が悦ぶのは、どうやら終わりのはっきりある行為だけなのだと今になってよく分かる。先の見えない制限は恐ろしくて喜べない。
それでも、霊のすまなそうな顔を見てしまうと、怒ることも出来なかった。状況が悪いのだ。この人のせいじゃない。ただ、一人きりで我慢するのは癪だった。だから、この際だからと、こちらの気持ちも言わせてもらった。
「霊さんも一人での外出は控えた方がいいのでは?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、相手は鬼喰いとも関連しているのでしょう? もっとも怪しい舞鶴の人たちなんて吸血鬼のはずなのに……」
「高貴な血統の御方々はそんなに怖くないわ。あなたを人質に取られない限り」
「でも、霊さん、前に鬼喰いに……」
言いかけて、ふとあの時の恐怖を思い出して言葉に詰まってしまった。
恐ろしい夜だった。自分の病気なんて忘れてしまうくらい。そして、同時に艶やかな夜でもあった。〈マルバス〉のお陰で安定していたものの、いつものように調子が戻らない我が主人を、その晩だけ好きにさせてもらったのだ。
急にあの時の事を思い出し、一人恥ずかしくなった。
「あの時はね」
霊はため息を吐いてから答えた。
「狩りが必要だったから、まんまと騙されたの。それに、鬼喰いなんて想定してなかったもの。でも、今は違うわ。あなたは健康だし、私もあの時のような失敗はしない。……それに、万が一、あなたが吸血に耐えられなくなっても、伝手が出来たから」
聞き捨てならない部分が一か所あったのだが、それはこの際、置いておこう。それに、自分がダウンしたときに狩りを避けられる方法があるのなら、嫉妬心に目を瞑ればいい事なのかもしれない。その表情を見るに、霊自身もその伝手には出来るだけ甘えたくはないようだし、あまりとやかく言わないでおくべきか。
「なんせ、〈グシオン〉の通用しない相手よ」
霊は不安そうに語る。
「〈グシオン〉は草履の擦れる音に力がある。それに抗えるということは、音に強いということ。魔女や魔人か、翅人、吸血鬼というところかしら」
「音が聞こえないってこともあるのでしょうか」
「それも、あるかもしれないわね。もしくは、〈グシオン〉のことを知っていて、耳栓をしているとか。それに、〈グシオン〉がそもそも及ばないことだってあるかもしれないわ。心に忍びよる力は不安定なの。人によっては履いている人に恋をさせることもあれば、全く効果がないときもあるもの」
つまり、〈グシオン〉が効かなかったこと自体が、必ずしも犯人を特定できることに繋がるわけではないということらしい。
「曼殊沙華の人たちも頭が痛いかもね」
そのうち、はっきりとするものなのだろうか。何も分からないうちはただ心配だった。
笠が生きていることはよかった。だが、ただ喜んでいていいのか。今度こそ、誰かの命が奪われやしないかと思うと、この状況はかなりまずいのではないか。
「まあ、どうであれ」
と、霊は私をじっと見つめてきた。
「あなたが不安になるのなら、私も外出は最低限にする。買い物や用事は二人で行くようにすれば、あなたも安心でしょう?」
真っすぐ問われ、少しだけ答えに詰まった。
安心なのは確かだ。この世の中が恐ろしいものに満ちている限り、美しい我が主人を目の届くところにしまっておきたいという気持ちはどうしても芽生えてしまう。自分が古物たちのようにしまわれてしまうのならば、せめて傍に居て欲しいという願いもあった。だから、答えた。
「……はい」
だが、寂しげな彼女の姿を見ているとどうしても疑問に思ってしまうのだ。それは霊の本心によるものなのか。それとも、主従の魔術の影響が彼女の言動にも及んでいるのか。
そもそも彼女の本心は何処にあるものなのだろう。主従の魔術がどの程度、彼女と私の自我を歪めてしまっているのかが気になって仕方がない。
そのことばかりは〈アスタロト〉にも分からない。かの古書が知っていることは、学問に伴う知識ばかりであるのだから。真実を教えてくれる危険極まりない古物もあるが、使用する代償が大きすぎる。
私の心配をよそに、霊は生まれてこの方、何ひとつ変わっていないかのようにふるまい続ける。
「さてと、そろそろ学生さんたちが来る時間ね。あともう一息だから頑張りましょうか」
微笑まれ、今はただ静かに肯いた。




