後編
帰り際の霊とトロ火のやり取りの事は、帰宅後もしばらく疑問として頭に浮かんでいた。明らかに霊は皮肉を言っていたし、明らかにトロ火はかなり焦っていた。
──やっぱり気になるな。
小一時間が悩んだ末に、私は素直になって、霊に訊ねたのだった。
「霊さん、〈ヴアル〉の事なんですが」
「なあに?」
店のカウンターに〈ヴアル〉は置かれている。取り出したときと同じように磨かれていたのだ。隅々まで丁寧に、傷がないかも確認している。そんな彼女の手元が狂わないか心配しつつも、けれど私は躊躇うことなくそのまま訊ねた。
「霊さんも使った事があるんですか?」
彼女の手がぴたりと止まる。けれど、聞かれるのを待っていたかのようでもあった。少なくとも、聞いてはいけない話題というわけでもなかったようだ。
彼女はすぐにまた〈ヴアル〉を磨き始め、そして、しばらく間をおいてから答えたのだった。
「さっきのちょっとした意趣返しのことね」
「トロ火さん、焦っていましたね」
「……彼には意地悪な事しちゃったかも。若い人が責められるような話じゃないのだし」
「〈ヴアル〉の件で何か……」
恨みでも、と聞きそうになって、私は言葉に詰まった。直接的過ぎるような気がしたのだ。霊は窺うように私を見つめていた。食事の時の見せるようなあの吸血鬼の目ではない。乙女椿人としては一般的な濃褐色の目だ。その視線にせっつかれながら、私はどうにか言葉をひねり出した。
「何か……思う事でも?」
及第点といったところだったのだろうか。霊はホッとしたように息を吐いてから、〈ヴアル〉を磨くその手を止めて、私の方へと向き直った。
「良い機会ですものね。話しておきましょう。あなたが生まれるよりもずっと前のことよ。この店を正式に任されるより前、当時から曼殊沙華の代表であった雷様に呼ばれて、応接間に向かったの。そこには〈ヴアル〉が用意されていた」
霊は少しだけ目を伏せた。
「どうやら、私の祖母も同じだったみたい。考えてみれば警戒されて当然よね。当時はマテリアル同士が抗争を起こしていたし、やっと落ち着いたと思えば、今度は……あの方が──」
天。私の父が、マテリアルの王のように振舞い始めた。
「曼殊沙華としては、無条件で引き受けるには怖かったのでしょう。それで、雷様と私は共に煙管を手に取ったの。落ちた灰が〈ヴアル〉の中で混じり合うのを見た時、私はこれで一生、曼殊沙華の一族とは縁が切れなくなったことを理解した。でも、それだけじゃないわ。これで絶対になくならない居場所が出来たって安心もしたの。これは脅しにも思えるけれど、破る事の出来ない約束でもある。雷様を裏切れないように、雷様も私を裏切れない。だから、もう怯える必要はないんだって」
懐かしむように彼女はそう言うと、すぐにまた〈ヴアル〉へと視線を向けた。
「この店で働くことも性に合っていた。祖母から引き継いだ古物もそうだし、曼殊沙華から預かった古物も同じ。みんな、世界の何処かで行き場をなくしてしまったり、悪用を逃れたりするためにここへ来た。そんなモノたちの居場所を守るというのは、とてもやりがいがあった。名前も好きにつけて良いって言われたし、それだけに全てのモノに愛着がある。だから、私、〈ヴアル〉の事は憎んだりしていないわ。ただちょっと、あの時は、ふと、意地悪を言いたくなっただけね」
面白がるように笑う彼女の姿に、私はふと初めて出会った頃の事を思い出した。
霊は、今でこそ、私にとって完璧な女主人だ。美しく、強く、支配的。マテリアルの女性が持つらしい基本的な特徴ではあるが、そうは言っても個人差はあるものだ。
今となっては確かめようがないが、本来の霊はどんな性格だったのか。そんな疑問は常に私の頭に残っている。確かに彼女は捕食者だった。〈赤い花〉の香りに抗えず、無防備に眠っていた私へ先に手を出してきたのは彼女の方だった。
けれど、一方でそれを反省し、恥じらい、誤魔化そうとしていたのも彼女の顔の一つだった。
この人は、決して強い人ではない。
主従になって以降の彼女は、そういう主人を願った私の願望が反映されているだけなのではないか。
度々浮かび上がるその疑問に思考を捕らわれていると、霊は不意に私を見つめてきた。
「どうしたの、幽。黙り込んじゃって」
「いえ……その……」
良い答えを探してふと、〈ヴアル〉の精霊の像へと目が留まった。
「その……そういえば私には、使うかどうかって話もなかったなって思ったんです」
そんな私の言葉に、霊は笑みを深めた。
「だって必要ないもの。勿論、あなたが私の主人になってしまっていたら、そういう話もあったかもしれないけれどね。そうではなくて、主人になったのは私の方。であれば、わざわざ〈ヴアル〉を使うまでもない」
「それってもしかして、検討はされたってことでしょうか?」
恐る恐る訊ねると、霊はさらりと答えた。
「そう言うことになるかしらね。鬼神様方も、随分と興味をお持ちだったようよ。大抵の魔女は、強い護衛になる魔物を支配するためにあの術を使うのに、対象の命を救うという目的で、しかも従者に下る魔女がいるなんて、って」
「な、なんだか恥ずかしいですね」
「恥ずかしがっている場合じゃないわ」
呆れたように霊はそう言った。
「〈ヴアル〉が使われずに済んだのは、それだけじゃない。あなたが貴重な〈赤い花〉でなかったならば、分からなかったでしょうね。マテリアルに生まれなかったとはいえ、天の実子だもの。でも、いずれにせよ、そうはならなかった。あなたは自由のままよ。自分を縛るその魔術以外では」
何故だか、その言葉には投げやりな感情が含まれているように思えた。
この店は、彼女の居場所であって、愛着のある家だ。それはずっと理解してきたつもりだった。けれど、同時にここは彼女にとっての檻でもあるのであろう。安全ではあるが、自由でもない。その中に居座り続ける彼女の姿は、何故だかその影の中の鳥籠に囚われている夜蝶の姿も重なって見えてしまった。
「曼殊沙華の人達の決定通りのようですね」
私は言った。
「霊さんが〈ヴアル〉の影響下にあるなら、私には必要ない。〈ヴアル〉を用いるまでもないですから。もしも、曼殊沙華への裏切りが、霊さんへの災いを招くというのなら、私には絶対に出来ません」
けれど、と、私は〈ヴアル〉を見つめた。正直に言うべきか迷うところではある。だが、そんな私の言葉を促すように、霊は見上げてきた。
「けれど、何?」
穏やかだが沈黙を許さぬようなその眼差しに、私は従うように答えた。
「──けれど、正直に言うと〈ヴアル〉の事が怖くなってしまいました。霊さんがその影響で何かあったらって思うと……」
あり得ないとは思う。霊のことだ。この店のことがかかっているならば、曼殊沙華の事を裏切ることもないだろう。
それでも、未来は分からない。それに、常に銃口を突き付けられているような不安も付きまとう。それだけに、今の私には共感出来てしまったのだ。かつて〈ヴアル〉を危険視し、廃棄すべきと言い出した人々の気持ちが。
「怖いという気持ちは捻じ曲げられないものだもの」
霊は理解するようにそう言った。一方で、少し寂しそうにも感じられた。半身であるべき私の正直な気持ちに、切なさを覚えたのだろう。その空気を私も感じ取り、慌てて霊に対して訊ねた。
「私、〈ヴアル〉の事をもう少し理解したいです。どうして、〈ヴアル〉を守ろうと必死に動いた人たちがいたのでしょうか」
すると、霊は微笑んだまま、〈ヴアル〉の精霊の像を撫でた。
「それはね、これが先住民たちにとっては先人からの大事な遺産でもあったからだそうよ」
「遺産……ですか」
「ええ。開拓民たちにとっては呪われた代物であってもね、先住民たちにとっては先祖が大事にしてきた代物に違いない。それを、破壊するという行為は、これを恐れた人々こそ納得するでしょうけれど、先祖が大事にしてきたという先住民たちはどうかしら。これ以上、両者の関係がこじれるのが嫌だったのでしょう。勿論、遠い場所に逃すという行為も、先住民たちからすれば褒められたことではなかったかもしれない。けれど、壊されるよりはずっとマシのはず。そういう説得をしたらしいという伝承もあるの」
「──なるほど」
少しだけ腑に落ちた。
やはり、魔人たちには魔人たちの想いがあっての行動だったのだと。そのお陰で、壊されることなく〈ヴアル〉は此処へ来たわけだ。
「ちなみに、その精霊は、本来どんな精霊だったんですか?」
「仲裁役を引き受けてくれる精霊だったようよ。開拓民が来るまでの使用歴は明確には分からないそうなのだけれど、絶対的な信頼を寄せられているだけのものだったのだとか。それだけ、多くの場数を踏んできたのでしょうね」
そこまで聞くと、〈ヴアル〉への恐怖も少しは薄れていった。これを制作したのは魔人だ。その心臓の種類こそ分からないが、何であったにせよ、私と同じベヒモスの緑のオーラをまとう同胞であることは間違いない。そして、同じく緑のオーラをまとう者たちが守り抜き、〈ヴアル〉は海を渡ってきた。そして、霊は店を任される未来へと至った。
「……そっか……〈ヴアル〉が壊されなかったから、私は霊さんに出会う未来へ繋がっているという事でもあるんですね」
この店には、そういう代物がたくさんある。〈ヴアル〉だけの話ではない。ただ、その一つでも欠けていれば、この未来には繋がらなかったかもしれないわけだ。
「どう? 少しは〈ヴアル〉の事が怖くなくなったかしら?」
微笑みかけてくる霊に、私は力なく笑みを浮かべ、そして頷いた。
「よかった」
霊は静かにそう言うと、〈ヴアル〉を抱えて立ち上がった。慎重に運んで鍵付きの戸棚にしまい込むと、扉を閉める前にそっと声をかけた。
「よかったわね、お前。お前の事を嫌わない人が一人増えたようよ」
その声掛けはまるで小さな子供をあやすかのように優しいものだった。モノに優しいその理由もまた、彼女の生い立ちが影響しているのだろうか。そんな事を改めて思っていると、霊は戸棚の扉をことりと閉めて振り返ってきた。
「……さてと」
こちらを見るその目が徐々に赤く染まっていく。
「そろそろ夕飯にしましょうか」
その一言で、私の方もすっかり食べられる気分になってしまった。