前編
流行り病といえば、昔々、乙女椿国の片隅で流行り病にかかってしまい治る見込みのない村人たちが小屋に閉じ込められ、火をつけられて一斉に殺されてしまったという恐ろしい話を本で読んだことがあった。読み終わってすぐに思った事と言えば、現代に生まれてよかったという面白みのない感想だったかと思うが何しろ子どもの頃のことなので記憶もあやふやだ。
ただ、その話だけは印象深く頭に刻まれ、今でもたまに思い出して嫌な気持ちになる。火をつけた村人は何を思っただろう。閉じ込められた人の中に、友や家族はいなかったのだろうか。嫌な気持ちになるはずなのに、思い出すたびにそんなことを考えてしまうのだ。
あの話を強く思い出すタイミングはだいたい決まっている。自分が弱気になっている時だ。すなわち、何かしらの病気にかかったときのこと。高熱にうなされ、起き上がることすら辛いという時、当然のように暮らしているこの世界があやふやなものに見えて怖くなってくる。母が生きていた頃はまだよかったけれど、独りぼっちになってからは酷いものだった。
さて、今回はどうだろう。節々が痛く、寒気が酷い。ベッドから起き上がることも辛いこの状況。どうやら私はミアズマ病にかかってしまったらしい。ミアズマとは瘴気を意味し、迷信深い時代には私の日頃の行いの悪さに神罰がくだったという話に繋がるのだとか。
どうしよう、思い当たることがあり過ぎて理不尽にさえ思えない。当然、現代ではそのように責められることはなく、ウイルスが原因の流行り病であるらしい。だいたい冬など乾燥した時期に流行るイメージのものだが、残暑厳しい今日この頃。どこで貰ったのだか分からないが、私は寝込んでいた。
「ごめんなさい、霊さん。お店があるのに」
ベッドで温まりながら詫びる相手は、我が主人である女吸血鬼。熱っぽいと告げたのは昨日のこと。そのまま町医者に行くように言われ、従ってみればこれだった。魔女の心臓があっても病気にはかかる。ミアズマ病を治すには、無理をせずに休めとのことだった。
そんな私を我が主人、霊は看病してくれた。店はいいのだろうか、うつりはしないだろうかと心配するくらい、何度も顔を見せてくれた。お陰で寂しくはなかったが、後ろめたさもあったのだ。
霊はちょうど水を持ってきてくれたところだった。見慣れぬ水差しによく見慣れたコップ。軽く笑んでいるがその顔色は何処か優れない。当然だ。昨日も今日も満足に食事を摂れていないのだ。だが、この状態で食事に付き合えば、最悪死んでしまうらしい。さすがに死ぬ苦しみは魔女の性をはるかに超えてしまっているし、霊もそれは望んでいないらしいので、我慢してくれている。何か代用となるものを口に出来ているといいのだけれど。
「別にいいの。ここの所、あの狸のお陰で休みなしだったもの。報酬もたんまりもらったばかりだし、ちょっとくらい長く休んだって大丈夫よ」
余裕ある態度で答えてくれたが、私は覚えている。霊は以前言っていたのだ。この店を構えている理由は金だけではない。この場所は行き場を失ったモノの居場所として存在しているのと同時に、隠れ家にもなっている。モノと人の交流を妨げず、あるべき場所に戻れるようにサポートすることで、〈デカラビア〉と名付けられた御守石に不思議な力が溜まり、結界が強まるのだとか。
そちらの方面に詳しいわけではないので仕組みはよく分からない。ただ、分かるのは、私たちが出来る限りひっそりと生き延びるには、モノの管理はしっかりとやるべきであるし、店を開いてモノと出会うべき人の訪れを妨げてはいけない。私自身のための考えというよりも、霊というひとが危険な目に遭わないようにと思ってのことだった。
この世界は吸血鬼だって油断はできない。吸血鬼同士の潰し合いだって行われている世の中であるし、いつの間にか行方不明になっている魔物や魔族だっていると聞く。彼らの行く末がどんなものなのか考えるととても怖い。それこそ、いつか本で読んだ悲惨な歴史に近しい世界であるかもしれないのだから。
ともかくそんな事情があるものだから、ミアズマ病で寝込むという状況はいただけないものだった。しかし、我が主人はちっとも困っていない様子だ。もともと彼女は怠け癖がある。店を開いたのは彼女。私は後から助手として働かせてもらっている立場のはずなのだが、店に対する意欲は私の方が大きいようにすら思える。ここに来てまだ半年も経っていないのにどうしたものだろう。
「そんな顔しないの」
と、霊は私の額に触れながら言った。
「――でも、霊さんにうつったりしたら……」
触れられるのがくすぐったくて掛布に潜ると、霊の指もそれについてきた。こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそのことなのか、魔女の性が疼く。そのままつねったりしてくれないかと変に期待してしまうが、霊はそんなこともせず、ただ私の肌に触れているだけだった。焦らされているように感じて、それはそれでよかったのだけれども。
「幽のお馬鹿さん」
いつもの調子で霊は言う。妙に機嫌がよさそうだった。
「ケモノの病気はリヴァイアサンやベヒモスに選ばれたケモノやケモノの血を引く者たちしかかからない。ミアズマ病はケモノの病気。ジズに選ばれたマモノはかからない」
「え、じゃあ、霊さんもミアズマ病にかからないんですか?」
「そういうこと。あなたから病気を貰うとしたら、それはマモノの病気。人間の町医者では見抜けないような病気よ」
そうか、だからあんなに不摂生でも風邪を引いたりしなかったんだ。何とかは風邪を引かないとかそういうことじゃなかったんだ。
熱に浮かされた頭でそんなことを考えていると、霊の指が私の皮膚の上で散歩を始めた。
「幽」
にこりと笑っているその目が見つめているのは、私の皮膚の下に眠る思考の渦だろうか。全てを見透かしているようにすら見えるその眼差し。圧倒的な立場の違いを思わせるその雰囲気が個人的に好きすぎて、ただでさえ高熱が出ているのにさらに火照ってしまった。
「今、失礼なことを考えたでしょう」
「はは、まさか」
「隠したって駄目よ。私には分かるの。お仕置きをしたいところだけれど、今のあなたにハードなことをするわけにはいかないわね。元気になったら楽しみにしていなさい」
ハードなこと。
楽しみにしていなさい。
こんなことをそんな表情で言われて興奮しないでいられるはずもなく、全身の血が沸騰しそうだった。病気であるにもかかわらず、なんだか幸せな気持ちだ。こうしてお預けを食らっている状況すら、私としては美味しい。
「それにしても」
と、霊の手はとうとう遠慮なく寝巻の隙間へと侵入していった。拒むなんてとんでもない。熱い素肌の上をやや冷えた霊の指が通る感触は、艶めかしいだけではなく単純明快に心地よかった。
「毎日、当たり前のように口にしていた味が遠ざかるのは寂しいものよ。あなたの汗に混じっている〈赤い花〉の香りが憎いわ」
牙をちらつかせながら霊は不敵に笑った。
その表情を見上げながら、私はぐっと言葉をとどめた。気持ちは同じだ。私だって辛い。被虐的な欲求を手っ取り早く満たすには、霊に血を吸ってもらうのが一番だった。ここしばらくは毎日当然のようにそうして貰っていたから、当たり前になっていた。でも、今は違う。あの感触が恋しくて仕方ないのは一緒だ。
ああもう、病気とか弱っているとかどうでもいいから、その素敵な牙でがぶりと噛んでくれないかしら。そう思ってしまうくらい、私は現実を見失っていた。
「そんな甘えた目をしてもダメ」
そんな私の額を軽く指で突くと、霊はベッドから立ち上がり、持ってきた水差しの中身をコップに移した。
「さ、前置きはこのくらいにして」
と、霊はコップをこちらに差し出す。
「これを飲んで」
「何ですか、これ?」
「いいから飲むの」
「え、でも……」
「これは命令です。飲みなさい」
命令ならば仕方ない……と言いたいところだが、さすがに怖かった。
見たところ、いつも使う普通のコップに水が注がれているだけだ。しかし、あのように霊に勧められると、何やら特別な液体に思えてドキドキしてしまう。念のため、口を付ける前に匂いを嗅いでみるも、変わったところは感じられなかった。
私の警戒に霊はくすりと笑った。
「毒なんか入ってないわよ。元気になってもらわないと私だって困るもの」
「これを飲んだら何か変わるんですか?」
いまだ警戒心が薄れず、おそるおそる訊ねてみれば、霊は軽く頷いて水差しを手に取った。さきほども思ったのだが、あまり見慣れていない水差しだ。たぶん、店の方に置かれていたものである気がする。と言っても、頭はうまく回らないし、平静だったとしても霊の取り扱う古物のすべてを知っているわけではない。この場所に住み込んでしばらく経つが、いまだに開けたことのない扉はあるものだし、知らないモノもたくさん眠っていそうに思う。
さて、それは置いといて。
「この水差し、ちょっと魅力的に思わない?」
霊にそう言われ、私は熱でぼーっとする中まじまじとその姿を見つめた。
「白目で出来ているところはありふれているもの。でも、その違いはこの装飾。よく見て。なんだか物語を感じない?」
「……うーん、もしかして聖杯なんかと同じ生まれだったりします?」
嫌な予感がした。
これは誤解だと自分でもわかっているのだが、やはり〈聖なるもの〉とされる物品やそれを生み出した世界について、私は恐れを抱いたままだ。いくら霊が誤解をとこうと言葉を選んでくれても、私の心臓が恐れているのだから仕方ない。今持っているコップはただのコップだが、その中に入っている水がもしも〈聖水〉ですだなんて言われた日には……。
「聖杯とは少し違うわ」
私の思考を遮る形で霊の声は聞こえた。
「ただ、大陸の国で生まれた奇跡の産物には違いないわね。この装飾、彫られているのは魔女狩りの歴史で亡くなった人々の悲劇の様子なの」
「魔女狩りの……?」
「作り手は純粋なる人間の男性。逸話によれば、彼はたくさんの友人と生涯かけて愛した女性を度重なる騒動で失ったらしい。平穏が訪れてからしばらく、人々が同じ過ちを繰り返さぬようにと願いを込めて生み出した品物の一つと聞いているわ。その思いがとても強烈なのか、彼の関わった物品には天使の力があるとさえ言われているらしい」
「そういうのがいっぱいあるんですか?」
「色々作ったと聞いているわ。でも、家にあるのはこれだけね。笠に紹介された仕事の報酬としてもらったの」
「……それで、どういう効果があるんです?」
霊の話を聞いているうちに、少しは余裕が生まれた。
どうやら作り手は愛に満ちた人だったらしい。ならば、モノに込められている魂も、私の血を否定するものではないだろう。……とはいえ、彼が偲んでいたのが犠牲となった純粋なる人間のみで、魔女なんかと誤解されてしまったことへの弔いだったとしたら話はまた変わってくるのだけれど。
考えながら不穏を自ら生み出してしまったことに気づいて後悔している私に、霊は教えてくれた。
「聖水を作る効果」
「え?」
思わずコップを落としそうになったがどうにか耐えた。
「少なくとも世間ではそう言われている。その水を飲むと、あらゆる病気がすぐに治るのだそうよ。どうせ迷信だと今のご時世の知識人たちは言うでしょう。でも、幽も聞いたことがあるでしょう? 各地には聖水が湧き出す泉があって、そうした場所はあらゆるものが科学で証明されるようになった今でも根強い人気があるってお話」
「あ、ありますけど……え、その水差しにはそんな危険な力が……」
「幽ったら怖がりね。危険なんかじゃないわよ。ホラー映画の観過ぎじゃないかしら」
霊じゃあるまいし、と私は内心呆れた。もちろん、口には出さないけれど。幸い、私の表情からは霊には何一つ伝わらなかったようで、水差しの説明を続けてくれた。
「聖水っていうのは別に魔を害すような危険なものじゃないわ。ちなみに、この水差しの水は、世界に生まれ落ちたすべての生き物のため……というと壮大過ぎるかしら……でも、そのくらいの奇跡が起きるという水なの」
「奇跡の水……ですか」
この手のものには、だいたい不治の病が治っただとかのいわれがついているものだ。つまり、霊が言いたいのも今の私がかかっているミアズマ病があっという間に治ってしまうということだろうか。だとしたらとても有り難い。ぜひとも元気になって、我が主人に血を捧げる日常に戻りたいところだ。
それにしても、聖水なんて言わないでほしかった。聖水と言えば思い出すのが、以前、霊と一緒に観たホラー映画のひとつ。聖水によって魔物なんかが溶けたりするものがあった。どうしてもあれを思い出してしまって、すごく怖いのだ。
「幽」
コップを手にしたまま戸惑う私に対し、霊はにこりと微笑んだ。
「私の言葉が信じられないというの?」
細められたその目より冷たい感情が伝わってくる。ああ、あの目だ。人を支配する者の目。私の心臓を締め上げる、好ましい眼差し。見つめていると、のぼせ切ってしまいそうなほどに興奮する。
彼女は今や私の主人だ。魔物を隷従にしてしまう指輪〈ロノウェ〉などというモノによって霊の影に縛られた者たちはいっぱいいる。しかし、私と霊の関係はそれとはかなり違う。〈ロノウェ〉は壊れればその関係も終わるが、私たちの関係はお互いに生きている限り続く。強力な魔術で決したこの主従関係に割って入れるものなどいない。私は彼女だけのものであるし、彼女もまた私だけのものといっていい存在。魂が繋がるということは、そういうことだ。
我が主人は飲むようにとご命令だ。怯えている私に気づいていながら、逃れるという甘えを赦したりしない。ああ、なんて素晴らしいのだろう。冷たすぎてぞくぞくする。
病気で弱っているからこそ、魔女の性の主張も強まるものなのだ。何でも知っている古書〈アスタロト〉がいつだったかそう教えてくれた。だからだろう。聖水という言葉への恐れもありながら、私はコップの水を飲むことが出来たのだった。
「お利口ね、幽」
全て飲み終えると、霊は一言だけ褒めてくれた。コップを渡しながら、私はふらつきを感じた。変な気分だ。きっと、聖水を飲んだという感覚にビビっているのだろう。もちろん、この具合の悪さが精神的なものだというのは分かっている。霊のように心が強ければ、平然と飲むことが出来るはずなのだ。頭では分かっている。でも、やっぱり苦手なものは苦手なようだ。
「この水差しは〈マルバス〉という名前なの」
「〈マルバス〉……」
「名前を付けたことから分かる通り、誰かに譲るとかいう予定はないものよ。吸血鬼はあまり病気にならないものだけれど、酷い怪我をすることは稀にあるから役立つの。これからはもっと有り難いものになりそうね」
「……この水で、本当にミアズマ病が治るのでしょうか」
悪寒はまだする。毛布をしっかり被っていても震えはおこった。こちらは精神的なものではなく、病気のせいだろう。そんな私を見ると、霊はコップを机に置いてから、私の頬に触れながら、そっと目を合わせてきた。
「私を信じなさい」
乙女椿国離れしたその目の色に、吸い込まれていきそうだった。
「人間専門の町医者よりは、あなたの身体に詳しいはずよ」
その言葉の一つ一つが、今の私を興奮させている。だが、残念ながらそれ以上を求めることは不可能だった。やはり健康というものは大事なのだ。去っていく主人の姿を見つめながら、私はそんなことをしみじみと感じた。早く元気になりたい、ただそう思った。