中編
夕飯の時間がだらだらと続いた果てに、私は気怠さと眠気と戦いながら、畳の上で横になっていた。
血を抜かれた直後の今は貧血気味ではあるけれど、流血はとうに止まっている。直に良くなるだろう。愛する人の牙による痛みとその触れ合いが、〈赤い花〉を大いに満足させてくれたからこそ、段々と目がさえてきた。
霊はといえば、血の渇きからある程度解放されると、すぐさま食卓にて明日の準備に取り掛かっていた。預かった遺言書を再度確認し、静かにしまってため息をつく。そして、何処からか取り出してきたアルバムを見つめていた。
「そのアルバムって……」
と、声をかけると、霊はこちらに視線を向けてきた。
血の味がまだ口の中から消え切っていないのだろう。目はまだやや赤く、ぎらぎらとしている。それでも、彼女はとても落ち着いた声で答えてくれた。
「さっき少しだけ話した当時のものよ」
その言葉に妙に引き寄せられた。ふらつく足で立ち上がり、近づいてみれば、そこには確かに今よりだいぶ古い写真が収められていた。私の記憶にあった母の姿もそこにある。
「……お母さん」
それだけではない。周囲にいる人物の中には覚えのある顔があった。母の葬儀で顔を合わせた覚えのある人物たち。母の旧友であることは知っていたが、私に対してあまりよい印象を抱いていないことがよく伝わった。恐らくきっと、彼らにとって私は憐の娘というよりも、恐ろしい天の娘としか思えなかったのかもしれない。
あの時に苦しめられた心細さがこみ上げてくる。その気持ちをぐっとこらえて私はアルバムを見つめた。そんな私の視線の先で霊の指が写真の一つを指し示す。
「これが〈クロケル〉を預かった時の写真よ」
そこには確かに見覚えのある天使のケトルの姿があった。
「今から二十年以上も前の事になるわね。この頃はよく写真に残していたの。写真というものに焼き付く気配を雷様も注目されていた頃だったから。今は他にも色んな手段があるから、あまり撮らなくなってしまったのだけれど」
彼女の話に耳を傾けながら、私は気持ちを切り替えてから改めて訊ねた。
「この写真からも、何か感じるんですか?」
すると、霊は軽くその写真をなぞってから答えた。
「ええ、そうね。今の〈クロケル〉とやっぱり違うということが分かる。この頃はまだ禍々しいの。ねえ、幽。あなたは何も感じない?」
霊にそう言われて、私は目を凝らして写真を見つめた。だが、残念ながらさっぱり分からない。
「言われてみれば、そんな気がするって思っちゃうくらいですかね」
正直にそう答えてみれば、霊は軽く笑ってから頷いた。
「でも、きっと、そのうちにあなたにも分かるはずよ。あなたの中で〈赤い花〉がさらにもっと美しく咲く頃にはね」
そして、溜息交じりに今度は私の母とその仲間たちが映った写真へと視線を向けた。
「それにしても懐かしいわね。〈クロケル〉がここに来るまで、本当に大変だったのよ」
それから、霊は語り始めた。私が生まれるより前のその騒動について。
この天使のケトルが取るに足らない普通の商品であったことはすでに触れたとおりだ。
デパートに売られている少しお洒落なマグノリア産のケトル。湯をわかすならば普通のやかんで十分という人も多いかもしれないが、こうしたものを好む人という者はたくさんいる。
かつて〈クロケル〉を購入し、愛用していた人もそういう人物だった。
その人物は女性だった。彼女の名前は霊にも分からないのだという。
「女性? 影踏さんではなく?」
「ええ。彼ではなくその恩人だという女性なんですって」
霊は言った。
その女性と影踏がどんな関係であったのか、多くは語られなかったという。だが、そうであっても、特別な思いがそこにあったことは明らかだった。
彼はたびたび招かれるままに彼女のもとを訪れた。深い男女の仲だったのかといえば、そうでもない。付き合いはあくまでも健全で、彼女がケトルで淹れてくれたお茶を飲みながら、雑談を楽しんでいたのだという。
恋仲ではなく、まるで純粋無垢な子供同士のように仲睦まじい関係。その日々にただ癒されていたものの、いつまでもは続かなかった。彼女の方に婚約者が出来たためだ。
さすがにそうなれば二人きりで会うのはまずいだろう。そう思った彼は、しばらく彼女と距離を置き、遠くからその幸せを願っていたのだという。
けれど、未来は残酷だった。
「その婚約者は裕福な家柄の人だったけれど、とても強引な人だった。嫁いでくるのならば、全てをこちらに合わせるようにと無理強いして、彼女のこれまでの人間関係を絶たせてしまった。今よりも二十年前……時代もだいぶ違ったから、そういうものだと彼女も納得して、彼に合わせる形で身を整えてから結婚した。けれどね、それから数年経っても子宝に恵まれなかったの」
原因がどちらにあるかなんて調べてみないと分からない。しかし、その婚約者が自分のせいだと思うはずもない。そのうちに、彼は外で別の女性と深い関係になっていき、あまり家に帰らなくなった。
「そして、子供が出来たの。子供が先に出来たのならば、仕方ないでしょう。そう言われて、彼女は家を追い出されてしまったのですって」
淡々と霊は語りながら、ケトルの写真を見つめた。
「途方に暮れた彼女がどうにかして久しぶりに連絡を取ったのは、影踏さんだった。再び一人で暮らし始めたアパートに影踏さんを招いて、独身の頃のようにあのケトルでお茶を淹れて、そして洗いざらい今までのことを話したのですって」
話せばすっきりして、違う日常を歩めるはず。そう彼女は言ったのだという。けれど、いくら日が経っても辛さは消えなかったのだろう。彼女はとうとう生きる事を自ら諦めてしまったのだという。
「彼女の葬儀の後、遺品整理を妹さんがしていて、影踏さんもその時に生前親しくしてくれたからといって何か貰っていかないかと言われたのですって。そこで選ばれたのがこのケトル〈クロケル〉だった」
影踏はケトルを持ち帰ると、一人で湯を沸かして茶を飲んだ。懐かしい気持ちがこみ上げると同時に、最期に会った時の彼女の事を思い出し、怒りがふつふつとこみ上げてきた。彼は知っていたのだ。彼女の嫁いだ家の事を。そして、その周囲の人達の事を。
「その女性の元夫というのが……」
「月箔氏……ですか?」
私の答えに、霊は黙って頷いた。
彼女の死からしばらく後、月箔の周囲では奇妙な出来事が起き始めた。家族や友人の中で、不審な死を遂げる者が現れ始めたのだ。皆、突然死としか言いようがなく、事件性はなかった。たまたま不幸が続いただけだと片付けられるも、不吉だと噂されることしばらく。やはりおかしいのではないかと曼殊沙華の家に相談が入ったのがその頃だった。
──人間には突き止められない力が作用しているのでは。
その疑いに応えてくれるのが曼殊沙華であるということを、彼もまた知っていたのだ。依頼を受けた曼殊沙華はさっそく、私の母である憐とその仲間たちへと協力をあおぎ、その死の真相を探ったのだという。周辺の人間関係。そして、葬儀に参列した者。さまざまな情報を集めながら一人一人を観察していくにつれ、亡くなった全員と関わりのあった人物が何人か絞られていった。そして、そのうちの一人が影踏だったのだ。
「彼がただの人間であることは明らかだった。だから、すぐには分からなかったの。何が原因でこうなっているのかが。だから、憐は体を張る事にした。彼と親しくなろうとするふりをして、さりげなく核心をつくような話題を振り続けたのよ。そうして敢えて、彼にとって邪魔な人物になることで、どう動くかを見ようとしたの」
そして、母は彼の持つケトルの異様さに気づいたのだった。
「曼殊沙華の命令が下って、私も翅人たちに混じって探りを入れに行ったの。そっと近づいて、ケトルの正体を〈ピュルサン〉を使って暴いて……翅人達の方は、彼の行動を一日中監視し続けた。そして、分かったことがいくつかあった。彼が月箔氏のことを強く憎んでいるという事。その憎しみは何人死んでも消えることなく、むしろ増大していること。そして、その恨みの矛先が、月箔氏の子供にも向き始めているという事」
子供には罪なんてない。
やがて、私の母──憐とその仲間たちは影踏を問い詰めた。ケトルを手放させようとしたのだ。影踏は当然抵抗した。まだ復讐は終わっていないのだと。そして、歯向かってくる母たちにもケトルで得た呪力を使って呪い殺そうとしたのだ。
「でもね、この呪いは通用しなかったの。その時は理由が分からなかったけれど、影踏さんの遺言にはこう書かれていた」
──きっと、あなた方が彼女の悲しみと直接関係ない人達だったからなのでしょうね。
結局、その時はケトルを奪えなかったという。
しかし、後日、影踏は曼殊沙華ではなくこの店を訪れたのだという。その時に自ら託したのがその手紙と〈クロケル〉だった。
「影踏さんはその後、冷たくなって見つかった。託された〈クロケル〉はすぐにランクSの評価が下されて、封印されることになったの」
それまでに何人かの人が犠牲になった。そう聞くと、なかなか恐ろしい。ランクSになるのも頷けた。それでも、霊はやっぱり〈クロケル〉の事を憐れんでいるようだった。