後編
店の営業時間は適当である。
閉まっているときはお客が来ないようになっていると聞いてはいるが、なんだか霊が勝手にそう言い張っているだけで、適当に休む口実にしているのではと思わなくもない。戸締りをしっかりとして、カーテンを閉め、出入り口の内側から外に向かって「休業中」の看板を見せつければ、あっという間に閉じられた世界の出来上がりだ。今日の来客は一名。金銭は結局もらっていない。あの美幼女の乳歯にどんな価値があるのか詳しく聞きたい気もするし、聞かない方がいいのではという疑問もある。
今日あったことには触れるべきかどうか迷いながら、私は霊と向かい合って座っていた。座っているのは椅子ではなく、霊のベッドだ。霊の自室に呼ばれていた。理由はよく分かっている。客が来たと直感し、プロ根性でベッドから這い出し、階段を怨霊のように下って店までやってきたと知ったのは、あの鬼幼女が帰ってからのことだった。廊下で呼吸を整えてどうにか立ち上がり、吸血鬼の意地を奮い立たせて平静さを装いながら接客していたというのだからびっくりだ。しかし、幼女が帰るのを見届けてそのまま倒れられれば疑う余地などない。完全なる貧血だ。ワインもほとんど吐いてしまっていたようだし。
そもそも本当に赤ワインじゃないといけないのだろうか。ぶどうジュースじゃ駄目なのか今度試してみようかな。
「幽が……三人に見える……増えてる……」
「眩暈がするのですね。横になります?」
「……今すぐ抱いて」
なんか積極的だ。瞳が潤んでいる。いつもとちょっと違う。いつもの百倍は素直だ。普段の小悪魔的に翻弄してくる霊も大好きなのだけれど、これもいい。魔女の性は満たされているためだろうか。今宵は素直な霊を存分に味わいたいと思わなくもなかった。
顔を赤らめて手を伸ばしてくる美しい吸血鬼。お預けしたい気持ちになるから分からないものだ。私の性癖は真逆のもののはずだし、魔女の性とは関係ないと思うのだけれど、可愛いと思えば思うほどちょっと虐めたい気持ちが顔をのぞかせてくるのだ。
「幽……お願い……前が見えな――」
おっといけない。遊んでいる場合じゃなかった。
「しっかりしてください、霊さん」
抱きしめてみれば、赤子が母乳を求めるように霊が牙を剥いてきた。首筋を噛まれ、何とも言えない変な気持ちになる。今日はあの幼女にも血をやったのだ。もしかしたら、貧血になるのは私の方かもしれない。そう思いつつも、じっと耐えた。霊は遠慮なく血を吸っていく。それだけじゃ飽き足らず、衣服の隙間から指が侵入してきた。次第に弄ぶ余裕が生まれてきたらしい。いや、でも、やっぱりいつもと違う。いつもならこんな簡単に刺激してきたりはしない。もっと高圧的に、支配者的に、横暴に振る舞ったうえで、満足してからようやくなけなしの快楽を与えてくれるのが私の主人である。これじゃただ好色なだけの淑女じゃないか。それも、服従させた犬のような。――らしくない。
――やっぱり、こんなの霊さんじゃない! いつもの霊さんに戻って!
わがままが通じたのか、霊は牙を抜くと同時に刺激してくるのもやめた。そして、血色がよくなった愛らしい顔でじっと私を見つめると、にやりと笑みを浮かべたのだった。
「今、感じていたでしょう、この変態」
ありがとうございます。
と、言いたかったがぐっとこらえて答えた。
「何言ってるんですか、変態はあなたの方です」
「とか言って、顔が真っ赤よ。これだけ血を抜かれたというのに。……ああ、そうそう。ここはどうなっているのか確かめてなかったわねー」
元気を取り戻したその手が芋虫のように足を伝っていく。その絶妙に不快をもたらす感触に背筋が凍りそうだった。
「や、やめてください!」
絶妙に不快でむしろそこがよかったのだが、素直に認めるのはなんか悔しい。そうだ。これが霊さんだ。ただ単に人を喜ばせる技を見せるのではなく、人によっては拒絶しか与えないような行為で私を満足させてくれるいやらしい魔物。
私と霊は魔術で繋がれている。死ななければ解かれない主従の魔術だ。この人は私だけの吸血鬼である。好きに振る舞うのは許す。だが、私を蹂躙せよ。使い魔とは全く違う特別な主従として存在せよ……。
この魔術に霊は気づいていないかもしれない。使うべきか迷ったのも確かだ。だが、使わねばならなかった。そういう理由があった。あの時に使わねば、この人は死んでしまうかもしれなかったのだから。
「そうね、まだご褒美には早い時間ね。一人でお留守番出来て偉かったわ。鬼の子にも素直に血を渡してくれたことだし」
頭を撫でられながら、私は複雑な気持ちになった。そうだ。霊はきっと気づいていない。出会った時から何一つ変わっていないと信じている。私たちの絆が自然にできたものだと信じている。
でも、本当は違う。違うと気づいたら、彼女はどう思うのだろう。絶対に解けない魔術で自分の命が縛られてしまっていたと気づいたら、霊はどうするのだろう。私を恨むだろうか。そう思うと今でも怖かった。
「どうしたの、幽」
急に心配そうに霊がのぞき込んできた。心配そうなその表情の奥に、私はかつての霊を思い出そうとした。魔術なんかに縛られていなかった頃の霊はどんな人だっただろう。思い出しても仕方のないことだけれど、私の主人であることを強制されていなかった頃、彼女はどんな吸血鬼だったのかを思い出そうとした。
だが、結局思い出せなかった。
「何でもないんです。ただ、あの子、大丈夫かなってちょっと思って」
うまく誤魔化しきれているかもわからないまま、私は笑顔を作った。霊は吸血鬼特有の何処か冷めた目で私を見つめてくる。何を感じたかは分からないが、とりあえずは答えてくれた。
「きっと大丈夫よ。〈ベール〉を貸すよりはずっと上手くいく」
私の髪に触れながら、霊はそう言った。したいようにさせながら、私は私で呟いた。
「〈ベール〉。遠慮を知らぬ木刀、ですか」
かつて一度だけ、あれが使われた場面を見たことがあった。
世の中には魔法というモノは確かに存在するし、魔を冠する存在は確かにいる。私のような魔女や魔人は魔族という区分にいるはずだし、霊のような吸血鬼(私にもその血は一応入っている)は、魔物という区分にいるはずだ。しかし、世の中は魔を信じない時代に突入した。信じないことが許される時代になったのだ。
信じないと言っても色々ある。本心では信じているのに、信じないと言い張っているだけの人間ならば、否が応でも魔法の被害に遭うことだってある。だが、信じていると言っていながら本心では信じていないような人間ならば、どんなに魔法を見せてやろうと意気込んでも、全て不発に終わってしまうことがある。
無限の穴に吸い取られてしまうかのように、その者の前で魔法に関する何をしようとしても出来ない。そういう存在が悪事を働いたときは、非常に厄介だ。魔法が通じないわけだから、物理で殴るしかない。
〈ベール〉はそういう輩に強い。遠慮を知らぬ木刀。その不可思議な効果は魔法とは違う存在であるらしく、魔法の通じないやつにもしっかりと作用する。気を付けなければあまり望ましくない悪臭漂う光景が出来てしまうだろう。なので、霊も気を付けて使っていた。胴にちょっと触れただけで内臓がやばいことになってしまうとのことなので、積極的に足を狙っていた。
まあつまり、そのくらいヤバい代物なのだ。だったら、店内に置かずに倉庫にしまった方がいいのではないかと提案したこともあったが、霊によればそれはそれでまずいらしい。
名前を付けた以上、いつでも見てあげられる場所に置かないとモノが拗ねてしまうのだとか。
「いくら鬼の子とはいえ、子ども同士のけんかに使うのは望ましくない。由緒正しき鬼の家の令嬢を殺人犯にするわけにはいかないものね。木刀は何処から来たのかとか調べられたらとてもまずいわ」
「でも、〈赤い花〉の血でドーピングして傘で戦うっていうのもどうなんでしょうか? 加減を誤ったりしないか心配です」
「証拠は残らないから大丈夫。血は消化されるし」
それ、全然大丈夫じゃない気がするのですが。今しがた生まれた不安から目をそらすべく、私は自ら話をそらした。
「それにしても〈ベール〉か。あれで殴られたらひとたまりもないだろうなあ」
「あら、殴られてみたい? 手足だったら命に別状はないものね」
「いえ、そういうことではなく」
「遠慮しなくていいのよ。しばらく四肢が使えなくても、私がちゃんと介助してあげる。私なしでは何もできないあなたの姿もよさそうね」
私の理性よ、お願い、死なないで。
正直、霊に手取り足取り介助される生活とか涎が出そうな気持ちもある。でも、それではいけないと分かっている。分かっているから、血の涙を流してノーを言うべきなのだと分かっているのだ、私は。
「もちろん、冗談よ」
そんな私の魂震ええる覚悟も知らずに霊は一人笑っていた。
「骨を砕き、血管をボロボロにするような大怪我させちゃったら、治るまで思う存分血を吸えないじゃない。お仕置きにしては厳しすぎるし、私にも利点がなさすぎるもの。〈ベール〉もそんなことに使いたくないの。可哀想じゃない、〈ベール〉が」
私は可哀想ではないのだろうかという疑問などもはや浮かばない。
「相変わらず、モノには優しいのですね」
非売品の木刀〈ベール〉。名前を付ける理由は、簡単には誰にも渡せないからだと霊はいつか言っていた。もちろん、例外はあって、名前を付けた上で親しい人――それもうまく扱える人に譲ることはある。私も譲られている品物がいくつかある。だが、基本的には一生、自分が面倒を見るという証らしい。
それにしても、木刀の〈ベール〉か。正直、あまりぴったりな名前に感じないのは黙っておこう。
「幽。いま、あなた心の中で、私のネーミングセンスにいちゃもんをつけなかった?」
鋭い。というか、黙っている意味がなさそうだ。そうだな、ここはちょっと強気に出てみよう。
「乙女椿産のモノには、乙女椿風の名前を付けた方がいいと思うのです」
正直にそう言ってみた。
これが例えばフルーレとか大陸諸国の剣だったら〈ベール〉って名前でも、あまり海外へのこだわりがなければ「へえ、そうなんだ」って感じに納得できるとおもうのだけれど、これは木刀だ。霧風とかなんかそういう名前の方があってそうだと思えるのですが、如何でしょうか。
そんな思いを目に浮かべていれば、霊は突然動き出し、私の身体をベッドに押し倒してきた。突然の襲撃にビビっていると、霊は捕食する前の肉食獣のように牙をちらりと見せ、怪しげに笑いながら私の耳元に唇を近づけてきた。心臓が高鳴っている。〈赤い花〉が壊れてしまいそうだった。
「幽」
囁くように彼女は言った。
「これからあなたにはお仕置きを受けてもらいます」
こうして私は強制的に黙らされた。
味を占めてたまに揶揄いたいと思うくらいだが、たぶん、繰り返せば永遠にお預けされるだけだろう。だから、これは今日だけの特権だ。そう心に刻んで、今のこの瞬間を楽しむことにした。