中編
三日後。予定通りに笠と洒落頭は地下室へと通された。私たち以外の者たちが地下室にいること自体、少し新鮮だ。何もやましい事はないはずなのに、そわそわしてしまうのは何故か。それはきっと用途が変わってしまった拷問道具が隠されることなく置いてあるからだろう。しかし、恥じらいを覚えているのは私だけで、他の三名はけろりとしていた。
「幽、お茶をお願い」
そっと霊に囁かれ、台所で茶を用意して再び戻ってくると、さっそく準備が進められていた。これより行われるのは呪術だ。その主役たる〈シャズ〉は、机の上にぽつんと置かれていた。決して年代物ではない携帯ラジオ。年季が入っていない分、見た目に不気味さはない。けれど、〈シャズ〉がどうしてランクAもあり得たなどと言われたのか、その理由を聞かされた事もあり、複雑な思いを抱いてしまった。
「さて、拵えるとするかね」
洒落頭がそう言いながら手に取ったのは、私と霊が用意しておいたハサミだった。近くには折り紙もある。一枚手に取ると、手慣れた様子でチョキチョキと切っていき、作り上げたのは人型だった。何体か用意すると、同じく用意しておいた赤ペンを手に取って、一つ一つ名前を書いていった。
何をしているのかはもう分かる。三日前に、霊に教えてもらったからだ。
人を呪う。それには正当な手順がいる。念じるだけでは意味がなく、狙いを正確に定めるための下準備がいるわけだ。その為に使用されるのが人型であり、相手の名前である。そしてもう一つ。その人物の毛や爪など体の一部が必要らしい。いずれも、笠と洒落頭は用意して来ていた。曼殊沙華の関係者の誰かが持ってきたのだろう。それらを人型の上に置くと、いよいよ準備は整った。
「始める前に、これより〈シャズ〉の声を聞く者全員と情報を共有せねばならん。人間以外であってもね。というわけで、しばし耳を貸しておくれ」
洒落頭は言った。
「これより呪われる憐れな三名の生贄……彼らはいずれも人間を中心としたある組織の頭と側近である。決して反社会的な組織などではないのだが、煩わしいことに人間でありながら魔の世界について精通しており、残念ながらあまり穏健な方々ではないらしい」
自虐的に洒落頭はそう言って、一人笑った。
「知っていること自体はいい。ワシのようになればいいだけじゃからな。雷様もそう無慈悲ではない。じゃが、彼らは若かった。かつて魔物と恐れられた特定の者たちに、人間たちの社会が牛耳られている事を快く思っていないようじゃ。それもあり、魔の力を持たない人間のための活動をしておったのだが、特に最近、曼殊沙華にとっては都合の悪い動きばかりをするようになり、曼殊沙華と対立するある組織の頭との会談があったらしい。残念ながら、彼らと我らが曼殊沙華は心を一つに出来なかった。ゆえに、雷様はワシに頼る事となったようじゃ」
洒落頭に頼る。その言葉に、私は再び苦いものを感じた。理由は〈シャズ〉の力にある。
人を呪わば穴二つ。その言葉は脅しでも何でもない。少なくとも〈シャズ〉の力はこの諺が当てはまるようだ。人を呪った代償として、相手に起こる不調や不幸の一部が跳ね返ってくるという。
同席している者には何の害もない。だが、〈シャズ〉を使って呪いを実行した者には、必ず悪いことが起こる。それもまた人間にしか使えないこの恐ろしい古物が、ランクAもあったと言われるまでに危険視されている理由だった。洒落頭はそれを分かっている。分かった上で、〈シャズ〉を使い続けている。もしかしたら、跳ね返った呪いで自分も死ぬかもしれないのに、人間の身で挑める危険な呪術で曼殊沙華をサポートしているのだという。
──だけど、こんな事、やらせていいのかな。
そう思わずにはいられなかった。けれど、私には止められない。止められないまま、洒落頭は続けて言った。人型を一つずつ手に取り、何かを唱える。そこに書かれている彼らの名前のようだ。そして、その全てを〈シャズ〉の前に並べ直してから、洒落頭は深呼吸をした。
「では、始めよう」
そう言って彼が触れたのはラジオのスイッチだった。地下だからだろう。電波はあまり入ってこない。ずっと聞いていると不安になる砂嵐のような雑音だけが聞こえてきた。
洒落頭は音量を調節すると、続いてチューニングを始めた。普通であればそのまま砂嵐の音しか聞こえないだろう。仮に入って来るとしても通常のラジオ番組だ。だが、〈シャズ〉は普通ではない。ある場所で奇妙な物音が入った。
洒落頭がすぐにダイヤルを回すと、音声はより鮮明になった。どこかのラジオ番組などではない。聞こえてきたのは小刻みにカスタネットを叩くようなカタカタという音と、低くしわがれた不気味な男の声だった。
『S……H……A……Z……』
恐らく、アルファベットを繰り返している。その後ろで、あのカタカタという謎の音は響き続けていた。明らかに、普通の音声ではない。その音声を冷静に聞きながら、洒落頭はさらにダイヤルを回した。繊細な手つきで回していると、チン、という音が聞こえた。トライアングルのような音だった。
「うん……整ったようだね」
洒落頭はそう言うと、ラジオの前に椅子を運び、その目の前に座った。
「久しぶりだね、〈シャズ〉や。力をまた貸しておくれ」
すると、カタカタという音が少し弱まり、ラジオにやや雑音が入り、音声に乱れが生じた。再び音声が整い、男の声が消えてしまった。代わりにカタカタという音だけが戻ってくると、洒落頭はにこりと笑った。
「ああ、ありがとうね。今回は三名じゃ。一人ずつ名前を呼ぶから、聞いておくれ」
そして、人型を手に取ると、一人ずつ名前を読み上げていった。〈シャズ〉の音声は変わらなかった。カタカタという音を繰り返し続けている。この音は何の音なのだろう。ずっと聞いていると不安になってくる。
「……以上の三名が、この度の標的じゃ。どうかね、力を貸してくれるかね」
洒落頭が穏やかな声で訊ねると、携帯ラジオの音声が再び乱れた。複数の雑音が入ったかと思えば、カタカタという音に加えて先程の男性の声が聞こえてきた。繰り返しているのは、先程とは違う言葉だった。よくよく聞いてみれば、それは、洒落頭が読み上げた三名の名前だった。
全員の名前が繰り返されたその時、激しい雑音がラジオから発せられた。耳を塞ぎたくなるような音量に、思わず顔が歪む。その雑音に負けじと、男の声とカタカタというあの音も、激しさを増していった。そして、雑音がある程度大きくなったところで、音がぴたりと止んでしまった。直後、洒落頭の身に異変が起きた。胸を押さえ、机に手をついたのだ。慌てて笠が駆け寄ろうとしたが、洒落頭はすぐに持ち直して、笠を制すように振り返った。そして、〈シャズ〉の方へと向き直ると、再び口を開いた。
「ありがとうね、〈シャズ〉や。確かに受け取ったよ。奴らにもしっかりとかかっただろうよ。ありがとうね」
洒落頭が繰り返し礼を述べると、〈シャズ〉の音声は再び戻ってきた。カタカタというあの音と、不気味な男性の声だ。
『S……H……A……Z……』
最初に繰り返していたあの音声に戻っているらしい。その音声をしばらく、洒落頭は黙って聞いていた。やがて、何回かアルファベットが繰り返されたかと思ったその時、男性の声と、カタカタという音に混じって、また違う音が聞こえてきた。ビュー、ビューという甲高くか細い音だ。何かの鳥の声のようにも聞こえた。その音を確認すると、洒落頭は深く溜息を吐いた。そして音量を絞っていき、電源を切ってしまった。
「これで完了、と」
だいぶ疲れているようだ。顔色がすごく悪い。椅子に座ることも苦しいようだ。
「すまないね。ちょっと疲れてしまったようだ」
そう言って椅子に座る彼へ、笠が近づいて行った。私が持ってきた水を差しだし、様子を窺う。
「大丈夫かい、爺さん。今回は無茶をしすぎたな」
静かに語り掛ける彼に対し、洒落頭は苦笑を浮かべた。
「これも仕事のうち。じゃが……すまないが、少し休ませてくれるかな。このまま帰るのは無理そうだ」
「勿論よ」
霊がすぐに答えた。
「歩けるようになったら、ひとまず上へあがりましょう。ここは少し空気が淀んでいるから。その後は、時間の許す限りお休みになって」
「……ありがとう。すまないね」
洒落頭は何度も謝りながら、椅子に座り続けていた。顔色は悪い。汗も掻いている。息遣いも荒い。年齢がいくつくらいなのかは分からないが。年を取る人間なわけだ。無理も出来ない老体だろう。
──それなのに、この仕事を。
そこにどんな背景があるのかは分からない。分からないが、やっぱり私は引っかかってしまった。曼殊沙華の人々はどうして、彼にこんな役目を与えるのだろうか、と。
洒落頭が笠や霊に支えられながら階段を上がっていったのは、それから三十分後のことだった。三人の後ろを〈シャズ〉を抱えながらついて行き、共に畳間へと入る。寝かされる洒落頭を心配しつつ、近くの机に〈シャズ〉を置くと、霊は私にそっと声をかけてきた。
「幽、お使いをお願いできる?」
すぐに向かったのは近所の薬局だ。購入したのは、数年前に発売されたばかりの健康飲料である。洒落頭の口に合うかどうかは分からないが、今の状況には相応しいだろう。念のため数本買って戻ってみれば、洒落頭の顔色も少し良くなっていた。
「すまないね。ワシのためにわざわざ……」
健康飲料を入れたコップを申し訳なさそうに受け取る彼に、私は静かに答えた。
「気にしないでください」
恐らく、ただの水よりも効果があったのだろう。コップの半分くらいを飲むと、様子もだいぶ落ち着いた。
「ともあれ、これで雷様も安心するじゃろ」
そう言いながら洒落頭は身を起こし、机の上に置かれた〈シャズ〉へと声をかけた。
「〈シャズ〉や。ありがとうね。またしばらく、ゆっくりと休んでおくれ」
そう言って、心から愛おしそうに〈シャズ〉の本体を撫で始めた。あれをこの店に持ち込んできたのは洒落頭だと言っていたか。私には不気味な代物としか思えなかったが、彼にとっては相当な思い入れがあるようだ。