前編
水に因んだ事故といえば、何を思い浮かべるだろうか。私が思い浮かべるのは、やはり夏場の川辺や海、時にはプールで起こる水難事故だ。他にも船の沈没だったり、川や海への車の転落だったり、地震による津波や大雨による洪水など、思い返してみれば様々な脅威が水の世界には待ち構えている。
それら全ての危機から庇護してくれるお守りがあるとしたら、やはり縋りたくなるものだろうか。たとえば、船で国内外を行き来することの多かった人物ならば、やはり不燃の沈没というのは恐ろしい話だったに違いない。そう思えば、縋りたくなっても不思議ではないように感じる。
この度、私たちのもとに運ばれてきた古物も、そうした願いのこめられたお守りのようなものだった。
しかし、どうもただのお守りではないらしい。ご利益があるだけならば、いくら元の持ち主がすでに亡くなっているからといって、遺族が不気味がって手放したいなどと言われたりはしないだろう。
つまりは、ここに来るだけの曰くつきの代物に違いなかった。
「──というわけで、電話した通りのブツがこちらだ」
そう言って笠が風呂敷から出したのは、トロフィーだった。何かしらの優勝杯にも見えるが、文字などは特に刻まれていない。ただし、特徴的な見た目であるのは間違いなかった。人物が象られているのだが、勝利の女神にしては変わった特徴を持っていたのだ。
「人魚……?」
思わず呟く私の横で、霊が目を細めた。その手元にはルーペの〈ピュルサン〉が用意されている。だが、〈ピュルサン〉を通して鑑定するより前から、霊は何かしらの気配を察しているようだった。
「随分と厄介なお客様のようね」
霊が笠に言うと、笠は毛だらけの頬を軽く掻きながら狸の尻尾をぶんと回した。
「長年、大人しくしていたようなんだけどな。元の持ち主が亡くなって以来、これが原因と思しき不幸が立て続けに起こったらしい」
「そのようね」
と言いつつ、霊は恐れることなく人魚のトロフィーに手で触れた。思わずビビってしまう私の反応を余所に、彼女は目を細め、人魚の形状を指で細かく確認した。
「素晴らしい出来のトロフィーだけれど、買い取らせていただく以上、二度とお外には出せない事になりそう。先方も、曼珠沙華も、そのつもりでいいのよね?」
「ああ、勿論。依頼人に至ってはいち早く手放したいとのことだ。ただ、依頼の内容は手放すだけじゃない」
「そうだったわね。少し調べてみないと」
そう言って霊はようやく〈ピュルサン〉を手に取ると、人魚のトロフィーを静かに観察し始めた。
このトロフィーがここへ至る経緯については、私もすでに聞かされている。
もともとこれを持っていたのは、汐引家という名家の当主だった。海外との取引をする商人で、珍しい舶来品をたくさん乙女椿国へ持ち込んだのだという。その仕事の最中に手に入れたのがこのトロフィーだったそうだ。
人魚の象られたこのトロフィーには、何でもご利益があるという。水難を遠ざけるというその内容は、船に乗って頻繁に海外へ渡っていた彼に相応しいものだった。そのため、彼はこのトロフィーを気に入り、屋敷に飾って、長期の海外出張の際などは安全を祈ってから出かけていたのだという。
そのご利益があったのかどうかは、今となっては定かではない。いずれにせよ、彼は結局のところ水難とは全く関係なく、屋敷内の事故によりこの世を去ってしまったのだという。
汐引家におかしなことが起こり始めたのは、その後のことだった。
しばらく〈ピュルサン〉でトロフィーを確認した後、霊はふと笠に声をかけた。
「依頼主と言うのは汐引家の現当主と言われるお方だったかしら」
「ああ、そうだな。前の持ち主の弟さんらしいね」
「なるほどね」
相槌を打ってから、霊は〈ピュルサン〉を蘭花のテーブルに静かに置いた。
「少し情報を整理していきましょう」
霊はそう言うと、一枚のメモ用紙を取り出した。そこには相関図が書かれている。昨日、曼珠沙華の家から電話がかかってきた際にメモしたものを、さらに分かりやすくまとめたものだ。
「これの持ち主が亡くなったのが始まりだとして……」
そう言って、霊は汐引家の先代当主を指さした。その近くには、バツ印の書かれた人物名が少なくとも三名はいる。いずれも、汐引家の人物だった。
「この後に立て続けに亡くなったのが、先代当主の叔父、姉の一人、従弟の一人……。それぞれの死因が、古井戸への転落に、風呂場での突然死、そして釣り掘りでの事故……。いずれも水場で違いないようね」
「ああ、ただの偶然にしては、あまりにも不気味だ。現当主もそう思ったようでね、兄を加護していたものが悪さをしているのではないかと疑っているらしい。もしや呪いなんじゃないかって」
「彼が呪いだって思ったのは何でかしらね」
「さあ。しかし、よくある話にも思えるがね。願いをかなえてやる代わりに、何か対価を要求するという話だとしたら。加護してやっていた相手が亡くなった結果、契約が切れて対価を貰っていっているとしたら不思議ではない……まあ、これはただの想像だが」
そう言って頭を掻くタヌキを前に、霊は落ち着き払ったまま呟いた。
「断言するにはまだ早そうね。いずれにせよ、これは少し預からせてもらうわ。呪いだとしたら、解ける方法はあるかもしれない。けれど、今のままでは〈ピュルサン〉にも分からないそうよ。〈ピュルサン〉が言ったの。『彼女と会いたくば、日没後に水を張り、名を与えて呼べ』ですって」
霊の言葉に、笠は感嘆の声を漏らした。
「おお、それなら解決も早そうだな。よろしく頼むよ」
こうして、この曰く付きの人魚のトロフィーは、店の一員に加わったのだった。
さて、閉店時間がやってくると、いつものようにカーテンが閉まり、店内には独特の緊張感が漂い始めた。よほどお腹を空かしていたのだろう。戸締りを終えて、振り返る霊の目はすでに真っ赤だった。
対する私の方も、きっとお腹が空いていたのだろう。これよりもたらされる痛みに全身が熱ってしまっていた。霊は私に真っ直ぐ近づいてくると、頬に手を添えながら囁いてきた。
「今宵はちょっとだけ魔力を多く消費することになりそう」
「じゃあ……血をたくさん吸わないと、ですね」
ドキドキしながらそう答えると、霊は目を細めた。
「嬉しそうね。そんな表情を見ると、意地悪したくなっちゃう」
「れ、霊さん……」
期待で心臓が破裂しそうだ。しかし、分かっている。そんな暇などないのだろう。霊もまた軽く笑った程度で話を終わらせると、私の体をぐっと引き寄せた。
「お楽しみはまた今度に取っておきましょう。さあ、幽。今日の血はどんな味かしら」
囁く声にぞくりとしたところで、首筋に鋭い痛みが走った。愛する人の牙が中へと入り込んでいく。流血を伴うその感触は、確かに痛くて仕方ないけれど、同時にホッとするものでもあった。一つになっているという感覚で胸がいっぱいになるからだろう。
それに、誇らしくもあった。今日もまた私の血が、霊の健康を支える事になる。私の血が、この美しい人の全てを作る源に。血を吸われていくごとに、その想いが広がっていき、興奮と喜びが入り混じり、恍惚としてしまうのだ。
霊はそのまましばらくの間、私の血に夢中になっていた。だが、ふと口を放すと、私からだそっと離れていった。
「しばらくここで休んでいて。電話をしてくるから」
そうして、しばしの間、私は放置される事となってしまった。血を抜かれて眩暈を感じながら床に蹲り、私はしばらく惚けていた。
離れた場所で霊の電話の声が聞こえてくる。人魚のトロフィーを巡る、曼珠沙華の家との取引だろう。話し合いはスムーズに進んだようで、思っていたよりも早く霊はこちらへ戻ってきた。
暖簾をくぐる彼女の姿を見て、私は立ち上がった。やや眩暈がしたが、問題なかった。どうやら私の食事も無事に終わっているらしい。
「早かったですね……」
「ええ、そうね」
霊は軽く頷くと、カウンターに置かれたままの人魚のトロフィーに軽く触れた。
「これを巡っての最終確認をしてきたの。お預かりということは確定していたけれど、ランク査定その他はどうなるのか。電話をしたらすぐに伝えられたわ。ランクはA相当。名前も自由につけていいって」
「なるほど……では、正式に新しい家族になるんですね」
私の言葉に、霊は笑みを深めた。
「そう言う事になるわね。あとはこの子が認めてくれたらってところかしら」
と、霊は人魚のトロフィーを持ち上げ、その姿をまじまじと見つめた。
「短いやり取りだったけれど、曼珠沙華からこの子にまつわる補足情報をいくつか聞かされてきたの」
「補足?」
「ええ。事故にまつわる詳細と、お守りとしてのこのトロフィーの経歴ね。曼珠沙華調べってことで、少しは信用できそうよ」
霊はそう言うと、人魚のトロフィーをことりと置いて、私を見つめてきた。
「この子の加護を受けられるのは、どうやら特別な人だけみたい。人魚に気に入られた人だけ、というのが伝わっている条件だそうよ」
「気に入られた人……というのは?」
「すごく分かりやすく言うと、美男子だそうね」
「なるほど、美男子……」
「前の持ち主もなかなかの良い顔をしていたそうだし、その前もそうだったようね。けれど、必ずしも男子じゃなくてはいけないというわけじゃないみたいで、女性が持っていた事もあるそうよ。まあ、その女性も美男子に近いタイプだったようだけれど」
なるほど、カッコイイ人が好きなのか。
「それでね。問題はその持ち主がこの世を去った後の事。何事も起こらずに次の持ち主へ託された事もあれば、今回の汐引家みたいなおかしな状況になる事もあったそう。どうしてそういった事になるかは、やはりトロフィーに宿る者に聞かなくてはいけないみたい」
「本当に……聞けるんですか?」
「ええ、〈ピュルサン〉が読み取った手順に従えばね」
その内容は確か『彼女に会いたくば、日没後に水を張り、名前を与えて呼べ』だっただろうか。つまり、宿っているのは女性的な何か。やはり、人魚なのだろうか。
「名前も決めてある。〈ウェパル〉よ」
霊はそう言うと、〈ウェパル〉をそっと撫でた。
「向こうでさっそく試してみましょう。幽、元気だったらお風呂場で洗面器に水を張っておいてくれる?」
「は、はい!」
慌てて風呂場へと向かいながら、私は少し緊張していた。
あのトロフィーにはやっぱり妙なものが宿っているのだろう。忘れてはならないのが、それによって死者が出ているかもしれないということ。であるならば、恐ろしい存在なのだろうか。気に入られれば、問題ないようだが、残念ながら私は女性を惚れさせるようなカッコいいタイプのお姉さんではないし、霊もまた、そういうタイプではない。私達二人して嫌われたりしたら、どうなっちゃうのだろう。
不安を覚えながらも、私は言われた通り、洗面器いっぱいに水を入れたのだった。