中編
洗面器に水を張り終わる頃に、霊はあのトロフィー──〈ウェパル〉を抱えてやって来た。私が無事に水を張り終えているのを確認すると、さっそく霊はその前に〈ウェパル〉を置いた。
「ありがとう。ちょっと下がっていて」
霊にそう言われ、私はすぐさま従った。壁に背がつくまで下がり、後は見守りに徹する。〈ウェパル〉を置いてしばらく。洗面器の水が微かに揺れるのを見てから、霊はその水面に指を付けた。そして、〈ウェパル〉の人魚の部分を軽く濡らしてから、非常に落ち着いた声で語り掛けた。
「〈ウェパル〉……それがあなたの新しい名前。名付け親として命じる。姿を見せなさい」
しばらくは無反応だった。何も起こらない。そう思った矢先、洗面器の水が急に大きく揺らぎ始めた。直後、透明だった水が黒く濁った。いや、濁ったのではない。よく見れば水面いっぱいに髪の毛が海藻のように揺らいでいた。ぎょっとしたのも束の間、水が盛り上がると、洗面器より人間の頭がにゅっと出てきた。
「わっ──」
思わず声を上げてしまい、私は慌てて口を塞いだ。無理もないだろう。だって、光景がホラー映画のそれだったのだもの。
現れ方も奇怪ならば、姿もまた奇怪だった。顔は明らかに女性だが、目はどう見ても人間ではない。人のような何かだ。金魚などの目にも似ている。頭の次は肩、そして腕が出てきて、風呂場の床に手を着いて、さらに体を這い出してきた。下着も服も身に付けていない人間の女性の上半身が露わになり、そして臍から下には鱗がびっしり生えている。
──人魚だ。
言われていた通り、そして、トロフィーに象られていた通り、それは人魚の姿をしていた。体の全てが洗面器から出てくると、洗面器は倒れ、辺りはびしょびしょになってしまった。水を避けようと霊が立ち上がると、洗面器より現れた人魚が窺うようにその顔を見上げた。そして濡れた唇を開け、訊ねてきた。
「ワシを呼んだのはお前か」
「あなたが〈ウェパル〉で間違いないのなら、そうよ」
「うぇぱる。随分とハイカラな名前をつけおったな」
声は若いが年寄りのような言い回しだった。表情は一切変わらず、声の調子からも友好的なのか敵対しているのかも判別がつきづらい。そこが少し不気味だったが、霊は全く不安を見せなかった。
「乙女椿らしい名前の方がよかったかしら」
霊が訊ねると、その人魚──〈ウェパル〉は無表情のまま答えた。
「良い。いかなる名であろうとそこに敬意があるならば受け入れるのが決まりだ」
「それなら良かった。では、〈ウェパル〉。さっそくあなたにお訊ねしたいことがある。先代の持ち主と、彼の死後の汐引家に関することよ」
「好きに話すがいい。だが、全てに答えられるとは限らぬ。お前たちにはお前たちの都合があるように、ワシにはワシの都合がある」
「聞いてくれるなら結構よ」
「そうか。なら話せ」
淡々とした〈ウェパル〉の言葉を受け、霊は少ししゃがんで視線を合わせた。そして、人魚のトロフィーが引き取られるまでの経緯と、汐引家が現在抱える事情について、〈ウェパル〉に対して丁寧に話したのだった。
「先代当主が亡くなって以降の事故について、現当主はあなたによる呪いではないかと疑っているそうよ。そこでお聞きしたいの。それは確かなの?」
霊の問いかけに、〈ウェパル〉は丸い目でじっと見つめた。そして、ぽつりと水滴が落ちるように、答えを漏らした。
「その通りだ」
まさかの答えに少しぎょっとしてしまった。霊はといえば、ある程度、想定していたのだろうか。冷静な表情のままだった。
「呪いは解かれている? それともまだ?」
「解かれていない。そして、解くつもりもない」
「名付け親となった私がお願いしても?」
「この呪いはお前が名付け親になる前のものだ。だから、お前の権限は一切通用しない。それに、お前の言う事をどれだけ聞くかもワシ次第だ」
毅然とした〈ウェパル〉の態度に、霊の方が少し黙ってしまった。そしてややあってから、彼女は柔らかな声色でさらに問いかけた。
「どうしたら、その呪いは終わるの?」
「汐引家の人間のうち、特定の者たちが死を迎えれば呪いは終わる。それ以上、拡大することはない」
「その人たちは、どんな人達?」
「先代の当主と血が繋がっている者たちが中心だ。最終的に、現当主の死をもって呪いは完結する。お前たちに飛び火することはないから安心するがいい」
と、そこで〈ウェパル〉は初めて笑みを浮かべた。笑う事が出来るのだ。だが、少し不気味な笑いだった。
「安心するかどうかはともかく。その呪いを、今のところあなたは解くつもりもないのね?」
霊が確認するように訊ねると、〈ウェパル〉は笑みを引っ込めて頷いた。
「その通りだ」
「さらに確認させて。その呪いはあなたにも解けないものなの? それとも解けるけれど、解くつもりがないの?」
「ワシが解こうと思えば解けるものだ」
「……ありがとう、よく分かったわ」
霊はそう言ってから、ふうと溜息を吐いた。
「もっとたくさん聞きたいことがあるのだけれど、時間の許す限り、順番にいきましょう。その呪いは、状況の変化次第では解くという可能性もある?」
「ある。だが、今のままでは無理だろう。故に、解くつもりもない」
きっぱりと〈ウェパル〉は告げたが、霊の目の色が少し変わった。良い兆しを今の返答から見出したのだろう。
「今のままでは、ね。それって、どういう状況なの?」
「答える気はない」
「……では、質問を変えましょう。あなたは今の汐引家をどう思っている? 好き? それとも嫌い?」
「嫌っている」
「その原因を作ったのは誰? 先代の当主? それとも、今の当主?」
「……今の当主だ」
何故だろう。その瞬間、〈ウェパル〉の声に感情らしきものがこもったように思えた。これまではまるで心なんて持っていないかのように淡々と話していたのに。
霊もこの変化には気づいただろう。だが、敢えて触れることなく、彼女はさらに質問を続けた。
「新たな持ち主である私と出来る取引について確認させて。私とあなたが交わせる契約には、どんなものがある?」
「水難からの庇護だ。水の穢れを清める事も出来る。あとは、今のように知りたいことについて教えてやることも出来なくはない。いずれも、程度についてはワシの気分次第だ」
「あなたの思い出話を聞くことは出来る?」
「お前が望むのならば」
「では、聞かせて欲しいことがあるの。先代の当主との思い出よ。あなたにとって、一番印象が残っている彼の話を教えて」
すると、〈ウェパル〉はじっと霊を見つめた。きっぱりと拒絶するわけではない。少しだけ考え込んでから、彼女は口を開いたのだった。
「彼は……誰もが寝静まる時刻、よく私を呼び出した。そして、話し相手にした」
「どんなことを話したの?」
「ただの雑談だった。重要な話ではない。だから、多くの内容を覚えてはいない」
「つまらなかった?」
「いや……楽しかった」
〈ウェパル〉は俯きながらそう言った。
「彼の事を愛していたの?」
「いや、違う。ワシは人間と番になったりはしない。だが、気に入る事はある。彼の事は気に入っていた。それは別に愛していたからではない。新たな主となったお前の事も、今後次第では気に入る事もあるだろう」
俯く〈ウェパル〉に対し、霊はさらに問いかけた。
「先代の当主の死因について、あなたは知っている?」
「彼は事故で命を落とした。現当主は私にそう伝えた。水難を防ぐ力の及ばない事故が屋敷内で起きたのだと」
その状況については、私たちもすでに聞いていた。
汐引家の屋敷には、舶来品の立派なシャンデリアが吊り下げられていたそうなのだが、それが突如落下し、先代当主は下敷きになって死んでしまったのだという。
「直前の点検の不備による事故だったそうね」
霊がそう言うと、〈ウェパル〉は無表情のまま顔を上げた。
「あなたが呪いをかけたのは、その死と関係があるのね?」
「……ある」
短い返答に、霊は軽く頷いた。
「それならば不思議ね。どうして点検した人ではなく、汐引家の人々なの?」
「事故の責任が、そちらにあると理解したからだ」
「点検した人のせいではない、ということ?」
「そうだ。それ以上は答えられない。答えたくない」
〈ウェパル〉がそう言うと、霊は小さく頷き、しばし考えてからさらに訊ねた。
「では、これも聞いておきましょう。あなた自身のことについての質問よ」
不思議そうに顔を上げる彼女の頬に、霊はそっと手を伸ばした。濡れているその頬に霊が触れると、〈ウェパル〉は少しだけ動揺したように瞳を揺らした。
「〈ウェパル〉、この件に関して、あなたは私にどうして欲しい? 何を望み、何を望まない。いずれにせよ、あなたは私が引き取る事になる。その取引を進めるために、一度は、汐引家に向かう事になる。その際、あなたが汐引家を嫌いになったきっかけである今の当主に直接会う事になる。その際、あなたはどうして欲しい?」
霊の質問に対し、〈ウェパル〉はじっとその目を見つめた。そして、不意に手を伸ばすと、自身の頬に触れる霊の手を握り締めた。
「答える前に、確認したい」
〈ウェパル〉は言った。
「何故、それを知りたい。呪いを解くためか」
「それもあるわね。けれど、それだけじゃない。あなたはこれから私のモノになるの。あなたのことを把握しておくこともまた、私の責任よ」
「……なるほど」
呟くように言ってから、〈ウェパル〉はぎゅっと霊の手を握り締めた。
霊の表情が少々歪む。相当強く握られたのだろう。
「ワシの考えは、口で言わずとも分かるはずだ。新たな主人であるお前にならば」
そして、〈ウェパル〉は軽く俯き、続けて言った。
「今宵の会話はここまでだ。また会いたくば、違う日に呼ぶがいい。ワシの機嫌次第では、来てやらないこともない」
そして、そのままザブンと洗面器の中へと潜っていってしまった。しばらく〈ウェパル〉の黒くて長い海藻のような髪が見えたが、それも徐々に見えなくなっていく。やがて、洗面器は、何事もなかったかのように天井を映し始めた。
霊が深く溜息を吐き、洗面器の水を流す。私はそんな彼女の背中にそっと声をかけた。
「呪いは……解けないってことでしょうか」
すると、霊は振り返り、小さく頷いた。
「そうね。随分とお怒りのようよ」
「霊さんには〈ウェパル〉の望みってやつが分かるんですか?」
訊ねてみると、霊は私に腕を見せてきた。〈ウェパル〉に握られた場所に手形が出来ていた。
「ここをぎゅっとされた時に伝わって来た。彼女の想いも、そしてこれからの事もね」
「これからの事……?」
訊ねると、霊は立ち上がり、私の肩にそっと触れてきた。
「知りたい情報はだいぶ探れたわ。あとは、後日……汐引家にお伺いした時次第ね」
霊の言葉に、私は不安を覚えつつ頷いた。