前編
天気雨だ。いつもの通り雨ならば、笠が来る合図だと思ってしまうものだが、天気雨だとまた違う。天気雨は、本当にただの天気雨の場合が多いが、時々、そうではない場合があるのだ。
天気雨の日、雨と共に店にやってくる人物。玄関がからんと音を立てて、彼女を招き入れる瞬間は、いつも微かな緊張を覚える。
見た目は小綺麗でやせ気味のお姉さんである。面長で色白の顔も、手入れの行き届いた髪も、そしてその髪をまとめる梅柄の簪も、視線を引き付ける魅力がある。服装はいつも古風な印象があり、履いているのは女物の下駄。歩けばカランコロンと音がする。
そんな女性だが、一歩、店の中へと踏み込めば笠と同じような変化が訪れる。目の前で一瞬にして美しい女性から神秘的な白毛のキツネになってしまうのだ。ちなみに、笠と同じく二足歩行である。名前は百花魁。周囲からは「百さん」や「百花姐さん」と呼ばれている化け狐だ。
「百さん、お久しぶりです」
カウンターより話しかけると、百花魁は真っ白なキツネの顔に笑みを浮かべ、店内を見渡した。その姿だけ見ると、どこぞの神社から逃げ出した狛狐のようである。だが、彼女も町の住人であり、笠と同じような仕事に携わっている。
「あら? 霊様はいないのね」
キツネながらに色気たっぷりだ。人間の姿の時の妖艶さは、我が主人の霊といい勝負であろう。
「さっきハガキを出しに行きました。ポストまで遠くありませんし、すぐ戻ってくるはずですよ」
「あらそう。じゃあ、待たせてもらってもいいかしら」
「もちろん、どうぞ。お飲み物お持ちしますね。珈琲、紅茶、緑茶、コーラやオレンジジュースなんかもありますけれど。何になさいますか?」
「普通の水がいいわ。お願いしていい?」
「かしこまりました」
我が家の冷蔵庫は飲み物のために存在しているといっても過言ではない。いただきものを一時保存するための倉庫としても優秀だが、そもそも普通の食事を必要としない私と霊にとっては、冷やしたり、凍らせたりすることができればそれだけで十分な箱である。
扉を開ければ並んでいるのは瓶ばかり。いただきものを保存するだけのスペースは確保しているが、それだけだ。あとは様々な種類の飲料水が色別に押し込まれている。その中から、透明なガラス瓶を取り出した。
表記されているラベルには「ソレイユ」と書かれている。シトロニエ国の言葉で太陽を意味するらしいが、太陽にゆかりがあるわけではない。ただ単にソレイユという地方に本社があるというだけの商品だとか。
我が乙女椿国産のものでもなければ、霊が常日頃こだわるマグノリア王国や蘭花、ローザ国のいずれのものでもない。それでも、霊はこの「ソレイユ」のミネラルウォーターが大好きだった。理由は瓶である。何の変哲もないガラス瓶に見えるが、霊からすれば他社の瓶を圧倒するほどの美しさが宿っているらしい。
この輝きを愛するあまり、住居スペースの廊下には度々飲み干された「ソレイユ」の瓶が並ぶことになる。廊下のランプの明かりを反射してなかなか綺麗だが、とても邪魔だということで、期間限定で楽しんだのちにまとめてガラス瓶回収に出されるのがいつの間にか我が家の習慣になっている。
回収に出される日は霊も寂しそうだが、再び新しい「ソレイユ」を買い集めるときに活き活きとしているのでまあいいのだろう。
そんなわけで、「ソレイユ」の出番だ。水がいいというお客にはいつもこれを出している。私と百花魁と、いずれ帰ってくるはずの霊とで飲めば、新しく一本インテリアの完成だ。霊もきっと喜ぶことだろう。
並ぶ「ソレイユ」の瓶の輝きよりも、その輝きを見て目を輝かせる霊の姿を想像し、私はなんとなくワクワクした気持ちで氷を入れた三つのグラスとギンギンに冷えた「ソレイユ」の瓶を一本、店へと運んだ。
百花魁はお客用として定番の蘭花風のテーブルについていた。刻まれている三聖獣の模様をキツネの手でなぞっている。近寄ってみれば、百花魁はテーブルを見つめたまま、うっとりとした様子でこう言った。
「いつ見ても立派なテーブルね。無花果様が羨ましがるのも分かるわ。無花果様ったら、同じものを世界でお探しなの。昔、一度だけここで見たこのテーブルが忘れられないのですって」
無花果様とは百花魁が深く関わっている富豪のことだ。本人はただの人間であるが、魔の世界に足を突っ込んでおり、その力を肯定し、頼りにもしている珍しい人物らしい。仲介役の百花魁がキツネであることも知っているし、百花魁を介して様々な依頼をする先の霊が吸血鬼であることも知っている。また、身辺警護のために口犬というボディーガード集団を抱えている。口犬は山犬族とか人狼とか呼ばれる魔物たちで構成されているらしい。
風変わりだが気前は良く、周辺の魔物たちからの評判はいい。が、霊は何度も大金の仕事を依頼されてきたというのに、あまり無花果氏のことを信用していないようだ。おかげで私は無花果氏に直接会ったことはない。こうして話を聞くだけだった。
「蘭花国に行けばあるのでは?」
「もちろん、わざわざ蘭花国まで使いを出したそうよ。けれど、これと同じものは何処にも売られていなかったのですって。聖獣たちの姿だけではなく、色彩までも完璧な組み合わせ。似たような商品はあふれていたけれど、こんなにも魅惑的なテーブルはなかったのですって。前に、霊様に高くで譲ってくれないか頼んだこともあったそうだけれど、どうやら彼女もお気に入りのようね」
「そうみたいですね」
霊がモノを誰かに譲らないとき。それは、譲ってはいけない事情があるからだ。逆に、譲らなくてはならないと判断したときは、一度名前をつけた古物であっても手放してしまう。たとえば、笠が履いている草履〈グシオン〉はその一例だ。霊の判断により笠が所有するべきものだと判断されたものだ。
ただ、蘭花のテーブルは純粋に霊のお気に入りでもある。モノに優しく、そのあり方を優先する彼女だが、何から何まで流れに任せて手放したりするわけではない。霊にだってプライドはあるのだ。少なくとも私にはそう見える。
無花果氏の希望を以前も百花魁はそれとなく伝えてきたものだった。しかし、霊はやんわりと断った。とてもふわりとしたやり取りだったが、両者に強い意志が灯っていることを感じてしまい、私は内心怯えてしまった。
霊が譲らないのはプライドのためか、譲ってはならないと判断してのことか。
その時のことを思い出したのか、百花魁は長いため息を吐いてから頬杖をついた。細い狐の腕に狐の頬である。だが、その仕草は人間そのものである。アニメや漫画の世界が現実になったかのようだ。こういう光景は笠で見慣れているはずだが、狸と狐ではだいぶ印象も変わるものだとしみじみ感じた。
「仕方ないわ。無花果様は紳士的な男性。妖の血を一滴もひかぬとはいえ、下品な猿共とはわけが違いますの。いずれ蘭花かどこかで同じものを手に入れて満足なさることでしょうよ」
目を細めながら言う百花魁に、私もまた愛想笑いを返した。
百花魁が魔のことを妖というのはいつものことだ。乙女椿の古い言葉で魔と同等の意味だが、魔よりも妖の方が柔らかい印象がある。それでも流行っていないのは、乙女椿国の憲法で魔に関する条文があるからだろう。
魔はこの世にいない。魔を信ずることによるいかなる差別も認めてはならない。どうして伝統の言葉である妖ではなく魔を選んだのかまでは分からないが、それゆえに普通に暮らしていれば魔物、魔族と言ってしまうものだった。
そこを頑なに妖で統一する百花魁の存在は、やはり印象が残されるものだ。それに、百花魁は笠よりも激しい言動が多い。魔の血をひかぬ人間のことを猿と呼ぶのも今に始まったことではない。どうやら彼女は無花果氏以外の人間のことは見下しているようだ。
「それはそうと幽ちゃん、ちょっと正面に座ってくれる?」
「正面ですか?」
戸惑いつつ言われるままに座ってみると、百花魁の狐の目がじろりと私の目をとらえる。その視線を受けた途端、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
「前よりも妖力が増している。〈赤い花〉の血の色が鮮やかになっている」
ニヤリと笑われると背筋がぞくりとしてしまった。妖力とは魔力のことだろう。増している理由を無意識に探り、内心、落ち着かなくなった。魔女の力の源は魔女の性による不満が解消されることだ。寿命が延び、肉体の衰えが止まるのは、性が満たされることで魔力が増すからだという解説を何でも知っている古書〈アスタロト〉に教えてもらった。
栄養のある美味しいものを食べて顔色が良くなるようなものなのだろうが、私の場合、その“美味しいもの”が何かを知られるとたまに恥ずかしくなってしまう。
顔が熱くなってきたので目をそらしたいところだが、金縛りが私の視線を離してくれない。こういう時、自分の性に嫌気がさす。不自由がこんなにも魅力的だなんて、霊に知られたら大変だ。お仕置きさえもしてもらえなくなったらどうしよう。
「分かるんですか?」
恥ずかしさと戸惑いを隠しつつ訊ねてみれば、百花魁はそっと口元に手を当てた。前足といった方がいいかもしれない。
「分かるわ。霊様の傍に寄り添いながら、魔女としての生き方を続けていらっしゃるのでしょう? その甲斐あって、わざわざその胸を切り開かなくともいい香りがするもの」
愛想笑いも歪む冗談に、固まってしまった。そんな私を見て、百花魁は満足そうに笑う。色気と発言の危なっかしさが増して、異様な魅力を生み出している。
「安心なさって。私は霊様を敵に回したくはないもの。吸血鬼なんて恐ろしいじゃない。それも異国の血がとても濃いお方。乙女椿で長く継承されてきた私の一族の血じゃ、霊様の魔術に抵抗できない。私だってしがない女狐ですもの。当然ながら、あと千年くらいは平穏無事に生きてみたいものなの」
色気の漂うくすりと笑う仕草に、何故だかこちらがドキッとしてしまった。相手は狐の姿だというのに、どうしてこんなにも艶っぽいのだろう。
「でも、やっぱり気になるわ。無花果様が夢中になったというその味。前にね、無花果様はおっしゃったの。騙されて〈赤い花〉の心臓を食べさせられたことがあるのですって。それから目覚めてしまったそうよ。面白い人よね」
人間として育った私としては、今すぐ通報したくなるようなお話なのだが、そうするわけにはいかない。百花魁はブラックジョークでもなんでもなく、ただ単に世間話をしているだけのようなので尚更だ。霊が戻ってくるまでの間、お茶を濁すしかないだろう。と、静かに考えていると、花花魁がふと私の手に狐のふわりとした手を当ててきた。
「ねえ、幽ちゃん」
目を見てみれば、いつの間にか百花魁の姿はここへ来た時の妖艶な人間の女性へと変化していた。霊以外の人の手でねっとりと触れられるのは、もしかしたら初めてかもしれない。……いや、そうでもなかったかもしれないが、少なくとも今は思い出せない。
とにかく、霊の知らない場所で手の甲をまさぐられるのはいただけない。強く拒絶すればいいだけなのに、魔女の性が魂に訴えてくるのだ。もっとされたい、と。
百花魁がテーブル越しに私の耳元に囁いてくる。
「今度、ふたりでお出かけしましょうよ。私、あなたの鼓動に耳を当ててみたい。〈赤い花〉の香りを誰にも邪魔されずに楽しんでみたいの」
これは浮気のお誘いだろうか。それとも、正々堂々とした殺害予告なのだろうか。
危ない誘いにクラクラしていると、店側の扉が強く開かれ、一気に我に返った。
「いらっしゃい、百花姐さん」
霊である。私のことなど眼中になく、鋭い眼差しは百花魁だけに向けている。戻ってくる前の天気雨で気づいたのか、店の窓から中の様子が見えたのか、それは分からないが、霊はバタンと扉を閉めると、わざとではないかと疑うほどの靴音を響かせ、蘭花のテーブルまでやってきた。
勢いよく手をついた先は、私と百花魁の手の触れ合うすぐ傍だった。
「まずはご用件をお伺いしましょう。それと、当店のスタッフへのナンパは全面禁止です。営業時間後も禁止です。外出の約束は、いかなる場合もこの私の同伴が必要となります」
「あらあら、怒っていらっしゃるの? 怒ったあなたも美しくて素敵よ、霊様」
嬉しそうに笑いながら百花魁は再びキツネの姿に戻った。それにしても、我が主人の攻撃が全く通じていない。それどころか、この反応。下手したらこのキツネに将来、寝取られるのは私の方ではなく霊の方かもしれない。いや、もしかしたら、もうすでにそういう夜もあったかもしれない――。
妄想が妄想を産み、だんだんと息が苦しくなっていった。その間、片手はまだ百花魁に弄ばれたままだ。しかし、それによっておかしな気持ちになってしまうより先に、霊がやや乱暴に百花魁の手を引き剥がしてくれた。
「とにかく、用があるのならさっさと仰って! そして、さっさと帰っていただけるかしら!」
遠慮のかけらもない言葉はなかなか酷いものだが、ここへ用事があって来る度にこういうことが続けば仕方もないだろう。
手の疼きと体の疼きを感じつつも、私は心の片隅に残る理性だけでも守り続け、霊の味方の立場でいようと強く自分に言い聞かせた。
「あらまあ、素っ気ないのね。まあいいわ」
百花魁はゆっくりと語る。
「用件は一つ。無花果様からの依頼を運んできましたの。無花果様に仕える口犬の若手の一人が急病で倒れたの。覚えているかしら? 釧という青年よ」
釧という人なら私も覚えている。以前、無花果氏より依頼された仕事のなかで、彼と深く関わることがあった。余暇に店を訪問することもあったので、なおさら印象に残っている。急病とは。顔も覚えている人物なので、少し心配だった。
「口犬の若者はいつだって希少な存在ですもの。人手が足りないと何かと困るけれど、病を祓うのは難しい。病名はよく知らないけれど、山犬族ならば誰でもかかる穢れのもの。猿どもの医者には治せないとお困りの様子なの」
「――それで、ご希望は釧のワンちゃんの病気を治す道具の貸出ということかしら」
冷静に霊が問う。ちなみに、釧のワンちゃんとは店をたびたび来店する彼に対して、霊が親しみをこめてつけたあだ名である。本人は嫌がっているような気がするので、ぜひともやめてあげてほしい。
「その道具と一緒に出張していただきたいの」
変なあだ名には一切触れずに、百花魁は淡々と要望を述べた。
「無花果氏のところに?」
やや警戒して訊ね返す霊を見て、少し不安になった。やはり、警戒心がいつもに増して強い。不快さよりも怯えが強いように思えて、こちらも心配になる。なまじ得意先の一つであるところがまた不安なのだが、一度繋がった縁を完全に絶つには、色々知られすぎていると言っていたことを思い出す。
百花魁は何処まで話し、何処から黙っていてくれるのだろう。いまいち、その心が分かりづらい人物だが、少なくとも今は霊や私の味方であろうとしてくれるらしいことは信じている。
「安心なさって。釧は隣町の実家で療養中なの。向かってほしいのはそちら。無花果様は別件で動けないそうだから、幽ちゃんが一緒でも大丈夫なはずよ」
「……本当でしょうね?」
いつもより低い霊の声に私の方がビビってしまう。だが、百花魁の表情は全く変わらない。少しも動じずに、優雅に肯くだけだった。
「本当よ。私、嘘なんて吐いたことありませんもの」
細い手を口元に当てて笑うその姿は、キツネとして見れば可愛いものだが、霊の表情はそんなものには誤魔化されなないといったところだった。
「詳細をどうぞ」
霊に冷たく言われ、百花魁は一つ頷いた。
「できれば今週末、つまり明後日か明々後日、私と共に釧の実家へ向かいましょう。それまでにあなたに試みてほしいことは、釧の身体を癒せる古物をお探しくださることね。曼殊沙華の管理下にある古物を使えば早いものでしょう?」
「危険な古物に関しては、持ち出しに曼殊沙華の許可紋や確認が必要です。早くとも週明けになるかと」
「あらまあ、クソ真面目な人ね。曼殊沙華の許しなんて必要なはずないじゃない。無花果様のご依頼だもの。あの一族がどれだけ無花果様の善意で支援してもらっているかご存知かしら? 決まりごとは時にお付き合いで有耶無耶になるものなの」
「そんなことが外に漏れだせば、危険な古物の取り扱いを巡って舞鶴家や銀箔家が強く出てくるに違いない。あなた達は曼殊沙華の家を潰す気なの?」
「分からない子ね。心配ないと言っているの。無花果様が許可をもらった形にすればいいお話でしょう? 今頃、ちゃんと話は行っているはずよ。あなたは大人しく古物をもって来るだけでいいの」
問題ないことは分かったが、霊はまだ不満そうだ。
おそらく規則違反が心配なのではなく、ただ単にこの依頼が不愉快なのだろう。何かと理由をつけて、仕事を断りたがっているようにも見える。私としては、釧が心配であるし、霊もまた彼個人とは親しそうだったのだが、単純な問題ではないらしい。
しかし、私も霊の傍で様々な関係を共に体験して少し長くなってきた。この依頼、霊には断る権利がないのだ。曼殊沙華と同じ。無花果氏の場合は、百花魁に握られてしまっている私のことだろうと薄っすら理解している。
私が〈赤い花〉じゃなければ、こんなことにはならないのだろうか。いや、どんな心臓であろうと、魔女である限り無花果氏には食材的な意味で興味を持たれてしまうのだろう。だとすれば、無花果氏の視線など恐れずに済むくらい強かったら良かったのだ。こういう場面でも、自分の弱さに心が痛んでしまうものだった。
「……分かりました」
不満そうなまま霊はとりあえず、といった感じで頷いた。
「受諾しましょう。明々後日まで時間をもらいます。釧のワンちゃんの容態が急変したらお電話いただける? 電話番号をお忘れでしたらお渡ししますわ」
「やあねえ、忘れるわけがないでしょう? 何年、あなたとお仕事してきたと思っているの? あなたの事は隅々まで分かっているわ。そこにいる幽ちゃんよりもずっと」
つっけんどんな霊に対してこの態度。やはり前々から思っているけれど、百花魁というこのキツネはただ者ではない。霊が苦手とするタイプなのだろう。正直、私も苦手になりそうだ。苦手なはずなのに、関りを拒絶できない雰囲気がある。それは、仕事仲間というだけの理由ではない。そんな気がした。
「ま、そういうことでまたご連絡するわ。よろしくね、霊様」
そういって、百花魁は立ち上がる。途端に人間の姿となった。やはり妖しげな雰囲気は同性であってもぞくぞくする。手を触れられたあの感覚を思い出してしまい、魔女の性が呼び覚まされそうで悶々としてしまう。
「それじゃあ、またお会いしましょう。幽ちゃんもお元気で。お食事と色事に耽りすぎて風邪など引かれぬように、ね」
包み隠さないアドバイスに顔が真っ赤になってしまった。
全身の血が蒸発しそうなほど体が熱い。たぶん、発情期の乙女椿猿のお尻よりも真っ赤っ赤だろう。
カランと音を立てて店の扉が開かれる。最後にとんでもない余韻を残しながら、百花魁本人はあっさりと帰っていってしまう。天気雨は窓から確認できた。目を見張るほど美しい人だが、生粋なる魔である以上、彼女もまたかかわりを求めない一般人からはとくに注目されないのだと聞いたことがある。
「さて、厄介者はいなくなったわね」
霊はそう言うと、店の鍵を閉めてしまった。
「あれ、霊さん? お店の鍵閉めちゃうんですか? でも、まだ営業時間――」
すべてを言い切る前に、唇は塞がれた。突然のキス魔の出現だ。少なくともお店の営業時間は守る人だったのに、外で変な虫にでも刺されてしまったのだろうか。
驚きつつ、戸惑いつつ、けれど私は私で霊がそれでいいのなら……という方向へと意識が流されかけてしまった。そこへ拍車をかけるように、霊の手が百花魁にも負けず劣らずのテクニックで体に触れてくる。
唇を離すと、霊の口元には牙が見えた。その眼はすっかりお食事モードになっている。
「ど、どうしたんですか、霊さん。お店がまだ――」
言いかけるも、霊の眼差しには逆らえない。首筋に唇をつけられると、それだけで幸福感に満たされてしまった。
「休憩がまだでしょう?」
口を離すと、やや粗い息遣いで霊は囁いた。
「外の日差しがとても強かったのに、〈フルフル〉を持ち忘れて歩いてしまったの。だから、幽の血で体を癒したい。ついでにあなたの声を聴きたいの。ねえ、いいでしょう?」
休憩か。……休憩。休憩なら仕方ないですね。
結局、ここまでされてしまうと私にも理性は全く残っていなかった。痛いことも不自由なこともされない時間。それでも、魔女の性は確かに満たされていた。霊の強引さのためかもしれないが、一番は、いつもなら閉めるはずのカーテンが全く閉められていないことにあるだろう。
私は窓に向かって座っている。通行人が現れないことを祈らなくてはならないという焦りのはずの感覚が、妙に心地よかった。
「いただきます」
小さく愛らしい声の直後、痛みと刺激は同時に伝わってきた。
血を捧げている間、触れ合う肌と肌の感覚が痺れのように残り続ける。ひとしきり吸い取ってしまうと、一気に虚脱感に襲われた。椅子の上で座ることも億劫な私の膝に座り、目を合わせてくる。
「ごちそうさま。少しはよくなったわ」
「そりゃ……何よりです」
「この続きは閉店後ね。それまでに、百花魁とかいうあのキツネに触られた場所を思い出してちょうだい。やすりで削るから」
「やすりはやめてください……」
実はちょっといいと思ってしまったことは墓場まで持っていこう。
「ちょっとした冗談よ。あの女狐のことなんか忘れさせてあげるから期待していなさい」
くすりと笑う霊に、今度はあてられてしまった。
しかし、なるほど。ちょっと分かった気がする。突然、休憩だなんておかしいと思ったのだ。これまでだって〈フルフル〉を持ち忘れて昼の世界を霊が歩いたことはあった。そんなときの彼女は影を通る。影と言ってもただの影ではない。自然にできた影の中に潜りこみ、太陽の当たらぬ空間を縫うように進むことができるのだ。これなら太陽光を避けることができる。同時にわずかながら魔力を消費するようだが、吸血がすぐに必要になるほどのものではない。
それなのになぜ、休憩するなんて言い出したのか。
思い当たるのはただ一つ。百花魁の訪問が気に入らなかったのだろう。心の平穏を乱されてしまった結果だろうか。だが、乱されたのは霊だけではない。私も同じだ。
「ところで、いつも思うんですが、百さんと霊さんってなんだか以前に深い関係にあったかのような雰囲気ありますよね」
さりげなさを装って確認してみれば、霊は私の胸元に頬をつけてきた。目を合わせないようにしているらしきところが非常に怪しいのだが気のせいだろうか。
「前も言ったでしょう、幽」
と、霊は呆れ口調で答えた。
「私はね、必要に迫られればたとえ相手がタヌキだろうとキツネだろうと寝られるの」
「それってつまり、百さんともそういうことがあったってことですか?」
思わず食いついてしまう私の手をいじりながら、霊は呟いた。
「どうだったかなあ、忘れちゃった」
心穏やかでない。




