後編
廃旅館ということで、ある種の覚悟はしていたのだが、いざ来てみればそれはそれは帰りたくなるような空気が流れていた。
常識では考えられない出来事になんて今更怯えるような立場ではないのだけれど、そうはいっても正体の掴めない敵意のある相手が潜んでいるかもしれないとなれば怖くないはずがない。
それにやっぱり、テレビなんかで心霊特集とかを見ていて思うのだが、本当かどうかはともかくとして怖いものは怖いのだ。当たり前だろう。そんな場所に、吸血鬼と魔女とはいえ女二人で乗り込まなくてはならないなんて。せめてあと三人くらいは仲間が欲しい。そう思ってしまうほど、オーラが違った。
「本当にここに八雲さんが……?」
「いなくなってからしばらく経つと考えて……死んでないといいわね」
発見できたのは八雲の悲劇的な姿だったとならないことを祈るばかりだ。ちなみに、八雲がここから逃げられなくなっていることを突き止めたのは、子供の頃から曼殊沙華に仕える翅人の一人らしい。地道な聞き込みを重ねていった結果として、この廃墟のとある部屋で怯えながら引きこもっている彼を見つけたのだという。すぐに声をかけ、なんとか連れ出そうとしたのだが、それを邪魔したのがこの廃墟の周辺をうろついているという自称「猟犬の後継ぎ」だった。
結局、その翅人も命からがら逃げる羽目となり、八雲は再び部屋に一人残されたままとなった。それが数日前の事らしいのだが、果たして八雲はまだ無事なのだろうか。
「ともかく行ってみましょう」
八雲が閉じこもっているという部屋は、入り口から近い場所にあると聞いている。ロビーがあって、フロントがあって、その裏側にある事務室のさらに奥──倉庫らしき小部屋に閉じこもっているらしい。説明に従って入ってみれば、昼間であっても中は真っ暗だった。懐中電灯も一応は持ってきているが、ここは魔女らしく。
「……ルミネセンス」
小さく唱えると、蛍のような光が埃の間をふわりと浮かんだ。その微かな光を頼りに確かめてみれば、すぐにフロントは見つかった。あの奥に、八雲はいるのだろうか。そう思って近づこうとしたその時、不意に霊が足を止めた。
「どうしました?」
嫌な予感しかしない中、そっと訊ねると、霊は険しい表情のまま私に囁いてきた。
「幽。あなたはそのまま八雲のもとへ。扉が封じられていても、あなたの魔法でどうにかなるかもしれない」
「れ、れれれ霊さんは……?」
こんな場所で一人にしないでと言いたい気持ちをぐっと抑えて訊ねると、霊は少しだけ余裕のある笑みを取り戻しつつ私に言った。
「大丈夫。すぐに迎えに行くわ。……ただ、今は自称後継ぎさんをどうにかしないと」
その言葉に、私はハッとした。神経を研ぎ澄ませると、少しだけ状況が理解できたような気がした。誰かいるのだ。心霊的な話ではなく、本当に誰かが潜んでいる。そんな気配が確かに私にも分かった。何らかの理由で廃墟に好んで滞在する変わった人などでないならば、その正体について思い当たるのは一人しかいない。
「……分かりました。どうかご無事で」
素直にそう言うと、霊は軽く頷き、無言でフロントを指さした。その指示に従って先へと向かったその時、霊は全く違う方向へと歩みながらあえて大声で語り掛けたのだった。
「猟犬の後継ぎさんっていうのはあなた? どうかお顔を見せてちょうだいな。マテリアルの亡骸をお求めなのではなくて?」
声が遠ざかっていく中、私は後ろ髪を引かれるような思いを抱いた。
──霊さん。
〈ヴィネア〉を信じるならば、きっと大丈夫。そう思いたいのだが、怖くて仕方がなかった。それでも、今は身を投じるしかない。フロントを抜け、事務室へと入り、すぐに聞いていた倉庫か何かの小部屋を見つけ、私はその扉へと駆け寄った。
「八雲さん……八雲さん、いるんですか? 私です、幽です!」
あまり大声を出さないように、それでも、中に聞こえるように、必死になって呼びかけていると、中からは反応があった。
「幽……さ……ん? 幽さん?」
八雲だ。間違いない。ちゃんと返事は来たが、声の様子は弱い。
「待ってください。今開けます」
鍵がかかっているのは間違いない。そう告げて解錠の術を使って開けてみたのだが、扉は開かなかった。どうやらこちらの侵入を拒むべく棚で塞がれているらしい。ここに逃げ込んだ時に八雲自身が塞いだのだろう。しかし、今の彼にはこれを退かすだけの力が残されていないようだ。
「……ど、どうしよう」
「ごめんなさい……幽さん……せっかく来てもらったのに……どうやら僕はもう──」
「ま、待って。まだ諦めないで……」
こういう時の為の魔法だ。幸い、棚はいずれも木製。壊せないなんてことはない。〈赤い花〉の魔女として練習を積んできた虫の魔術が活かせる機会だ。とっさに出てきたのは、蟷螂の魔術だった。とにかく目の前の棚を壊さなくては。そんな思いが先行し、正式な魔術名すら浮かばない状態で、私は手を払った。すると、蟷螂の鎌は確かに呼び出された。途端に棚が崩壊する。代わりにけたたましい音が木霊した。
まずいかもしれない。とっさにそう思ったが、道は出来た。すぐに八雲のもとへと駆け寄って、彼に呼びかけた。
「八雲さん、八雲さん!」
思っていた以上に朦朧としていたが、とりあえず意識はある。背中のリュックから真っ先に取り出したのは、水と、そして霊から預かっていたマテリアル用のサプリだった。どうにかそれらを飲ませた直後、私はふと物音に気付いた。
戦っている。恐らく、霊と猟犬の後継ぎとやらだ。霊がやられるとは思いたくないが、やはりまずいことになっていた。音が段々とこちらに近づいてきているのだ。
「どうか……逃げてください」
八雲が弱々しいそう言った。そんな彼に対し反論しようとしたその時だった。ふわりと奇妙な香りが漂い始めた。かと思うと、この狭い倉庫のなかに別の人物が急に現れた。場所が場所だけに心臓が止まりそうになる。しかし、よくよくその姿を目にしてみれば、別の危機感が生まれた。
「あ、あなたは……」
声をかけなり、彼女は私の傍に近寄ってきた。
「そこまでですよ、幽様」
名前は確か、黒日陰。翅人の女性で、私の父である天の隷属。前に現れたのがいつだったか。そして、どんな目的だったか、忘れるはずもない。私はとっさに八雲にしがみついた。けれど、逃げ場はない。黒日陰はすぐそばまで近づいてきた。
「さあ、おいでなさい。今すぐここを逃げるのです。でないと、あなたまで巻き込まれてしまう」
その手を握ればどうなるか。私は知っている。翅人の中には誘拐に特化した魔術を使える者がいるのだ。彼女もそうなのだろう。だから、握り返すわけにはいかない。けれど、そこでふと、私は思い立ったのだ。
「黒日陰さん……あなたの力で、私と八雲、両方を連れていくことって出来ますか?」
すると、黒日陰は手を引っ込めた。じっとこちらを見つめ、軽く首を振る。その気はないのだろう。
「あたしの力では不可能です。それに、あたしが連れていきたいのはあなただけ。さあ、早くこの手を。でないと、彼らが──」
と、その時だった。物々しい気配が近づいてきたのだ。猟犬の後継ぎだろうか。恐怖を覚えたのも束の間、フロントからこちらを覗いてきたのは、霊だった。
「霊さん!」
助かった。そう思ったのも束の間、妙なことに気づいた。現れたのは霊だ。それは間違いない。けれど、何かが違う。目つきか、顔つきか、感じる雰囲気か。今の彼女からは、違う気配が漂っていた。
「嫌なタイミングで来たのね、黒日陰」
声もまた霊で間違いない。しかし、余裕がなさそうだった。
「勝手は許さないわ。だけど……」
と、霊は振り返る。その先にはどうやら別の誰かもいるらしい。
「だけど、こっちを先に片付けないとね」
息を荒くして呟く彼女に、黒日陰がやや冷めた声をかけた。
「戦いを終えた後、あなたはきっと意識を乗っ取られるでしょう。無茶をしましたね、霊。いえ、これからは夜蝶様と御呼びすべきでしょうか」
煽るようなその声に、私は寒気を覚えてしまった。夜蝶に頼ったのだ。それだけ追い詰められたのだろうか。不安を覚える私を、霊は少しだけ振り返った。
「大丈夫よ……幽……そうはならないから」
だが、その声は焦っているようにも思えた。直後、霊は敵のもとへと飛び掛かっていった。私は慌てて追いかけた。黒日陰の手も掻い潜り、事務室の外へ。そして、ロビーで戦う霊と、狼の姿を目にした。
──助けなきゃ。
とっさの思いで私は手を向けた。術なんてどうでもよかった。とにかく、狼の足止めをしたかったのだ。現れたのは、糸だ。蜘蛛の糸が狼の足に絡みつく。切断は勿論、金爆だって出来ない。けれど、足止めにはなったらしい。そこへ、霊は迫っていく。人の姿に戻って糸から逃れようとする彼の首筋に、霊は勢いよく噛みついた。
──夜蝶様と御呼びすべきでしょうか。
黒日陰の言葉が蘇る。まさしく、今の彼女は霊ではなかった。その雰囲気も、その力も。抵抗空しく、人狼が力を失う。そして、その体は泥のように崩れていく。勝敗が決した。あまりにあっけなく。けれど、霊は立ち上がらなかった。
「霊さん!」
近づこうとした私の手を、黒日陰が掴んだ。
「いけません。近づかないで」
しかし、その声に、霊──いや、恐らく夜蝶が反応を示した。
「手を放せ」
黒日陰を威嚇するその声は、霊の声だ。けれど、喋ったのは霊ではないのだろう。すっと立ち上がると、彼女はこちらへ近づいてきた。黒日陰が途端に怯えを示す。屍蝋はさすがに怖いのだろう。その少しの怯えを悟ると、彼女は走り出した。私の体を抱きしめ、そして黒日陰を睨む。黒日陰は戦わなかった。私からすんあり手を放すと、そのまま逃れていく。そして、私の背後でその気配がふっと消えるのを感じた。逃げたのだ。だが、安堵も束の間、別の恐怖におののいた。
「霊……さん?」
その名を呼ぶと、彼女は私の耳元で荒々しく囁いてきた。
「さて、一口くらい飲ませてほしいものだが……ケチなものだね、お前のご主人様は」
夜蝶だ。けれど、彼女もまた余裕がなかった。程なくして、その気配が再び変わる。
苦しそうに呻いたかと思うと、途端に力を失い、私の体にもたれかかってきた。かと思うと、不意に力を取り戻し、私の背中に腕を回してきた。
「……幽」
霊だ。間違いなく彼女だ。
ちゃんと戻ってきてくれた。
こうして、とんでもない仕事が無事に片付き、八雲もきちんと保護されてから一夜明けて、私たちはようやく一息つく機会を得た。
〈ヴィネア〉の結果に従ってみて、大変な目に遭ったものだ。けれど、〈ヴィネア〉は決して嘘をついていない。八雲はちゃんと助かった。あと少し遅れていたら、こうはならなかっただろう。私も攫われたりせず、霊も乗っ取られたりしなかった。
「もっとスマートな道があったようにも思うのだけれどね」
と、霊は気怠そうにそう言いながら、ベッドの上で私の血を嗜んでいた。
「でも、結果が全てよ。それは間違いない。それに、八雲が死ななかったお陰で、曼殊沙華も相当助かっているみたい」
「やっぱり、〈鬼消〉の仕業なんですか?」
「そのようね。だけど、何でも屋もいなくなった今、同じようなことはしばらく起きないでしょう。私たちは今まで以上に睨まれてしまったかもしれないけれどね」
皮肉っぽく語る彼女に、私もまた一抹の不安を覚えた。けれど、その不安をかき消すように霊は血の口づけを交わしてきた。たとえ、その不安が的中しようと。今回の選択を私は後悔していない。だって、他ならぬ霊が、八雲の無事を心から喜んでいるのだもの。
それに、今の私には自信もあった。〈ヴィネア〉の占いによるものだ。
もうじき、八雲に返すことになるそれ。その前に、私は〈ヴィネア〉と再び遊ぶことになった。占ったのは、私たちの未来だ。私たちの未来は、明るいものか、それとも暗いものなのか。少し訊ねるのが怖い気もしたが、コイントスに委ねたのだ。
表は明るい。裏は暗い。そうして導き出された結果は、表だった。
〈ヴィネア〉は万能ではない。そんな事は分かっている。外れる事だってあるのだろうし、もしかしたら、私の願望が反映されているのかもしれない。
それでも、私の気持ちは前向きだった。〈ヴィネア〉に力を貰ったおかげで。