後編
黒日陰。その女性に触れられた瞬間、ふっと周囲の音が止んだ。何が起こったのか分からず混乱し、私は辺りを見渡した。そして、中庭にて気ままに飛んでいた蝶の姿が目に移った時、私はようやく理解した。
──時間が止まっている……?
翅人の操る魔術について、別に詳しいわけじゃない。〈アスタロト〉にそれとなく聞いたことはあったが、出てくるのは飽く迄もこの世に出回ったことのある書物の内容だけ。口伝などで文字に起こされていない場合は出てこない。
一応、時間にまつわる術というのは存在する。魔女にも使えるみたいだが、それを破って逃れるにはそれなりの修行と、そして何よりも才能が必要になる。生憎、私にはそのどちらも足りなかった。
「あ……ああ……」
身に迫る危機に気づき、私はこの黒日陰という翅人女性から離れようとした。だが、どういうわけだろう。足に力が入らず、凍り付いたように動かない。体の自由が利かなかった。そんな私に対し、黒日陰はそっと囁いてきた。
「どうか怖がらないで。あたしは敵ではありません。勿論、主様も」
穏やかな口調だが、それがむしろ怖かった。
「は……放して……」
震えながら訴えるも、黒日陰は溜息交じりに首を振った。
「いいえ。そうはいきません、幽様」
──様?
その敬称を不思議に思う私に対し、黒日陰は私の手を掴んだままそっと膝をついた。
「あなたは、あたしの主様にとって、とても大事な御方なのです。だから、どうか、怖がらないで。まずはあたしの話を聞いてください」
見上げてくるその眼差しに、敵意は感じない。緊張しながらも、私はひとまず気持ちを落ち着かせ、黒日陰に訊ねた。
「話って……何ですか?」
そもそも、主様というのは誰なのか。
様々な疑問に取りつかれ混乱してくる中、黒日陰は跪いたまま、私に言った。
「まずは身分を明かしましょう。先程も述べた通り、あたしはもともと曼殊沙華の家の協力者でした。今もあたしの親族の者が、情報屋として活躍している事でしょう。それとほぼ同じことをしていたのです。ですが、それだけではありません。吸血鬼狩りをされていた頃のあなたのお母様のこともよく存じております。手伝った事もありますから」
「……お母さん」
違和感は強まる一方だった。何故なら、この黒日陰という人物の見た目が見るからに若かったからだ。〈アスタロト〉が教えてくれた知識が正確ならば、翅人は順当に年を取るはず。それに照らすならば、この人は嘘をついていることになる。母の現役時代を知っているのであれば、さすがにこんな若い見た目ではないだろう。
しかし、絶対にないという事も言えなかった。翅人が年を取らない。そういう場合があることも知っていたからだ。鍵となるのは黒日陰が主様と呼ぶ存在。その主様の正体と、黒日陰の関係次第では、あり得る。あり得るパターンがある。それは、翅人がある種族に囚われ、支配されている時だ。
「あなたは……何者なの?」
再び問う私に、黒日陰は答えた。
「あたしの名前は黒日陰。あなたのお父様である天様の僕です」
息が詰まりそうだった。前に目撃した父の姿が脳裏に浮かぶ。接触してこないはずがない。そうは思っていたけれど、あまりに突然の事で怯えてしまった。それも、よりによって曼殊沙華の本家で堂々と。
「……放して……放して!」
ようやく大声を出すことが出来た。しかし、黒日陰は全く動じなかった。下手に出ているものの、まるで見降ろされているような威圧感があった。
「大声を出しても無駄ですよ」
穏やかに、だが、ぴしゃりと黒日陰は言った。
「この術は鬼神様たちには破れません。同じく華胄や白妙もそうでしょう。魔女の心臓を持つ者は言わずもがな。そうであれば、あなたを捕えることなど出来ませんからね」
「お願い、放して。話ならいくらでも聞くから……!」
怯えが生まれ、震えが生まれる。だが、黒日陰は手を離さなかった。掴まれている間は、逃げる事も出来ないのだろう。それがあまりにも怖かった。
「いいえ、放しません。ですが、説明はいたしましょう。あなたは今、とても危険な立場に置かれております。今すぐに安全な場所に逃げた方がいい状況にあるのです」
「どういう事?」
「今、曼殊沙華では会議が行われている事はご存じでしょう。魂を奪う首輪を使用するよう、雷様が脅されている。周囲の動き次第では、曼殊沙華は圧力に屈することになるかもしれません。それだけならば構いません。しかし、その使用に囮役が必要となれば話は別です」
「囮……囮って……」
狼狽えながら繰り返す私に、黒日陰は囁いてきた。
「幽様。落ち着いて聞いてください。囮役として、あなたの名前が挙がっているのです。蛇神をおびき寄せるには、格好の餌になるとして」
そんな話、知らない。だからこそ、驚いてしまった。
黙り込むしかない私に、黒日陰は続けた。
「かつて、主様にあの首輪が向けられそうになった時、囮役を買って出たのはこのあたしでした。マテリアルに名前を知られたからには、きっと逃げられない。いずれは殺されるか、捕まるかの二択だろう。そう判断し、あたしは覚悟を決め、主様を脅威とみなす人々と協力したのです。当時はそれだけ、あなたのお母様を救いたかった。けれど、それが間違いであったことを、あたしは身をもって知りました。計画は失敗し、あたしは主様の影に囚われた。そして、その後、あなたのお母様は助け出されたのだけれど──長くは生きられなかった」
結局はその後で、何者かに殺されてしまったのだ。
「あなたのお母様である憐様が亡くなった際、主様は相当悲しまれました。彼女を守れなかった曼殊沙華の家を呪いました。だから、もう、あんな思いはしたくないのでしょう。信頼できない場所に愛する娘を託せるはずもない。そこで、あたしを差し向けたのです」
私は父を知らない。ただただ母にした残酷なことしか知らない。私自身が父に愛されていたかどうかなんて知らないのだ。
もしかしたら、黒日陰のいう事は本当なのかもしれない。本当に、心配しての事なのかもしれない。
──でも。
「さあ、話は終わりです。そろそろ行きましょう。ここから遠い、静かな場所でひっそりと暮らすのです。あなたが良い子であれば、愛する人もいずれは一緒に暮らせるはず。だから、安心して。あたしの目を見てください」
黒日陰の言葉が、私の思考をかき乱してくる。だが、その力に心が靡きそうになる一方で、抵抗も生まれた。
──駄目だ。
けれど、身体が動かなかった。このままだと、私は。
恐怖で心がいっぱいになった。そんな時だった。
「話は終わったのね、黒日陰」
冷ややかな、けれど、安心する声が響いた。気づけば、その声の主は私のすぐ背後にいる。後ろからそっと抱かれ、途端に体がふっと楽になった。
黒日陰は彼女を見つめ、そして笑みを引っ込めた。
「ああ、そうか。さすがにあなたは出し抜けなかったのですね。哀……いいえ、今は霊という名前だったかしら」
その名前を知っている。それはつまり、古くからの知り合いであるという事だ。
「ちゃんと把握しているのね。あなたのご主人様も同じ?」
「答える義理はないわ。もっとも、マテリアルとその奴隷の関係については、あなたの方がよくご存じなのではなくて?」
黒日陰はそう言って妖艶に笑んでみせた。だが、すぐに空しそうな表情に戻り、ため息をついて、私の肩から手を離した。
「さすがに純血のマテリアルであるあなたとやりあう気はない。あたしの負けでいいわ。だけど、確かめさせて。話し合いはどうなったの? その結論次第では主様が動くことになるかもしれないわね」
「それならば、お伝えなさいな。約束しましょう。私の目の黒いうちは、この子に囮役なんてさせたりしない。お父様がわざわざ口を出してくる必要はないと。私だって、その為にずっと戦ってきたの。曼殊沙華だろうと、白妙だろうと、銀箔だろうと、舞鶴だろうと、そして〈鬼消〉だろうと、関係ない」
霊の言葉を黒日陰は鼻で笑う。
呆れたような表情ながら、それでも、彼女は頷いてくれた。
「分かったわ。一応、伝えておきましょう。……それにしても、主様を怒らせたことを恐れて、わざわざ名前まで変えて、主様から隠れ潜んでいた臆病者のくせに、結局は〈赤い花〉の血に溺れ、その娘を囲ってしまうなんて、本当に愚かな人。だけど、主様はあなたが思っているよりもずっと慈悲深い御方よ。きっかけはともかくとして、今はあなたも可愛い娘の宝物。それを主様は十分理解していらっしゃる。誰に仕えるべきか、よくよく考えておきなさい」
「失せなさい。他のマテリアルの奴隷の言う事なんて聞く価値もない」
冷たく突き放す霊の言葉に、黒日陰は静かに笑った。そして、そのままスッと姿を消してしまった。違和感が消えたのはそれからすぐ後の事だった。
音が戻ってきた。庭の蝶が再び羽ばたき、これまで意識すらしていなかった様々な雑音が聞こえてくる。密かにホッとする私を、霊は力強くぎゅっと抱きしめてきた。
「間に合って……よかった」
その静かな声で我に返り、私は霊の手にそっと触れた。
「霊さん……私の為に悩んでいたんですね……」
「そう言う事になるかしらね」
はぐらかすように呟く彼女にそっと寄り添い、私は言った。
「でも、私だって囮役くらいなら──」
しかし、言いかけたところで、霊は腕に力を込めた。
「いいえ。こればかりは駄目。絶対に許可できない。夜蝶を捕えた時にもあなたに囮役をやってもらったわね。あれでさえ危険だったのよ。ましてや信仰を失ったとはいえ神と崇められたような怪蛇だなんて……」
必死な態度の霊の言動に、私はそれ以上、何も言えなかった。
私を信じているとか、いないとかの話ではない。して欲しくない。ただその気持ちが伝わってきたのだ。
それに、霊のことだ。私の為だけではないだろう。その事が頭に浮かび、私は霊の手にそっと触れたまま、囁いた。
「それって、〈ライム〉の為でもあるんですか?」
ややからかうような態度になってしまったが、霊はそっと笑ってくれた。
「……そうね。その通りよ」
声を震わせつつ、強がるように彼女は言った。
「〈ライム〉はね、〈神の手〉の心臓を持つレイヴン博士という人が怪物の被害に悩む人々の依頼を受けて作ったといわれているの。人々の願いは怪物退治だったけれど、レイヴン博士は支配することを願った。それはね、怪物を傷つけないためでもあったの。相手は世を乱す恐ろしい魔物。だけど、幼体の頃は少年時代のレイヴン博士と友達だった時期があったみたいなの。だから、どうしても殺したくなくて、生け捕りにする手段を取った。無事に怪物を支配下に置いたレイヴン博士は、そのまま研究所の中で怪物をひっそりと飼っていた。そして、その怪物が天寿を全うすると、もう二度と、首輪を使う事はなかったのですって」
霊は語り終えると、私の胸元に触れてきた。〈赤い花〉の鼓動を確かめながら、霊は愚痴るように囁いてきた。
「私はね、この首輪──〈ライム〉をそっとしておきたいの。これを使って、あなたのお父様を捕まえるっていう話が進んでしまった時は、結局、止められなかった。だけど、今度は違うわ。相手が誰であろうと、首輪は使わない。ましてや、あなたを危険な目に晒してまでだなんて……」
悲痛なその想いが伝わってきて、触れらている胸がズキリと痛んだ。事情は何であれ、ここまで聞かされれば、私の答えなんて一つしかない。
「霊さんがそこまで辛いというのなら、囮役なんて引き受けません。〈ライム〉の使用自体にも反対します」
私の言葉に、霊はようやくホッとしたようだった。腕の力が弱まり、解放され、私は振り返った。すると、振り返り様に霊は私の唇を奪ってしまった。
不意を突かれる形で唇を重ね、戸惑いと喜びに思考が止まる。静かに口づけを受け入れていると、やがて、霊は唇を離して、正面から私を抱きしめてきた。
それから数日後、各一族による話し合いの決着はついた。
正々堂々とした〈鬼消〉からの交渉は、曼殊沙華と舞鶴、それに白妙の強い反対により決裂。〈ライム〉の使用は見送られる事となった。
これで一安心。そう思いたいところだ。だが、私の胸にはずっと不安が残っていた。
黒日陰。それに、私の父である天。危険を察知して無理してでも連れ去ろうとした彼らの事が、不気味だった。
これからもまた、父は黒日陰を差し向けてくることがあるだろうか。その未来を思うと、不安と共に妙な覚悟が決まった。
──愛する霊を、私たちの居場所を、守らなければ。