後編
猫だ。正真正銘の猫。ちょこんと座るトラ猫を前に、私はただただそう思った。
ヤヤ子と初めて会った時のことを思い出す。その時も、人間の姿のまま困ったようにこちらを見つめてきたのだ。人間の言葉を話せるタイプの化け猫である月子と違い、ヤヤ子は本来ならば喋ることができない。彼女と今、円滑にやり取りが出来るのは、〈カイム〉のお陰に過ぎない。
つまり、このトラ猫もそうなのだ。ヤヤ子と同種族の化け猫なのだろう。自分の言葉が通じていないことを悟ったのか、トラ猫は少ししょんぼりしてしまった。だが、そのことを察したヤヤ子が彼にそっと語り掛けた。
「ほれ、それじゃ。それが壊れて困っていたのじゃろう?」
ヤヤ子の言葉は分かるらしい。トラ猫は彼女を見つめると、恐る恐る私たちを窺いながら、手元──いや、足元に置いてあったそれを私たちにそっと差し出してきた。
良く見れば、それはリボンについた鈴だった。圧し潰されているようだ。留め具があるようだが、そちらも壊れていた。
「何があったかは知らんのだが、道路脇でぼうぜんとしていたのだよ」
ヤヤ子の言葉を聞き、霊はトラ猫に訊ねた。
「落とした時に運悪くトラックか何かに轢かれてしまったとか?」
彼女の言葉も分かったのだろう。トラ猫は頷くように俯いてしまった。
私は改めて壊れてしまった鈴を見つめた。恐らくこれは猫鈴だろう。鈴と留め具は壊れているが、リボン自体はしっかりしているようで、それほど深刻な損傷はない。色合いは赤で、オレンジ色の毛並みにもよく映える。気になるのは、これを恐らく身に着けていたと思しき化け猫自身が持ってきたことだった。
「こいつはな」
と、ヤヤ子が教えてくれた。
「名無しのトラっていうんだ。名無しっていっても、これ自体が名前みたいなものだね。元からトラって呼んでいる人間がいてね、こいつはその人間ととても仲が良かった。いやまあ、かなり昔の話なんだがね。その後、人間はある日を境にいなくなってしまったが、猫鈴だけはずっとあったんだ。たまに外れちゃうことがあったから、その度に私がつけてやっていたのさ。でも、時の流れのせいだろうね。リボンの留め具が外れてぽとりと落ちることが増えてきたなと思っていたらコレだ」
ヤヤ子の説明の横で、名無しのトラは悲しそうに壊れた鈴を見つめていた。その姿もまた、初めて会った時のヤヤ子と被るものがある。彼女も思い出のアルバムを巡って、とても不安で寂しそうな顔をしていた。
人間からすれば取るに足らない鈴だ。新しい鈴はどこかで売っているだろう。けれど、人間らしい暮らしをしていない化け猫たちにしてみれば、新しい鈴を買うにも直すにも、頼れる窓口というものがない。そこで縋ったのがここだったということだろう。
「なるほど……鈴ならば何でもいいなんてことはなさそうね」
霊はそう言ったが、名無しのトラはけれど顔を上げなかった。昨日、ヤヤ子がここで断られた件は知っているのだろう。一方、私の方もそうだった。背景に察するものがあると思えば、どうにかしてあげてほしいと思ってはしまう。きっと、新しい鈴を代わりに買ってあげるという手段では、彼の心は満たされないのだろう。けれど、ただの猫鈴を直すために〈ハーゲンティ〉を使う許可を出せるのかどうか。
恐る恐る状況を見守っていると、霊は少しだけ目を閉じて、そしてぱちりと開いてから猫のお客たちに告げた。
「お引き受けしましょう」
あっさりとしたその言葉に、私は少し驚いてしまった。名無しのトラの方も同じだった。期待していなかったのだろう。霊の言葉の意味をじわじわと理解すると、目を輝かせ始めた。一方で、ヤヤ子は少しだけ不満そうな眼差しを霊に向けていた。
「我が友の悲しみが癒えるならば上々だが……ずいぶんと早い判断じゃないか」
「生命倫理に反しないお願いだものね」
霊はそう言うと、軽く立ち上がり、名無しのトラにそっと声をかけた。
「この鈴をしばらく預かってもいい?」
名無しのトラが小さく鳴くと、霊は猫鈴を優しく拾い上げ、そして真っ直ぐ〈ハーゲンティ〉のもとへと向かった。手慣れた様子で金庫を開けてしまうと、鈴をそっと中にいれ、そして〈ハーゲンティ〉に囁いた。
「どうぞお願い」
直後、くるりと振り返ると、そっとしゃがんで足元まで見に来ていた名無しのトラに向かって告げた。
「三日ほど、時間をちょうだい。三日たったら、またこのお店に来るの。その頃には思い出の猫鈴はきちんと直っているから安心して」
その言葉に、名無しのトラは軽く尻尾をあげた。その横へヤヤ子は近づいてきた。まだちょっとだけ不機嫌のようだったが、そこは大人なのだろう。名無しのトラに対して、彼女は声をかけたのだった。
「三日じゃな。トラよ。また連れてくるから安心せい」
頼もしいその言葉を聞いて、名無しのトラは嬉しそうに「にゃあん」と鳴いた。
その後、ヤヤ子とトラは店に置いてあった猫用おやつを堪能してから、二人して野良猫のように店を後にした。路地裏へと消えるふたりを見送っていると、霊はどこか物寂しそうに言ったのだった。
「化け猫には化け猫の情があるのね」
その言葉に、私は静かに同意を示し、共に店内に戻った。
さて、それから早くも三日が経って、名無しのトラはヤヤ子に連れられてやってきた。〈ハーゲンティ〉の扉の前で並んでちょこんと座る姿は愛らしい猫そのものだ。
そんな彼らの前で霊は〈ハーゲンティ〉を開き、そして取り出したのが、何事もなかったようにすっかり直っている猫鈴だった。
チリン、と、耳朶をくすぐるようなその爽やかな音に、トラの目が輝いた。留め具もすっかり直っている。まるで新品のよう。けれど、トラには分かるのだろう。それこそが、思い出の代物であることを。
「お返しするわ」
霊はそう言って、トラの首にそれをつけてあげた。すると、トラは嬉しそうに立ち上がり、にゃあと鳴いた。ヤヤ子に通訳されるまでもなく、何を伝えたいのかがその眼差しと声色で分かった。
その後、トラはあっさりと帰っていった。ヤヤ子もまたそれについて行く様子だったので、私たちは店先で静かに見守った。そして、二人の姿が路地裏に続く塀の向こうへと消えたところで、私は霊にそっと言った。
「それにしても、霊さんも優しいところがあるんですね」
「あらあら、まるで私が普段は優しくないかのような言いぶりね」
「ち、違うんです。そんなつもりじゃ……でも、今回は即決でトラさんの願いを聞いてあげていたから」
「そうね……だけど、そうじゃないの」
「え?」
「優しいとすればそれは〈ハーゲンティ〉の方よ」
霊は落ち着いた声でそう言った。
「これまでの願いも全部そう。引き受けるかどうかは全て〈ハーゲンティ〉が決めているのよ。私はただ、その意思を受け取って伝えているだけ。もっともお伝えする際の理由の方は私が勝手に付け足しているだけなのだけれど」
「な、なるほど──」
「そうだったのか!」
と、そこへ割り込んできた者が一人──いや、一匹。立ち去ったかに見えた塀の向こうから、ピョコっとヤヤ子が顔を出してきた。
「それならそうと言ってくれればいいのに」
不満そうな黒猫の顔に、霊は腕を組みながら答えた。
「言ったところで信じてくれない人が大半だもの。それを確かめる術だって他の人にはないのですし」
「だが、それが本当だとすれば、私にだって手段があったのだ」
ヤヤ子はそう言うと苛立ち気味にブンッと尻尾を一振りした。
「つまりは、直訴すればよかったのだ。さあ、霊よ。今すぐ店に戻ろう。私を〈ハーゲンティ〉に会わせておくれ」
うずうずした様子の彼女を、霊はひょいっと持ち上げた。
「いいわ。会わせてあげましょう。ただし、条件があるわ」
「へ、条件?」
「あなた、またちょっと汚れてきたみたい。それに何だか臭うみたい。だから、まずはお風呂に──」
と言いかけたところで、ヤヤ子は体をくねらせて霊の手から逃れてしまった。
「ひ、卑怯な。さっきは入れてくれたじゃないか。毎日、掃除だってしているのだろう? ちょっとくらい良いじゃないか!」
小さな牙を見せるヤヤ子に、霊もまた微笑みながら牙を見せた。
「さっきはお友達が一緒だったから。目の前でヤヤちゃんをお風呂なんて入れたらお友達が怖がっちゃうでしょう? でも、今は違う。さあ、ヤヤちゃん。〈ハーゲンティ〉に会う前にお風呂に入りましょうね」
「くっ!」
伸ばされた霊の手を避け、ヤヤ子はそのまま塀の上へと飛び乗った。
「こ、これで勝ったと思うなよ!」
まるで悪役のような捨て台詞を吐いたかと思うと、そのままヤヤ子は向こう側へと飛び降りてしまった。今度こそ遠くへ行ってしまったのだろう。辺りは静まり返ってしまった。
「……行っちゃいましたね」
私の言葉に、霊は軽く首をかしげた。
「そうね。とても残念」
その表情もまた悪役さながらだった。
これで懲りたのか、翌日も、その翌日も、またその翌日も、ヤヤ子は姿を現さなかった。あのトラ猫は元気にしているだろうか。
そんな事を思い始めた頃になって、またあの二人組がお客さんとしてやってきた。ヤヤ子と名無しのトラだ。二人とも店内に入ると同時に猫の姿へとなる。トラの方は首に猫鈴がついていた。
「今日は友も一緒だ」
ヤヤ子は胸を張ってそう言うと、霊が立ち上がる前にぴょんと店内をかけた。
「てことで、〈ハーゲンティ〉に挨拶させてもらう」
「全く……」
あきれた様子で霊がそれを視線で追う。そんなカウンターへ、名無しのトラは真っ直ぐ近づいてきた。ぴょんとカウンターの上に乗ると、じっと私たちを見つめてくる。その首にはあの猫鈴があった。彼に霊が話しかけようとしたその時、〈ハーゲンティ〉の方から声がしてきた。
「霊! なあ、ちょっと来てくれ」
ヤヤ子だ。
「はいはい、今行くから」
霊は渋々そう言うと、名無しのトラにそっと声をかけた。
「ごゆっくりね」
すると、トラは返事をするように喉を鳴らすと、直後、私へと視線を戻した。何かを訴えかけるような彼の様子に、私の方も何か話さなければと妙に緊張してしまった。だが、そんな時、私の脳裏にふと声が聞こえてきた気がしたのだ。
──おかげで助かった。
誰の声とも言えない。言葉が浮かんだとも言える。そんな曖昧な感覚だったが、伝わってきたのは間違いなく感謝の言葉だった。
──この恩は忘れない。
私の思い込みか、はたまた、魔女の力か。どちらかは分からない。だが、少なくともこの名無しのトラが、私たちに気を許していることは確かだった。緊張は自然と解け、私はトラに笑みを向けた。そして、静かに囁きかけたのだった。
「お礼なら、ぜひ〈ハーゲンティ〉に」
すると、その言葉が伝わったのだろう。名無しのトラは私に「にゃおん」と返してカウンターを下り、そのまま霊とヤヤ子が何やらもめている〈ハーゲンティ〉の方へと近づいて行ったのだった。