後編
閉店後の清掃が終わると、リビングにて私は霊に着替えを手伝ってもらっていた。
手伝ってもらうほどの服ではないのだが、強制的に手伝われていたのだ。着替えは本来の夕食も兼ねている。これから後に行うのは、外食という名の遊びであり、デートである。純粋にわくわくすることなのだが、今はそれどころではなかった。
下着をかえなくてはならない必要は何処にもないのだけれど、霊は当然のように脱がそうとする。それにちょっとだけ抵抗しつつ、私は霊に言った。
「玉緒ちゃん、大丈夫でしょうか」
「んー?」
生返事なのは仕方ない。誰だって、食事に夢中の時は話しかけられたくないものだろう。
しかし、そうと分かっていても、私はどうしても会話がしたかった。何故ならば、この状況がいけない。霊はしっかりと服を着ているのに、私だけほぼ脱がされているというこの屈辱。惨めに思えば思うほど、身を委ねたくなってしまうのだ。
これではいけない。あまりに浸れば、これから先のデートを十分楽しめなくなってしまう。だから、私は出来るだけ意識を保つように努力していたのだ。
「明日が勝負の日ってときに、あの様子……ちゃんと告白できるのか、心配で……」
「幽ったら、優しい子ね。――もっと力を抜いて」
囁かれてびくりとしてしまった。抵抗する力を奪われ、最後の砦が崩されてしまう。しまったと思ったちょうどその時、ようやく牙が打ち込まれた。
「うう……」
痛みと恍惚に震え、脱力しそうになる。そんな私を霊はしっかりと支え、さらに血を吸っていく。脈拍と吸う力が重なり合うと、一体感が生まれる気がする。この感覚に浸るたびに、私は霊を独占したくなる。他の誰かを襲わせないためにも、健康でいなくてはと強く思うのだ。
いつの間にか吐息が荒くなり、汗ばんできた。そして霊の滑らかな指によって与えられる刺激に敏感になった頃、ようやく牙を抜かれた。
「御馳走様」
もたらされたのは、ほのかな倦怠感と眩暈。いつの間にか私は、床に座り込んでいた。そんな私の素肌をそっとなぞってから、霊は言った。
「この続きは帰って来てからね」
その後、ようやく私は新しい下着と服を着せてもらえたのだった。
霊の選んだ服は、乙女椿風の柄物ワンピースだった。いつもはマグノリア国風のデザインを着せてくるのに、今日に限って珍しい。しかし、霊が今日一日着ていたものとぴったりのデザインでもある。それがちょっと嬉しかった。
外に出たあとは、ラジオで聞いた店の話をそれとなくしてみたり、その店に行ったものの人が多くては入れなかったり、暗くなったあとに輝くネオンを一緒に眺めてみたり、ようやく見つけた手頃なクロコ国料理店で夕飯を食べたりした。
霊も私もかなり少食だ。本来は必要ないから当たり前だろう。しかし、私の方はなまじ人の祖先も持っているものだから、料理人が心を込めてつくったスパゲッティの味に幸福感を覚えたりもする。
では、相方はどうだろう。向かい合って座り、優雅に食事をする霊の表情は、非常に落ち着いたものだ。彼女は人間の血を一滴も引いていない。そんな彼女が、人間が人間の為につくった人間の料理を口にして、美味しいと感じるものなのだろうか。
分からないが、霊はスパゲッティを完食し、一言呟いた。
「美味しかったけど、帰ってから幽の血でお口直ししたいかも」
そう言って、真っ赤なクロコワインを流し込む。鶏冠のように赤いため、クレスタと呼ばれるスパゲッティソース。トマトと挽肉の赤みが、霊のイメージにぴったり重なるが、ご本人は私の体に流れる血をご所望の様子。
今宵は貧血になりそうだ。
店の外に出てみれば、予報外れの塵が降り始めていた。
周囲を歩いていた人々が慌ててマスクをしたり、屋根の下に逃げていったりする。皆、非常に困った顔をしている。悪臭というのはどれほど辛いのだろう。傘を差して、どこかで雨宿りをして、マスクをして、そのくらいで防げる程度なのだろうか。人によっては吐き気をもよおすのか、その場にしゃがんでしまうほどだから、見ていて可哀想になる。
考えていると、霊がいつの間にか広げた傘に入れてくれた。
マグノリアのパトリオットという時代風の愛傘である。私物として使っているが、これも名前のある古物で、〈フルフル〉という。
日差しも雨も雪も風も嵐も塵も、そして槍すらも防いでくれるとかいう不思議な傘だ。
「念のために持ってきておいてよかったわね」
本来は必要ないのだが、周囲の目もある。
二人で傘の下に入り、空を見上げていると、霊が静かな声でいった。
「落ち着くまで隅っこで待っていましょう。平気で歩くと悪目立ちするから」
「……そうですね」
辺りが灰色の世界になっていく中、私は隣に立つ霊の心をぼんやりと考えてみた。
もしも私が〈アモン〉の受話器を取ったなら、繋がるのは誰の夢だろう。もちろん、思い当たるのは一人だけだ。昔からの友人である桔梗とは何もないし、笠のことも本心が知りたいというほどの興味はない。その他の友人や知人、親戚なども同様だ。
私が覗きたくなるのは、隣にいるこの人の本音。主従の魔術で互いに縛られた今、霊の本音はどうなっているのだろうと心配になってしまうのだ。
「綺麗ね」
塵が輝く光景を見ながら、霊がとても小さな声で囁いた。私もまた同じくらい小さな声で同意する。
恋人同士、美しい星空を見ているような気持ちだ。しかし、そんなことが周囲に知られるのは怖い。誰もが人間のふりをして生きる世の中。本物の人間がどのくらいいようと、人間であることが前提で成り立っている以上、余計なトラブルを招くようなことはしてはならない。
何より、霊を怯えさせるような事態がいやだ。
ぎゅっと手を繋いでみると、強い力で返される。そのやり取りが愛おしく、ため息をついてしまいそうなくらいだった。
幸福な気持ちになりながら、私はふと店で待っている〈アモン〉のことを思い出した。
あの電話機のことを知り、望む人も多いらしい。大人であれ、子どもであれ、ウソをつけず本音で語り合えるという能力に惹かれ、誰かと心と心を直接結びたい人が〈アモン〉を求めるのだとか。
本音で語り合う。たしかに魅力的な力だ。
しかし、全てを知り、語ってしまうということは恐ろしい。なかには、知らない方がいいこともあるだろうし、語ってはいけないものもあるだろう。
表面を皮で覆うのは何故か。誰もが内臓をむき出しにして生きていないのは何故か。答えなどはっきりと言えるわけではないが、私は霊と同じ時間を過ごしながら、静かに自分の答えを導いていた。
霊の本音という正解がなくたって、彼女は私が手を繋いだらぎゅっと繋ぎ返してくれる。私はこれで十分だ。
「ねえ、幽」
艶っぽい声が耳元に零れ落ちる。
「今夜は私の部屋で寝なさいね」
柔らかな命令口調が心地いい。手を繋いだまま、私は顔を真っ赤にして俯いた。そして、今更、初心な反応をしてどうすると自分で自分に呆れてしまった。
美しい塵が足元に積もっている。悪臭など感じず、ただ眺めているだけの私と霊。並んだ足を見つめていると、笑みが零れ落ちてしまう。繋いだ手の感触に慣れてしまわぬうちに、私はこっそり頷いた。
霊と私。
いまの私たちにどれだけのウソが隠れ、どれだけの真実が隠れているのだろう。今も店で待っている電話機〈アモン〉ならば、簡単に暴いてくれるだろう。けれど、その力を使いたいとは思わない。少なくとも、私の方から、あの受話器を耳に当てることはないだろう。
決して大きくはない傘〈フルフル〉に守られながら、愛する主人と身を寄せ合いながら、そして温もりを感じながら、私はそんなことを考えていた。




