後編
やり場のない負の感情を、私はどのように処理してきただろう。霊と暮らすようになってからは、あまり考えたことがない。ただ、それ以前はどうしていたか思い出すと後ろめたさを覚えてしまう。全ては魔女の性による恥じらいだけれど、そんなものがなくたって人は誰だって感情や欲望との付き合い方に苦労するものなのだろう。
特に、思春期という年頃は。
烈は何処にでもいる普通の中学生だ。同じ年頃の少年ならば持っていてもおかしくない感情を常に抱え、暮らしている。同世代の子供たちもまた皆それぞれ多少なりともイライラを抱えて過ごしていた。そこで生まれる些細な摩擦は、烈のように繊細な生徒の心にとって刺激が重た過ぎるらしい。
「いつからでしょうね。何となく教室にいたくなくて、学校の片隅で絵に没頭するんです。そうしたら、誰ともつるまずに時間を潰せるから」
幸い、烈を邪魔する生徒はいなかった。皆、それぞれ別の事で必死だったのだろう。しかし、それだけに烈は孤独を解消することが出来なかった。
皆、それぞれ勝手に楽しんでいるだけだ。そこには何の罪もない。そんな事は彼だって分かっていた。けれど、それが妬ましくなってしまったらしい。
「おかしいって分かっているんです。だけど、何となく苦手なクラスメイト達が、休日に集まって野球をするって耳にしたとき、ぼくはあのイーゼルで絵を描いたんです」
それは、嵐の絵だった。完成には程遠い。けれど、烈は思いの丈を筆に込め、満足するまで色を塗った。そしてやってきたその休日、予報に反して大雨が降ったのだった。
「休日明け、彼らの予定が台無しになったことをぼくは小耳に挟みました。その瞬間、なんだか空しくなって、その絵は塗りつぶしてしまったんです」
その出来事をきっかけに、烈はイーゼルの力に薄っすらと気づいた。不気味に思ったものの、やはり、寂しそうなそのイーゼルを見放しきる事は出来なかった。そして、その後も、烈はやはり負の感情を筆に込めた。そして、彼が満足するまで色を塗ると、その黒い願いは必ず遂げられたという。
「ぼくとちょっとトラブルになったクラスの人がケガをした事もありました。あれも、ぼくのせいだったのかもしれません」
烈は怖くなった。怖くなる度に、その絵をなかったことにした。そして、ありとあらゆる感情が整理されて、爽やかな気持ちになれた時に描いてようやく一つの作品として完成させたのが、最初に言っていた、子犬の絵だったという。
「可愛い子犬の絵がようやく描けて、それが褒められた時、そして後に本物の子犬がぼくの家にやって来た時、こんな事はもうやめようって思ったんです。けれど、あのイーゼルに新しいキャンバスをのせた後、ぼくはやっぱり自分を止められなかった」
日々の学校生活は、学生にとってこの世界の全てといっても過言ではない。些細なことの積み重ねが繊細な心を削り、ストレスとなって襲い掛かってくるたびに、烈はその鬱憤を筆に込めた。明確かつどす黒い願いがこもっていた事もあれば、自分でも何が望みなのかよく分からない事もあった。いずれにせよ、没頭している時の彼は、常に救いを求めていたという。
「馬鹿にされているとか、甘く見られているとか、そういう不満を覚えるたびに、ぼくは筆を持ったんです。だけど、胸がすくような結果が得られても、すぐにまた空しくなりました。あんなつまらないことで、こんな絵を描いて、と、自分のことがとても醜く感じてしまったんです」
その度に、彼は落ち込んでしまった。負の願いが叶ったとしても、後に残るものは何故か苦みばかりだったのだ。だから、彼はすぐに絵を消したのだ。上から別の絵で塗り替えたりして、他人に見せても恥ずかしくない絵にしようとした。
「そうして出来た絵が、流れ星の絵でした」
美しい夜空を流れる綺羅星たち。その輝きに烈は誓いを込めようとした。今度こそ、あんな絵は描かないと。しかし、やはり難しかった。イーゼルが思いを受け止めてくれる。そう思うと怒りのままに筆を握ってしまうのだ。
「ちゃんと歌ってよって注意されてから、校内の合唱コンクールが苦痛でした。台無しになっちゃえばいいのにって。それで、ぼく、とんでもない絵を描いてしまったんです」
それは、複数の人が高台から落ちる絵だった。だが、ここで問題が起きたのだ。その絵をクラスの人達に見られてしまったのだ。
「これは何って言われて、ぼくはとっさに言ったんです。この間、読んだ本の絵だよって。だけど、その直後、合唱の練習の時に、ぼくが描いたのと同じような状況で事故が起こってしまって……」
絵を目撃したクラスメイト達は、何も言わなかった。
だが、その頃から、クラスメイトたちは烈の使っているイーゼルに注目するようになったという。かねてから奇妙の噂はあったそのイーゼルを。
「合唱コンクールがどうにか無事に終わった頃、クラスの人がぼくに言ったんです。あのイーゼルは使わない方がいいよって。やっぱりあの噂は本当なんじゃないかって」
それが、描いた未来が訪れるというものだった。
「他の人達に貸してって言われて、貸した事もありました。彼らの願いが叶ったのかどうかは分かりませんけれど」
いずれにせよ、イーゼルへの注目は段々と薄まっていった。イーゼルを使うのはいつの間にか烈だけになっていた。それでも、噂だけはずっと残り続けていたという。
「ぼくがあのイーゼルで何を描くか、それとなく注目する人も現れました。だから、ぼくは平和な絵を描くことにしたんです。あのダンスの絵を……」
噂が本当だったら、上手く踊れるといいな。そんな事を周囲に言って。
「──これで全部です」
烈が言い終わると、嫌な沈黙が流れた。息を飲みつつ、何となくの気まずさに視線を泳がせる私の横で、霊はただただ落ち着き払って頷いた。
「正直に話してくれてありがとう、烈君」
霊の優しい声掛けに、烈は俯いてしまった。これで、イーゼルを売って貰えなくなることを悟ったのだろう。泣き出しそうになる彼を刺激しないよう、霊はそっと小さな紙袋を差し出した。中身は知っている。霊の友人である魔女ボタンが作ったお守りの一つだ。
「確かなお守りよ」
霊は言った。
「あのイーゼルに比べれば、気休めにしかならないかもしれないけれど、その分、害もないわ。あれに頼るよりもずっとあなたの為になる。最初は心細いかもしれないけれど、あなたならきっと大丈夫。怖くなったら握り締めて。あなたに勇気をくれるはずだから」
霊の言葉を烈は静かに聞くと、紙袋をそっと開けて中身を取り出した。貝のような形をしたそれを見つめると、軽く握って、軽く目を閉じた。
「分かりました」
烈は短くそう言った。そしてそれが、彼の正式な答えとなった。
どれだけ納得できたのかは分からない。だが、蒐に諭されて帰っていく彼の表情は、憑き物が落ちたようにスッキリしているように感じられた。
翌日、私たちは紙と鉛筆を用意して、再び机に向かっていた。〈サブナック〉が見守る中、黙々と描くのは一匹の猫。フォトアルバムの〈アスモデウス〉を見に来たヤヤ子だった。
モデルというものに興味を持ったのだろう。ヤヤ子は文句も言わず、机の上でじっと座っている。どこか得意げな表情で胸を張るその姿を前に、私たちは懸命に絵を描いていた。
「出来ました」
「完成っと」
ほぼ同時に描き終えると、ヤヤ子が耳をぴんと立てながら私たちを見つめてきた。
「さあ、見せるがよい。この私がじゃっじしてやろう」
楽しそうに尻尾を揺らす彼女に、私たちはそれぞれ絵を公開した。ふんふんと鼻歌を交えながらヤヤ子は目を向けた。だが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「おい、なんだね、これは」
尻尾がぶんぶん揺れる。相当おかんむりらしい。私は肩を竦めながら言った。
「何って……その……」
「ヤヤちゃんに決まっているでしょう」
悪びれる様子もない霊を、ヤヤ子は不満そうに睨みつけた。
「なんじゃ、なんじゃ。これのどこかヤヤ子なんじゃ。全く、猫より器用な指を持っとるくせに、二人してなんじゃ。あーあ、興が削がれたなぁ。霊、アルバムの時間じゃ」
「はいはい、お猫様」
呆れながら霊は紙と鉛筆を置き、ヤヤ子を抱き上げて〈アスモデウス〉のしまわれた戸棚へと向かっていってしまった。
残された私は紙と鉛筆を片付けながら、互いの絵を見比べた。確かに、ヤヤ子に言い返す言葉もない出来だった。
「まあでも、〈サブナック〉に気に入られる可能性がないってことは、いい事なのかも?」
溜息交じりにそう言うと、霊が離れた場所から返事をした。
「確かに、望む未来が手に入るってなったら、誰だって溺れてしまうでしょうからね。あーあ、よかったなぁ、絵の才能が微塵もなくて……」
そんな事を言いながら、霊はヤヤ子と〈アスモデウス〉を蘭花の机に置き、ヤヤ子の背中をそっと撫でてから戻ってきた。
そして、さっそくアルバムに没頭するヤヤ子を見つめながら、私の隣に座った。
「あなたはどうなの、幽。〈サブナック〉の力、借りたかった?」
「私は……」
どうだろう。答えに詰まってしまった。〈サブナック〉の力があれば、望む未来が手に入る。明るい願いも、暗い願いも、絵に込めれば〈サブナック〉は叶えてくれる。その力を借りられるとしたら、私はどんな未来を願っていただろう。
お金。名誉。健康。安全。欲しいのはその時々の状況次第だろう。だが、いずれにしたって、私が願うのは、やはり霊との未来に違いない。願わずとも、私たちの縁は切れる事がない。たとえ互いを嫌いになってしまったとしても、主従であるという契約はなくならない。それが途切れるとしたら、それは、死が私たちを分かつ時だ。
健康、そして安全。これらは努力だけでは守られない。そう思えばやっぱり、〈サブナック〉の力は頼れるならば頼りたかったと言わざるを得ない。
だけど、そんな事を言ってどうなる。どうしたって簡単に借りられるものではないし、たとえこれから絵の勉強をしたって、〈サブナック〉に気に入られるとは限らない。そちらに時間を使うならば、私はやっぱり魔法の練習をしたかった。
「いいんです。借りたら借りたで、烈君以上に溺れてしまっていそうですし」
そう答える私を、霊はちらりと見つめてきた。まるで、私の内心など見通しているかのような眼差しだった。だが、それ以上は何も言わず、霊はさりげなく私の手にその手を重ね、指を絡めながら小さく言ったのだった。
「そうね。それに──」
と、小さく微笑みながら、彼女は私に寄り掛かる。
そして呟くように言ったのだった。
「未来が全部決まっちゃうのも、ちょっとつまらないもの」