後編
今でこそお楽しみ部屋なんて言っているけれど、かつての地下室はただの拷問部屋だったらしい。
らしいというか、考えてみれば当たり前なのだが、ここで眠る様々な器具を用いての拷問を受けて悦ぶのは私の中で咲く〈赤い花〉くらいのものなのだろう。
そういう癖の者だって、もうちょっとソフトな方が楽しいはず。そのくらいの傷を負いつつも、恐怖よりも悦楽で恍惚となるのだから我ながらぞっとする。
しかし、冷静になってくると、気付いてしまうのがこれらの器具を扱う霊の手腕だ。ここへ来た当初から、霊は拷問に慣れていた。そもそもそれらの道具がここに保管されているという点からしても察しがつく通りだろう。
私が来るまでの間は、ここも全く違う使われ方をしていたのかもしれない。だからこそ、だろう。ここから持ち出す事の出来ない器具を手にした霊の眼差しは、うっとりするほど望ましかった。彼女になら、殺されたっていい。そのくらい、私はどっぷりと浸かってしまっていた。
霊が酒に溺れるならば、私は霊に溺れているのだろう。それでも、楽しい時間もいつかは終わる。互いに満足しきってしまうと、ようやく私たちは時間を思い出した。
このまま抱き合ってひと眠りしたいという願望を抑え、霊の用意した臙脂色のバスローブを手に取った。生傷が増えた夜のお供でもある。その中にミノムシのようにそっと包まっているうちに、霊はいそいそと準備を整えていった。
手袋をはめ、〈フルカロル〉を並べ、道具が揃っているかを確認すると、〈フルカロル〉のカバーを外した。
何か手伝おう。そう思って立ち上がろうとしたのだが、血を抜かれたせいか眩暈がしてしまった。ふらつく私を横目に、霊は電源を用意しながら声をかけてきた。
「危ないからじっとしていて」
軽く命じるようなその口調に、私は黙って頷いた。
その後も霊は着々と準備を進めていく。〈フルカロル〉に後方のアームが付き、操作ノブがカチッ、カチッと回されると、カラカラと回転し始めた。
スクリーンに光が映し出され、霊がフォーカスを合わせていく。確認が終わると、再びノブが回される。アームの回転が止まると、次は前方のアームにフィルムが取り付けられた。白電の言っていた映像が記録されているあのフィルムだ。
静かに見守っているうちに、霊は丁寧に前方のアームと共にフィルムをセットしていく。その後も黙々と準備を進めていき、何度か動作の確認が行われると、ようやく投影の時間がやってきた。
スクリーンに光が再び映し出される。最後に再びフォーカスが弄られ、いよいよ上映が始まった。霊が地下室の明かりが落とすと、いよいよここは拷問部屋などではなくなった。小さなシアターだ。
「ようやくね」
霊がそう言って私の隣に座ったちょうどその時、映像は始まった。聞いていた通りだ。鴎の飛び交う港が映り、船が映る。何処か遠くへ行くのだろう。乗客やそれを見送る人々がたくさんいる中に、一人の男性と話す女性の姿があった。
にこやかに話しているその内容は分からない。聞こえるのはカラカラという〈フルカロル〉の音だけだ。やがて、場面が切り替わると、船が出航していった。
どんどん小さくなっていくその船を、先程の女性が手を振りながら見送っていた。
ここまでは聞いていた通りだ。とくにこれと言った違和感はない。不気味であるとすれば、この映像の女性や船の正体がよく分からないことくらいだろう。
と、しばらくすると、映像が再び切り替わった。先程の港の様子だ。再び船が映り、女性が映る。女性は先程と同じ人物だが、船はよく見ると違う。
話している相手も違うらしい。鴎が飛び交う港にて、彼女は再び船を見送る。構図は先程似ているが、違う日の、違う出来事のようだった。小さくなっていく船がしばらく映し出される。だが、再び場面が切り替わると、また別の日の港の光景が映し出された。
──これは。
何度も同じ映像を繰り返し見ていたようだと言われていたが、どうやら何度も同じような映像が繰り返し入っているらしい。別々の日に、別々の船を見送る同じ女性。撮影している人物との関係も、何も分からない。和気あいあいと話していて、殺伐としたものは何も感じないのだが、音がないせいか見ているだけで何故だか不気味に思えてきてしまう。
同じようなこの船を見送る映像が、少なくとも三十回以上は繰り返された。自主制作映画の撮影か何かだったのだろうか。そう思えてくるほどだったが、それにしても不可解だ。そう思っているうちに、映像は終わってしまった。フィルムがすべて巻き取られているのを確認すると、霊は私にそっと訊ねてきた。
「どう思った?」
シンプルなその問いに、私は俯きつつ答えた。
「ちょっと……不気味でした」
「そうね。得体の知れない映像ってそういうものよ。たとえその背景が本来は和やかなものであったとしてもね」
「あれって、なんの映像なんでしょう?」
「それは分からない」
「悪いものなんでしょうか……?」
「そうね……」
私の問いに霊はしばし考え込み、親指を軽く噛む。そして、一人、納得したように溜息を吐いてから呟いた。
「少なくとも、ランクの判定を見直した方がいいかもしれない」
「判定を?」
「ええ。雷様はB相当と言ったし、私も〈ピュルサン〉を参考にBと判定したけれど、Aにしておいた方がいいかもしれないわね」
「そんなにまずいんですか?」
Aは持ち出し厳禁だ。
もしも最初からAであれば、あのように白電に実物を見せる事もなかっただろう。
「雷様が念のために見るなと言ったのも、Bとしつつも異様な空気を感じ取っていたからなのでしょうね。でも、怖がらないで。どうやら、私たちには実害がないみたい」
目を細める彼女の断言に、私はようやくホッとした。
「……純血の人間がターゲットってことでしょうか」
溜息交じりに呟くと、霊は薄っすらと笑みを浮かべてこう答えた。
「いいえ、恐らく違う」
「……え?」
「この子はね、人を溺れさせてその精気を貪る類のものみたい。けれど、ターゲットとなるのは、何物にも溺れていない真面目な人達。お酒にも、ギャンブルにも、愛欲にも溺れていないような健全な人の魂を、〈フルカロル〉は好んでいる」
「……健全な人」
健全。なるほど、だから私たちはターゲットにならないわけだ。
とても耳が痛いことだが、ついさっきの事を思い出せば、文句など言えるはずもなく。ただただ恥じらうしかない私を面白がるように霊は笑い、そして力なく溜息を吐いた。
「何にせよ、白電さんに見せるわけにはいかないわね。彼がどういう人なのかは分からないけれど、危険すぎる。うまい言い訳を考えておきましょう」
そう言って立ちあがると、霊は私の頬に手を添えた。
「〈フルカロル〉のお片付けをするから、あなたはここで静かに待っていて。終わったら、傷の手当てをしましょう。その後で、また少しだけ血をちょうだい」
口づけを受け入れながら、私は密かに心を躍らせていた。
その後、夜遅くまで散々楽しんだためか、翌日は全身が痛かった。それでもすっと起き上がれたのは、私が魔女であるからだろう。〈赤い花〉に拷問と恥辱という名の栄養がいきわたったからこその事だ。
一方の霊も、今朝の目覚めは非常に良かった。それに機嫌も良さそうだった。朝支度をしていると霊は背後から音もなく近づいてきて、私を抱きしめてきた。
「……やっぱり、我慢なんてするもんじゃないわね」
そう言いながら、彼女は私の左胸に触れてきた。その途端、ぐっと欲望がこみ上げてきて、私は慌ててその手を抑えつつ、彼女に訊ねた。
「どうして我慢していたんですか?」
すると、彼女は身を寄せて、小声で答えた。
「躊躇いがあったの。あなたを傷つける事に」
「……躊躇い?」
問い返すも、それ以上は答えてくれなかった。はぐらかされたまま開店時間となり、その会話すら忘れかけてしまった。
そして、昼過ぎ、店には再び白電の姿があった。午前中に向こうから電話がかかって来たのだ。中身を確認できたと聞くと、すぐさま駆けつけてきた。どうしても気になったのだろう。そんな彼に対する霊の答えは、昨日聞いていた通りのものだった。
「残念ですが、フィルムは駄目になっていたようです。とても残念ですが、お見せできるようなものでもありませんでした」
「……そうですか」
やや腑に落ちない様子で彼は言ったが、すぐに再び顔を上げ、霊に訊ねた。
「あ、あの。では、せめて教えてください。あの映写機たちが、誰かの手に渡るような事ってあり得るんでしょうか」
不安そうな表情だった。そうでない事を願っているのだろう。そんな彼を安心させるように、霊はしっかりと告げた。
「それはありません。あれは非売品の代物としてこの店で管理することになりました。再び世に出回ることがあるとしたら、この店がなくなってしまう時でしょう」
彼女の言葉に、私は一抹の不安を覚えてしまった。だが、少なくとも白電は納得したようだ。ほっとしたように息を吐くと、ようやくその表情の硬さが抜け落ちた。
「すみません、色々とありがとうございました」
その後、彼はあっさりと帰っていってしまった。〈フルカロル〉の姿を見るという事もなく、なにかスッキリした様子で何処かへ行ってしまったのだった。
彼を見送り、そして閉店時間になってから、私はふと霊に言った。
「それにしても、良かったですね。白電さん、納得してくれて」
「ええ、そうね。彼にも迷いがあったのかもしれない。迷いつつ、友人と同じ道を進まねばならないのではないかと思い込んでいたのかも」
「これも〈フルカロル〉の力だったのでしょうか」
「さあ、どうでしょう。〈フルカロル〉が次なる獲物を欲しがっていたという可能性は勿論あるけれど……もしかしたら彼自身の心の問題もあったのかもしれない」
「心の問題……」
親しかった友人。その思い出を語っていた時の白電の表情を思い出し、私はそのまま沈黙してしまった。友人を亡くした彼は、これまでどんな思いで過ごしていただろう。寂しかったかもしれない。或いは、寂しさすら考えられなかったかもしれない。大切な思い出の果ての喪失感の中に彼がいたとしたら、友を奪ったかもしれない映写機に妙に執着してしまうのも分かる気がしたのだ。
でも、彼は帰っていった。その道を絶たれ、安心したように。これからきっと、思い出をそっと心の奥にしまいつつ、自分の時間を過ごすのだろう。そうであってほしいと願っていると、霊はふと私に言った。
「ねえ、幽。朝の話の続きをしましょうか」
「え……?」
戸惑う私を振り返る霊のその目は真っ赤に染まっていた。
「ここしばらく、私は自制しようとした。あなたのお父様を恐れての事よ。もしも、彼が愛娘を私に託すことを不安に思っているとしたら。その果てに、没収されるようなことがあったら、そう思うと怖かったの。彼の機嫌を損ねることが」
「……ああ」
彼女の言葉に私は納得した。隷属を寄越してまで迎えに来たという事は、常に私たちは見張られているかもしれないという事。
父が私を愛しているなんて信じることは出来ない。たとえそれが間違っていないとしても、その愛は、私の望む形ではないとしか思えない。
それでも、その庇護を拒めるほど、私は立派な魔女に成長できているかと問われれば、胸を張ることは出来なかった。
しかし、霊は言った。
「けれどね。無駄だと分かったの」
彼女はゆっくりと私の下へ近づいてきて、そして抱きしめてきた。
「今回、〈フルカロル〉が私に教えてくれた。私が溺れているのは、お酒なんかではないわ。どんなお酒も溺れるには足りない。もしも一人であの映像を見たならば、私もまた〈フルカロル〉に溺れておかしくなっていたでしょう。けれど、そうはならなかった。何故なら、私は、あなたに溺れているからよ」
ぎゅっと抱きしめられて、体が熱ってしまった。〈赤い花〉が悦びの悲鳴をあげている。そんな状況で、私は言葉すら発せられなくなっていた。
「だから、私も覚悟を決めないと。もう、あなたのお父様を恐れたりしない。ずっと私のものよ、幽」
唇を奪われ、興奮が最高潮に達すると、涙がこぼれてしまった。
溺れているのは私だって一緒だ。〈フルカロル〉が教えてくれたのだから、はっきりしている。良い事なのか、悪い事なのかなんて分からない。人はそれを共依存というかもしれない。そしてもしかしたら、父はそれを否定するかもしれない。
けれど、この道は私が決めたものだ。
──霊さん。あなたこそ。
唇を奪い合い、抱きしめ合いながら、私は必死に思っていた。
──あなたこそ、ずっと私のものですよ。