中編
居住スペースの中央付近にある大きな階段を上がると、左右にそれぞれ四つの扉が見える。左手に私と霊の部屋がとんとんと並んでいて、その向かい――つまり、右手に小さな掃除用具の扉と、倉庫として使っている大部屋の扉がある。大部屋の通称は、開かずの間である。誰も使っていないはずなのに、奇妙な物音がすることがある。あまり気にしないようにしているが、真夜中に寝ぼけ眼の霊によって泥棒だと困るから代わりに見てきてと言われて涙目になったことが何度かある。
ちなみに、懐中電灯はない。二階に持ってこなければと常に思っているのに、いつも忘れてしまう。今もまた同じだ。しかし、こういう時の〈アスタロト〉先生だ。霊にほとんど貰ったような古本〈アスタロト〉には、これまで散々魔術の基礎というものを教えてもらった。
「ルミネセンス」
そのうち、真っ先に使えるようになったのが発光――ルミネセンスだ。
この魔術には人間たちが信じているような杖など要らない。指先に集中すればいいだけ。魔女や魔人なら黙っていても出来るものだが、私のように魔術を忘れてしまったものは、いちいち唱えなければ光らせられない。しかも、最初の頃は数秒で消えしまっていたのだが、今では数分持つようになった。もっと極めれば、光を指先から放って蛍のように飛びまわせることもできると書いていたが本当だろうか。本当だとしても、それが出来るようになるのはかなりの時間がかかりそうだ。
「さてと」
左手は発光、右手は〈バルバトス〉という状態で、開かずの間の鍵を開けた。中は埃っぽい。本当は毎日掃除しなければならないのだろうけれど、時間が足りなくて一週間に一度になってしまっている。換気のために格子窓を少しだけ開ける日もあるが、それだけでは埃は消えてくれない。
「うーん、マスクしてくればよかったかな」
ルミネセンスのお陰でさほど気にはならないが、この部屋の電気は点かない。何故なら、電球が切れてしまっているからだ。買いに行かないとねと話したのが昨日のことで、今日、明日はちょっと暇がなさそうだ。明後日あたりに行けたらいいのだけれど、まあ仕方がない。そのうちに、電球替えも含めて大掃除を予定しなくては。
それにしても、スリッパを履いていてよかった。そんなことを考えながら、適当な場所を探す。ケースは小さいから、棚の中がいいだろう。殆どの棚がいっぱいだが、一つだけちょうどよく開いているスペースがあった。
「じゃあ、ここかな。ここでゆっくりしていてね」
霊の影響だろう。私も近頃、モノに話しかけるクセがついてしまった。答えてくれるような気がするからではあるが、いざ、答えられたら怖いだろう。
ケースをしまって、棚に鍵をかけ、少しだけ窓を開けて外を眺めてみた。日没間もなくなので、外はまだ少し明るい。ただ見える景色はお隣さんの家の壁だけで、見下ろしてみれば、我が家の庭の椿が見える。いつもは存在感がないのだが、その時期がくると赤くて綺麗な花が咲くと言っていた。まだその時期は先なのだが、今からちょっと楽しみだ。
外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、ご近所さんのどこからかカレーの匂いがしてきた。その匂いが美味しそうだと分かるのは共に育った子どもたちや、母の教育の影響で学んだからだ。しかし、意識しなければお腹は空かない。
私の夕食は別のものだ。その夕食にありつけていないことを思い出すと、一気にお腹が空いてきた。窓を閉めて、そそくさと倉庫を去る。このまま放置されるのかと思わなくもないが、それでは霊が貧血になってしまうだろう。私だけの夕食ではない。霊にとっても貴重な栄養補給の時間であることは忘れてはならない。
階段を下りていくと、リビングで霊は待っていた。その表情からは相変わらず何も読み取れない。ただ、何か楽しいことでも考えているのか、薄っすら笑みが浮かんでいた。
「〈バルバトス〉、収めておきましたよ」
そう言って近づくと、正面に座るように静かに促された。ご命令通りに座れば、霊は微かに笑んだまま口を開いた。
「ありがとう。今日は〈バルバトス〉がここに来た記念にお祝いしましょう」
「お祝いですか?」
「そう、お祝い。先にお風呂入ってくるから、そっちで待っていて」
畳の部屋だ。あまり使うことはないが、霊がそういうのなら従うほかない。黙ってそちらに向かっている間に、霊は浴室へと消えてしまった。血を吸う気はあるのだろうか。そう思いながら部屋へと向かうと、そこには布団が敷かれていた。ただの布団ではない。そのシーツの色に、びくりとしてしまった。
蘇芳色。触れてみればひんやりとしていて、すべすべだった。初めて見るシーツではない。前にも一度だけ使われたことがあった。蘇芳色。その色に怯えを抱いたのは、主従の魔術によって霊と私が繋がれたあとのことだ。魔術のお陰で霊は死なずに済んだ。その後、みるみるうちに回復していき、二週間も経てば調子を取り戻した。その夜だった。純粋なる魔物と魔族の違いを全身に叩きこまれたのは。
「確か、これを使うときって……」
布団に触れながら呆然としていると、襖が開かれた。風呂上りの霊。その姿には色気があるものだが、それよりも着ているネグリジェの色に目を奪われた。そちらも赤い。何故、その色が選ばれるのか、思い出してさすがに怯えてしまった。
「幽の着替えはあとで置いておくから。お風呂入ってきなさい」
「……はい」
表情はいつもの通りだ。いつも通りの霊だ。信頼できる人だと常々感じているとおり、大好きな主人に変わりない。しかし、相手は吸血鬼であり、私は魔女だ。ダンピールが吸血鬼を殺せる力があるというのは迷信だということはもう知っていた。吸血鬼の特性を何も受け継がなかった以上、ただ単に父親が吸血鬼であるというだけ。魔法の不得意な魔女など純血の吸血鬼にとって、ほとんど無力な人間と変わらないだろう。
そう、私は生かされている立場なのだ。霊の命を救い、主人として魔術で縛ったことは確かだが、その魔術に気力で抗えるのならば、いつだって彼女は私を殺すことができる。霊のことは信頼しているはずなのだが、責める力が強すぎれば恐ろしくなってしまうことだってあるのだ。
それでも、私は従った。従者であるからだということもあるが、魔女の性に抗えなかったこともある。魔女の性は厄介なものだ。生きるために必要な特性で、魔力の源にもなる欲望だが、その欲望を満たすためならば死んでもいいとさえ思ってしまう困った特徴もあるのだ。欲望と理性のせめぎ合いが首を絞めてくるようで、とても苦しい。しかし、楽になろうと冷静に考えだす前に、私の体は欲望の方に傾いてしまう。
結局、言われたとおりに逃げ出さずにお風呂に入った。何も命じられてはいないが、隅々まで綺麗に洗う。緊張を抑えながら風呂をあがると、そこにはいつの間にか着替えがおいてあった。浴衣だ。乙女椿風だが、異国の雰囲気がうまい具合に混ざり合っている。初めて見るものだ。
ただ、袖を通してみようとして、気づいた。下着がない。
「あれ?」
とりあえず、浴衣だけを着て部屋に戻ると、そこに霊はいなかった。仕方なしに、下着だけでも取りに行こうとしたところで、霊と鉢合わせた。
「どこに行くの?」
「下着がなかったので取りに行こうかと」
「あらそう。でも、必要ないわ」
「え……あ……」
そこで、私は霊の手に握られていたものに気づいた。銀色に光るもの。一般的な食事にはたしかに使うものだが、今の状況にはあまり相応しくないものだ。フォーク。あまり使われていないが、手入れはしっかりされている。何故、そんなものを持ってきたのか考えて、思わず後ずさりしてしまった。
「やっぱりその浴衣、似合っているわね。簡単に脱がせられるところも好きなの。お風呂上り用にしては派手すぎるかなとも思ったのだけれど」
「霊さん……」
泣き出しそうになったのは、フォークのせいだ。それで何をしようというのか考えると、怖くて仕方なかった。霊はそんな私を抱きしめてきた。
「大丈夫」
耳元で囁く声にぞくぞくした。
「私の牙とそんなに変わらないから」
そうして、長い夜は始まった。真実が見えるという〈バルバトス〉がこの店に来た記念に行われる二人きりの祝賀会は、はっきりとした痛みを伴うものだった。それでも、恍惚とした視界の端々に留まる我が主人の美しい表情があまりにも綺麗だったから、恐怖は少しずつ私の意識と共に溶けていったのだった。
それから、どのくらい経ったのだろうか。痛みと冷たさで目が覚めてみれば、薬品の匂いが辺りに充満していた。いつの間にか私は眠っていたのだろうか。今が何時なのかは分からないが、あれからしばらく経ったのかもしれない。それだけ全身が硬く感じた。
痛みの原因は全身の傷のせいだが、冷たさは違う。いまだぼやける視界の中に、霊の姿が見つかった。手当をしてくれているのだ。
「じっとしていなさい」
私が起きたのに気付いてそういうと、遠慮なくべたべたと消毒液をつけてきた。かなり沁みるが、この刺激も癖になりそうで非常に困る。その感覚に、少しずつ眠ってしまう前のことを思い出し、全身が熱ってしまった。
「〈バルバトス〉の場所、いいところを選んだのね」
手当を続けながら霊は言う。痛みで変な声が出そうなのを堪え、私もどうにか答えた。
「見たんですね」
「ええ、何処にしまったのか確認しなきゃ、あとであなたに怒られちゃうもの」
くすりと笑うその姿はとても穏やかで、顔色もかなりいい。眠る前に微かに残っている記憶にある眼差しはどこにもない。猛獣のような彼女は何処にもいない。牙の代わりとなった銀色の得物も見当たらなかった。
あれが一番怖かった。たしか、ラヴェンデル製のもので、たまに活用される短鞭や猫鞭、さらにはこの家の地下になぜか眠っているアイアンメイデンといった品物を売ってくれたあの美人陽炎が嬉々として売り込みにきた商品だった。家で料理を食べる機会なんてあまりないのにどうしてだろうと思っていたのを覚えている。あの時に戻れるのなら、ぜひとも考え直すように説得していただろう。
けれど、いつも直接飲む時とは違った楽しみがあったのか、霊は非常に機嫌がよさそうだった。優しくされるとこちらもついつい許してしまう。どんなに怖くとも、相手が霊だったらそれでもいいと思ってしまうのだ。
「手当も終わったことだし、もう少し寝ていなさい」
霊は爽やかにそういうと、薬箱を抱えて立ち上がった。その姿に急に不安になり、私は起き上がってしまった。
「霊さん……」
寝なれない畳の部屋が不気味なせいもあるだろう。以前はここに乙女椿伝統のややこ人形というものが置かれていた。霊曰く、可愛らしい少女を象った人形らしいのだが、その表情や姿はとても不気味だったのを覚えている。今はもう、ややこ人形は曼殊沙華の家の何処かに貰われていったからないのだが、今もまだ床の間にいるような気がしてしまい、怖かったのだ。
怪我が痛いせいもあるのだろうか。霊に置いて行かれることに不安になったのだ。だから、恥ずかしくはあったけれども、懇願するように私は霊を見上げていた。
「戻ってきてくれますよね?」
聞き方は、不味かったかもしれない。
いつもの霊が聞けば、少し意地悪してやろうと思わせてしまうような声色になってしまった。本気で不安だったからなのだが、それを分かっていて敢えて怖がらせることも霊は好きなのだ。余計なことを言わなきゃよかっただろうか。そんな不安を抱えていると、ふと、霊はしゃがんで私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「怖がりさん。心配しなくても一緒に寝てあげるわよ。これをしまってくるだけ」
「本当ですよね?」
「あら、一人で寝たい?」
「いやです、絶対戻ってきてください」
無様にも泣き出しそうな状態で霊に懇願すると、背中をぽんぽんと叩かれた。
「はいはい、冗談よ。可愛い子さん」
そう言い残して霊はあっさりと立ち去ってしまった。ついて行きたいくらいだったのだが、身体が動かない。まだくらくらしているようだ。仕方なしに、怖い気持ちを抑えてじっとしていた。ラジオもテレビもついていないから、家の中の音がよく聞こえてくる。霊が何処を歩いているかがよく分かる。
階段を上がり、扉を開けて、そろそろ降りてくる頃だろうか。
と、その時、じりじりとけたたましい音が鳴り響いた。電話だ。廊下に置かれている。その激しい鈴の音にびくりと震えたが、音はすぐに止んだ。霊の話している声が聞こえてくる。知り合いのようだ。
一体誰だろう。ぼんやりと考えていると、電話が置かれる音がして、間もなく、霊が戻ってきた。
「電話、誰だったんです?」
顔を見るなりそう訊ねる私へと、霊は何かを投げてきた。ふわりとしたものが視界を奪う。どうやら着替えの寝巻ようだ。有り難く受け取って袖を通す私へ、霊は答えてくれた。
「曼殊沙華の御家よ」
寝巻から顔を出してみれば、霊と視線が合って思わずぎょっとした。お茶を濁すべく、訊ね返す。
「玉美ちゃんたちの御家ですか?」
「いえ、その叔母にあたる人の家だったわ。つまり、雷様の御家ね」
「ああ……」
ランク修正の件だろうか。曼殊沙華の家から連絡があるときは、古物に関する重要な連絡か、そうでないときは玉美ちゃんたちの関することがほとんどだ。この場合、前者で間違いないだろう。
「〈バルバトス〉の話ですか?」
しかし、そう訊ねる私の当ては見事なまでに外れた。
「いいえ。雷様の御家からだったけれど、雷様の伝言ではなかったわ」
「え? じゃあ、誰だったんですか?」
「旭君よ」
「旭君……って誰です?」
「玉美ちゃんたちの……従兄に当たる男の子ね」
初めて聞く名前の子だ。
もちろん、曼殊沙華の御家にたまたま兄妹以外の子どもがたくさんいることは知っているが、あの子たち以外に会ったことがないものだからとても新鮮だ。
「珍しいですね。なんだったんですか?」
「明日、このお店に来たいのだけれど開いているかっていう確認」
「へえ、わざわざ確認を」
っていうことは来ると言う事か。たまたま三兄妹以外の曼殊沙華家の子どもというとあまり知らない。なんだか妙に楽しみだ。
「曼殊沙華の家ってことは、その子も鬼なんですよね?」
「そうよ。鬼の男の子。玉美ちゃんたちのお兄ちゃんの玉貴君とはまた違った可愛い男の子よ。鬼神の血を引く男の子はとても綺麗で血の味も美味しいらしいのよね。吸血鬼なら誰もが一度は飲みたくなる味だって聞いたことがあって」
「駄目です。未成年に手を出したら犯罪ですよ」
慌てて本気で注意してしまったのは、日頃の霊の行いのせいだろう。ロリコン気味だとは思っていたが、まさかショタコンでもあったとは。このことがもしも乙女椿帝国が誇る頑固者の憲兵さんなどに知られたりでもしたら、とても大変だ。
そんな私の様子に、霊はむすっとした表情を見せた。
「もう、冗談に決まっているでしょう。それに、私には私専用の〈赤い花〉があるの。わざわざあなたの血を蹴ってまで欲しいと思うほどの魅力はないわ」
だから、と霊は傍までやってくると、着替えたばかりの私の服をすっと撫でていった。服の上からだというのに、いや、むしろそうだからだろうか。絶妙なその感触に鳥肌が立った。気持ち悪くなるほど、心地いい。そんな相反する感覚に混乱して動けなくなる私に、霊は囁いてくる。
「やきもち焼かないの」
「や、焼きもちなんかじゃないです」
慌てて反論したものの、真面目に受け取ってもらえていないようだ。霊の悪ふざけはとまらず、私の方もそれに文句の一つを言えないほどに屈してしまっていた。
待てよ。今、重大なことに気づいた。気を失う前から変わらないところが一つだけある。遊び足りない霊の手を必死につかんで、私は彼女を真っ直ぐ見据えて申し出た。
「あの、霊さん。私、下着がないみたいなんですけど」
すると、霊は驚いたように私を見つめてしばし黙った。首をかしげる姿は愛らしい小鳥のようだ。そんな可愛らしい仕草で、霊は口を開く。
「下着って、あなたにも必要なんだ?」
衝撃の瞬間だった。




