前編
暇だ。とても暇だ。
店のカウンターに座りながら、ラジオを聞き流すのにも飽きてしまった。外は晴天のよう。塵の予報もない。通りを歩く人の影も時折確認できるが、店の中に入ってくる様子はなかった。
今の時間、ラジオはどの局も興味のある番組を流していない。退屈しのぎに音楽を流してくれることを期待するだけだ。手元に置いてある古書〈アスタロト〉だけが私の退屈を真に紛らわせてくれる存在だった。
そう、今はこの店に私一人しかいない。主人が私を置いて外出中。それは、この世で最も退屈な時間だった。それも、お店の営業時間であると奥に引っ込んでテレビを観ることもできない。
まあ、どうせ、そのテレビも一人で観るのは退屈なのだろうけれど。
霊が外出したのは仕事の為だ。いつものように笠から電話があって、曰くつきの物品を鑑定しに向かったのだけれど、どういうわけか私の同行を許してくれなかった。なんでも、その場にいる面子にどうしても会わせたくない人物がいるらしい。こういうことはたまにある。具体的にどういう人物なのか、何故会わせたくないのかについてはあまり教えてくれない。せめてそれが聞けたら納得できるのだけれど、こういうときに限って霊は「命令」などというぞくぞくする単語を言い放つのだ。
おかげで何も知らされないまま、今に至る。
魔法の勉強でもしていなさいという適当な言葉に従い、私は〈アスタロト〉に向き合っていた。初めてここで働くようになった頃よりも、ずいぶんと役には立つようになっただろう。それでも、まだまだ私は霊が安心できるような立派な魔女ではないらしい。魔女として身につけられる魔術のすべてを理解出来たら、絶対に違うだろう。その魔術を的確に使い分けることができるのかと問われれば不安だが、ともあれ、身を守る術は増やしておきたい。
多少難しい魔術を覚えれば、霊も褒めてくれるかもしれない。そう思うと妙に張り切ってしまい、〈アスタロト〉に習得の難しそうな魔術を質問してしまった。
そうして表示されたのが、「〈乙女椿版〉紳士淑女のための虫の魔法」という奇妙なタイトルだった。
「なんだ、またこれか」
実は前にも読んだことのある項目だった。
基本魔術とは趣の違う魔法が紹介されており、そのすべてに虫の名前がつけられている。その中には、ルミネセンスなどを応用したものも含まれているが、習得するのはなかなか難しい。特に私のような駆け出しの魔女には不向きのものばかりだ。
それでも、この中の魔術を一つ、成功させたことがある。切羽詰まった状況だったから、火事場の馬鹿力というものだったのかもしれない。あれ以来、成功したことはないのだが、私にも可能だったという事実だけは感覚として残っていた。
その魔術に目が留まる。
蜘蛛の糸の魔術。
三種類ある中の、もっとも力のいる「切断」の魔術だった。ほかの二つは、「緊縛」と「磔刑」という。あの時は、この二つの魔術の習得を待たずに対象を「切断」することができたのだ。ちなみに「磔刑」は生まれながらのセンスも必要であるらしいので、習得できないままの者も多いらしい。多くの者は、「緊縛」と「切断」の二つのみを覚えるものだという見解を〈アスタロト〉は検索してくれた。
「緊縛」はとても魅力的な響きだが、私が緊縛する側なので習得には気が乗らない。しかし、時には危ない橋も渡っているのが我が主人だ。ここに書かれている虫の魔術をすべて理解すれば、とても頼りにされるかもしれない。そう思うと、前に読んだ時以上に興味が持てた。せめて、この二つを確実に使えるようになりたいものだ。
「でもなあ……」
〈アスタロト〉を傾けながら、私はそっと片手を眺める。指先から蜘蛛の糸のようなものが現れ、自在に操るというのがこの魔法の基本だ。しかし今は、その糸を呼び出すことすら困難だった。
「やっぱりあれはまぐれだったんだろうなあ……」
がっかりする反面、少しホッとした。
蜘蛛の糸の魔術はとても恐ろしい。特に一度成功させてしまった「切断」は、本当に何でも切断してしまう。私が成功させたときは、私たちの命を脅かせた脅威をそのまま切断した。それは、思い出すだけで血の気が引いてしまう光景だった。霊と自分を守りきれたという安心には代えられないが、それでも、これまで人間として生きてきた私にとって、言葉を喋るものを殺してしまうというストレスは計り知れないものだった。
あの時の記憶でおかしくならずに済んだのは、たぶん霊がいたからだろう。主従の魔術で救われたのは、霊の命だけではなく私の心もそうだったのだと思っている。
習得できれば非常に心強い。だが、本当に使いこなすことができるか。使いこなしたとして、私の心にかかる負担はどれだけのものなのか。
「……やっぱり蜘蛛はやめておこう。別の虫はどんなのだっけ」
目を向けた先に載っているのは、蛍、鍬形虫、蟷螂、蝶、蜂、蟻、鈴虫、螽斯、蝗、甲虫等など。
その中で最も習得が近そうなものは、蛍の光の魔術だった。すでに習得しているルミネセンスを応用した魔術だ。ルミネセンスを光虫のように自在に飛ばすことが基本となっている。種類はやはり三種類。「提灯」「明星」「稲妻」の三つである。説明を読む限りだと、静電気の魔法が絡んでくる「稲妻」以外はいずれも簡単そうにも思える。だが、いざ、ルミネセンスを唱えてみても、大前提となるその光の維持と光を指から離して自在に動かすという技術が大変難しいということに気付いた。
「なにこれ、本当に出来るわけ?」
思わず疑いの言葉を口にしたちょうどその時、住宅の方から物音が聞こえた。玄関の開く音だ。
「ただいま」
霊の声だ。やっと帰ってきた。
「おかえりなさい!」
大声で返事をすると、ほどなくして霊は店の方までやってきた。暖簾をくぐるなり〈アスタロト〉に目を向ける。
「ふうん、お暇だったようね。『緊縛』でも覚えて下克上しようってわけ?」
「ち、違います。だいたい私は縛るより縛られる方が……って何言わすんですか」
「何を今さら恥ずかしがっているの。そんなこと、とっくに知っているわ。……それで、何か習得は出来た?」
「全然ダメみたいです……」
しゅんとしてしまう私に、霊は首をかしげる。
「おかしいわね。前は出来たって言っていたじゃない。それも、一番物騒な奴」
「蜘蛛はやめておきます。物騒なんで」
「あらあら、幽ったら怖がりさんね。せっかく、頑張れば習得できるかもしれないっていうのに勿体ないわ。私が魔女だったら喜んで習得するのになあ、あなたを喜ばせるためにも役立つしね」
「よ、喜ばせ――」
「そう、蜘蛛の糸の魔術の『磔刑』で」
「そ、そこは『緊縛』にしておきましょうよ!」
思っていたよりも過激だ。だが、それも……いいかもしれない。そんなことを思っていると、ふと、くすくす笑う霊の手に何かが握られていることに気付いた。銀色の――ラッパだろうか。
「それ……今回の品物ですか?」
「え? ああ、そうよ。家で預かることになったの。名前は〈パイモン〉にしたわ」
「名付けられるほどのモノだったんですか……え、じゃあ、まさか、今夜も祝賀会をするとかしないとか……」
期待と不安が入り混じる中、恐る恐る訊ねてみれば、霊は妖艶な笑みを浮かべて私の頭を撫でてきた。
「前みたいに可愛がってほしいの? そうねえ、フォークだけじゃなく、スプーンもナイフもいいものよね」
怪しく光る目に見つめられ、緊張感が増す。期待と不安の絶妙なバランスが今の私の精神を保ってくれているようだ。
だが、ドキドキしている私を見つめながら、霊は急に表情を緩ませた。
「……でも、今宵はやめておきましょう。そう何度も傷をつけるようなお遊びをしてはいけないわ」
「え……そ、そうですか」
がっかりしただなんて素直には言わない。いや、それよりも、お預けされたということにしておこう。
「それよりも」
と、霊はラッパを両手で抱え、見つめ始める。
「今夜は、このラッパの力を見せてあげようかしら」
「――ラッパの力?」
「そう。これはね、クロコ製の高級な玩具なの。子どもの情操教育のために作られたはずなのだけれど、どういうわけかこのラッパだけ変な力があったらしい。たまたま取り寄せた家庭でおかしなことが起こったから、曼殊沙華のお家が引き取って、家で預かることになったわけなんだけど……」
「どういう力なんですか?」
単純に気になった。取り寄せた家庭で起こったおかしなことって何だろう。一気にオカルトっぽい話になって、別のワクワク感が生まれる。
しかし、霊は素直に教えてくれない。
「それは、今夜、ゆっくり教えてあげる」
またしてもお預けだ。だが、それも嫌いじゃなかった。




