中編
未来を占う。その言葉について何度も考えながら、私は〈ヴィネア〉を見つめていた。
一人きりの部屋。珍しく今宵は、霊とは別々に過ごすことになった。そう言う日だって勿論ある。どんなに愛し合っていたって、毎日ずっと一緒というわけにはいかない。大抵の場合、その理由となるのは、どちらかの毎月のお客様の都合であったが、今日は違う。霊の気分によるものだった。
食欲もあまりないらしい。元気がなかった。夕食の時も結局はあまり話し合いも出来なかった。何も言わないし、言うつもりもなさそうだった。今はそっとしておくのがいいのだろう。そう思いつつも、私は何度も〈ヴィネア〉を見つめていた。
霊は明らかに、不満を抱えている。それでも、私がそこを突こうとすると、黙らせてきた。魔女の性や主従の魔術によって主導権を握られるのは我ながら憐れなものだと思う。お陰で、こういう時にすら対等になれないのだから。
どうせならば、従者になりきれたらどんなに良かっただろう。主人である霊の決定に対して、何一つ疑問を抱かないような隷属になれたら。けれど、残念ながら私はそうではない。肝心なところでまともな心が残っている。だからこそ、ここまでモヤモヤしているのだろう。そして、託された〈ヴィネア〉を使っての手遊びが止まないのもそのせいだ。
──遊んであげて。
霊の言葉を思い出し、私はふと起き上がった。使い方は簡単。コイントスをするだけ。たったそれだけで、占いは完了する。結果は表か裏だ。その二択で分かるような質問でなければならない。今、私の頭に浮かぶ質問は、幸いにも二択の答えで分かるようなものだった。〈ヴィネア〉をいじり、その絵柄を眺めながら、私はそっと呟いた。
「ねえ……あなたはどう思う?」
言葉による返答は勿論ない。それでも構わなかった。
「私は分からない。分からないけれど、ただじっとしていることがもどかしいんだ。頭に浮かんでいるのは二つの道で、どっちを選べばいいのかが分からなくて一歩も踏み出せない。ねえ、〈ヴィネア〉……あなたなら、これらの道の先がどうなっているか、少しは分かるのかな?」
答えはない。けれど、〈ヴィネア〉の絵柄に、私は妙に引き寄せられた。「答えが知りたくば、コイントスをせよ」と、そう言われているかのようだった。霊は「遊んであげて」と言った。ならば、これもまた遊びの一環だろう。
「このままおとなしく出しゃばらずにじっとすべきなのか、霊さんとちゃんと話し合ってみるべきなのか……どちらがより私の納得する道となるのか……どうか教えて」
表がじっとすべき。裏が話し合うべき。そう頭に浮かべながら、私はコイントスをした。綺麗にキャッチをして手を閉じ、そっと開く。現れたのはコインの裏面だ。
──やっぱり。
その結果には一つの納得感があった。
──そうすべきだと思ったんだ。
もしかしたらこれは、〈ヴィネア〉の未来予知というよりも、私の願望が反映されているのかもしれない。そんな事がふと頭を過ぎったのだが、それでもいいと私は立ち上がった。いわば、背中を押してもらったようなものだ。
「分かった。行ってみる」
私は〈ヴィネア〉にそう言って、部屋を出たのだった。ノックする先は隣にある霊の部屋だ。だが、中から返答はなかった。どうやらいないらしい。ならば、一階だろうか。そう思いながら降りていくと、食卓に明かりがともっていた。そっと覗いてみれば、霊は一人でそこにいた。手元には葡萄酒があった。
「眠れないんですか?」
そっと声をかけると、霊はようやく気付いたようにこちらを振り返った。その目は少しだけ赤い。血が足りなかったのかもしれない。
「まあ……ちょっとね」
歯切れの悪い返事だったが、私は構わず正面に座った。霊は目を合わせない。赤い目を見られたくないのかもしれない。ただ、俯き気味に彼女は笑って見せた。
「あなたはどうなの。物足りなかった?」
からかうように言われ、私もまた苦笑を漏らした。
「そうかもしれません」
軽く流してから机に手を置いた。拳を広げ、彼女に見せたのは〈ヴィネア〉だ。
「言われた通り、ちょっと遊んであげたんです」
「……何を占ったの?」
「私の中のモヤモヤしたことについてです。二つの選択で悩んでいました。一つはこのまま何もしないという選択。そしてもう一つは……霊さんとちゃんと話をするという選択」
じっと見つめるも、霊は目を逸らしたまま葡萄酒を軽く口に含んだ。話したくないのだ。けれど、逃げたりしなかった。追い払おうと命令もしてこなかった。
「で、どうだったの?」
「話し合う道を〈ヴィネア〉は選んでくれました」
そう答えると、霊はふうと大きく溜息を吐いて、ようやくグラスを置いた。目は赤いままだ。葡萄酒なんかでは、私の血の代わりにならないのだろう。
「話って?」
霊の短い問いに、私は透かさず答えた。
「八雲さんの事です。本当は霊さんも何かしたいんじゃないんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「見れば分かります。待機を命じられて不満なんでしょう?」
「だとしても、従わないと。都合のいいマテリアルを曼珠沙華の御方々はお求めなの。勝手に動いて、足を引っ張るような事があれば──」
「それなら、占ってみましょうよ」
と、私は〈ヴィネア〉を差し出した。
「〈ヴィネア〉なら分かるのでしょう。大雑把かもしれないし、絶対的な結果じゃないかもしれないけれど」
「……やってみて」
霊に言われ、私は静かに従った。〈ヴィネア〉を親指に乗せて、深呼吸をする。
「表なら助けた方がいい。裏なら助けない方がいい」
そう告げると、霊は気怠そうな表情で軽く頷いた。その目を見ながら、私はコイントスをした。〈ヴィネア〉はくるくると回りながら宙を舞い、そして私の掌にぴたりと落ちる。その絵柄は、表だった。
霊は静かにその様子を見つめ、葡萄酒を飲む。そして、しばしの沈黙の後で静かに言った。
「願望かもしれないわ。そうしたいという思いが反映されたのかも」
「そうかもしれませんね。だけど、それってつまり、助けたいのでしょう?」
「……そうね」
観念したように霊は頷く。
「そうかもね」
そして、霊は空っぽになったグラスをシンクへ下げると、息をついてから私を振り返ってきた。その目はまだ赤い。そのまま、彼女は微笑みを浮かべた。
「分かった。〈ヴィネア〉の結果がそうならば、私も素直になりましょう。腹を割って曼珠沙華にちゃんと相談してみるわ。……でも、その前に、お夜食をいただいてもいいかしら」
突然、食欲を向けられ、私の心臓がときめいた。勿論、拒絶する理由がない。静かに立ち上がり、若干の後ろめたさもありつつ俯く私に、霊はますます微笑みを深めた。逆らうはずがないと分かっていたのだろう。疑いもなく手招いてくる。それに抗う術すら、私にはなかった。黙って応じると、すぐに捕まり、そのまま食卓に追いやられた。無言のまま必死に耐えていると、待望の痛みが首筋にもたらされた。霊にしがみつきながら、私は黙って目を瞑った。
これで少しは霊の心も落ち着くだろうか。私の血が、少しでも彼女の役に立てれば幸いだ。その願いが通じたのだろうか。しばらく吸血が続いたかと思うと、霊はそっと口を放した。瞼を開けてみれば、霊の目はすっかりいつもの乙女椿人らしい色合いに戻っていた。
「ありがとう。お陰で落ち着いたわ」
「……良かったです」
幸福と、貧血と、眠気の入り混じった声でそう答えると、霊は微笑みながら唇を重ねてきた。血の味の滲むその口づけに、私もまた気持ちが落ち着いていくのを感じた。
さて、一夜明けて、霊はさっそく笠および曼珠沙華の本家を相手に腹を割って話し合う事になった。〈ヴィネア〉は助けた方がいいと言っていたが、果たしてどうだろう。電話が終わるのをドキドキしながら待っていると、しばらくして霊は倦怠感を含ませた溜息と共にやってきた。
「どうでした?」
恐る恐る訊ねると、霊は微笑みを浮かべた。
「今日の午後、笠が来ることになった。八雲の件で伝えたい事もあるのですって」
そして、約束通り、笠は通り雨と一緒に店へとやってきた。狸姿で蘭花のテーブルにつくなり前振りもなく切り出したのは、霊や私がずっと気にしていた曼珠沙華のご意向に関してのことだった。
「雷様はだいぶお悩みなすったそうだ。だが、マテリアルのことはマテリアルに。そういう意見もあったようでね。そこであんたが気にしているってなったら、渡りに船といったところだ」
「つまり、待機しろというご命令は解除ということでよろしいのかしら」
皮肉っぽく霊が問うと、笠は苦笑気味に頷いた。
「よかったな、霊。これで自由の身だ。誰かを鎖に繋ぐならともかく、誰かに鎖で繋がれるのはあんたの趣味じゃなかっただろうからね」
「で、八雲の事って?」
急かすような霊の問いに、笠は溜息を吐きながら小さな狸の手で腕を組んでみせた。
「曼殊沙華子飼いの密偵の一人が八雲の足取りを掴んだそうだ。居場所も分かっている」
「……優秀ね。どこにいたの?」
「隣町との境にある裏山だ。十数年前に廃業になって、そのまま放置された旅館の跡地があるだろう。どうやらその中らしいね」
「──近いわね。曼殊沙華から誰か助けに向かったの?」
「いや、それがね。妙な人物が近くをうろついているそうだ」
「妙な人物?」
「人狼の男だよ」
笠はそう言うとお茶を飲み、ふうと息を吐いた。そして円らな瞳を霊へと向けた。
「念のため、言っとくが、どうも無花果さんとこの口犬さんたちとは関係ない男のようだ。何処からか流れてきた一匹狼のようでね、人狼にはよくいる何でも屋のようだ。一応、ご本人は『猟犬の後継ぎ』を名乗っているようなのだが」
猟犬の後継ぎ。その言葉に、私もまたピリピリしたものを感じた。忘れもしない、猟犬。世界的な密猟者で、かつて私たちの前にも立ちはだかった。メタ君を巡っての事だ。その時は霊の中にいる夜蝶の力を借りてこの世から消してしまったのだけれども。
「その自称後継ぎさんが、八雲に何の用?」
「さあね、だが、あんたも分かっているだろう。弱ったマテリアルはハンターにとっていい獲物だ。マテリアルという種族の名の由来通り、遺体はさまざまな用途で取引されることになるからね」
「……八雲も、狙われているということかしら」
「そういうことだね。ともあれ、ただの人捜しとはいかない空気だ。鬼神さんたちは誰も彼も及び腰でね。マテリアルを捜せるのはマテリアルなのでは、という言葉が出たのもそのためのようだ」
「厄介事っていうわけね」
霊は呆れたようにそう言ったが、表情は決して暗いものではなかった。
「でもいいわ。誰も彼もが手が空いていないのなら、私が行きましょう。自称後継ぎさんがどのくらいの実力の持ち主なのかは分からないけれど」
「……油断はしないようにね。相手は腐っても人狼だ」
笠の言葉に、霊は微笑みを浮かべる。そして小さく呟くように言ったのだった。
「〈ヴィネア〉のお墨付きだから、きっと大丈夫よ」
こうして、私たちはその廃墟へと向かう事になったのだった。