後編
「私にはお力を貸した責任があります。このライター、〈ビフロンス〉を継承し、管理する者として、この古物があなたに良くない影響──たとえば、この乙女椿国の法を犯すような事態になったとしたら、私たちもまたその責任を問われることになるのです」
私……たち。そこに戸惑いを感じなかったと言えば嘘になるが、この際はどうでもいい。
それよりも、私は心配だった。霊が言っている通り、このまま放っておけば冠がよからぬ道に進んでしまうような気がしたからだ。
冠はその事を問われているとすぐに理解したのだろう。しばし頭を抱え、こみ上げるものを落ち着かせるように深く溜息を吐いてから、唸るように言ったのだった。
「ならばどうしろと……どうしろと言うんですか」
まさに怒れる犬のように煌々とした眼差しを霊に向け、彼は吠えるように言った。
「このまま放っておけというんですか。あいつを苦しめた奴らの事、あのまま指をくわえて見ていろと?」
「あなたの怒りはもっともです。ですが、だからこそ、感情的になってはいけないのです。ここで感情的に動けば、あなたは一瞬だけスカッとするでしょう。けれど、それだけでは何も解決しません。警察に引き渡されるのはあなたの方で、彼らは被害者になってしまう」
「だとしても、それがきっかけで注目されるようなことがあれば、あの会社の裏側が明るみに出るかもしれない。だって、違法なことをしているんじゃないんですか。お金持ちのお年寄り相手に」
「……だとしても、〈ビフロンス〉の見せてくれた情報だけでは証拠が足りません。それに、冠さん。あなたはどう動こうとしていますか」
霊の問いに、冠は押し黙ってしまった。
その眼差し、その表情、そして握られた拳からは、激しい怒りが伝わってくる。その怒りは物理的な暴力にも繋がりかねないものに感じられた。
「たとえ正義と悪の話であろうと、拳で解決するようならば私は止めなくてはなりません」
薄っすら目を赤くして告げる霊に対し、冠もまた一歩も譲らないような姿勢で返した。
「それは、あなた自身のためですか、吸血鬼さん?」
わずかに敵意を感じる声色だったが、霊は落ち着き払って静かに笑った。
「そうですね。その通りです」
あっさりと認めると、霊は続けた。
「あなたのおっしゃる通り、私は利己的な理由からあなたに忠告しています。けれど、私達二人だけの為ではありません。私には友人がいます。あなたの友人でもある男性です。誰か分かりますね。あなたと私と繋いでくれた釧さんの事ですよ」
釧の名前を出されると、冠の表情に再び揺らぎが生じた。
「彼が……なんだっていうんですか」
「釧さんもあなたのお友達ですよね?」
「そうですけれど」
突っぱねるように答える彼に対し、霊が静かに差し出したのは封筒だった。釧から預かっていたあの封筒だ。
「これをあなたに渡すように言われました。釧さんからです」
「……釧から?」
困惑しつつ、冠は封筒を受け取った。封は切られていない。その事を指で確認すると、冠は黙って開けて、中身を取り出した。
蘭花のテーブルに出てきたのは、一冊の手帖と手紙だった。メモ帳の切れ端のようなその手紙を拾い上げ、冠は力なく言った。
「釧からだ。手帖は……あいつの遺品らしい」
何故、そんなものを釧が。そう呟きながらも、冠は吸い込まれるように手帖を開いた。そしてパラパラと中身を読み始め、しばらくすると震え始めた。
「こ……これは……」
震える彼に対し、霊は言った。
「私はただ預かっただけです。それが何の手帖なのかも、何の意図があってあなたに託されたのかも分かりません。ただ、釧はあなたに絶対に渡して欲しいと言っていました。ここへ来て、〈ビフロンス〉の幻影をみるタイミングでないと駄目だと」
霊がそう言うと、冠は少しだけ落ち着きを取り戻した。汗まみれになった額を拭い、悪い夢でもみたように溜息を吐くと、先程とは全く違う眼差しを霊へと向けた。
「確かに……今受け取るべき品でした」
彼はそう言った。そして、何度か深呼吸をして、心を落ち着けてから、彼は続けた。
「吸血鬼さん。あなた、言いましたね。責任があると。僕の行動による責任を問われる可能性もあると」
「ええ」
霊が頷くと、冠は顔を上げた。切実なものがそこに込められている。
「ならば、お尋ねします。どの程度、責任を問われるのですか。どの程度であれば、あなた方に迷惑をかけずに済むのでしょうか」
すると、霊は非常に落ち着いた声で即答した。
「乙女椿国の法を犯さないならば大丈夫ですよ」
それから程なくして、冠はあっさりと帰ってしまった。まるで憑き物が落ちたような、というよりも、違う何かに憑かれたように去っていった彼が、私は気になって仕方なかった。共に見送り、店内からはすっかり見えなくなってから、私は恐る恐る霊に訊ねた。
「霊さん。あの手帖は何だったんでしょうか」
すると霊は怪しく微笑みながら答えた。
「封筒の中身は私も見ていないわ」
「でも、何か知っているようでしたね」
「そうね。大方の予想はつくわ。釧のことだもの。もっと賢い戦い方をお友達にはして欲しかったのでしょう」
賢い戦い方。
その言葉の意味を理解したのは、それからまた数日後の事だった。
新聞の記事に目が留まったのだ。それは、私も聞いたことのあるようなある会社の不祥事についての報道だった。代表の顔写真があり、それを見るなり私はハッとした。
──〈ビフロンス〉が見せてくれた、あの……。
冠の友人の最期の記憶に出てきていたかの高圧的な人物。
山犬だというその男性に間違いなかったのだ。
「動いたのね」
と、霊が言った。音もたてずにいつの間にか近づき、私の真後ろから一緒に新聞を覗いていた。振り返ると彼女は平然とした様子で続けた。
「言ったでしょう。戦い方が大事なのだって」
「では……あの手帖は……」
恐る恐る訊ねると、霊は微かに笑い、記事を指さしながら言った。
「この結果をもたらすに至る代物。ちゃんと中身を見ていない私が分かるのはそれだけね」
そして、霊は離れていってしまった。
すぐさま新聞をたたみ、私はその背に問いかけた。
「彼は……冠さんは納得できたでしょうか」
「さあね。けれど、少なくとも釧のワンちゃんは納得したことでしょう」
「釧さんが?」
「ええ。だって、彼、お友達に不幸になってほしくなさそうだったでしょう? いかに悪人だろうと、無計画のまま暴力で解決してしまうことがあれば、冠さんもまた罪に問われる。魔物の世界では結局のところ力が全てを解決することだって珍しくはないけれどね、それはあくまでも限定的な場合のお話。個人で勝手に動いて、凶悪な犯罪者になってしまえば、冠さんに未来はない。釧のワンちゃんとしてはそんな事は避けたかったでしょう」
私が思い出したのは、冠が読んでいた釧からの手紙だった。あれに何が書かれていたかもまた、分からないままだった。
けれど、察することはできる。あの手紙と、手帖の存在が、彼を暴走させずに済んだのだと。
「〈ビフロンス〉はね、刺激が強すぎるの」
霊は言った。
「確かに知りたいだろう事を間違いなく見せてくれるけれど、それが想い人の死と関連しているからこそ、あまりに重た過ぎる。だから、悪用された事もあったのでしょう。それだけ人の心というものは脆いから。でも、冠さんには寄り添う人がまだいる。不幸になってほしくない人がいた。だから、その強い刺激による行動力を、別の方向へと修正することができたってわけ」
「……もしかして、霊さんが断らなかったのもそれを見越してですか?」
そっと訊ねると霊はくすりと笑って振り返ってきた。
「私は超能力者じゃないわ。ただ単に、断る理由がなかっただけよ。無下にしたところで不満を持たれただけでしょうし。……それにね、〈ビフロンス〉に縋りたくなってしまう気持ちもそれはそれでよく分かったの」
霊は溜息交じりに言った。
「分かる、というと?」
「昔、〈ビフロンス〉に縋ろうとして祖母に咎められたことがあるの。両親がいなくなってすぐにね」
「……ああ」
言葉が出なかった。そして、同時に私もまた縋りたくなる気持ちが分かってしまった。私だって知りたい気持ちがある。怖くて見たくない気持ちもある。母の事。謎の死を遂げた彼女の最期の遺した記憶について。
──けれど。
「子供の頃は、祖母に許されなかった。けれど、結局、大人になってから使ってしまったの。〈ビフロンス〉を使って、両親の記憶を……見るんじゃなかったという気持ちと、しれて良かったという気持ちが同時に沸いた。だから、断れなかったの」
静かに語る彼女を、私はじっと見つめた。
「あの、霊さん……」
そんな私の眼差しの意味に気づいたのだろう。霊はちらりと見つめると、すぐに目を逸らしてしまった。
「憐のこと?」
静かに問われ、私は食いつくように頷いた。
「私……見られるのなら見てみたいです。知れるのなら、知りたいです。そこにはひょっとしたら……真実が」
「何処にもないわ」
きっぱりと、彼女は言った。
「何処にもなかった。憐の記憶の中には」
「見たんですか?」
「ええ。ずっと前にね。憐が死んだと聞かされて、でも受け入れられなくて、せめて、何があったか知りたくて。だけど、何も分からなかった。襲った人が誰なのかも、どうしてなのかも。〈ビフロンス〉からは何一つとして分からなかった」
寂しそうに語るその口ぶりからは、嘘をついているなんて思えない。けれど、私はすぐに彼女へ近づいていった。
「この目で見たいです。それが確かな真実であることを確かめたいです」
そっと手を握り締めると、霊は困惑したように溜息を吐いた。
「悪い子ね。ご主人様がそれを望んでいないって顔を見て分からない?」
「だとしても、はっきりと断られない限りは」
我ながら強気に出たものだ。そう思いつつも私は後悔していなかった。霊はそんな私の目を見下ろすと、呆れたように息を吐きた。
「分かった。けれど、約束して」
霊は目を赤く染めると、諭すように耳元で囁いてきた。
「この先、何を知ったとしても、一人で突っ走らないでね」
とても優しく、けれどはっきりと、彼女は私に言い聞かせてきた。その言葉に無言でうなずいてみせると、霊は少しだけ目を細め、まるで約束の印のようにその唇を私の首筋に重ねてきた。
血を吸われる痛みと温もり、そして快楽を覚えながら、私は彼女にしがみつき、そして静かに誓った。
どんなに怒りを覚えたとしても、今、私を求めてくれている人を蔑ろにしたりはしない、と。