中編
――〈マルバス〉か……。
ベッドに寝そべったまま私はその名前を今一度確認した。
これまで、病気をしたときは必ず町医者に診てもらっていた。その結果、しっかりと治ったと感動した覚えは全くなかったのだが、診断してもらい、薬をもらうだけでも安心したものだからそれでよかった。でも、これから先は変わるかもしれない。この店にいる限り、そして〈マルバス〉がここにある限り、病気になったとしてもすぐに治せるのだとすれば、町医者で診てもらうお金が勿体ない。
霊を信じて従って正解だった。もっとも、逆らうという道はないに等しい状況だった。彼女に命令されて、おぞましいほど神々しい水を飲むという行為は私にとって恐ろしすぎてむしろ魅力的なものだったからだ。だが、それにしても、霊の言っていた通り、水を飲んで数時間も経てばミアズマ病による症状はほぼすべて改善し、日が落ちる頃には半裸でベッドに横たわることが出来たのだから、感動するのも当然だ。
ベッドの上で寝そべりながら、私は隣で横になる主人――霊の姿を見つめた。今朝よりもだいぶ血の気は戻ってきたように思う。だが、きっとまだ足りないのだろう。静かに手を伸ばすも、その手は拒まれてしまった。
奇跡の水差しと呼ばれる〈マルバス〉。霊があれを持ち出したのは、限界だったからなのだろう。私の血を吸えないままだと、自分が飢え死にしてしまうと恐れてのことだったのかもしれない。
だからこそ、病状が治まってきたばかりだというのに手を出してきたのだろう。
「霊さん、もういいんですか?」
いつもなら吸血後、すっきりとした表情を見せる霊だったが、今日は違う。だるそうにベッドの上に寝そべったまま、額に手を当てている。そして、深く色っぽいため息をついてから、答えてくれた。
「正直、足りない」
囁くようにそう言った。
「でも、これ以上吸うわけにはいかないわね。幽が死んじゃうもの」
「私ならまだ平気かと――」
「いいえ、これが限界。私には分かる」
妙なほど断言すると、霊はようやく起き上がった。ベッドに横になったままの私に微笑みかけると、背伸びをしてから言った。
「……少ししたら、ちょっと出かけてくるわ」
「え、こんな時間に? 何処に行くんですか?」
「野暮用。帰りは遅くなると思う。きちんと戸締りしていくから、歩けるようになっても外に出てきちゃ駄目よ。前みたいに死霊がうろついているかもしれないからね。そうそう、万が一、訪問者が来ても応対しては駄目よ」
「……分かりました」
少し心細くなった。病状はよくなってきたとはいえ、一人で留守番は寂しいし不安だ。夜は魔物の時間でもある。雨、強風、雪、そして魔の血を継がぬものに悪臭をまき散らすという塵という天候にも関係なく、全ての魔物たちが活き活きと過ごせる時間だ。結界と壁に守られているとはいえ、霊が傍にいないということはとても怖いことに感じた。
「大丈夫よ」
そんな私の不安を感じたのか、霊はそう言った。
「すぐに帰ってくるから」
笑うと牙がちらりと見える。薄っすらと私の血で汚れたその口を見つめていると、質問が浮かんだ。野暮用とは何なのか、詳細を求める質問が口から出そうになって、そのまま引っ込んでしまった。
話すべきことは聞かずとも話すのが霊だ。話したくないことだから、話さないのだろう。今の私に許されているのは、ただ待つことだけ。それなら、大人しく待っていよう。そう心に決めて、私は肯いた。
「早く帰って来てくださいね」
そうとだけ要望を口にすると、霊は笑みで返し、そのまま部屋を出て行ってしまった。
残された私はしばし閉められた扉を見つめていたが、血を吸われたせいだろうか、だんだんと眠気がひどくなってきて、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢はどんな夢だっただろう。あまり覚えていない。ただただ疲れていた。病み上がりに血を奪われたせいだろうか。霊の加減は正確なものだった。あれ以上吸われていたら、死んでしまっていたかもしれない。
はっと目を覚ました時も、まだ倦怠感が残っていることに気づいて、私は改めて主人の判断の正しさに感心した。しかし、絶対に足りなかっただろうに、あれだけの量で外になんか出て大丈夫だったのだろうか。そもそも、何をしに行ったのだろう。霊だけが請け負った笠の仕事だとしたら、貧血で倒れないか心配だ。
月明かりを頼りに時計を眺めれば、霊がこの部屋から去った時刻からしばらく経っていることが分かった。一瞬の眠りのように思えたけれど、それだけ深く眠っていたということなのだろうか。
「霊さん……帰ってきたかな」
ベッドから起き上がると、ふらつきはまだあった。しかし、立てないというわけでも、歩けないというわけでもなさそうだ。さっそく私はベッドを這い出し、廊下へと出てみた。薄明かりが灯った廊下では、時計の針の音のみが響いている。
霊の部屋は隣だ。さっそくノックをして開けてみた。しかし、中は静寂のみが存在した。霊はまだ帰って来ていないのだろうか。
「霊さん……?」
一階へと降りていくも、静けさばかりが出迎えてくれる。一人きりでこの家の夜を過ごすのには慣れていない。なんだかとても不安で怖かった。時計の針の音と外で降っているらしい小雨の音ばかりが聞こえてくる。
と、その時だった。
別の物音に私は気づいた。店の方から聞こえてくる。何かを叩く音だ。扉を叩く音だろうか。訪問者かもしれない。無意識にそちらへと向かおうとして、ふと霊に言われたことを思いだした。
――訪問者が来ても応対しちゃ駄目よ。
主人の命令だ。守らなくてはならないだろう。
しかし、どういうわけか私は迷っていた。いつもならば、無条件でその言葉通りにするはずなのに、命令を守るべきか破るべきかを迷っていたのだ。こんなことはあまりない。魔女の性に加え、主従の魔術に縛られている以上、命令違反なんて普通ならばあり得ないのだ。
じゃあ、どうして今、私は迷っているのか。
嫌な予感がして、私は店へと向かった。
虫の知らせ、第六感、色んな呼び方があるだろう。自分のことは自分がよく分かっているものだ。何よりも優先しなくてはならない何かが待っている。扉を叩く音を聴きながら、私は迷いながらも先へと進んだ。そうして、店の暖簾をくぐってみれば、鍵の閉まった入り口の向こうに人影があるのが見えた。二人分だ。だが、一人は背負われた状態に見える。よくよく目を凝らせば、見知った者の姿だった。
「……笠さん」
人間の姿をしていたからすぐにピンと来なかったが、確かに笠だった。
「幽、話はあとだ。此処を開けろ。すぐにだ」
扉越しに、辛うじてそんな声が聞こえてきた。
「え、でも――」
そう言いかけたとき、笠に背負われた人物の姿に気づいた。
霊だ。ぐったりとしている。
「え?」
命令違反しなければと思ったのはこのせいだろうか。私は急いで店の扉を開けた。笠はなだれ込むように入ってくると、霊の身体を放り出すと同時に狸の姿になってしまった。
「扉を閉めろ。鍵もだ。早く!」
「は、はい」
言われるままに店の扉を閉めると、笠はようやくほっと息を吐いた。振り返り、私は床に倒れた霊へと近寄った。苦しそうにしている。
「一体、何があったんですか……」
「狩りに失敗した」
「え?」
「血が足りねえってんで、人間を襲おうとしてこの様だ。いや、一人目は上手く行ったんだがね。二人目に狙った相手がうまく擬態した別の魔物だったってわけさ」
「擬態……囚われそうにって、え?」
――そもそも狩りって……?
色々問いただしたい言葉が浮かんで、思考が一瞬止まってしまった。しかし、当の本人は今も苦しそうに呼吸をしているだけ。その様子をしばし見てから、私はふと笠に訊ねた。
「笠さんはその場にいたの?」
「人間相手の狩りは危険も伴うことだ。憲兵やその他諸々に見つかったらまずい。それで、見張り役を頼まれていたのさ。だが、こっちは想定外だった。乙女椿国内で鬼喰いは珍しいからね。あと少し助けに入るのが遅かったらと思うと肝が冷えるってもんだ」
「鬼喰いって?」
「その名の通り、鬼を食らう魔物さ。奴らにとっちゃ吸血鬼も獲物対象だ。乙女椿は島国だから元々いねえはずなんだが、それを言うなら霊だって外来の血をたっぷり引いているわけだしな。そういう輩が人間に混じって入って来ていてもおかしくはねえ」
そう言って、狸姿の笠は店内をうろつき何かを探し始めた。
――そんな危ない魔物がいるなんて……。
霊は何も言わない。呼吸は荒く、苦しそうだった。外傷は見当たらない。けれど、このままではまずいことはよく分かった。でも、どうしたらいいのだろう。
「霊さんは何処か怪我を?」
「捕食者の魔術を食らっちまったんだ。毒と言えば分かりやすいな。奴らは獲物に毒のような魔力を注入し、動けなくしてからゆっくり食べる。その様子も魔術のせいだろう」
「そんな――」
「すぐに引き離したからまだ軽症のはず……だが、毒抜きはした方がいいな」
「霊さん……」
霊の手を握れば、とても冷えていた。血が足りない。確かにそう言っていた。でも、人間を狙った狩りをするなんて、教えてくれなかった。きっと、教えられなかったのだろう。私が病気をしていなければ、狩りなどいかなくて済んだのだろうか。そう思うととても辛い。霊や笠を責める気にもなれなかった。
「うーん、あれは何処だ。昔譲ったあの水差しは――」
水差し。店内をうろつきながら頭を掻く笠の言葉に、はっとした。
「もしかして、〈マルバス〉のこと?」
「〈マルバス〉……おお! 〈マルバス〉! そう、それだ。奇跡の水差しだよな? ああ、そんな名前を付けたと聞いた。何処にあるか知ってるか?」
「ちょっと待っていてください!」
確かまだ私の部屋にあったはずだ。笠と霊を店に置いたまま私は慌てて走り出した。病み上がりだというのに、身体は軽い。いや、重たさを感じる余裕がなかったのだ。頭に浮かぶのは〈マルバス〉の不可思議な姿ばかりだ。ただの水が聖水になる。差別などしない本当の意味の聖水になるのだ。ホラー映画とは違って、その聖水は吸血鬼さえも助けてくれるもの。
階段を駆け上がり、私室の部屋を開けると、〈マルバス〉は月明かりを浴びて怪しげに光っていた。その姿を見た途端、肩の力が抜けた。すぐさま手に取ると、階段を下りる。そこで、再び人の姿に戻った笠が霊を運んできているのを見つけた。
「おう、幽、客間借りるぞ。あんたはそれに水を入れてくれ」
「分かりました」
客間はリビングの横の畳の二間だ。片方はラジオがあって、片方にはテレビがある。それ以外にあるものといえば、押し入れと机くらいのもの。いずれかで霊を寝かすのだろう。
我が主人のピンチを救ってくれて、ここまで逃がしてくれた頼れる存在の笠だが、さすがにその本質が狸じゃ大の大人一人を抱えて階段を上がるのは辛いのかもしれない。
水を入れながらそんなことをそっと考え、私はそそくさと客間へと向かった。笠がいたのはラジオの部屋だった。扉によって廊下から直接つながっている為だろう。
「はあ、こら、重かった重かった」
畳の上にやや乱暴に霊を寝かせた状態で、笠は机に寄りかかって一休みしていた。人間姿ではなく、やはり狸だ。人間の姿をするだけでも疲れるものなのかもしれない。
「あんまり重いっていうと、霊さんに怒られますよ」
水差しの中身をコップに注ぎながらそう言うと、笠はげらげら笑った。
「平気さあ、どうせ聞こえちゃいねえよ。ほれ、こうしていると、デカいだけのか弱い娘さんさあ。おっかない吸血鬼様じゃねえ」
私としてはおっかない吸血鬼様である方が安心するのだけれど。
内心、そう思いながら私は霊の上体をどうにか起こした。その時、苦しそうに呻いたので、焦ってしまった。
「霊さん、御免なさい。苦しいですか?」
「……笠、あとで覚えてなさい」
開口一番飛び出したのは、命の恩人に対するそんな恨み節だった。喋れはするらしい。
「ひえっ、やっぱりおっかねえや」
笠が揶揄うようにそう言った。よかった、大丈夫そうだ。
「霊さん、この水を飲んでください。〈マルバス〉の水ですよ」
私の声に反応して霊の手が動く。しかし、コップを受け取るのは無理なようだ。口元に持っていくと、霊はどうにか水を飲んでくれた。弱々しい様子だが、水を飲む力はしっかりとしている。コップに入れた水のうち半分ほどを飲み干すと、霊は口を離して呟いた。
「ああ……退屈な味ね……幽の血を見習ってほしいわ」
どうやら腹ペコらしい。
「へえ、これで大丈夫だろ」
笠はため息交じりに言った。
「もう安心だ。しっかり意識が戻ったら伝えといてくれ。命の恩人、化け狸の笠様のことをこれからもよろしくなってね」
机に寄りかかりながら胸を張るのは愛らしい姿をした狸でしかない。しかし、今の私にはまるで雌狸にでもなってしまったかのようにイケメンに見えた。
「分かりました。しっかり伝えておきます」
「へへ、よろしく頼むぜ。……お、そろそろいい頃合いだな。俺はそろそろお暇するぜ。あんま遅いとカミさんが心配すっからな」
そう言って立ち上がり、背伸びをする。狸の姿で立つと、その背丈は時々遊びに来る鬼の幼女よりも低い。だが、そんな彼も家に帰れば立派なお父さんなのだと霊に聞いたことがあった。あの時は想像がつかなかったけれど、今ならしっくりとくる。
「笠さん、本当にありがとうございました」
礼を言ったその時、ようやく焦燥感が抜けた気がした。いつの間にか一人で抱え、いつの間にか危険に飛び込んでいた我が主人。言いたいことはいっぱいあるが、何よりもまず、目の前の恩人に感謝するのが先だった。
彼がいなかったらと思うと怖い。そんな想像はしない方がいい。
「なに、当然のことよ。実を言えば、普段は俺の方が霊に助けてもらってばっかりだからなあ」
笠は狸の顔でにっこりと笑うと、のそのそと歩き出した。店側まで共に歩き、いつもの草履〈グシオン〉をのんびりと履くその背中を見つめながら、私は戸惑いつつ訊ねてみた。
「霊さんは」
笠がふと振り返る。そのつぶらな瞳に躊躇いを覚えつつも、そのまま続けた。
「よく人を襲いに行くんですか……?」
あまり詳しく聞いたことはない。ただ、吸血鬼がそういう存在だというのは知っていた。私の父だってそうだ。そして、私の母はそんな吸血鬼たちを魔女の性を満たすために殺し続け、吸血鬼を恐れる仲間や憎む仲間から英雄視されていたらしい。そんな母をたぶらかした父をあまり擁護する気にはなれないし、かつての母の仲間にとって、吸血鬼の血を引いている私という存在があまり歓迎できないものであることも納得はしていないが理解しているつもりだ。
だが、霊に関しては、すんなりと納得できそうにない。人を襲わなくてはならなかったのは、私が食事に付き合えなかったからだ。では、私がここに来る前は、どうしていたのだろうか。今更になって、そんな過去のことがずっしりとのしかかってきた。
「ああ、ダンピールってやつも魔女ってやつも血を吸わないんだったっけな」
「ダンピールも魔女も、その性質によっては吸血鬼みたいに人の血を吸わなくてはいけない者もいるって〈アスタロト〉が言っていました。でも、私は違います。私の性は――」
と言いかけ、思わず口ごもった。何でもありません、と誤魔化すことしかできなかった。
「まあ、ともかく、あんたは吸わないってわけだ。なら、知らなくて当然かもな」
そう言って、笠は頭に載せた被り笠を整えながら教えてくれた。
「あんたが来るまで、霊はたびたび狩りをして生きてきた。依頼によっちゃ、とっちめることのできるターゲットなんかがいるからそいつの血で事足りるが、いつも悪人がいるわけじゃねえ。やむを得ず夜の町に飛び出して人間を対象に狩りをすることだってあった」
「……そうですか」
もしもまだ私の母が生きていたら、人を襲う霊を見逃してくれていただろうか。
霊は私の父母を知っていると言っていた。父は吸血鬼の中でも有名だし、母は吸血鬼狩りの魔女だから知っていて当然だろう。じゃあ、母の方は霊をどのくらい知っていたのだろう。そして、知っていたとしたら、霊に対してどんな感情を秘めていたのだろう。
「そう暗い顔をするな、幽。一応、言っておくが、鬼は鬼でも霊は殺人鬼なんかじゃねえ。ちゃんと加減出来る奴だし、病気なんかも媒介しないように吸う相手を選んでいた」
「……でも、襲われる方は分からないじゃないですか」
「襲われた本人は魔術にかかって記憶を失う。だから、ショックで心の病気になんかかかったりはしないし、後遺症らしきものもない。……だが、まあ、そうだなあ。第三者に知られた時は確かに面倒だった」
「やっぱり、そう言う事があるんですね」
「おう、だから長いことこの俺が見張り役をやってたんだ。憲兵対策でもあるし、世の中にゃ吸血鬼狩りに夢中な奴もいるからな」
「私の母みたいに?」
そう訊ねると、笠はしばらく沈黙した。
彼もまた生前の母を知っていると聞いている。私の知らない母の姿を知っているということだ。父のこともある程度は知っているだろう。しかし、霊ともども改めて話を詳しく聞かせてもらうという機会はなかった。そして、今日もまたないのだろう。
笠は腕を組むと、軽く息を吐いてその姿を人間のものへと変えた。
「いよいよ帰らにゃならん。カミさんを怒らせたら霊よりもおっかないからねえ」
「笠さん……」
「悪いね、幽。あんたの母ちゃんについての話は、俺よりも霊の方が詳しい。あんたも少しは聞いているはずだ」
「でも、霊さんは語りたがらないこともあります」
今回のことのように。
「だがなあ、だからと言って、俺が勝手に話していいもんでもねえ。聞きたいのなら、霊を問い詰めな」
結局、笠はそれ以上語ろうとしなかった。
私の方もまたそれ以上聞き出す気にもなれず、その日はただ闇夜に消える化け狸の背中を見送ることしかできなかった。