中編
約束の日はあっという間に訪れた。
霊が用意したのは店の隅でいつの間にか埃をかぶってしまうことの多い一本の矢だ。名前は〈ブエル〉という。あまり使われたところを視たことがない品物だった。
鏃は殺傷性のないゴム製のモノに変えられているが、矢羽は一見して分かるほどの異様さがあった。かなり古いものに見えるが、それだけではなく乙女椿国の神社などでよく売られている破魔矢とは雰囲気が違う。見たこともない光沢のある羽根が使われているのだ。
百花魁を待つ間の静かな時間、店の中で私はまじまじとその矢羽を見つめていた。
「変わった羽根ですよね。加工されているんでしょうか」
「いいえ、加工はされていないわ。かなり珍しい羽根なのは確か。乙女椿に居ては殆ど目にすることのない、とある民族の羽根が使われているの」
「とある民族?」
「ええ、クロコ国の南部。カエルムという聖地で暮らす鳥人たちの抜け羽根よ」
「カエルムの鳥人? ああ、遺伝性の病気か何かで鳥みたいな姿になっているっていうあの……」
少なくとも、新聞やテレビ、書籍などではそう紹介されている。古代より伝わる聖鳥ジズの子孫と恐れられていたそうだが、現在は彼らの正体も科学的に解明されている……という話を聞いたことがある。
ちなみに、同じくクロコの南部に存在するシルワとイムベルという二つの聖地には、ベヒモスの子孫と信じられてきた角人、リヴァイアサンの子孫と信じられてきた竜人という民族が暮らしているそうだ。角人にはその名の通り角がある他、へそから下が馬のような形になっており、竜人には人間の身体をしていながら鱗やひれといった特徴がある。テレビや写真でしか見たことがないが、やはり遺伝性の病気という説明には無理があるとどうしても思ってしまう容姿だった。
そんな私の思考を読み取ったのか、霊はこくりと頷いた。
「そうね。遺伝性の病気ってことになっているわね。けれど、本当は違う。彼らはかつて信じられてきた通り、聖鳥ジズの子孫とされる魔物たちよ。時代が魔を信じなくなってきたため、言葉を喋り、人間とも血を交えられる彼らをなんとしてでも普通の人間の枠組みに収めようとする輩が広めたものが遺伝病説。あまり映像に撮られることはないけれど、鳥人は適切な訓練をすれば空を飛ぶこともできるわ。そんな彼らを遺伝病による奇形で説明するのは苦しく思えるのだけれど、彼らに関わることが出来るのはほんの一部の人たちだけ。今や遺伝病説の方が主流になっているわね」
吸血鬼特有の牙を八重歯というようなものだろうか。実際に聖地へ足を運んだことがないため、本当かどうかは分からないが、この世に魔があることを知ってしまった以上、かつてテレビなどで観た彼らが大空を飛び交う姿はなんとなく想像できた。
「それで、どうして鳥人の羽根がこのように使われているのでしょうか」
「おそらく、鳥人たちの人間離れした力を借りたかったから等、そういうところでしょう。この手のものは鳥人に限らず、今でも世界各地でいっぱい作られているものよ。現地においても聖地のお土産品として大量生産されているし、その売り上げもまた現地民の生活を支えていると聞いているわ」
「そうなのですか……で、本当に恩恵はあるんですか?」
「たいていの場合は怪しいわね。ただの抜け羽根、抜け毛、剥がれた鱗だもの。……ただ、この〈ブエル〉は違う。私が名前を付けたものなのだから分かるでしょう?」
その説明だけで十分なほどだが、とりあえず聞いておこう。
「〈ブエル〉には弱っている人を癒す効果がある。体の免疫力を高め、ある程度の病に打ち勝つ力をくれるの。特に男性に対して強い効果を示すことが分かっている。釧のワンちゃんを助けるのにちょうどいいでしょう」
「へえ……免疫力を高める、ですか。……あれ、でもちょっと待ってください」
ふと思い出し、私は訊ね返した。
「前に私、ミアズマ病にかかったのを水差しの〈マルバス〉で治しましたよね。鬼喰いにやられた霊さんもアレに救われましたし、釧さんにも〈マルバス〉がいいのでは?」
「そうしたかったのは山々だけれどね。許可が下りなかったの」
「曼殊沙華の許可ですか?」
「うん。一応、無花果氏は部外者だもの。あちらがどんなに恩を着せようとも、ね。釧のワンちゃんは個人的に親しいお客さんだけれど、口犬の一員だから無花果氏の配下として認識されている。もともと、部外者には特別な事情でない限り、ランクC以下の古物を使うようにという掟があるの。今回も例外にはならない……曼殊沙華のお家の雷様のご判断によるものよ。ランクC以下でうまく解決するようにと言われてしまったの」
「――それで、〈ブエル〉を?」
たしか、〈ブエル〉はギリギリのランクCだと言っていたかと思う。
「ええ、無花果氏からの要望を無下にするわけにもいかないもの。匙加減が重要な場面で〈ブエル〉はちょうどいい。〈マルバス〉のような万能感はなく、せいぜい万能薬程度の印象しか与えない。使用可能なぎりぎりのところよ。これでもしダメだったら、そのあとで、こっそりと再度申請するしかないわね」
「……そうですか」
少しだけ暗い気持ちになってしまったのは、病に苦しむ釧のことを想像してしまったからだろう。雷様の許可さえあれば、霊は〈マルバス〉を使うつもりだったと見えるあたり、何だか釧に申し訳ないような、そんな気持ちになったのだ。
しかし、私たちに出来ることは限られている。とくに、ランクの高い古物は店から持ち出すだけでも曼殊沙華の許可が必要になる。そもそも、霊の行動自体も曼殊沙華の支配に置かれている気がする。私の“ご主人様”が誰かに支配されているなんて考えたくもない屈辱だが、断れない仕事を次々に笠が持ち込んでくるあたり、安全な生活と引き換えに自由を奪われている気がしてならないのだ。
だからと言って、無責任に曼殊沙華の家と対立するつもりはない。時々遊びに来てくれる玉美たちやその他の曼殊沙華の家の関係者たちとの関りで直接的に不快な思いをさせられた経験はあまりない。笠だって信頼している人物だ。多少、不自由で不気味に思えても、敵に回す理由なんてない。
普通に暮らしたくとも、割り切れないものはどんな暮らしをしていたってどうしても生まれるものなのだろう。そう理解して、気持ちを落ち着けるしかなかった。
百花魁たちの迎えが来ると、隣町まで車で十数分。乗せてもらうこととなった高級車は無花果氏の所有するなかの一つである。運転する男性を警戒し、魔女の目で見つめてみたが、いたって普通の青色が見えた。リヴァイアサンの色だ。どうやら運転手は魔の欠片もない普通の人間であるらしい。
百花魁の姿も、車内がカーテンで遮られているにも関わらず、キツネの姿にはならなかった。妖艶な女性の姿で時折運転手に話しかけ、運転手が真面目に答えつつも妙ににやける瞬間を眺めさせられたあたり、もしかしたら彼は百花魁がキツネであることすら知らないのではないかと感じた。
そうこうしているうちに、あっという間に釧の実家にたどり着いた。
「ここ……ですか」
それは見るからに古くから続くお金持ちの家という雰囲気のお屋敷だった。
「無花果様は口犬のスカウトに際して、お家柄を重視なさいますからね」
百花魁が怪しげに笑いながら教えてくれた。
ほどなくして、インターホンを押すまでもなく小門が開いた。現れたのは使用人らしき壮年の男性と女性の二人組。まとわりつく色で分かった。ごく普通の一般市民にしか見えない姿をしているが、その色は青ではなく赤。ジズの色と呼ばれる、人間の血をほとんど継がない色をしていた。
もしかしたら、彼らも人狼なのかもしれない。
「無花果様のご依頼で参りました」
百花魁が真っ先に挨拶をすると、女性の方が丁寧に頭を下げてきた。
「ご連絡確かに承っております。さあさ、こちらへ」
運転手は男性使用人に車の件で何やら話をしている。お先にお邪魔させてもらうこととなるようだ。
門を潜ってすぐに、乙女椿伝統の空気をたっぷり味わえる庭園の美しさに、さらに驚かされてしまった。
こういう場所は慣れていない。霊と出会うまではボロアパートの一室に住みながら黙々と人間らしく暮らしていたものだし、母と暮らした家も母子二人で住むのに程よい広さしかなかった。
霊と現在共に暮らしている家こそ広い方で、私としては生まれて初めて経験するほどの規模なのだが、ここはそんな私の浅い経験を凌駕する世界だった。こんなにもすごい実家を持っている青年をわざわざスカウトするあたり、どれだけ無花果氏に権力が偏っているのかも理解できる。
曼殊沙華、舞鶴、銀箔は代々続いてきた魔物たちの古い家柄でもあるが、それらと対等に渡り合える力を、ただの人間であるはずの無花果氏がなぜ持っているのかと考えてしまう。事業に成功したのか、その他の幸運なことでもあったのか、はたまた、魔の血を持たないというハンデを完全に覆すような秘密を担っているのか。
なんにせよ、思考の果てに残るものは「お金の力って怖い」という身も蓋もない感想だった。
三名で応接間に通されてしばらく、真っ先に現れたのは釧の兄であった。確かにその容姿は釧に似ているところがある。しかし、感じる威厳は弟の釧には全くないものだ。
同席するのは兄弟の母親。彼女もまたジズの色がくっきりとしている。老年期に差し掛かっていることがうかがえ、おそらく魔物としての能力も若いころに比べれば衰えてきただろう。しかし、年相応の美しさと威厳を宿すその眼はかなり印象的だった。
父親はいないらしい。たまたまいないのか、そもそもいないのかは分からない。
「この度は弟のためにご足労いただき感謝申し上げます」
口を開いたのは兄の方だった。
「弟の病はさほど珍しいものではありません。しかし、疲労がたまっていたのかこじらせてしまったようで、長く一族を診てきた医師にも手の施しようがないらしい」
「現在は水分と滋養となるものを積極的に摂らせ、静かな寝間で休ませてあります」
母親が厳粛な口調で言った。その眼は主に霊や私を睨みつけるように鋭い。あまり歓迎されていないのだろうかと思ってしまうほどだった。
「息子の病気を祓えるのでしたら、約束通り相応の礼をいたしましょう。無花果氏に払っていただく必要はありませんので、そうお伝えくださいな」
母親の視線が百花魁に向いた。百花魁は微笑を目元口元に留めたまま、頭を少しだけ傾けて答える。
「そうはいきませんわ、奥様。釧様のご病気は激務のためでもありました。治療費を支払わないとなれば、無花果様は隣町の笑い者となってしまうでしょうよ」
穏やかな口調ながら、意に沿わないことをはっきり示した。そんな百花魁を兄弟の母親は眉を顰めた表情で見つめる。しかし、彼女も理解は示したらしい。
「それもそうですわね。失礼いたしました。それでは、治療費のことはそちらにお任せしましょうかね」
つんとした態度で母親が言うと、兄の方がやっと口を開いた。
「では、さっそく弟のところに――」
そうして、私たちはやっと釧の姿を見ることができたのだった。
顔をよく知っている人が苦しそうにしている姿はショックなものだ。
釧は思っていたよりも病状が悪く、ひどく寝込んでいる様子だった。私や霊が来たことにも気づいていない。いつもは敏感な鼻も、すっかり鈍ってしまっているらしい。
一同が見守る中、私は霊と共に釧の様子を窺った。持ってきた〈ブエル〉を抱えながら、霊の指示をひたすら待つ。突然、翳すのではなく、霊はまず釧の身体にそっと触れていた。我が主人が吸血鬼としてどんな力を持っているのか、そのすべてを知っているわけではない。ただ、私が体調を崩したときも似たようなことをしたことがある。何か意味があるのだろう。
待っている間、私は背後の視線を感じながら緊張していた。百花魁はともかく、釧の兄や母親、使用人たちはすべて魔物だ。山犬族は古来の乙女椿国にて神の使いとしても祀られたそうだが、世界的に見れば人肉を食らう人狼でもあり、実際、乙女椿各地には山犬族の霊力を借りるために牛や鹿、鶏、それに準ずる魔獣、ときには人間の子供や若い娘を生贄として捧げてきたのだと聞いたことがある。
ただのおとぎ話だと笑い飛ばすには、私もまた世界の真の姿を見てしまった方だ。魔物でない人間であっても人肉を食らう噂のまとわりつく無花果氏という者もいるのだ。相手がそもそも人食いで有名な人狼ならば尚更の事。厳しい眼差しを感じるうちに、失敗すれば私も霊も容赦なくここ三日ほどのご馳走になってしまうのではないかと想像してしまい、怖くなった。
大変失礼なことだと我ながら思うのだが、前にさんざん霊に脅かされたことでもあるので恐怖は過剰していく一方である。
「幽」
ふと短く呼ばれ、私はあわてて〈ブエル〉を差し出した。
霊は振り返りもせず、〈ブエル〉を釧の額に翳した。真っ先にこうしなかった理由をいろいろ想像しながら見守っていると、次第に釧の身体がぶるぶると震えだしたのに気づき、私の方も震えそうになった。
本当に大丈夫だろうか。
「苦しいわね」
労わるように霊は呟く。
「でも、大丈夫よ。あなたの様子なら、〈ブエル〉で十分。夢の中にきっと現れるはず。苦しい夢も今日限りで終わるから、元気になったらまたお店に顔を出してちょうだい」
そして、胸元から膝まで念入りに〈ブエル〉の矢羽部分でなぞっていくと、やがて釧が苦しそうに唸った。と、同時に、何処からどう見ても人間の姿をしていた彼の姿がゆがみ、見る見るうちにやつれた柴色の犬のような姿へ変わっていった。
あまりにも苦しかったのだろう。本来の姿をこうして無意識に見せてしまうことは、普通の人狼ならばないと釧自身が言っていたのに。ふといつもの凛々しい表情を思い出した。胸を張って山犬族について教えてくれた日のことを思うと、苦しそうにしながらオオカミの姿をさらす今の状態が切なくなった。今日のことは、忘れてあげた方がよさそうだ。
やがて釧の吐息が静まり始めると、霊はようやく〈ブエル〉を私に差し出してきた。受け取ってみれば非常に熱い。異様なほどだった。霊もまた額に汗がにじんでいる。湿った髪がやや色っぽく、ここにいる唯一の男性である釧の兄を魅了しないだろうかと心配だった。一応は大丈夫だったようだが。
「一晩は苦しむかもしれません」
霊は釧の兄と母親を振り返りながら言った。
「けれど、効果が現れましたら、明日になれば目も覚ますはず。万が一、変化がなければ、またご連絡ください」
ふいに釧の母親がさっと前へ出てきた。霊を睨むわけでもなく、ただ釧の枕元で座り込むと、袖を支えながらそっと手を伸ばし、狼の姿をした釧の鼻先を何度か撫でてやっている。その静かな振る舞いがやけに印象的で、同時に、寂しさを覚えた。
――お母さん。
具合が悪かった時に見た母の優しさを急に思い出してしまったのだ。
「……分かりました」
力の抜けた声で釧の母親は霊に言った。
「今日のところはひとまず……ありがとうございました。お言葉通り、明日まで様子を診てみましょう」
私の母である憐も私の具合が悪い時にこんな顔をしていたのだろうか。そして、私もいつかこういう顔をする日がくるのだろうか。霊と寄り添って生きている今は、母親になる未来なんて想像もつかない。だが、それならばそれで、霊が病で苦しんでいるときに私は似たような顔をするのだろうと思いなおした。
母は確かにいない。でも、霊が傍にいるじゃないか。それなのに、無性に寂しく感じてしまうのは何故だろう。私は贅沢者なのかもしれない。
なにはともあれ、ひとまずは一件落着だ。報酬は釧の目が覚めた時点で無花果氏から百花魁を介して店に届けられるらしい。予定として提示された金額はかなりのものだ。しかし、その半数ほどは近々消費されるに違いないと予想できる。
理由は私たちを取り巻く黒い噂と町の現状だった。鬼喰いの出現も花売りとの接触も時間をあまり置かずに立て続けに起こった。私も霊も住みづらい町のままでいることはさすがに辛すぎる。そういうわけで、いつもとは違ってこちらから曼殊沙華の家側に依頼していることがあるのだ。
先日、曼殊沙華に身柄を引き渡した翅人と関わった人物の特定。さらに、危険人物の排除である。利用されてばかりが私たちではない。お金さえあれば、こちらから利用してやることもできる。そういった意味で、この依頼はちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
帰りの車の中でそんなことを考えていると、ふと手の甲に温かさを感じた。霊がさりげなく手を乗せてきていたのだ。その眼は別の窓へと向いている。本当にさりげない触れ合いだったが、突然だったせいか官能的な感触にも思え、妙に意識してしまった。
「それにしても、あの奥様は相変わらず厳しいお人でしたわ」
車内の助手席で百花魁が鼻歌まじりに言うと、運転手が真っ先に相手をする。
「おや、何か言われたんですか?」
「いいえ、直接何か言うような野暮なお人じゃないわ。奥様は若い頃より石化の眼光を放つと噂される凛々しいお嬢様でしたそうですの。その片鱗を久々に感じてドキリとしてしまっただけよ」
「なるほど、確かにあのお家の奥様はお若い頃からキリっとした印象の方だったと記憶しています。もっともじっくりお話しする機会はないのであくまで私の印象ですが……」
「その通りの人よ、ねえ霊様」
突然、会話に巻き込まれ、霊は視線を逸らす。私に触れていない方の手で自分の唇をいじり、曖昧な返事をしていた。
「ええ……そうですね」
緊張していたのだろうか。それとも、百花魁の支配するこの空間が嫌なのだろうか。いつもの彼女じゃないことはすぐに分かった。そもそも、私にこうして触れ合いを求めてくる時点で、普通じゃない。
しかし、百花魁は容赦なく霊に話しかけ続けた。
「あなたも警戒されていたようですわね」
「霊様もですか?」
運転手が訊ね返すと、百花魁は調子を変えぬままさらりと答える。
「若くてきれいな女性店主ですもの。息子をたぶらかされないか心配だったのでしょう」
本当は全く違うことを言いたいのだとなんとなく分かる。運転手はただの人間だから、はっきりとしたことは言えないのだろう。きっと警戒されていたのは、しっかりとした理由あってのことだ。
霊が吸血鬼であるから。そして、私が吸血鬼と魔女の混血であるから。
「まあ、どうであれ、これで一件落着と行きたいわね」
能天気に呟く百花魁だが、その言葉には同意しかなかった。




