前編
溺れる。それは、海や川での事故に限らない。愛に溺れる、ギャンブルに溺れる、酒に溺れる。それらもまた溺れるということ。 海や川で溺れれば命に係わるわけだが、こちらの“溺れる”もまた人を破壊しかねない危険性がある。
たとえば我が主人・霊。彼女はよく酒に溺れる。もともと自制心が働かないタイプだったのだろう。大好きなお酒を飲み過ぎて、結果、翌日まで体調不良を引きずってしまうのも珍しくはなかった。
最近は少しマシになった気がする。少なくとも私が一緒に暮らすようになってから時が経つにつれ、酒瓶の減りも段々と遅くなってきたように思う。〈赤い花〉の血が役に立っているのならば何よりだが、それでも、酒断ちをしたわけではないのもまた確か。
ここ半月ほど、霊は酒の量が増えてしまった気がする。もともと酒乱の家系だったと言われているそうなのだが、あまり良くない事だ。
理由を聞いてみれば、飲まずにはいられないとだけ返ってくる。酒に逃避したくなるのは精神的な渇きなのか、肉体的な渇きなのか。どちらかは分からない。
ただ、気づいていることが一つある。酒の量が増えたのと同じくして、私の血を吸う回数とその量が減っているのだ。それが毎日続くにつれ、霊の酒の飲み方もおかしくなっていった。
私が心配してしまうのは、翌日も普通に店を開けるという夜もこんな状況であることだ。ぎりぎりまでベッドで眠り、たまにどうしても起きなくて遅刻してくる。
どうしても無理な時は私が一人で店に立っていてもいい。店主でないと対応できない客が来た場合のみ、呼べばいい。だが、約束がある日はそういうわけにもいかない。
この日は、笠と八雲と会う約束があった。予定では昼過ぎ。その時間ぎりぎりに霊はどうにか起きてきて、始終、気怠そうに生あくびを堪えながらカウンターで待っていた。
約束の時間通りに二人が顔を出した後も、いつものような雑談も疎かに、来客用の蘭花のテーブルを指さした。
「さ、座って」
その様子が流石に気になったのだろう。
「大丈夫かい? 顔色が悪いようだけれど」
開口一番、八雲にそう言われ、霊は気怠そうにしながらも答えた。
「大丈夫よ。でも心配してくれるなら、さっさと済ませましょう」
その口調の余裕のなさに気づいたのか、笠も八雲も顔を見合わせ、それぞれ頷いた。
蘭花のテーブルに、八雲の手でポンと置かれるのは銀色の風呂敷。それが解かれると、現れたのは映写機とフィルムのセットだった。
「お電話いただいた通りの代物のようね」
眠そうにしつつも、霊は目を細める。
古物を前にわくわくするだけの余裕はあるらしい。そんな彼女の態度に少しホッとした様子で八雲は口を開いた。
「家庭用映写機です。状態がいいのでちゃんと動きました。フィルムは三つありますが、二つは空。一つは映像が記録されているみたいだね」
「……みたいってことは、八雲は確認していないのね?」
霊の指摘に、八雲は頷いた。
「ええ、これを持っていた知り合いの古物商の証言です。確か、船を見送る女性のサイレント映像だと言っていたかな」
「雷様がこのフィルムを見るなり、中身を確認するのは少し待てとおっしゃってね」
と、笠が狸姿で腕を組みながら言った。
「なので、俺たちも見てねえ。雷様もそうさ」
「これについて知っている情報は、全てもともと持っていた古物商のお話です」
八雲が補足すると、霊はこくりと頷いた。
「分かった。確認のためにこれの経緯をもう一回聞かせて」
霊の言葉に八雲は短く頷くと、さっそく語り始めた。
この映写機は、遺品であるらしい。ある男性が亡くなり、その遺族が八雲の知り合いの店に持ち込んだものだった。
家庭用の映写機とフィルムということで、では一つだけ記録されているその中身も家族の思い出なのではないかと思いきや、どうやら男性の遺族はその映像の出所を知らず、船を見送っている女性の正体も分からないのだという。
妻や母、姉妹などでないのならば、かつての恋人だったのだろうか。いずれにせよ、男性はこの映像が気に入っていたらしく、たびたび自宅のシアターで何回もこの映像を眺めて酒を飲んでいたそうだ。
「出所の分からない映像……なんだか不気味ね」
霊がそう言うと、八雲もまた頷いた。
「ええ、だから、その人の遺族はやっぱり不気味だってことで、すぐに古物店に持ち込んだってわけです」
「そんで、たまたま立ち寄ったこいつがこれに気づき、引き取って来たってわけだ」
どうやら八雲の知人であるというその古物商は、魔の血を引かぬ人間であるらしい。オカルト的な曰く付きの古物も好んで扱っているらしいのだが、映写機の正体やその力を正確に見抜けるだけの目があるわけではない。だからだろう、八雲が欲しいというと、二つ返事で売ってくれたのだという。
「八雲はどこが気になってこれを買い取ったの?」
霊が訊ねると、彼は軽く顎をかきながら答えた。
「そうですねぇ。やはり、ここから漂う禍々しさでしょうか。中身を見るなと言われて以降も、触るだけ触ってみたのですが、やはり映写機と映像が記録されているフィルムを近づけた時だけ、ざわめきのようなものを感じるのです」
「……そう。雷様の話と相違はなさそうね」
霊は一人納得したようにそう呟くと、さっそく手元に置いてあったルーペの〈ピュルサン〉に手をかけた。
「雷様の判定はランクBだったかしら」
「ああ。恐らくこれは人間を虜にするだろうとのことだ。しかし、悪質性はそう高くない。封印するほどではないだろうとのこと」
「分かったわ。さっそくこの子にも訊ねてみましょう」
そう言って霊は〈ピュルサン〉を手に映写機をしばらく見つめた。そのままじっくりと確認していたが、やがて、溜息と共に〈ピュルサン〉を置くと、静かな声で告げた。
「〈ピュルサン〉の情報を見た感じ、ランクB相当で間違いないようね」
そして、彼女はそっとフィルムの一つに触れた。
「この子はこのフィルムとセットでなければ悪さをしない。恐らく、別のフィルムを持ってきたとしても、雷様の見抜いた悪い力は発揮されないでしょう。逆に、このフィルムも一緒。別の映写機で観たとしても、同じく悪さはしない。〈ピュルサン〉はそう教えてくれたわ」
彼女の言葉に、八雲と笠は少しホッとしたようだった。
「うむ、それなら心配はいらないな。では、ランクB相当として預かっておくれ」
笠の言葉に続き、八雲もまた頷いた。
「その映写機にとっても、この店で保管されるほうが幸せでしょうしね」
「そうね。違いないわ」
霊は誇らしげにそう言うと、ふと眼差しの色を変えて八雲に訊ねた。
「ところで、この存在を知っている人って、あなたや曼殊沙華の関係者以外にどのくらいいるか分かる?」
「ええと、そうですね。最初に引き取った古物商の知人以外だと、これを持ち込んだという元の持ち主の男性の遺族の方や、あとは、その方と交友のあった人くらいでしょうか」
「彼らはこの子の力をどのくらい知っているのかしら」
「さあ、どうでしょうね。故人が異様に気に入っていたという話はしていたそうですが、不気味がっていたそうですし、関わりたがらないでしょう。ちなみに古物商の知人は、映像の中身を確認したようなのですが、特にこれといった異変はなかったようです。ただ、危険で扱いに困るような代物ならこれ以上は関わりたくないと言っていましたよ」
八雲の言葉に霊は納得したように頷いた。
「それなら心配はなさそうね。この子には静かに眠っていて貰えそう」
──そうであればいいのだが。
端で黙って聞きながら私はそんな事をふと思った。
さて、笠と八雲が帰っていくと、あっという間に日は暮れて、閉店時間になってしまった。店のカーテンが閉まり、鍵も閉まれば、ここは途端に二人だけの食堂となる。
場合によっては昼食抜きとなる事も多いものだが、近ごろは、朝もろくに食べていないことがある。今日もまた、霊は昼まで寝てしまっていたので、お腹がペコペコだったらしい。対する私も飢えていた。魔女の性を満たさなければ。その為に命の危機すら感じる痛みと苦しみを求め、生と死の選択を他者に委ねる悦楽に、左胸の〈赤い花〉をどっぷりと浸していく。それが楽しくて涙が出そうなほどだった。
「嬉しそうね、幽」
一頻り血を吸うと、霊はそう言って、私の頬に爪を立ててきた。
「一晩寝かしたお陰で、また味が濃くなったみたい。おかげでとても美味しいわ」
「光栄です……」
だが、その一方で心配だった。間近で見れば、霊の顔色はあまり良くない。吸血鬼なのだから普通だとかつては思っていたが、血を十分に吸って、満足している時の霊は、もっと血色が良いものなのだ。
だから、私は自ら霊にしがみつき、縋るように言った。
「もっと奪ってください……痛みが欲しいんです」
「いいわ。あと少しだけね」
そう言うと、霊は私の体をカウンターに寝かせ、上から覆いかぶさって胸元に噛みついてきた。痛みと、血を抜かれる感覚。その死の気配に、気持ちが昂る。だが、私にもたらされるのは、恐怖よりも興奮の方だった。愛する人の舌を悦ばせていると思うと、幸せだったのだ。
しかし、楽しい時間もいつかは終わる。霊が満足して牙を離すと、途端に寂しさが生まれた。求めるような私の眼差しに気づいたのだろう。霊は血の滴る口元を拭うと、そっと笑いながら言った。
「これ以上は駄目。また明日ね」
そして、あっさりと身を引いてしまった。
もっと楽しみたかった。そう思いつつも身を起こすと、霊は余韻すら楽しまずに蘭花のテーブルへと歩んで行ってしまった。
風呂敷に包まれているのは、笠と八雲が持ってきたあの映写機だ。どうやら、そちらに意識は向いてしまったらしい。少しだけその事実に嫉妬していると、霊は独り言のように呟いた。
「〈フルカロル〉……この名前にしましょう」
「今の間、ずっとそれを考えていたんですか?」
焼きもちを隠し切れずにそう言うと、霊は私をちらりと振り返り、面白がるように微笑んでから映写機──〈フルカロル〉の入った風呂敷を軽く撫でた。
「幽の血のお陰で頭が冴えただけよ、焼きもち焼きさん」
からかうようなその調子はいつもと変わらない。だが、私は何となく分かってしまった。
霊の目はもう赤くなる気配すらない。きっと今宵も、私の血を吸う代わりに、お酒を飲んでしまうのだろう。