後編
押し入れの布団を引っ張り出す間、霊の吐息の様子はさっきよりもだいぶ落ち着いたものになっていた。いつもの二日酔いの時程度にはなっただろう。それでも、安静にしてもらう必要はあるけれど。
「霊さん、動けますか?」
「うん……」
布団を用意し終わって、どうにか寝かそうとすると、そのまま強い力で引っ張られ、一緒に布団にもぐる羽目になった。見れば、霊の目はきちんと開いていた。
「〈マルバス〉が効いてきたみたい」
口調もしっかりとしている。
「それはよかったです。何か欲しいものはありますか?」
「傍にいて」
いつにもなく心細そうだった。そんな主人は情けなくも感じるけれど、愛しいことには変わりない。具合がよくなれば、いつもの強さも戻ってくるだろう。
「今日は一緒に寝て欲しいの」
「分かりました。ここで一緒に寝ます。お風呂に入って来るので、その間、ラジオでも付けときましょうか」
「……うん」
元気はないが顔色はいい。落ち込んでいるのかもしれない。気持ちを察することは出来る。私があえて何も言わないことも、気になっているのかもしれない。私の方も少し気持ちを整理しなくてはならなかった。人間を相手にした狩りを霊がしている。笠はだいぶフォローしていたが、そのショックはすぐには消えなかった。
お風呂に入って気持ちをいったんリセットしてから、あらためて私は霊に向き合った。
「霊さん、教えてくれますか」
その頃には、霊の様子もだいぶ落ち着いたものになっていた。〈マルバス〉は本当に効果のあるものなのだろう。私もまた、病気だったことを忘れるくらいには具合がいい。
しかし、霊の表情はそう明るくなかったし、私もまた明るい表情を浮かべる気にはなれなかった。反応を待っていると、霊は横になったまま観念したように呟いた。
「人間相手の狩りのことね」
「はい。それと――」
「憐のことを聞きたいの?」
目を合わさずに、そう言った。
憐は私の母の名前だ。初めて会った日の夜から、霊は私に約束してくれた。ここで働く間、憐――つまり私の母について知っていることを教える、と。その約束通り、霊は私の知らない母の姿をたびたび教えてくれたのだ。しかし、聞いた話なのか、見た話なのか、その判断は難しかった。霊もまたそこについては教えてくれなかった。
人が言いたくない話を、無理やり聞き出しても空しいだけだ。そう思えるのは、おそらく、霊が私にとって特別な存在となったためだろう。孤独な私にとって、家族と言えるのはいまや霊だけだ。そんな彼女を傷つけてまで真実を知ろうとする気にはなれなかった。
「母のことは今じゃなくてもいいです。ただ、私、怖くて」
正直に、私はそう言った。
「母のような人が他にもいるかもしれません。霊さんが吸血鬼だと世に知られたら、今日よりもっと危険なことが起きるかもしれない。それに何より、霊さんが他人から不気味がられたり、忌み嫌われるようなことあったりしたらと思うと、とても怖いんです」
「……その時は仕方ないわ。その結果、私の身が滅ぶとしても、あなたにまでは及ばないように守ってあげる」
「御免なさい、霊さん」
縋るように謝ると、霊は不思議そうにこちらを見つめてきた。
「どうしてあなたが謝るの?」
「だって、私が病気になんかならなかったら、霊さんも狩りに行かずにすんだのでしょう?」
そう、もとはと言えば私の体調管理のふがいなさにあったのだ。毎日血を吸わねば飢えてしまう霊の生き餌となることは、私にとっての糧でもあったし、それだけではなく心が満たされることでもあった。霊が相手だからこそ安心してこの身を託せてきたのだ。そして、自負もあった。私の存在が霊の命を支えていると思うと、少し嬉しかった。それなのに、体調不良なんかで大切な人を失いそうになるなんて恐ろしかったし情けなかったのだ。
泣き出してしまいそうな中、霊は呆然と私の顔を見ていた。しかし、ふと我に返ると、私の手をそっと引き寄せて、軽く牙を当てた。
「あなたのせいじゃないわ。お馬鹿さん」
「でも……」
「私の自己責任よ。人間のかかる病気を甘く見ていた。ミアズマ病なんてすぐ治ると思い込んでいたから、〈マルバス〉を出し惜しみしていたの。古物を乱用するのはあまりいいことではないものだから」
ふう、とため息をついてから、霊は付け加えた。
「それに、あなたは何も悪くない。何の責任もない。あなたは世間から見れば、残酷な魔物に捕まっただけの可哀想な生き餌だもの。だから、私に何かあっても、自分を責めることはないわ」
「違う……違います、霊さんは」
言いかけたその唇に、霊は指を当ててきた。お互いの熱がこもる布団の中で、霊の目はやけに輝いて見えた。
「幽、あなたは人間として育ち、人間の感覚しか持っていない。でも、それでいいの。私がもしいなくなったとしても、あなたはいつでもこの世界を抜け出せる。人間として余生を過ごすことだって、すぐにできるはずよ。あなたのお母さんのように、誰かを殺さなくては生きていけない性なんか持っていないから……」
「霊さんだって人間を殺したことはないって笠さんから聞きましたよ」
「そうね。でも、危害を加えているのには変わりないわ。世が世なら、私は悪魔として討伐されていたでしょう。それに、今だって油断はできない。この世界は魔の存在を拒絶する。生粋の魔である私は、今のこの世界にとって、居てはいけない存在なの。だから、いつでも私を見捨てる覚悟をしていなさい、幽」
それはまるで遺言でも託されているようで、私はとても不安になった。甘噛みしてくる霊の手を掴み返し、指を絡ませながら私は告げた。
「違います」
必死だった。
「違います。絶対に、そんなことありません。霊さんが居てはいけないなんて、そんなことありません」
結局、泣いてしまった。
「だって、〈マルバス〉は霊さんのことだって助けてくれた。あれは聖水と言われているのでしょう? 聖なるものが助けてくれるのなら、それはこの世界にいてもいい存在。そうでしょう?」
「〈マルバス〉は確かに差別しない。でも、人間たちの作り出す社会は〈マルバス〉のように平等というわけじゃない。神を真似ようとしても、誰も神にはなれないもの」
「だったら、そんな社会に一人で残されるのは嫌です。霊さん、お願いです。私を孤独にしないでください。私も気を付けます。霊さんを寂しがらせないように気を付けますから」
「嬉しい約束ね」
軽くあしらわれ、私は一人泣き続けた。そんな私を霊は優しく慰めてくれる。お互いに不調だし、弱っているのは確かだが、今現在、平常心でいるのは霊の方だろう。しばらく私の背中を撫でた後、霊はそっとつぶやいた。
「この世界にいてもいい存在、か」
そして力なく笑うと、枕でも抱きしめるように私の身体を抱きしめてきた。
「久しぶりに面と向かってそんなことを言ってもらったかも。……これも、〈マルバス〉のお陰かしら」
落ち着いたその声に包まれて、私の方も少しずつ涙が治まってきた。
「私、もしもこの世界にすべてをまとめる神様が本当にいるのなら、それはきっと〈マルバス〉みたいな御方なのだと思います」
そう言うと、霊は優しく頭を撫でてくれた。母性的なその温もりに思う存分に甘えながら、私は何処か淋しくなる願望を語り続けた。
「生まれでも、血筋でもない。善人か悪人かは、その人の行いの積み重ねで決まるのだと思います。……だから」
「もういいわ、幽」
「だから――」
「分かった。あなたの言いたいことは大体わかった。だからもういい。あなたの言葉だけで、私は十分幸せよ」
そして、気恥ずかしそうに目を逸らしてから続けた。
「ここ最近は、いつもお仕置きばかりだったわね。今宵くらいはご褒美をあげましょうか。心配をかけたお詫びとお礼に、ね。もっとも、あなたの場合、笠とは違って何処からがお仕置きとご褒美の境なのかなんて分からないけれど」
くすりと笑われ、私は恥ずかしくなった。誤魔化しもかねて、霊の顔を見つめながら訊ねてみた。
「ご褒美って何です?」
「あなたが欲しいものをあげる。私にあげられるものなら何でもいいわ。食べ物でもいいし、デパートなんかに売っているものでもいい」
「欲しいもの……」
その言葉に心臓が高鳴った。私が常日頃欲しいものが何なのか、実はよく分かっている。お金でもなければ、モノでもなく、名誉でもない。私が欲しいのは常に傍にあり、それでいてなかなか自分の思い通りには触れられない。そしてそれは、たった今より霊が私に渡すことのできるものに違いなかった。
私は思い切って告げた。
「霊さん」
手を伸ばし、その頬に触れるととても温かかった。静かな室内にて、相手の吐息ばかりが聞こえる中、共に横になる幸福を噛みしめながらも、私は贅沢に願ったのだった。
「あなたをください」
緊張しながら放ったその言葉は、しっかりと霊の耳にも届いただろう。主従の関係を揺るがすほどの力がある言葉を前に、霊は黙り込んでじっと私の目を見つめていた。主従の魔術はどの程度、我々を縛るのだろう。それでも、今宵はこの関係の本質を見ることが出来そうな気がした。霊にとっての私が何なのか。契約に縛られただけの存在なのか、はたまた、それとは違う何かがあるのか。
答えは分からない。霊の心をそのまま透視できればいい。しかし、そんな魔術は知らない。存在したとしても、吸血鬼相手にそれをかけることが出来るほどの力など私にはない。だから、私が得られるのはヒントだけだ。うっすらと笑みを浮かべ、堂々とした眼差しで私に向き合うその姿で、感じ取るしかない。
「いいわよ」
霊は私の顔を見つめたまま言った。
「あなたの好きにしなさい……でも、今日だけよ」
こうして特別な機会は与えられた。あくまでも主従は変わらぬまま。それでも、霊は私を受け入れてくれた。いつもは霊の好きなようにされているだけだ。私の権限は殆どなく、血を吸われる以外は一方的に責められて、興奮させられてばかり。そんな彼女が、私のしたいようにさせてくれた。それだけのことが、本当に嬉しかった。
私達の体の中に〈マルバス〉の力はすっかり浸透しているだろう。病気のことも、毒のことも、いつしかそれ自体を忘れてしまったように、私は霊の温もりを味わうことが出来た。吸血を伴わないその夜は、やけにゆっくりと時間が過ぎていくようだった。こんなことは滅多にないだろう。血を交わさず、想いだけを交わすような夜は。
この関係を、正義を貫く神様とやらは祝福してくれるだろうか。もしもそんな神様がこの世界に本当にいるのなら、この愛情だって祝福してくれるだろうと私は期待したいと信じた。
世界に愛を説くというその神様はきっと、〈マルバス〉のように平等のはずだから。