前編
片眼鏡といえば、七十年ほど前に乙女椿の男性にも流行ったものだと聞いている。マグノリアやシトロニエ、クロコなどリリウム市国周辺の流行によるらしいが、堀の深い彼らのものは乙女椿人には向かないため、鎖や紐で吊るせるようなタイプのものが好まれた。
これも、その一つだ。海外のものではなく、全く魔の血を引かぬ人間の一般家庭より預けられたものらしい。持ち込んできたのは笠であるが、実際に依頼されて引き取ったのは曼珠沙華の家のものたちであるそうだ。
「……てなわけで、だ。今日からこれの保管も頼んだ」
依頼といえばこちらに断る権利もある対等なものに思えるのだが、相手が曼珠沙華の家となれば別らしい。霊は慎重に片眼鏡を見つめながら、やや眉をひそめていた。モノに優しい彼女が珍しいものだが、きっとまずいものなのだろうと窺える。
「ランクはB。これは雷様の見立てだ」
笠の説明通り、私は帳簿に書き記した。ランク付けされる古物は、そのうちに名前が付けられることになる危険なものだ。下はEから上はSまで存在する中で、Bといえばちょっと高いランクだと思う。実際、Bより上のモノは、曼殊沙華の家の許可がない限り、人に譲渡したり、貸し出したりすることは出来ない。
ちなみに、雷様というのは曼殊沙華の家の人で、玉美ちゃんたちの叔母に当たる。乙女椿伝統の椿装という衣服をいつも身に着けている。玉美ちゃんのあのふるまいも、たぶん、雷様の影響だろう。
「ただ、あんたが保管する上で不便なら、変更しても構わないそうだが、ぜひとも慎重に頼むと仰っていた」
「背景について、もう少し詳しく」
霊が短く頼むと、笠は頷いてから答えた。
「もともとその家の高齢男性のものだったらしい。生前、彼は家のものに片眼鏡を不用意に触ってはいけないと何度も言っていたらしい。しかし、彼亡き後、曾孫にあたる男児がそれを触ってしまった。それからすぐにその曾孫は泣きわめき、妄言にとりつかれたそうだ。家族はすぐに取り上げ、かねてよりこの手のものの処分をしている曼珠沙華の家に依頼をしたのだとか」
笠の説明を聞きながら、霊は虫眼鏡で何度も片眼鏡を確認していた。ちなみにあの虫眼鏡もわけあり品だ。傷を見るふりをして、本当は全く違うところを見ている。見ているというか、聞いているらしい。あの虫眼鏡が使えるのは生粋の魔物だけらしいのでよくわからないのだが、あれでモノを見るとその声が文字になって見えるのだとか。そのため、見ていながら聞いていることになるのだとか。
ただ、魔物ではない私には確かめようがないので、どういうことなのかはよく分からなかったりもする。
「なるほどねえ」
虫眼鏡を手に霊は呟いた。
視線を片眼鏡から外さずに、私に指先を向ける。
「ランクAに修正」
書いたばかりの欄に取り消し線を引いて、言われたとおりに書き直した。たしか、Bまでは店内に保管で、A以上は物置部屋に移動だったはずだ。風通しなど関係なく、保管していなければならない品物。
これって、そんなにまずいものなのだろうか。
笠もまた不思議そうに首をかしげた。狸の姿は相変わらず可愛いが、仕草や声は完全におっさんだ。
「おや、雷様の見立ては不満かね?」
「慎重に判断した結果よ。この片眼鏡、見えるものはただの幻じゃないみたい。騒動の発端となった男の子について、何か聞いていない?」
「うーん、錯乱していたってことしか書かれていないな。ただ今もまだ引きずっているのか他人を怖がるようになっているとか」
「そう、可哀想に」
短く感想を述べると、片眼鏡のケースを閉じて、こちらに手渡すと、何やら考え出した。虫眼鏡で顎を軽く叩いているその姿を何となく眺めていると、笠が口を開いた。
「教えてくれないか。見えるものは幻じゃなきゃ、なんなんだい?」
「真実よ」
とてもシンプルな答えだった。
「少なくともこの片眼鏡はそう言っている」
「真実だって?」
「もちろん、真実であるのかどうかを確かめる方法はないわね。ただ、男の子のその様子だと、この眼鏡で見えたものが真実であると思えて仕方ないことになるのでしょう。くるってしまうほどにね」
霊の言葉を聞いて、片眼鏡の収まるケースが一気に不吉なものに思えた。
真実が分かる。虫眼鏡や卓上電話の〈アモン〉に似ていなくもないが、人に及ぼす悪影響は相当なものなのだろう。
受け取ったことが正直恐いくらいだが、霊が何も言わないということは私が持っていても大丈夫ということだ。そう自分を励ましながら、片眼鏡を落とさないように気を付けて指示を待った。
「ランクアップの理由はそれだけではないわ。この片眼鏡について知っている人が数名浮かんだ。真実が見えるという可能性はそれだけ魅力的なのでしょう。舞鶴や銀箔の家の者たちが欲しがるかもしれないわ」
舞鶴も銀箔もこの辺りの名家だ。昔は知らなかったが、実はどちらも吸血鬼の一族らしい。霊とは違う家系のもので、霊の事を雑種呼ばわりする感じの悪い人たちだということは覚えている。
「それは雷様も仰っていた。そのうえで、ランクはBだと」
「鬼神の末裔の人たちは、吸血鬼を甘く見ているわね。舞鶴や銀箔の恐ろしさを分かって下さらないのだから」
「ああ、どっちも鬼神に怯えるような奴らだってさ。この店は玉美たちがよく遊びに来るだろう。それだけに大人たちの視線もあるから、奴らにゃそう簡単には手を出せないだろうって言っていたが」
「それが甘いと言っているの。舞鶴や銀箔が自分の手を汚す人たちだと思う?」
その問いに、笠は口を閉じた。
舞鶴も銀箔もあまり詳しくは知らない。ただ、霊がかねがねこの二家の者たちを恐れていることは覚えていた。その二家のどっちにもつかずにうまく渡り歩いている親戚の元のこともあまり信用していなかった。それだけ、恐れているのだろう。
霊は睨むように笠を見て、続けた。
「とにかく、その二家のことも考えて、ランクはAに修正させてもらう。雷様にもそう伝えて下さる?」
突き放すような物言いに、笠は溜息を吐いた。
「わかったわかった。ちゃんと伝えておくよ」
狸なりに苦笑いを浮かべると、お茶を飲み干してぴょいと椅子から降りた。いつもの応接用の蘭花のテーブルは、そんなに背が高いわけではないのだが、狸である笠には椅子すらもかなり高い。しかし、そこから玄関口に向かうまでの短い間に、彼の姿は人間の男性のように変化した。
「んじゃ、このままの足でちょっくら曼殊沙華の門を潜ってくるとするかね」
気づけば外ではにわか雨が降りだしている。静かな音をずっと聞いていると眠くなってくるのが辛いところだ。
「あ、そうそう」
と、扉を開ける手前で笠は再び振り返った。
「雷様が言っていたんだが、曼殊沙華の家の坊ちゃん……えっと、誰だったかな。たまたま兄妹以外の誰か……ともかく、坊ちゃんの誰かがお店に遊びに来たいと言っていたそうだ。そのうち、電話が来るかもしれんね」
「あらそう。たまたま兄妹以外は珍しいわね。分かった。把握しておくわ」
「そうしてくれ。それじゃ、霊、また来るぞ。幽、主人が厳しい時は、曼殊沙華の家に逃げ込むんだぞ」
「はいはい、またね」
まだ喋り足りなそうな笠の背中を霊が押している。そうしますとこちらが答える暇も与えられず、去っていく。その姿を窓越しに見送っていると、店の扉を霊がぴしゃりと閉める。一気に店内が暗くなった気がした。暗がりで霊の目が光って見えた気がして、少し寒気がした。毎朝、毎夕の記憶が身体に沁みついているのだろうか。
怪しげな空気に耐え切れず、私はそそくさと片眼鏡のもとへと向かった。
「さ、さて、そうとなればこの片眼鏡をしまうスペース確保をしなきゃですね。適当に保管して見つからなくなったら大変ですから」
単純な冗談というわけでもない。霊だけに任せていたら、実際にそういうことをしてしまいかねない。部屋の何処かで見つかるでしょうとその辺に置いておくから心配なのだ。確かに、開かずの間なのだからモノが勝手に動くはずはないのだが、そこに保管されているモノのランクはAやSなわけで、そんなことが起こらないと言えなくもない。
そうでなくとも、何らかの用事で曼殊沙華の家の使いがやって来た時に速やかに品物を出せないとなると不味いのではないだろうかと心配なのだ。
しかし、そんな私の心配をよそに、霊は考え事をやめなかった。
「名前は〈バルバトス〉でいいかしら。どう思う、幽」
「霊さん!」
不満をあらわにしてみたが、霊はちっとも悪びれずに笑った。
「いいじゃない。ちゃんと考えているわよ。そうね、〈バルバトス〉でいっか。よろしくね、〈バルバトス〉」
私の持つ片眼鏡のケースに向かって霊はにっこりと笑う。その美しさにドキッとしてしまった。霊の目に吸い込まれそうになる中、店内の時計の鐘が鳴り響く。夕方だ。ラジオの様子から察するに、日没間近だろう。いつも閉店している時刻だ。
「お店を閉めちゃいましょうか」
恐る恐る声をかけ、逃げるように店の扉の鍵を閉めにいった。
たまにこういうことがある。霊の心が分からず、怖いと思ってしまうのだ。主従の魔術は私達のきずなを深めると同時に、お互いの命を守るものであるはずだけれど、時々その性能を疑ってしまうことがある。
カーテンを閉めると店の中は真っ暗になった。そういえば、電気をつけていなかった。
「すみません、霊さん。電気を――」
振り返りつつ言おうとしたとき、背後にいつの間にか霊は立っていた。
夕飯の時間だ。いつものことのはずなのに、どうして怖く感じるのだろう。きっと真っ暗だからだろう。肩に手を置かれ、びくりと震えてしまった。
「幽」
私が怯えていることを分かっているはずなのだが、霊は遠慮しない。
「今日は新しい古物が増える記念の日よ。〈バルバトス〉はきっと私たちの日常に暗い影を落とすでしょう。それでも、〈バルバトス〉はここに居てもいい。あなたや私がここに居てもいいように。分かる?」
「……はい」
お腹が空いているのだろうか。霊の目はぎらぎらとしていた。肩に置かれた手に力が籠っている。その微かな痛みの感覚が、私の魔女の性を呼び覚ました。抵抗する気にならない。私は私でお腹が空いていた。
噛みつくのをじっと待っていると、その唇が首筋に触れた。しかし、そこでぴたりと動きを止めると、霊はくすりと笑った。
「せっかちさん。夕飯はもうちょっと後でね」
「え……」
すっかりその気にされた状態で、霊は無慈悲に離れていく。そして、〈バルバトス〉のケースを指さして、冷徹にも命令する。
「これ、倉庫にしまってきてちょうだい。管理場所はあなたに任せるわ。その方が正確だし」
「あ、あの、霊さん……」
「なに?」
平然と訊ね返すその姿には先ほどまでの鋭い眼差しがない。ただの綺麗なお姉さんだ。暗がりの中にいても見惚れてしまうものだが、今の私が求めるような威圧的なものはすっかり隠されてしまった。
こういうところも堪らない。ただただ責められるばかりでは早々に敗北して貪られるだけの獲物と化してしまうはずだけれど、霊はそれを良しとしない。何をするつもりなのか、何を企んでいるのか、澄ました表情の向こうに巧みに隠してしまうことで、こちらに期待と不安を抱かせる余裕をくれるのだ。
恐ろしい人だが、嫌悪すべき人ではない。私の理想の主人そのままに、彼女は今日もふるまっている。もとからこういう人だったのか、魔術のせいでこうなってしまったのか、それは分からないのだけれど。
ともあれ、〈バルバトス〉のケースを手に、私はとぼとぼと店を後にした。
古物のうちのランクA以上のものはすべて二階の倉庫に閉まってある。そこにあるものは、風通しなど考えなくていいらしい。とにかく、壁に囲まれた安全な場所に隠してやるのが望ましいそうだ。とはいえ、だいたいの古物は風通しがいい方が望ましい。出来るだけ、この場所に保管するものは少ない方がいいとされており、実際、その数は店内に置かれた非売品のものよりも控えめだ。修正は慎重にという意味も、そこにあるのだろう。
倉庫に置いておくものは曼殊沙華の家にも通知済みのものが大半であるらしい。中には、霊が個人的に預かったものもあるらしいのだが、それはほんの少数で、場合によってはここから出ることもできる。しかし、曼殊沙華の家からやってきたものは、この部屋から出ることはほとんどない。あちらの指示がない限り、他の古物のように気軽に使うことが出来るものではないそうだ。
だいたいは遺品だと聞いている。近頃のオカルトブームの影響で持ち込まれるいわくつきのものは増えたらしいが、本物は圧倒的に少ない。ただし、その本物が非常に不味いことだってある。魔を忘れつつあるこの世界で、こういったものが放置されるのはよくないということで、この〈バルバトス〉のように霊の店に居場所を見つけることになるのだ。
危険なモノだが、存在してはいけないわけではない。悪人に見つからない場所でひっそりと過ごさせることが大事なのだ。我が主人はいつもそう言っている。
それはそうと、倉庫だ。身体がじわじわと熱っているのを感じながら、私は〈バルバトス〉と共に長い廊下を歩いたのだった。




