中編
――な、なんだ、この幼女。
まぎれもない幼女の声だったが、その口調が私よりも長く生きていそうな勢いだ。つまりたった一言でくそ生意気と分かる口調なのだが、霊は全く動じずに興味なさそうな表情で頬杖をついていた。
「対価ねえ。具体的に何を払うつもり?」
「血じゃ。ワシの血をやろう。汝は吸血鬼なのだと母上に聞いておる」
言い当てられて私の方が動揺した。
吸血鬼といったか。ああ、そうだ。霊は吸血鬼に間違いない。血を飲まねば幾ら飯を食っても生きていけないのが彼女である。だが、この世は魔というものを忘れた。これまで魔と信じられていた現象の一部は科学的に解明されている。しかし、魔自体も忘れ去られてしまったのだ。殆どの人間は吸血鬼を本心では信じない。信じないはずなのに、いざ、世間に知られたら粛清は免れない。不安定なこの世の中で、霊も私もひっそりと隠れ住むことしかできない。
何故なら、魔というものは一人では意外と無力であるものだし、そもそも私も霊も平和主義者なのだ。
そういうわけで、この美幼女はあまり好ましい客とは言えない。母上とやらが何なのかもわからないが、それを聞いてのこのこやってきて、面と向かって本人を吸血鬼呼ばわりするお客さんなんて望ましいわけもない。
だが、霊は意外にも平然としていた。
「はあ、面倒臭いお客さんだこと」
ぼーっとしているのはやはり酒のせいだろうか。
「血と言ったわね。結構なことよ。あなたの血には価値を感じる。滅多に味わえない血でしょうね。金額に換算すれば、その木刀の価格よりも高い。そのことを考慮した上で判断するとなると、気になる点が一つ。私がもしも血など必要ないという場合、果たしてその対価は相応しいか否か」
「金か? 金が欲しいのか? 卑しい女じゃ」
「年端もいかぬ女の子から金銭をせしめるほど落ちぶれちゃいないわ」
「じゃあ、なんじゃ? 何を払えばこの木刀を譲ってくれる?」
「はっきりと言った方がいいかしら? それは譲れません。木刀が欲しいのならお土産屋さんで探しなさい。〈ベール〉は私の棍棒なの。ぶっ叩いて解決しなきゃなんない相手に必要なものなの」
「それなら話を変える。こいつを貸してくれ。金が必要なら、そうじゃな、母上にせがんでお小遣いを前借してくるぞ。いくら必要なんじゃ?」
「そうねえ……ああ、そうだ。お嬢ちゃん、『この世に序列は存在しない。人は生まれながらに平等である』と説いた昔の偉い人を知っている?」
「知っておるぞ。父上が読ませてくれた本の著者じゃ。とても道理の分かる人間で、魔も差別せずに相手したという偉人じゃ。貨幣にも印刷されておるな」
「そ、じゃあ、話が早いわね。その人が印刷された貨幣を十億枚持ってきてくれるかしら」
「じゅ……十億枚じゃと……」
絶望する幼女。当たり前だ。断るならシンプルに断ればいいのに、大人気ない。美幼女は青ざめた顔で霊を見つめ、ぷるぷると震えだした。雨合羽のフードを深く被っているその姿は実に可愛い。もしかして、虐めて遊んでいるのではないか。だとしたら、常識ある淑女として黙っておけない。
「あの……霊さん……」
「分かった……十億枚じゃな……ワ、ワシが……ワシが脱げばいいんじゃな!」
なぜそうなる!
このままではいけない。御用となってしまう。それだけならいいのだけれど、もしもその途中で私たちが異常な人間……つまり、魔女と吸血鬼であるとばれてしまったら、最悪あれこれと理由をつけて殺されるかもしれない。
まずい。まずいぞ。どうにかしてこの流れを止めなければ。
「ちょっとま――」
「はあ、分かってないわねえ。乳臭い女の子が脱いだところで金になるわけがないでしょう。マニア受けするかもしれないけれど、違法だから儲けになるどころか私たちは逮捕よ。極悪人よ。こんなくだらないことで前科者になってたまるもんですか。帰りなさい、乳臭いお嬢ちゃん」
「な、乳臭いじゃと! 由緒正しき曼殊沙華の紋章を持つこのワシに、乳臭いじゃと! しかも二度も言ったな、この無礼者!」
そう言って雨合羽幼女は胸元をはだけさせて首から下げる印籠を見せつけた。持病でもあるのだろうか。いや、それとも家の鍵かな。中身がとても気になるところだが、それはともかく、なるほど確かに名家の家紋っぽい。というか、名家だった気がする。あれ、この子すごくいいところのお嬢さんなのでは。
「はいはい。その家紋はすごいわね。代々の資産家ですもんね。でもねえ、お嬢ちゃん、その印籠にひれ伏すのはただの人間か鬼だけよ」
「畜生、吸血鬼だって漢字で鬼と書くのだろう! ワシは知っておるぞ。汝が鬼の一族である以上、ワシは汝よりも偉いのじゃ!」
「『この世に序列は存在しない。人は生まれながらに平等である』そう言ったでしょう。あんまりしつこいとお家に電話するわよ? そうだ、お母上に言いつけてやりましょうか。お宅のお嬢ちゃんがいけない道に進もうとしていると。ちゃんと叱ってやった方がいいのでは、ってね」
「ぐううう、や、やめるのじゃ! 母上に言いつけるのは……ひ、卑怯なのじゃ!」
地団駄を踏みながら美幼女は言った。
鬼とか言っていただろうか。よく分からないけれど、彼女は生まれながらのお嬢様で、一般人を見下す傾向にあるようだ。今のうちにこの性格は矯正した方がいいのではと思わなくもないが、他所の家庭の事情に首を突っ込むことはない。
私は黙って霊の応対を見守った。
霊はというと、悔しそうに駄々をこねる美幼女に残酷な笑みを浮かべつつ、ある種の満足感を得てしまってからやっと、宥めるように言った。
「とにかく、これはオススメできないの。お嬢ちゃんの悩み事なら、この木刀に頼っては駄目。これは加減を知らぬ木刀なの。相手を殺したって解決しないわ。お嬢ちゃんが求めているのは、相手の命ではなくて降参なのでしょう? じゃあ、普通の木刀じゃなきゃ」
「普通の木刀だと勝てぬ。ワシは……その……うら若き乙女であるからして……」
うら若き乙女は木刀で誰かに勝つとか考えないと思うのだけれどそれは。と言いたいところだったが、どうも、霊もこの美幼女もただならぬ雰囲気だ。下手に口を出すのは止した方がいいだろう。そうしよう。私は空気を読んで、空気そのものになった。
「仕方ないわね。放っておくのも可哀想なのは確かよ。そのガキ大将とやらも一度痛い目にあっていた方がいいと思うしね」
よく分からないけれど、霊がそういうくらいなのだからろくでもない子どもなのだろう。たぶん。
「普通の木刀は持っているの? 傘でもいいわ」
「傘なら家にあるぞ。丈夫な傘じゃ。ワシがどう使っても誰も文句は言わん」
「ん、それなら上々ね。さて、幽」
急に名前を呼ばれて、戸惑った。私は空気。私は空気。私は空気。
「幽。何ぼーっとしているのよ。あなたの出番よ。ちょっとしゃがみなさい」
「なんかすごく拒絶したくなるのですが」
「逆らうというの? いい度胸ね」
しまった。今日は具合がよくないから不機嫌なんだ。あまり怒らせると愛のない罰則になくことになるかもしれない。お仕置きというものは愛があるから素晴らしいのであって、ただ長時間ガミガミと叱られた上に放置っていう処分が一番心に来る。私は慌てて霊の言葉に従った。
美幼女は私の顔をじっと見つめ、そして何かに気づいたように眉をひそめた。
「なるほど。この女、汝の奴隷か」
流し目とその言葉にぞくりとしたのは黙っておこう。
霊は微笑みながら私の方に手を置いた。
「曼殊沙華っていうものは色んな色があるけれど、やはり赤が主流よね。〈赤い花〉はあなたの一族にも素晴らしい影響をもたらす。ちびっ子にはちょっとクセのある味かもしれないけれど、悪くはないわ」
「この血を飲めば、ワシもあのガキ大将どもをぎゃふんと言わせられるのじゃな。なあに、クセなど気にせん。喜んでいただこう」
ちょっと待った。
なんか、私の心を置いてきぼりにしたまま話が進んでないかな。気のせいだったらいいのだけれど、なんか知らないうちに私がこの子に血を提供する的な話になっている気がするんだ。たぶんこれ、売血になるよね。乙女椿の法律では違法だったと思います。病気が流行るといけないからとかそんな説明を読んだような気がしないでもない。とにかくお巡りさん、来てください。ここで違法行為が行われようとしています。
そんな独り言を脳内でしていると、肩に置かれた手に力がこもった。
「いいこと、幽。誰かに言ったりしたら、お仕置きなんてものじゃすまないわ。人間が人間の都合で人間の為に作った法律なんてどうでもいいけれど、それで罰則を受けるのはすごく不快なの。不快なのは嫌いなの。イライラする。ねえ、幽。私をイライラさせない方がいいわ。お仕置きされて恍惚とした気持ちになれるのだって、命あってのことよねえ」
「あ、あはは、何を言ってるのですか、霊さん。分かっていますって」
命あっての物種。そう、死んでしまえば何にもならない。責め苦にむせび泣きながら次の期待が出来るのだって、生きているからこそのこと。それ以上の拷問は、ただ単に苦しくて不快で屈辱的なだけ。
こうなることは覚悟の上だ。日頃、金銭以上の報酬をもらっている感謝の気持ちをここに示せ。そういうわけで、私は霊に言われるままに幼女に腕を差し出した。それを見て、幼女は私ではなく霊の顔を確認する。
「こいつの対価を聞こう。効果の期限も」
「対価はあなたの乳歯。生え変わったら持ってきなさい。もしくはすでに抜けている歯でもいいわ。あなたの、でないと駄目よ。血の効果はちょうど一週間。明日には挑んだ方がいいわ」
「分かった。すでに抜けた乳歯を取ってある。それを後日もってこよう。新しくぐらぐらしている歯もあるゆえ、心配はいらぬ」
なるほど、まだ歯も全部生え変わっていないほど小さいのね。と、納得している間に、電撃が走るような痛みがもたらされた。腕をがぶりとやられたのだ。ただの人間の幼女に噛まれた痛さではない。ああ、鬼と言っていただろうか。そうだ。まさに人食い鬼に噛まれたって感じだ。
歯を食いしばって耐えていると、腕から血が流れるのを感じた。しばらくじっと幼女は私の血を味わうと、やがて、かぱっと腕を解放してくれた。すごくズキズキする。でも、なんか癖になる痛さだ。吸血鬼に噛まれるのとはなんとなく違うタイプだ。鬼は鬼でもこの子は吸血鬼ではなく、ちょっと違う鬼なのだろう。それとも、乳歯だからなのかな。もう一回またの機会に噛んでもらいたいくらい、痛いながらも癖になる感覚だった。
「幽」
霊の手が私の肩をさらに掴む。
「さて問題です。私の許可なく私以外の誰かと関係を持ったら、あなたはどうなってしまうのでしょうか?」
突然のクイズだ。なんかこう暗黒クイズって感じだ。出題者の笑顔がとても愛らしい。ご機嫌そうで朗らかな口調がかえっておぞましい。どうなってしまうのか、出来れば聞きたくはないので、永遠の謎ということで以後気を付けようと思う。なお、答えの発表はこの美幼女がお家に帰ってからにしてもらいたい。
そんな大人的な提案は言葉にせずとも霊にも伝わったらしく、それ以上はクイズについて触れず、じっとお客さんを見つめ始めた。美幼女は唇についた血を拭っている。とても可愛い。正直、帰すのが惜しいくらいだ。あ、でも別に誘拐や監禁をしたいだなんてそんな危ないことは考えていないので誤解しないでいただきたい。しっかりと距離をとって眺めるバードウォッチング的な精神で愛でたいというだけで、決して変質者などではないのですと堂々と主張させていただこう。
鼻血が出そうなくらい可愛い毛繕いをすると、美幼女は猫のように欠伸を一つ漏らした。うーんと背伸びも済ませると、ようやく整ったのか元気よく霊を見上げた。私のことは無視である。
「なんだか力が湧いてきた気がするぞ。店主よ、礼を言う。歯はいつまでに持ってくればいいのだ?」
「今月いっぱいってことにしておきましょう。焦らずとも、喧嘩の後でいいわ」
「そうかそうか。ひひ、奴らめ。きっと慌てよる。ワシの前で膝をつく哀れな姿が今から楽しみじゃ」
私なんかよりもずっと魔女という言葉の似合う笑い方で美幼女は歩き出す。雨靴をぺたぺたと言わせながら真っすぐ店の出口へと向かい、そして、扉に手をかけるとくるりと振り返った。
「世話になった。また来るかもしれぬ。長生きするんじゃよ、吸血鬼め」
そうして非常に偉そうなお客さんは帰っていったのだった。