前編
ケトルと聞いて、思い浮かべるのは幼少期に母が愛用していた花柄のものだ。当時はちょっとお洒落なやかんとしか思っていなかったが、母亡き今は妙に愛着がわいてしまう。
店の奥のキッチンにも、愛用しているケトルはある。母が使っていたものはもうないけれど、似たようなものをデパートで見かけて買ってしまったのだ。
それでお湯を沸かし、愛する主人である霊と一緒にお茶を飲むのが今の私の幸せでもある。というわけで、私はケトルが好きだ。
しかし、この店にあるケトルは愛用のそれだけではない。開かずの間としている禁断の倉庫──霊や曼殊沙華の代表である雷様によってランクSと評価された封印すべき古物たちの寝床にも、ケトルが一つあるのだ。
そのマグノリア産のケトルは、キッチンに愛らしさをそっと添えるような洒落たデザインをしている。街でよく売られているものは花柄が多いが、そのケトルには水色の天使の絵が描かれている。
ちょっと珍しいデザインではあるが、デパートで市販されていたものの一つに過ぎず、何の変哲もない調理器具の一つだ。
しかし、この店にあって、店主である霊によって名前がついているということは、そういうことでもある。
ある日の昼下がり、来客用の蘭花のテーブルにて、封印されるべきであるはずの天使のケトルを挟んで我が主人である霊と、狸姿の笠が席についていた。
見つめ合うのはケトルだけではない。一昨日の新聞記事も広げてあり、深刻な表情を浮かべながら二人は相談を続けていた。
私はいつものようにおとなしく隅に控えつつ、ちらりと記事へ目をやった。そこに書かれているのは、月箔という人物の訃報だった。
この町の資産家の一人であり、若い頃は手広く商売をしていたと噂に聞く人でもある。そこそこ大きな記事が載るくらいだ。それだけ大きな影響力を持つ人だったのだろう。
ならばこれもまたその影響力の一つなのだろう。彼の訃報を聞いてすぐに、曼殊沙華の家では話し合いがあったらしい。そして、昨晩になって霊のもとに一本の電話が入った。曼殊沙華の家からのもので、この店で半永久的に封印される予定であったケトルにまつわる相談だったのだ。
実を言うと、私はその詳細を把握しきれていない。霊が何となく教えてくれたのだが、全てを話せば長くなるようで、ちょっとずつ説明していくと言われている状況だ。
今のところ分かっているのは、このランクSの天使のケトルの名前が〈クロケル〉であり、決して湯を沸かして飲んではいけないものであり、その扱いを巡って月箔氏の死によって大きく状況が変わりそうであるという事くらいのものだ。
「さて……だいたいの話は昨晩の電話で聞いたけれど、月箔さんがお亡くなりになったからってことでいいのね」
霊がそう言うと、笠は短い狸の手で腕を組みながら頷いた。
「ああ、新聞には当然載っちゃいないが、随分と悲惨な晩年だったようだね。金はあるし、生活には困らねえ。それに、周囲にゃ人も大勢いるが、最期の方は奥さんや実の子たち、孫たちすら寄せ付けないで喚いてばかり。幸せってなんだろうって思ってしまったと息子さんがぼやいていたくらいらしい」
「なるほど、そう聞くと可哀想だと思ってしまうけれど……」
と、そこで霊は言葉を濁した。笠の方も深くは触れずに軽く頷いた。
「このケトル。やはり力は確かだったようだ」
笠が静かな声で言った。
「単に死に追いやるのではないというのも、それなりの呪いだったのだろう。正直、ぴんとは来なかったが、この晩年の様子を聞くと命を奪うだけが復讐ではないのだと思えたね。悪い事なんてするもんじゃないな……が、そう思うことが出来て、気を付けられる人っていうものは初めからあんな事をしないだろう。だから、仕方なかったのさ」
あんな事、というのがどんな事なのか、私はまだ知らない。それに、彼というのが誰を指しているのかもまだ分からなかった。
けれど、今は口を挟むべきではない。
大人しく黙ったまま話に耳を傾け、そっと霊を見やると、彼女は頬杖を突きながら睫毛の綺麗な目で〈クロケル〉を見つめていた。その眼差しは、決して恐れるようなものではない。むしろ、憐れむようなものだった。彼女らしい眼差しでもある。
霊はしばらく〈クロケル〉を見つめてから、ぽつりと呟くように言った。
「──確かに雷様が言っていた通り、〈クロケル〉の雰囲気が少し変わった気もする。昔よりもちょっと丸くなったと言えばいいのかしら」
「おお、〈ピュルサン〉を使う前から分かるのか。さすがは霊だ」
半ば感心し、半ば呆れるように笠がそう言うと、霊は目を細めた。
「何となくそう思っただけ。ともかく、電話でお返事したように、〈ピュルサン〉での再評価の準備は出来ているわ。変わっていても、変わっていなくても、向こうの評価とあわせて判断しましょう。……それであなたが持ってきた新しい報告って何?」
霊が問いかけると、笠は狸の顔に笑みを浮かべて答えた。
「ああ、改めてこれを見せに来た。〈クロケル〉を管理することになった時も読んだかもしれないがね」
そう言って笠がテーブルに置いたのは、古めかしい便箋だった。受け取った霊が中の手紙を取り出し、軽く頷いた。
「ああ、懐かしいわね。影踏さんの遺言ね」
影踏。その名前を何となく私は頭の中に刻んだ。先程の会話で出てきた彼というのがこの人なのだろうか。
「これを預けておくので、今一度読んでおいて欲しいとのことだ。もう電話で聞いているかもしれないが、明日は雷様ではなく代理が来ることになっている。俺も一緒にいるから、よろしく頼むよ」
「ええ、分かったわ」
遺言書を受け取る霊の眼差しは、何処か切なげだった。
通り雨と共に笠が帰ってしまうと、ようやく霊は私にも詳しい説明をしてくれた。まず、一緒に読むことになったのは、影踏という人の遺言だった。
「影踏さんは純血の人間だったの。男の人で、三十手前の若者だった」
懐かしそうに語る霊の横で、私は手書きの遺言書を見つめていた。とても綺麗な文字で、丁寧に、そして恨みの籠った文面で、死後の世界を生きる人々への思いが託されていた。
内容はあのケトルにまつわるものだった。
『復讐の天使は彼が生きている限りその姿を睨み続けることになるだろう。そして、その死後にようやく天使の役目は終わる。それ以降にはきっと、ケトルも私の支配から解放されるだろう』
どうやら、自分の死後にケトルの適切な管理を願う内容のようだ。
「ここにある彼というのは月箔さんのことなんですね?」
私の問いに、霊は軽く頷いた。
「生前の彼にも私は会った事がある。けれど、もっとも深く関わったのは、あなたのお母さん──憐とその仲間たちだった」
「……お母さん」
思わぬところで母の名前があがり、俄然興味がわいた。しかし、そこへ店側に置かれた電話が鳴り響いた。近くに座っていた霊がすぐに応対する。会話から察するに、どうやら相手は曼殊沙華の本家のようだ。
「分かりました。それではよろしくお伝えください」
短いやり取りの末に通話は終わり、受話器を下すと同時に霊は私に言った。
「明日の代理の人が正式に決まったそうよ」
「雷様ではないと笠さんが言っていましたね」
「ええ、最近の雷様はあまり遠出が出来ないようなの。だから、彼女の代理として孫娘の一人がいつも向かっているようよ。今回もそうなるみたい」
「どんな方なんです?」
「雷様のお孫さんって感じの女性よ。名前は魎。年齢はあなたよりも少し上くらい。ええまあ、あなたの場合は時を止めてしまっているから、肉体年齢的には少し開きがあるかもね」
「魎──さん」
机の上に書かれた一文字を見つめながら、私はその名前を覚えた。
普段ならば、曼殊沙華の使いは笠であるか、その血筋の者ならばトロ火が寄越されることが多い。しかし、この度やってくるこの魎という人は、本家の代表である雷様の代わりとのことだ。それはつまり、だいぶ立場が上の人が来るという事。
「結構、大事なんですね」
納得した私がそう言うと、霊は深く頷いた。
「ええ、何しろ、封印必須のランクSとされた古物の再評価ですもの」
けれど、そう語る霊の〈クロケル〉への眼差しは、どこか優しげでもあった。