前編
釧から電話があったのは、昨晩の事だった。
彼からの個人的な連絡という事で、私たちはいずれもさほど緊張していなかった。
釧は確かに山犬であり、無花果氏の身辺警護を担う口犬のメンバーではあるのだが、もしも無花果氏絡みの以来であれば此処へ連絡してくるのは百花魁であるからだ。
実際に、彼の要件は全く違う──ごく個人的なものだった。
けれど、気ままな依頼というわけでもなさそうだというのは、彼が入店した時から何となく伝わってきた。
「突然悪いね。どうしても……って聞かなくて」
蘭花のテーブルに着くなり、釧は霊にそう言った。どこか不安そうなその眼差しは、人間の姿をしていても犬を思わせるものがあった。
「いいのよ。どうせ空いていたから。それよりも、詳しく聞かせて頂戴。お友達がこの子の力を借りたいのですって?」
霊はそう言って、蘭花のテーブルの真ん中に置いたオイルライターを指さした。
その名は〈ビフロンス〉という。勿論、覚えている。降霊術に使用されるという説明付きで記録されていたのだ。
しかし、どうやら使い勝手に問題があるのだろう。死者にまつわる古物の使用記録によれば、死者と交流するホイッスル〈ブネ〉の方が信頼されているようだった。
そのためなのだろうか。〈ビフロンス〉と〈ブネ〉のランクはともにBとされており、いずれも店主以外の使用が認められていないのだが、〈ビフロンス〉の方は、その存在にまつわる情報統制などが特にされていないようだった。
だから、この度も〈ビフロンス〉が名指しされたのだろう。
「この子の力について、お友達はちゃんと分かっているのかしら。降霊術といっても、亡くなった人とお話できるわけではないのよ」
「ああ、分かっているはずだよ。だけどね、どうしても“過去”を観たいらしい」
「そう……それならむしろ、〈ビフロンス〉は相応しいかもしれないわね」
考え込むように霊はそう言った。釧の方はバツが悪そうに頭を掻いている。
「まあ、無理だったら無理でもいいんだよ。その時は、おれがどうにか説得するからね。あいつもショックだったんだろう。共通の友達だったんだが、特にあいつと仲のいいやつだったからね」
「その二人のお友達について、あなたの知る範囲で教えてくれる?」
霊がたずねると、釧は静かに頷いてから語りだした。
釧いわく、友人というのは二人とも山犬一族の幼馴染らしい。年頃も同じではあるけれど、どちらも口犬仲間ではない。
この度、〈ビフロンス〉の力を借りたいと相談してきた友人は、もっと人間らしい暮らしをしているのだという。そして、亡くなったという友人もまた然り。違ったのは、勤めていた会社の経営者が同じ山犬一族の者であることだろう。残念ながらその経営者は人格者ではなかったのだ。
「口犬も相当辛い仕事だけれどね、その分、お手当を貰っているから文句はないよ。嫌なら辞めたっていい。だが、どうもその友達が務めていた会社のトップはね、悪い意味で山犬らしい男だったそうだ」
「悪い意味で?」
霊が問い返すと、釧は大きく溜息を吐いた。
「『あいつは山犬らしい男だからね』って山犬同士で言う際は、大きく分けて二つのパターンがある。一つはリーダーシップがあって頼りがいがある。もう一つは支配欲が強すぎて辟易するってことだ」
「対極的ね」
霊の短い言葉に釧は小さく頷いた。
「……で、友達が勤務していた会社のトップは後者だったってわけだ」
「それが亡くなった原因と繋がるのね?」
落ち着いた霊の言葉に、釧は暗い顔で頷いた。
「噂というか、証言というか、ね。どうもトップと馬が合わなかったらしい。馬というか、波長というかね。山犬にはたまにあることさ。とにかくニオイが気に入らないってことがあるんだ。我々は無駄に鼻が利くからね。特に雄同士ってなるとね」
自嘲気味に釧はそう言った。
「ともかく、それで、トップから事あるごとに嫌がらせをされていたと証言している同僚がいるんだよ。奴はそれを聞いてね、居ても立ってもいられなくなったんだろう。何処からか〈ビフロンス〉の話を耳に入れてね、おれに縋りついてきたんだよ。あいつがどんな想いをしていたかをどうしても知りたい。知らなくちゃいけないって」
「……知って、どうしたいのかしら」
ぽつりと霊がそう言うと、釧もまた同意するように頷いた。
「やつはただ知りたいだけだって強調するけれどね。おれは心配なんだ。あいつのことだ。どっちも大事な友達だからね」
そして、改めて霊へ視線を向けると、彼は軽く頭を下げた。
「ともかく、〈ビフロンス〉を借りたい理由は以上だ。駄目だったら駄目で良い。その時は、おれがあいつに伝えるから」
そんな彼を前にして、霊は少し迷うように息を吐いた。
「あなたはあなたで私に駄目って言って欲しいようね」
図星だったのだろうか。釧は気まずそうに肩を竦めた。
そんな彼の態度に少し目を細め、霊は告げた。
「悪いけれど、嘘は吐けない。その理由ならば〈ビフロンス〉の力をお貸しできるかもしれないわ。お友達にお伝えなさって。一度、お電話をくださいって」
すると釧はやはり不満そうに溜息を吐いた。しかし、彼もまた大人だ。気を取り直したように表情を変えると、鞄の中から封筒を取り出した。
「それは?」
霊がたずねると、釧は言った。
「やつがここへ来たら渡して欲しい。おれが直接持って行ってもよかったんだが、タイミングっていうのがある。ここに預けておいた方が良さそうだ」
「分かった。では、必ずお渡しするわ」
そう言って霊は封筒を受け取った。
釧が帰ってしまい、営業時間も終わると、店内の清掃をしながら霊は〈ビフロンス〉を前に少し悩んでいるようだった。
その横顔が少し気になって、私はそっと話しかけた。
「霊さん、もしかして悩んでます?」
「そう見える?」
訊ね返されて、恐る恐る頷くと、霊は苦笑して〈ビフロンス〉をケースにしまった。きちんと蓋を閉めてから、表面をそっと撫でると、彼女は言った。
「釧のワンちゃんも友達想いよね。きっとこの古物と、それに縋ろうというお友達の空気の悪さを嗅ぎ取ったのでしょう」
「……けれど、断る理由はない、と」
「そうよ。それに、無下に断ったところでお友達は不満を持つだけ。それでは、釧のワンちゃんの悩みはきっと解決しないでしょうから」
だけど、と、霊は何処か浮かない顔をしていた。
「〈ビフロンス〉の事は少し心配なの。この子とは長い付き合いだから」
「確か……降霊術に使うって書いてましたね」
「そう。火をつけるとその炎の揺らめきの向こうに、亡き人の在りし日の姿が見える。これはそういうものなの。その力は確かよ」
「だけど、あまり使われた記録がありませんね」
「そうね。死者との交流をしたいならば、ホイッスルの〈ブネ〉の方が相応しい。というのもこの代物はね、ちょっと厄介な所があるの」
霊はそう言うと〈ビフロンス〉を鍵付きの戸棚へとしまいこんだ。戸棚に鍵をかけ、溜息を吐くと、彼女は続けて言った。
「この子はね、ローザ国から流れてきたの。そこから流れ着いたという私の母方の祖父が持っていたものらしいの」
「ローザ国から……つまり、霊さんの私物だったんですね」
「そう。小さい頃からずっと、家にあった。死者と交流できるものとしてね。だけど、祖母から諭されたの。これは、お祖父ちゃんの故郷で、とても恐ろしい騒動を巻き起こしたライターだから、安易に使ってはいけないよ、とね」
そして、霊は教えてくれた。
幼い頃に祖母から聞かされたというその話を。
それは今より七十年ほど前の事だという。
ローザ国のある町で、人々から尊敬されていた人物が亡くなった。その頃、ローザ国全域で不作が続き、人々が飢えに苦しんでいた。
その人物は町の人達の暮らしを何とかしようと奔走していたが、その志半ばで病死してしまったのだ。人々は悲しみに暮れ、その死を悼んだ。
しかし、それから数年程、人々の生活がさらに困窮へと陥った頃に、このエーデルワイス国産のオイルライターを持った怪しげな人物がやってきたという。
彼はそのオイルライターの炎を用い、人々に言った。
「亡き英雄は悲しんでいる。ご覧、この炎の揺らめきを」
そして、オイルライターに炎を灯した。人々は驚いた。そのオイルライターの炎の揺らめきの向こうに、懐かしき彼の姿が見えたのだ。
見えたのは彼が命を落とすまでの出来事だった。そこは当時の領主たちとの会合の場だった。民衆の暮らしを訴える彼を領主たちはもてなし、杯を交わした。そして、その帰りに彼の容態は急変したのだ。
持病があった。悲しい事に。
それが当初の発表だった。しかしこのオイルライターを持ってきた男は言ったのだ。
「この杯には毒があった。彼は殺され、口を封じられたのだ。そして、今も悲しんでいる」
その瞬間、人々の心は怒りに取り憑かれた。尊敬していた自分たちの代表が、そのような目に遭ったことが許せなかったのだ。その心を指揮するようにオイルライターの持ち主は民衆を率い、そして人々の無念を果たしたのだった。
人々の暮らしはマシになり、オイルライターの持ち主を中心に新たな生活が始まった。だが、いつからだろう。男に疑問を抱いたり、従わなかったりする者が姿を消し始めたのだ。中には遺体で見つかる者もいた。その度に男はオイルライターを用い、死んだ仲間の想いを残った人々に伝えた。
人々は無垢だった。それに、彼を尊敬していた。
苦しい生活から助けてくれた彼を疑いたくなかったのだ。
けれど、時が経つにつれ、ほころびは広がっていく。男を危険視し、止めなくてはならないと考え始める者たちが増えていき、オイルライターに目を付けたのだ。
そしてある日、人々は男からオイルライターを奪う事に成功した。
「計画はとてもシンプルだったそうよ」
霊は言った。
「とにかくオイルライターを奪い、出来るだけ遠くの場所へ。処分も考えたそうだけれど、ただのライターじゃない事を思うとむしろ壊さずに遠くへ持ち脱げした方がいいということになったそう。そして、オイルライターは人の手から人の手へと渡っていき、やがては祖父と共に海を越えてこの国へ来たってわけ」
そこまで語ると、霊は気怠そうに腕を組んだ。
「言っておくけれど、この話に歴史的裏付けがあるわけじゃないわ。時代も出来事も曖昧だし、ローザ国の実際の歴史と比較して、これじゃないかっていう出来事はあるにはあるけれど、確証はない。ただ、私の祖父が祖母に語った話ってだけ。ともかく、悪用された過去があるから気を付けろということみたいなの。だけど、それにしては具体的な話でしょう。だから、ちょっと心配ではあるの」
「なるほど……」
それでも、霊は釧の友人に力を貸す事を選んだ。そちらを選んだからには、〈ビフロンス〉の力と上手く向き合うしかない。その責任を霊は一人で背負おうとしてはいないか。ふと私は心配になった。
「霊さん、あの──」
と、頼りになるかどうかはともかく一声かけようと思ったその時、振り返ってきた霊の眼差しの色に、息を飲んでしまった。真っ赤な目がそこにあったのだ。
「夕飯もとらずに長話なんてするもんじゃないわね。……おいで」
そっと手を伸ばされると、後はもう何も考えられなかった。