前編
スポーツは得意な方ではない。けれど、数年に一度の世界的なスポーツの祭典と言えば、やはり注目してしまうものだ。国の威信をかけたセレモニーなんかはやっぱり面白いせいもあるだろうけれど、普段そんなに興味がないというのに乙女椿の名を背負って戦うところを見ていると、不思議と応援したくなってしまうのだ。
要するにミーハーってやつだ。そんなミーハーの私にとって、この度の代物は興味を持たずにはいられなかった。
「記念コイン、ですか」
「ええ。今から二十年くらい前のものね」
そのスポーツの祭典が我が国──乙女椿で開催された時のものらしい。後ろには、乙女椿と言えば誰もが知っている名山。裏はスポーツの祭典の象徴的な輪のマーク。貴重なものだと思うのだが、だいぶ汚れていた。
それに、ただの記念品ではないことを、私は知っていた。というのも、このコインはもともと店で保管していたものだったからだ。名前もついていて、帳簿でも確かに記述があった。その名は〈ヴィネア〉というらしい。備考に記されているその力は、未来を占うという説明だった。ランクはDで、決して危険なものではない。
実際、このコインは店主である霊の手を離れ、別の人物のもとに託されていたのだ。その相手は、八雲。霊と同じマテリアルである。
しかし、今日、このコインを店に持ってきたのは八雲ではなく、笠だった。
「使い方は非常にシンプル。こうやってコイントスをするだけだ」
笠はそう言いながら、狸の手で器用に〈ヴィネア〉でコイントスをして見せた。蘭花のテーブルに落ちたところを小さな両手で抑え、すぐに確認する。コインは裏だった。
「何を占ったの?」
霊に問われ、笠は大きく溜息を吐いた。
「八雲が自分で戻ってくるかどうかってね」
軽い口調だったが、表情はかなり渋い。
それは、数日前の事だ。曼珠沙華の人々が八雲と連絡が取れない事に気づいた。すぐに笠たちが彼の家を訪問するも不在。友人や家族など、親しい間柄の者たちを訪ねまわった末に、少々不穏な足取りが分かったという。家の中にはメモも残されており、そこには日付と場所が記されていた。誰かと約束していたのだろう。その人物がはっきりと分かるまでにも少し時間を要し、ようやく全ての足取りが分かったのはいなくなってから二日ほどたった頃だった。
八雲はどうやらこの町にひっそりと暮らすマテリアル同士の会合に出席していたらしい。曼珠沙華との繋がりとも少し違うその会合は、飽く迄も親睦を深めるためだけのものである。しかし、マテリアルという存在自体を厭う者にとってはあまりよく思われないのだろう。特に、生粋の魔を嫌う者たちとなれば尚更だ。たとえば、〈鬼消〉のような。
「なるほど、マークされていたってことかしら」
霊の言葉に、笠は軽く頷く。
「そうだろうね。この店もそうだが、八雲は立場上、危険な目に遭いやすい。しかしまあ、腐ってもマテリアルだから、と、さほど心配はしていなかったんだがね」
そう言いながら笠は〈ヴィネア〉を見つめた。
〈ヴィネア〉が見つかった場所は、マテリアルの会合があったホテルの一角だったらしい。植え込みの中で不自然に光るそれには、血がついていた。すでに拭き取られてしまったが、それが八雲のものであるのかどうかはまだ分からない。分からないが、鼻の利く魔族であれば、その血が何の種族のものなのかくらいは分かる。そういった人物が曼珠沙華の関係者にもいるのだが、彼曰く、その血はマテリアルのもので間違いないのだと。
ならばやはり八雲なのだろう。では、彼はどこに。
「嫌なことを聞いてしまったわね、笠」
蘭花のテーブルに置かれたコインを見つめ、霊は言った。
「〈ヴィネア〉曰く、八雲は帰ってこないのですって?」
「いいや、俺が聞いたのは、自分で戻ってくるかどうかだ。まだ生きていて、助けを待っているかもしれない」
だが、さすがの笠も占ったのはそこまでだった。生きているかどうかを聞くのは怖かったのだろう。それ以上は〈ヴィネア〉に触れず、じっと霊を見つめた。
「そうだ。確認しておかないと。八雲が出席したというそのマテリアルの会合とやら、あんたは行っていたのか?」
「いいえ。もう長い事、顔を出してないわ。お互い長く生きていると、気まずくなってしまう人も現れだすのよ。それに、今の私は美味しそうな香りが身に沁みついているもの。嫉妬されたらたまったもんじゃない」
「ふうん、そっちの事情は分かんねえが、残念だな。あんたが出席していたら、もうちょっとは手掛かりが掴めたかもしれないのだが」
「お役に立てず悪かったわね。けど、悲観するほどじゃないでしょう。もっとも怪しい相手は分かっているのでしょうし」
霊の鋭い言葉に、笠は苦笑する。
「ああ、それでね、すでに動きもある。どうやら、近いうちにまた探りを入れるようだ。その為の情報集めが行われているところだ」
「……で、私はどうしたらいいの?」
霊が問うと、笠は狸の顔に笑みを浮かべてから、はっきりと告げた。
「事が片付くまで、この店から出ないでほしい」
お願いというよりも、まるで命令のようなその言葉に、私はぎょっとしてしまった。
笠は補足するように続けた。
「どうやら今、マテリアルが睨まれている。あんたも他人事じゃない。それにこの店の古物たちもね。それで、雷様が懸念しているのだ。もしも、あんたが襲われ、この店を守る者がいなくなれば……あるいは、古物の権限ごと誰かの手に落ちるようなことがあればどうなるかとね」
「まあ……大変なことになるでしょうね。少なくとも、曼珠沙華のお家にとっては」
「そういう事だ。八雲がどうなっているか、無事なのか、無事じゃないのか。無事だとしたら助けられるのか、助けられないのか、その他諸々の判断を曼珠沙華の御方々がしているところだ。あんたはこの店で古物に囲まれながら、恋人と一緒におとなしくしているように、とのことだ」
笠の言葉を、霊は静かに聞いていた。けれど、その眼差しには不服も感じられる。それでも、異論などを述べる気にはならなかったのだろう。結局、霊は承諾したのだった。
笠が帰ってしまった後で、私はそれとなく彼女に話しかけたのだった。
「あの……霊さん。笠さんが言っていたことなんですが」
すると、透かさず霊は立ち上がり、受け取ったばかりの〈ヴィネア〉を手に取ると、私の掌にぽとりと落としたのだった。
「この子、あなたが預かっていて」
「えっ?」
「八雲が帰って来るまでの間、この子も寂しいでしょうから、あなたが相手をしてあげて」
「相手って……」
そう言われて、私はぼんやりと〈ヴィネア〉を見つめたのだった。その手のマニアならば、きっと欲しがるだろう貴重品……にも拘わらず、通常の硬貨のようにぞんざいに扱われていたのだろう。見れば見るほど薄汚れていた。
それでも、名前がついているせいだろうか。異様な雰囲気は感じ取れる。何より、今は清められているが、血がついた状態で発見されたというのが空恐ろしい。その血が八雲のものかどうかはともかく、マテリアルのもので間違いないとなれば、なおさらの事。
と、そこで私はハッと我に返り、霊を見つめた。
「あの、霊さん。今後はどうするつもりなんですか?」
「どうするって?」
「その……笠さんが言うように、この店に引きこもるのでしょうか」
霊は苦笑しながら気怠そうに伸びをした。
「そうしないと鬼神様がたのご機嫌を損ねそうね」
「霊さんは納得しているんですか?」
「そんなこと、どうして訊ねるの?」
「八雲さんの事がちょっと心配で……それに」
言いかけてふと、私は緊張を覚えた。こちらを見つめてくる霊の目が真っ赤だったせいだ。捕食する時の眼差しであるが、今はそうではないだろう。私の言動を快く思っていない。そういう目だった。
言葉が詰まった。我が主人が快く思っていない。その気づきが私の心を縛ろうとする。けれど、その一方で抗いたい気持ちも生まれた。魔女の性とも、主従の契りとも違う全く別の感情だった。
彼女の力になりたい。ともすればお節介かもしれないし、有難迷惑かもしれないその思いが、私の中で葛藤を生んでいたのだ。結局、最後に勝ったのはそのお節介かもしれない感情の方だった。
「それに……霊さんが大人しく従うようには私には思えなくて」
苦笑気味にそう言うと、霊は愛らしく微笑み、そして私の頬に触れてきた。
「よく分かっているじゃない。ええ、勿論、あなたと二人で引きこもるのも悪くはないと思うけれど、確かにそう、八雲のことはちょっとだけ心配よ。腐ってもマテリアルなんて言葉を笠が口走っていたけれど、私たちはそんなに強い存在じゃない。そりゃあ、並みの人間よりは圧倒的に上位でしょうし、駆け出しの魔女や若い魔物たちなんかにとっては驚異的存在でしょうけれどね。万能の神様なんかじゃないの」
「や、八雲さんは……その……」
まさか殺されてなんかはいないだろうか。どうしても思い出すのが、笠の投げた〈ヴィネア〉の結果だった。自分では戻ってこられない。自分では。
「〈ヴィネア〉ならばざっくりとした回答をくれるかもしれないわね」
霊はさらりとそう言った。
「けれどね、〈ヴィネア〉もまた万能ってわけじゃないの。占いの的中率が百パーセントじゃないように、外れることだってある。〈ヴィネア〉が得意なのは、もっとざっくりとした回答よ。良くなるか、悪くなるか。大雑把な子だからこそ、ランクも低くて八雲に持たせることが出来たの」
「それで、私に?」
「ええ、その子は新しい人を好む。あなたとなら、退屈しのぎになるでしょう。と言っても、本当に求めているのは八雲のはず。だから、彼が無事に帰ってきたら、返してあげましょう。それまであなたが遊んであげて」
「は……はい」
押される形で私は〈ヴィネア〉を握り締めた。すると、霊は納得したように微笑むと、頬に添えた手をそっと動かして私の首筋をなぞっていった。
「話の続きは夕飯の時に。日が落ちるまで、あともう少し、辛抱してね」
傷跡に触れられ、肌が、そして心臓がときめいてしまう。欲望を見事に掻き立てられた今、それ以上に冷静で居続ける事なんて私には出来なかった。