後編
結局、落ち着いて本を探すことは出来なかった。
適当に手に取った漫画本が数冊と文庫本が一冊。どれも手ごろな価格で売られていた。最近、有名な漫画家が病死し、その作品がピックアップされていたらしい。哲学的な思想が盛り込まれたその作品は、単なる娯楽漫画の域を超えていると評され、学校の授業でも内容が紹介されるほどだという。
そんな有名漫画家の彼が描いた作品。『大怪盗ヴァレファール』という作品。神々しい馬の姿が表紙の漫画を見つけ、購入してしまった。とても縁があるものだ。しかし、不吉過ぎて気になった。これまで、霊の古物に対してこんなに恐れたことはなかったと思う。だが、あまりに不吉過ぎて、放っておくことが出来ず、つい買ってしまった。一冊だけだとさすがに気持ち悪いので、同じ作家の全くテイストの違う作品を一冊と、新人漫画家の作品が一冊。そして、昔、図書館で読んで気に入った短編小説が一冊。だが、所詮は気持ちを紛らわすために買ったものに過ぎない。私の興味は〈ヴァレファール〉にばかり向いていた。
――そういえば、昔、桔梗が言っていた気がする。
彼の作品で変わったものがあるのだと。馬比べの漫画。一見すると彼の作品に多いアニミズム的な動物作品なのだが、内容を見ると狂気すら感じるほどの混沌が作品全体にうっすらと盛り込まれている。どういうことなのか説明しがたく、読んでみないと分からないのだとか。そう言われて借りた本のタイトル。そうだ、これだ。〈ヴァレファール〉だ。何処かで聞いたことがある名前だと思っていた。
そんな桔梗も気に留めたあの名馬の像。幻とかいう霊の親戚はどうしても欲しがっている様子だ。あれが店にあると、本当に不味いのではないだろうか。
帰り道、焦燥感にかられながら駆け足で戻った。店の鍵も持たされているが、今日はあまり古物たちを見たくない。そこで住宅側の玄関に直行しようとしたところで、庭の手入れをしていた霊と鉢合わせた。
「あら、お帰りなさい。早かったのね。……どうしたの? 青ざめた顔をして」
「いや、何でもないです。ただちょっと早く戻りたくて」
そう言って、いったん置いてから、私は付け加えた。
「ちょうど見たいテレビがあったんですよ」
「あらそう。私の顔を見たかったわけじゃないのね」
そう言って、雑草を抜き始めた。その背中を見ていると、なんだか居たたまれない気持ちになった。今日会ったことを話すべきかどうか。
「……あの、一緒にやります」
とりあえず、隣に座り、そう言った。
「いいの? テレビを観たいんでしょう?」
「いいんです。よく考えたらそこまで観たいわけじゃなかったし」
――そもそも言い訳で思いついただけだったし。
そんなことを思いながら、私もまた雑草を抜き始めた。
幻に出会ったことを、霊は見抜くのだろうか。純血の吸血鬼というものがどのくらい人間離れした存在なのか私には分からない。所詮、私はその半分しか血を引いていないのだ。父がいかに偉大な吸血鬼であったとしても、母の血の方が濃く出た以上、私には吸血鬼としての素質はない。だから、霊のことも目に見える範囲と、察することが出来る範囲でしか分からなかった。
一緒に雑草を抜いていると、霊が口を開いた。
「いい本あった?」
「まあまあ、ありました」
「後で見せてくれる?」
「えっと……はい」
一瞬躊躇ったのは、〈ヴァレファール〉のせいだ。気恥ずかしさと心配をかけるのではないかという不安があったため、微妙な反応になってしまった。
そんな私の態度に、霊はさほど興味を抱かず、雑草取りを続けていた。その姿は幻想的な美しさを備えていること以外、近所の人たちと変わらない。こんなにも普通の人間として暮らしているのに、彼女もまた吸血鬼として危うい人生を送ってきたわけだ。
たとえば、私の母に狙われるような。
「あの、霊さん」
考えもまとまらないうちに、気づけば私は霊に話しかけていた。
「なに?」
「あの……私の母のことを教えて欲しいんです」
「どんなこと?」
「直接、会ったことはあるんですか?」
その問いに、霊の目がこちらを向いた。少し、動揺しているように見えた。気のせいだろうか。だが、取り乱すこともなく、霊は静かに答えた。
「言ってなかったっけ」
「そこは聞いていません」
「そう」
そして、草むしりの手を止めて、ため息を吐いた。
「あるわ。もう昔のことだけど」
「いつ頃ですか?」
「忘れちゃった。でも、すごく前な気もするし、ついこの間だった気もする」
「……殺されそうになった?」
「そうね」
短く答えると、霊は雑草をゴミ袋に入れた。非情にあっさりとした態度だった。私の知らない母のことを教えてくれる時よりも、距離のある態度でそう言ったのだった。
「あまり思い出したくないことだけれど」
「御免なさい」
「謝らないで。あなたのお母さんを恨んでいるわけではない」
「怖かった……ですか?」
「ええ。怖かった」
そう言って、霊は作業の手を止めた。
「……けれど、本当はそういう人じゃないって知っていた。魔女の性がそうさせたってだけ。彼女が普段狙っていたのは、人間を殺したことのある吸血鬼だけよ。ただ、飢えは彼女の信念を曲げることもある。私は血を吸うために人間を殺したことなんてないし、彼女もそれは分かっていた。でも……でも、あの時……あの時の憐の目は――」
「もういいです。変なことを聞いてごめんなさい」
話を遮ってしまった。
母から譲られたこの心臓がばくばくいっている。私の記憶の中の母はひたすら優しかった。けれど、その思い出の片隅にすら、苛立っている時の母の姿がこびりついている。心に余裕があるのは、魔女の性が満たされているときだ。優しい母の姿は、吸血鬼の犠牲の上に成り立っていたのだろう。
その犠牲者の一人に霊がなりかけたこともあったなんて。
このことをこれ以上考えることはもうやめよう。今はこれまでにしておきたい。私はそう一人考え、集めた雑草を袋に入れてから、ふと思い出した。
「霊さん……哀って名前は」
「そのことについては、いつかね」
こちらは、実にあっけなく、かわされてしまった。
夕食はやけにあっさりとしていた。外から戻ってきてすぐだったせいかもしれないし、昨日の夜が重たかったせいかもしれない。どんな理由があるにせよ、霊がいらないのなら、私から求めることもない。魔女の性は十分満たされている。だから、私は一人で自室にこもり、ベッドに横になりながら買ってきた漫画を眺めていた。
読んでいたと素直に言えないのは、幻との会話のせいだ。重たい話を聞いてしまった。そして、霊との会話でも重たい話をさせてしまった。もやもやとした思いがのしかかり、漫画でさえも読むのに苦労した。
それでも、内容はどうにか頭に入ってきた。
世界のレースを勝ち続けるヴァレファール。無敗のまま富も名声も手に入れていく。しかし、神々しく美しい彼に待っていたのは、誰もが予想しただろう順風満帆の未来などではなかった。
恵まれた血筋、美しい容姿、文句のつけられぬ戦績。それなのに、悲運という悪魔は彼の馬生を少しずつ狂わせていった。
漫画の中でヴァレファールは自らの運命に翻弄されていく。その雰囲気と緊迫感は、たしかに異様にすら思えた。描いていたときは、どのような心情だったのだろう。
だが、途中まで読んだところで睡魔に襲われた。欠伸をこらえながら、私は漫画を閉じた。
――もう寝ようかなあ……。
ため息交じりにそんなことを考えていた時、部屋がノックされた。
「幽、開けていい?」
「はい」
答えおわらないうちに、扉は開かれた。もちろん、霊である。彼女以外にいるはずがない。いたとしたら怖い。
「まだ起きていたわね。入ってもいい?」
「どうぞ」
ベッドから起きて頷くと、霊はすぐに近寄ってきて隣へと座った。私のことをじっと見つめ、そしてふいにその視線を買ってきた本へと向けた。〈ヴァレファール〉の名前もそこにある。それらを見つめながら深く息を吐くと、霊は言った。
「さっき聞けなかったことを聞いてもいい?」
「え……はい」
「今日の朝、本屋に行く前に誰かに会った?」
「えっ……と」
「目を見て答えて。誰かに会った? 会ったか、会ってないかだけでいいわ」
言っていいのだろうか。言わなくてはならないのだろうか。言うべきなのだろうか。言ってはならないのだろうか。混乱してしまう。ただ、じっと霊の目を見つめているうちに、思考は一つに定まった。そして私は魔術にでもかかったように頷いたのだった。
「会いました」
「誰と会った? どんな名前の人?」
「……幻という人です」
答えたというよりも、答えさせられたというほうが正しい気がした。これも吸血鬼の能力なのか、はたまた霊の指にはまる指輪の力なのか。分からないけれど、確かなことは彼女に逆らう術がないということだった。霊が本気で願えば、隠し事なんか私にはできないということだろう。
霊は軽く人差し指の爪を噛んだ。苛々したときに見せる癖でもある。かなり気が立っているのだろう。そんな彼女の様子に、私は不安になった。幻に言われたことも頭をよぎる。どんな理由があるにせよ、彼は〈ヴァレファール〉を欲しがっているのだ。協力しないままで、本当にいいのだろうか。
「霊さん、どうしても〈ヴァレファール〉の像は幻さんに渡せないんでしょうか」
「渡したくても渡せない。古物商の決まりよ。もちろん、ただの古物商ではなく、私たちのように訳ありのものを扱っている者の決まりだから、乙女椿の法律には引っかからないのだけれど」
「けれど……その決まりを破れないんですね?」
「破れるほど私は強くないの。この決まりをつくったのは曼殊沙華の紋章を持つ鬼の一族の者よ。敵に回していい人たちじゃない」
「それって、たまに遊びに来るあの子の家ですよね」
いつか木刀〈ベール〉を欲しがった鬼の幼女。対価の乳歯は今でも戸棚の中にしまわれている。今も時々兄や姉らしき人物や、時には母親らしき人に連れられて珍しい品物がないか探しに来る。
――いい所のお嬢さんということはなんとなく分かっていたが。
「ええ、そうよ。今のところ、私は違反なんてしたことがないし、彼らとは良好な関係を築けている。たまにくるあの子たちのことだけじゃない。鬼喰いが出たこともいち早く伝えたし、町に異変がある時は、吸血鬼同士の派閥には属さない比較的自由な立場の吸血鬼として彼らと連携をとっている。こんなところで決まりを破って印象が悪くなるようなことをしたくはないの」
「幻さんはどうして霊さんを困らせてまであの像を欲しがるのでしょうか」
「あの人は信用ならない。曼殊沙華の一族の決まりなんて守る気はあまりないみたいだもの。吸血鬼同士の派閥にだって、自分の利益になる方にふらりとついて、ふらりと離れる。きっと今回も、自分の利益になる事情でもあるのでしょうね」
そう言って、霊はふと私を見つめてきた。
「不安そうね。あの男に何かされた?」
「いえ……ただ、〈ヴァレファール〉を渡さないままで本当に大丈夫なのか、ちょっと心配になったんです」
脅された内容は言いづらかった。彼の眼差しを思い出してしまうためだ。冗談だと笑うその顔も、不気味な印象が色濃く残っていた。
「何を言われたのか知らないけれど、あの男は口だけ達者なの。私も小さい頃はよく脅かされたわ。でも、大人になれば彼の言う事なんて大したことなかったんだって分かった。あなたはあまり気にしないでいいの。この店も、あなたも、私がどうにか守るから」
「いいえ、一緒に守ります」
霊の手に触れて、私は訴えた。
「いつかの鬼喰いのように、霊さんが何か危ないものに狙われたとしても、その時は私が助けます。……そのために、魔法もいっぱい練習します」
たとえば、私の母のような者に狙われることがあったとしても。亡き母のことは今でも好きだが、私は母とは違う。母のような魔女にとって獲物に過ぎない霊も、私にとってはたった一人しかいない主人――大切な人なのだ。
「それは、頼もしいわね」
霊はふと笑みを浮かべると、抱きしめてきた。大きな瞳が私の顔を覗き込んでくる。気づけばその目には、私がこよなく愛するあの嗜虐的な印象が含まれていた。食事はさっきしたばかりだ。しかし、そんな事実なんて、今の雰囲気には関係ないようだ。
「〈ヴァレファール〉の件は、正直、自信があるわけじゃないの」
霊は言った。体がだんだんとベッドへと押し倒されていく。されるがまま仰向けになる私を、彼女はじっと見降ろしてくる。その威圧感が好ましかった。
「もしかしたら、〈デカラビア〉はこの店を守れないかもしれない。あなたも、私も、危険な目に遭うかもしれない」
口から出るのは弱気な言葉ばかりなのに、その雰囲気にはあまり弱々しさが含まれていなかった。もっとその目で見つめて欲しい。静かな興奮を覚え、唾を飲み込んだ。
「曼殊沙華の者たちにつくか、あの男が属する方につくか、そういう問題に発展する可能性もある。それでもあなたは後悔しない?」
「……もちろん、しません。私は霊さんに従います」
後悔するわけがない。霊に従えないわけがない。私たちは魔術で繋がっているのだ。一生解けないもので縛られているから、別の未来を歩めるわけがない。一人だけ安全性の高い場所へと逃れることなんて出来ない。考えられない。今の私が望むのは、二人で安全性の高い未来を目指すことだ。
霊の顔を真っすぐ見つめながら、私は言った。
「霊さんの気持ちはよく分かりました。幻さんにまた会ったとしても、うまくかわします」
「いい子。ぜひ、そうしてちょうだい」
にこりと笑い、霊は私の身体に覆いかぶさってきた。血を吸うわけでも、身体を痛めつけるわけでもなく、ただのしかかった状態で脱力する。程よい圧力がかかり、霊の身体を全身で受け止める感覚が心地よかった。お互いの鼓動を感じていると、少しだけ安心感も生まれた。
「〈ヴァレファール〉は人の心を狂わせる黄金の怪盗」
霊は言った。
「元になった名馬も同じ。圧倒的な力で世界の大レースを勝ち続けた彼だけれど、馬主は彼の活躍によって人生を狂わせていったらしい。ヴァレファールの方も現役引退後はあまりいい馬生に恵まれず、早死にしてしまったの。あの像が生まれたときには、こんな未来は予想されなかったのだけれどね」
漫画に描かれていた通りなのだろう。私はふと先ほど読んだ内容を思い出しながら、呟くように言った。
「そのせいでしょうか。あの像に人を惹きつける力が宿っているのは……」
「さあね。それは分からない。ただ、大金を出してでも、犯罪に手を染めてでも、あの像を欲しがるコレクターはいる。そういう犯罪の話を聞くようになって久しいの。人の血を継ぐ者に売ってはならないと鬼の一族が定めたのも、そういう事態を重く見てのことでしょう。この店にさえ置いておけば、監視もしやすいから」
それにね、と霊は呟いた。
「私は〈ヴァレファール〉を手放したくない。あなたまで魅了するものだから危険は承知よ。でも、この店から持ち出したくない。名馬ヴァレファールはあまり長生きできなかった。種牡馬生活の際、人間たちの都合で翻弄されて、落ち着いた余生を送れなかったためと言われている。種牡馬として期待され、失望され、手放され、それでも有志の頑張りでやっといい環境が整ったと思ったときには、病が彼の身体を蝕んでいたらしいの。だから、っていうとおかしいかもしれないけれどね。せめて、私がもらったあの像には、戸棚の中という牧場で静かにのんびりと過ごしてもらいたいの」
やっぱりこの人は、モノに優しい。いや、優しさの対象はモノだけではないとよく分かる。吸血鬼特有と思われる残酷な印象と、この暖かい印象。二つが合わさってこそ、霊なのだろう。そう思うとたまらなく愛おしく感じて、私はそっと身を寄せてみた。拒絶もされなければ、特に受け入れもされなかったけれど。
「霊さんがそう願うのなら、私も協力します」
私はそう言った。すると、霊もまたそっと肩を寄せてくれた。
「そうしてくれると助かるわ。ついでに、〈ヴァレファール〉を直接見ないように気を付けてね。心を奪われてしまうわ。私も今後気を付ける。置く場所も、もっと考えないと。……あなたのお友達のメガネちゃんがまた来た時も、注意してくれるとありがたいわね」
目を合わせることなく霊はそう言った。桔梗の訪問を拒まないその姿は、何故だか照れくさそうだ。それでも、少しは私のことも信用してくれるようになったのだろうか。なんだかちょっと嬉しかった。
「ええ、勿論です」
私は霊を見つめながらうなずいた。
「何て言ったって、大スターの休暇です。むやみに覗いたりしないと約束します。桔梗にもきちんと伝えますから、安心してください」
「よろしい。私以外のものに夢中になるなんて許さないんだから」
霊は微笑みを浮かべてそう言った。その表情を見ていると、幸福感を覚えた。束縛が心地いい。モノにさえ嫉妬している彼女の姿が愛らしい。主人として存在する人が、自分だけを見るようにと私に対して望んでいる。それだけのことが、単純に嬉しかったのだ。
これも魔女の性のせいだろうか。
店に置いてある古物たちのお陰で、今宵も私は霊との関係を深めていける。一緒に〈ヴァレファール〉を守ろう。そう心に決めただけで、一体感を覚えることが出来るのだ。不安がないわけがない。幻の様子が気にならないわけではない。霊と共に過ごす一夜、時折、頭をよぎるのは脅しに近い言葉であった。
それでも、私はこの人に従おう。
せめて手元にある〈ヴァレファール〉には静かに過ごしてもらいたい。
純粋なその想いのために、私も出来る限り強くならねば。神の馬〈ヴァレファール〉を、そして私たちの未来を守るために。