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U-Rei -72の古物-  作者: ねこじゃ・じぇねこ
9.支配者の玩具ラッパ〈パイモン〉

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後編

 すっかり日が暮れた。お喋りをしているだけなのに、どうしてこんなに時間が経つのは早いのだろう。気づけば喫茶店に入り浸って何時間も喋り続けていた。楽しかったが、過ぎ去ればあっという間。笑顔で別れた桔梗の顔が脳裏にちらつく。


 思えば、学生時代も日が暮れるまでお話をしていたものだ。勉学に励みながら、青春真っただ中を共に過ごした日々が懐かしい。今思えばくだらない悩みを深刻に考え、ともに励ましあったものだった。あれから何年経っただろう。こんなにも早いものだなんてあの時は思いもしなかった。

 あの頃から私も桔梗も変わっていない気がする。当然と言えば当然だ。私も桔梗も人間ではなく魔女なのだ。桔梗はまだ自覚していないようだけれど、飢えていないということは知らず知らずのうちに魔女の性を満たして生きているのだろう。私と違って時間が多少進んでいる気がするのは、その頻度の違いのせいだと思う。


 私は恵まれているものだ。魔女として生き抜くための指導を霊がしてくれる。魔女の性も毎日満たしてくれるから、これ以上、年を取る暇がない。魔物に守られながら、人外の世界で生きていく準備を着々と進められている。一方、桔梗は魔女の性を満たしていようとも人間らしく暮らしている。けれど、このままだと必ず来るはずなのだ。自分が人間ではないと気付く瞬間が、絶対に。


 桔梗は友人だ。青春を共にした仲間だ。今はまだ人間だと思っていてもいい時期だけれど、そのうちに周囲との時間の流れの違いに戸惑うはずだ。この世界では表向き、人外の暮らせる場所なんてない。普通の人間のように年が取れないとなると、不審がられる時がくるだろう。

 誤魔化して生きていくには理解者が必要だ。その理解者に恵まれる環境が、今の私のいる場所でもある。霊を頼れば、笠を頼れば、桔梗がこれからも安心して生きていく場所が見つかるはずなのだが。


「そういや、最近、家族の話を聞いていないなあ……」


 帰り道、暗くなり始めた通りでふと私は気づいた。

 お互いの話はよくするが、家族の話はあまりしない。桔梗は私の家庭の事情をよく知っている。母一人子一人の時代はあちらの家族の話もよくしてくれたが、母が亡くなってからは向こうもあまり喋らなくなった。気を使っているのかどうかは分からないが、桔梗の父母や兄弟がどうしているのかを聞かずにしばらく経っている。


 桔梗が魔女として生まれているのは、両親のどちらか、もしくは両方から、〈黒鳥姫〉の心臓を受け継いでいるからだ。つまり、父母の少なくともどちらかが魔女か魔人であるはずだ。自分の正体に気付かないまま病死や事故死するような魔女魔人もいるらしいが、たいていは自分が年を取らないという奇妙な現象を目の当たりにしてやっと人間でないことを知るらしい。

 魔女や魔人の性は多くの場合、第二次成長期に目覚めるものだが、自分をただの人間だと思っている場合は、特殊性癖だとしか思わないそうだ。私もそうだった。今でもそう思ってしまいそうになるが、実際に魔法を使えるようになってからは疑わなくなったものだ。

 家族は桔梗に黙っているだけなのだろうか。それとも、桔梗はとっくに自分の正体に気付いているのだろうか。もしかして、私に正体を知られるのを恐れて、何も言っていないだけなのだろうか。


 今まであまり考えなかった桔梗の心情を想像し始めると、思わず立ち止まってしまった。

 もしも、桔梗が自分の正体に怯えているとしたら、私は何か力になれるはずだ。でも、どう切り出すべきだろう。彼女が自分から言うまで何も言わないほうがいいのだろうか。それに、力になるといっても具体的にどうしたらいいのだろう。霊に甘えたところで、願いを聞き入れてくれるだろうか。


「桔梗も一緒に手伝ってくれたらなあ」


 無責任かもしれないが、そう思った。


 もう一度、のんびりと歩き出そうとして、ふと、周囲の光景に気付く。いつの間にか、塵が降り出していたのだ。気づくのが遅れ、かなり焦った。周囲をさり気なく確認するが、通行人の気配はない。よかった。不審がられてはいないだろう。しかし、安心した直後、いつの間にか正面に人が立っていることに気付いて心臓が跳ね上がりそうになった。

 いつの間にそこにいたのだろう。おそらく男性だが、かなり細く、小柄だった。ローブのようなコートを着ており、フードで頭を隠している。その上に、塵が積もっていた。ずっとそこにいたのだろうか。それにしても、なんで気づかなかったのだろう。

 見つめられては仕方ない。私は立ち止まったまま、彼に視線を返した。すると、彼はマスクもなしににやりと笑って見せた。とても余裕そうなその態度に、私ははっとした。彼は人間じゃない。それは直感だった。


「あいにくの塵ですねえ」

「……え、ええ」


 話しかけられ、妙に不安になった。相手は何者だろう。魔物か魔族であるのは確かだ。目を凝らしてみれば、その色はうっすらと緑色に見えた。つまりは私と同じ魔族。魔人だろうか。それにしては、妙に人間離れしている。


「塵はお嫌いですか、〈赤い花〉のお姉さん」


 彼の方もどうやら魔を忘れて暮らしているわけではないらしい。それにしても、〈赤い花〉を口に出されるのは嫌な感じだ。


「どちらでもないです」


 適当に返事をして立ち去ろうにも、進行方向に彼がいるのが不安だった。横を通り過ぎても大丈夫だろうか。なぜか、私の足がそれを引き留めるのだ。彼と一定の距離を保つべきだと何かがささやいてくる。近づかれてはいけないし、近づいてもいけない。そんな思いが生まれていた。


「そうですか。それなら私と同じですね。魔物の連中が喜ぶことも、人間の連中が毛嫌いすることも、私にとっちゃ意味が分からない。ただ、塵は嫌いじゃないのも確かなのです」


 一歩近づかれ、一歩後退する。脳裏には周辺の地理が浮かんでいた。迂回して店に戻るべきだ。しかし、どの道を選ぶべきだろう。

 考えている途中で、彼の目がきらりと光る。その声に含まれる雑音が、妙に耳障りだった。段々と視界も狭くなっていく気がした。


「塵が降れば邪魔な人間がいなくなる」


 彼は言った。


「この時刻は神聖な出会いの時間でもある。長く生きてきましたが、どんなに時代が流れても、こうして健康的な魅力ある〈赤い花〉と出会えることはやはり素敵なことです」


 まずい。


 はっきりと気づいたときには、少し遅かった。目の前に立つ魔族の男の怪しげな魔術が、私の意識を一点に引っ張ってしまっていた。


 こういう狩りをする種族を霊に教えられたことがある。彼女は言ったのだ。翅人。翅人に気を付けないさい、と。彼らは塵のように世界に飛散し、細々と生きることしかできない弱い魔族だ。しかし、危険が多いだけに有利になれる状況を読む力が素晴らしい。世の中の〈赤い花〉が消えていったのは、彼らのような存在のせいでもある。無邪気な子どもや優しい人物から〈赤い花〉たちは翅人の一部に囚われ、世界のどこかへ消えてしまった。

 彼らは花売りと呼ばれるらしい。〈赤い花〉を求める人々のために人を攫い、売りさばいて金に換える不届き者だ。


 ――霊さん……!


 それは、私にとって初めての脅威だった。そもそも現代の乙女椿にこういう者が本当にいるなんて思いもしなかった。


「なあに、怖がることはありませんよ」


 翅人と思われる彼はにこりと笑った。


「今の時代、〈赤い花〉の血脈は大変貴重なものです。依頼人も食べることが目的ではないとはっきりと言っていました。あなたはどうやら、昔の〈赤い花〉たちが辿ったような悲劇の道を歩まされるのではく、恵まれた環境で大切にされ、ぬくぬくと過ごすことができるようですよ。よかったじゃないですか」


 ちっともよくない。だって、どんな未来かなんてわからないけれど、そこは霊の隣じゃない。国内だとしても、国外だとしても、主人である霊のもとへ帰ることができないとなると、それは大変な悲劇でしかない。


 ――そんなのは嫌だ。


 しかし、どうにか動こうにも、視線は一点に向いたまま動かなかった。そう、これが翅人特有の魔術なのだ。たった一人だけの視線を縛るだけの魔術。魔女や魔人が使える多種多様な魔術に比べればちっぽけなものだが、うまく使われてしまうと何もできなくなってしまう。

 私の自由の全ては、目の前の不届き者に奪われてしまっていた。


「さて、そろそろ雑談はやめましょう。新しいご主人様のもとへ連れて行ってあげますよ」


 そんな、絶体絶命の瞬間だった。仕事の成功を確信していた彼と、絶望の未来を確信していた私の耳に、奇妙な音が聞こえてきたのだ。間の抜けた音。場違いな音。塵の世界の中ではあまり響かないが、確実に私と翅人の彼の耳には届いた。


 ――これって……。


 それはラッパの音だった。昨夜、さんざん聞くことになったあのラッパの音。その音に釣られて、視線が動いた。動けた。


「なんだ……どうしたんだ……」


 代わりに、狼狽えだしたのは翅人だった。


「か、体が……動かな……」


 怯える彼を前に、私も戸惑ってしまっていた。ラッパの音が止まる。だが、追い打ちをかけるような変化が起きた。塵の積もる地面より伸びたのは真っ黒な手。触れられるのも避けたいような消し炭のような手が翅人の両足を引っ張り始めたのだ。


「う、うわぁぁぁやめてくれぇぇぇ」


 情けない悲鳴を上げて翅人が倒れかけると、さらに手は生え男の両腕を掴んだ。

 それは、魔女や魔人が使える魔法ではない。別の種族の者が使える魔法だった。影を操り、影に生きる者の力。怯えをあらわにして暴れだす翅人を前に固まっていると、ようやくこの場の支配者は現れた。


「全く、翅人のくせに吸血鬼の恋人を盗もうだなんて虫唾が走るわ」


 期待した通りの声が聞こえ、彼女は私の背後から現れた。霊だ。手にはクロコ製のラッパ〈パイモン〉が。ただし、その表情は昨夜とは全く違って、真剣そのものだった。


「依頼人と言ったわね。それは誰? この子のこと、いつから目を付けていたの?」


 霊に睨まれ、翅人が慌てだす。


「い、依頼人のことは知らない。知らないし、無関係だ。そ、それに……吸血鬼様のお花だと知っていたら手なんて出しませんよ。我々は平和主義ですからね」

「ふうん、平和主義なんだ」


 にっこりと笑ってから、霊は私に視線をやった。


「幽。出番よ」

「……え? 出番?」


 襲われたショックと助けが入った安心感で恍惚としていた中、一気に意識を引き戻された。何のことだろうと思っていると、霊の笑みが深まった。


「この時のために練習していたじゃない。虫の魔術」

「ああ、蜘蛛の糸の魔術の……『緊縛』ですね?」


 黒い手がすでに翅人を拘束しているからこそ、練習台にしろということなのだろう。確かに、あの魔術を練習するには今がいい機会だ。

 しかし、霊は唇を尖らせた。


「幽のお馬鹿さん。拘束なら私がしているでしょう。心配せずとも〈ハウレス〉の指輪で得られる魔力は底なしって言ってもいいくらいなのよ。だから、黒い手の耐久のことは気にしないで、思う存分やっちゃいなさい……蜘蛛の糸の魔術『切断』をね」

「へ?」


 情けない悲鳴を上げたのは、哀れな翅人だった。

 こういう業界にいる以上、魔女や魔人の使う魔術の知識もあるのだろう。蜘蛛の糸の魔術『切断』の恐怖を知らないというようなことはなかった。

 先程までのことを考えると、こちらが面白くなってしまうくらい翅人は怯え始めていた。


「ま、待ってください……待ってください、吸血鬼様。今は塵が降っていますが、じきに止みますよ。こんな街中で切断ショーなんてほかの吸血鬼様に目を付けられてしまいます。ああ、そうなったら、あなた様の〈赤い花〉も没収されてしまうかもしれない。大変なことですよ?」

「依頼人っていうのは誰?」


 霊は再度質問した。


「人間? 魔族? 魔物?」

「ご勘弁ください。もう二度と、その子は襲いませんから……」

「幽、やっちゃって」


 命令されるままに私は一歩前へと出た。本当は何もできない。蜘蛛の糸を生成することすらできないのだ。しかし、翅人の顔色はすっかり青ざめていた。それだけ危険な魔術を目の当たりにしてきたのだろう。

 片手をあげると、翅人は悲鳴を上げだした。見ていて可哀相になるくらいだが、彼のしようとしていたことを思い出せば、同情の気持ちも薄れてしまう。こちとら動けなくなり、本当に売り飛ばされるかもという恐怖を味わったのだ。ちょっとくらい脅したって罰は当たらないはず。


「分かりました」


 真面目な顔で私は頷いた。


「練習通りに一発で息の根を止められるかは分からないけれど……やってみます!」


 そう言って大きく息を吸い込んだ時、翅人は大声をあげた。


「あ、あああ、分かりました! 依頼人のこと思い出しました!」


 そんな調子のいいことを言い出した。


「念のため、聞いておいてあげましょう」


 霊があきれ顔でそういうと、翅人はもがきながら告げた。


「依頼人は男性です。たしかに物騒なお願いでしたが、決して、自分勝手な欲望のためではありません。この町やこの国どころか世界の平穏を真面目に考えているような方で、悪い人じゃないのです。〈赤い花〉を探すようにお命じになったのも、善意のためだそうですよ。この町では昔、〈赤い花〉が不届き者に殺されていますからね。そういった抗争に巻き込まれては大変だ。そういうわけで、私はただ迎えに来ただけなのです」

「ふうん。今考えたにしては立派な設定ね、守銭奴ゴキブリさん」

「設定なんかじゃありません……私は本当に……本当に――!」


 悲鳴じみた声に少々憐れみが増してきた。しかし、私の主人は霊である。霊がやれというのなら、やらねばならない。念のため、“あの時”のように翅人を指さし、一言だけ詫びておいた。


「ごめんね、翅人のおじさん。ご主人様の命令なんで」

「ひっ……」

「迷わず成仏してください――」

「あ、あああ、また思い出した! 舞鶴です! 舞鶴の者だと言っていました――」

「舞鶴のどんな人? 種族は?」


 霊が私の肩を掴み、翅人を睨みつける。その苛立った声になぜか私の方がドキドキしてしまう。横顔がとてもセクシーだった。


「きゅ……吸血鬼でした。それは確かです。翅人の直感で分かりましたので。ただ、相当下っ端のようで、なんというか……舞鶴家のお方にしては気品を感じられない男でした」

「そう。……とりあえず信じてあげましょうかね」


 霊がぽつりと言うと、翅人はやっと息をついた。


「で、では、私はこの辺で。この度はとんだ失礼を。そ、その、失礼ついでに、この手を解いてくださると助かります……」


 情けない声で彼は懇願する。体のあちこちが影より伸びる手に引っ張られ、大変辛そうだ。控えめながらも心からの願いなのだろう。だが、霊はそんな彼に即答せず、ゆっくりと近づくと、しゃがんで目線を合わせた。


「ねえ、あなた翅人だったら知っているかしら」


 顔を覗き込みながら、彼女はくすりと笑う。


「吸血鬼ってね、魔力さえ確保できれば、吸血鬼以外の魔物を強制的に使役する力があるの。でも、どう頑張っても人間や魔族は駄目なのよね。彼らを奴隷にするには魅了で心を縛らなくてはならない。ただし、心を縛ればその縁はなかなか切れない。洗脳ってやつね。良くも悪くも縁ができてしまう。だから、私達って、心より愛した獲物以外には興味も持たないものなの。あなたのようなゴキブリさんは特に興味の欠片もないものなの」

「そ、そうですか、そりゃ残念ですが……はは、仕方ありませんね。どうか、解いてください……」

「でもね、使役も洗脳もできなくとも吸血鬼には色んな力があるのよ。吸血鬼一人の影の中には広い世界があって、その中には檻がある。使役できずとも、洗脳できずとも、自分より弱っちい相手なら簡単に引きずり込むことができる。縁を結びたくない相手なら、無理やり捕獲してしまえばいいじゃないってことね」

「……え?」


 それが合図だった。


 塵の降る美しい世界で、翅人の体が地面よりさらに伸びてきた無数の黒い手につかまり、だんだんと地面の底へと引きずり込まれていったのだ。霊の影の中なのだろう。何処なのかはっきりと分からないその檻へ引きずられながら、翅人は必死にもがき、助けを求めた。

 だが、助けてくれるものなどいない。彼に仕事を依頼した相手も、どうやらこの状況を覆しには来てくれないようだ。哀れな翅人はどんどん影の中へと囚われていく。そんな様子を霊はただじっと見つめている。その後姿はとても残酷で、体がむずむずしてしまうほどだった。

 やがて、翅人の悲鳴は聞こえなくなった。周囲の沈黙を守り続けた塵が止んでしまったのも、その時だった。


「はあ、ゴキブリおじさんのせいで体が重い」


 霊は呟きながら、私のもとへと戻ってきた。じっと目を合わせると、その手でがしっと頭を掴む。撫でるのではなく、鷲掴みだ。


「怪我は……ないわね。不幸中の幸いだわ」

「れ……霊さん」


 その顔を見て、私はやっと心から安堵した。気づけば霊に抱き着いていた。やけに寒く感じるのは何故だろう。視界はぐちゃぐちゃで、何が何だか分からなかった。


「何よ、泣くことないじゃない。助かったんだし」


 そう言われ、やっと自分が泣いていることに気付いた。霊は優しく背中を撫でてくれる。呆れつつもその温もりはとても優しかった。


「お昼過ぎにね、花売りらしき翅人がうろついているって曼殊沙華の家から電話があったの。焦ったのよ。〈パイモン〉はあなたが隠したままだったし」

「ごめんなさい……あ、ありがとうございました……」


 身を守るなんて夢のまた夢。あんなに基本魔術も練習していたのに、ろくに抵抗も出来ないまま攫われそうになってしまったことがショックでたまらなかった。

 霊が来てくれなかったら、ラッパの〈パイモン〉を霊が見つけていなかったら、今頃どうなっていたのだろう。攫われた先で何が待ち受けていたのか、想像するだけでも怖かった。


「いいの。当然だもの。それよりも、帰ったら忙しくなるわね。〈パイモン〉にもまだまだ役立ってもらわなくては」

「舞鶴の人たちがどうして……私、何かしちゃったのでしょうか……」


 不安でいっぱいの中、霊はささやくように言った。


「どんな事情があろうと、あなたのせいではないわ。翅人が言っていたことが本当だとしても、独善的な行為に他ならないでしょう。それに、まだ舞鶴かどうか決まったわけじゃない。全く違う誰かが舞鶴の名前を使った可能性もある。ほかに何を知っているか、捕まえた翅人に知っていることをもっともっと吐かせなくては、ね」


 そして、自分の影をちらりと見つめる。その視線がやけに威圧的で、とても艶っぽく感じてしまった。身の危険を感じたからだろうか。少しお腹が空いた気がする。


「〈パイモン〉も……ここに来て早々、大忙しですね」


 少し心を落ち着けてからそう言うと、霊はにっこりと笑った。手に持っているラッパを撫でながら答える。


「ええ、この子のおかげでゴキブリさんに楽しい質問ができそうだわ。私の許可なく幽を怖がらせた罰は何がいいかしら。考えるだけで楽しみね」


 すっかり日の暮れた通りを軽やかに歩きながら、霊は考えを巡らせ始める。さぞ、素敵なプランが頭に浮かんでいるのだろう。私としては羨ましいくらいだが、きっと翅人は霊の影の中で怯えているに違いない。


 それにしても、今夜は怖かった。改めて、危険なものが何なのかを知れた気がした。いつかの死霊の時だって、私は弱者という立場を思い知らされた。牙の抜かれた獣は安全な檻の中で過ごさねば身を守れない。私も、冷静に身を守れる訓練をしなければ、今日のような事態に対処できないのだろう。


 こういう時のための虫の魔術なのだろうか。蜘蛛の糸を霊が薦めた理由も、今ならよく分かる。せめて『緊縛』だけでも出来れば、違うかもしれない。〈赤い花〉に生まれてしまった以上、いつまでも平穏な日々が過ごせると思っていてはいけないのだ。


 殺伐さは嫌いだ。平和主義が一番だ。それでも、すぐ先に待っているはずの安らぎのためには避けられないこともある。力を付けるということは、そういうことなのだろう。


 私の安らぎは霊の傍にしかない。二人で並んで夜道を歩き、家まで帰るこの瞬間さえも幸せな時と思えるほどだ。

 だからこそ、強くならねば。恐怖に打ち勝てる心が欲しい。そうして、いつかまた、かつてのように、霊のピンチを私が救えるくらいに役立つ存在となりたい。


 そんな思いを胸に、そして今宵のヒーローとなった〈パイモン〉の音色を思い出しながら、主人と共に歩けるささやかな幸せを感じながら、私は今日の日の幸運に感謝したのだった。

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