後編
初めは霊が冗談を言っているのかと思った。
けれど、そうではないのだとじわじわと理解した。なぜなら、霊はそういう人じゃないからだ。冗談好きでも、客商売をしているときはわきまえる。そもそも、おかしかったのだ。いくら金にならない客人でも、完全に無視をするなんてあり得ない。求められれば応じ、態度の差はあれども最低限の願いを叶えてやるのが彼女の店主としての役目なのだ。
それなのに、そう、霊は昨日から無視し続けていたのだ。私からすれば居るようにしか見えない少年のことを。
「……そんな……だって」
霊の目が怪しく光る。牽制しているようだ。しかし、その視線は正確に少年を捕らえてはいない。何処にいるのか探っているようにも見える。ただならぬその気配に、私は震えた。目の前にいる少年が、いきなり怪物にでもなったかのようだった。
「幽、そこから離れなさい」
鋭い声で言われ、従った。少年は少年のままだ。ただ笑っている。場違いなほど穏やかな表情を見せている。青白い光は薄い。昨日見た七五さんのものよりもずっと薄い。そう、薄いのだ。生者にしては薄すぎる。
「……亡霊?」
呟く私のすぐ横に、霊はいつの間にか来ていた。手をしっかりと握られ、少しだけほっとした。霊は探りつつも、私の視線を頼りに少年の居場所を捉えようとしている。その様子に、やっと私は実感した。
彼女には見えないのだ。彼の姿が。
「安心して。亡霊なんかじゃない」
霊はそれでもそう言った。
「死霊。魔物の一種よ。〈赤い花〉の天敵でもある」
「でも、リヴァイアサンの色が……」
「死霊は死人の姿と記憶を借りてこの世をうろつく。人間の姿を借りているのでしょう。そんな姿をしているはずよ」
そう言われ、私は肯いた。
「学生の姿を……」
「そう」
「霊さんには見えないんですか?」
「姿を隠している。私を恐れているのでしょう。死霊が惑わすのは人間の血を引くものだけ。私はその血を引いていない」
でも、と霊は少年のいる辺りを睨み付けながら言った。
「何となく理解しているわ。特定の品物に引き寄せられる子。この時期にこの店に来る者。そいつ、七五さんの息子の姿を借りているのね」
少年が笑みを深めた。〈赤い花〉の天敵。そう言われても、すぐには実感できない。だって、さっきまでは普通に話していたというのに。
「なるほど」
少年が呟く。声色が変わり、その姿が妙にくっきりして見えた。霊の視線がようやく一つに向く。今、見えるようになったのだろう。
「平和ボケした吸血鬼のもとに魅力的な獲物がいるって聞いて、ちょうどいい死人を見つけてきたんだが、どうやらガセだったらしい」
開き直って笑う。姿は少年のままだ。霊の表情が険しいものになる。彼の姿に嫌悪感を抱いているようだ。
「こうもはっきりとバレちゃったら、もう笑うしかないや。あんたとオレが戦ったところで消し炭にされるだけさ。あんたもつまらないだろ? な、見逃してくれよ」
「見逃すも何も、死霊は滅ばない。私が出来るのは死人を解放し、二度と死霊のものにならないようにするだけ」
「おいおい、そこまでしなくたって」
茶化すように喋る少年を、霊は指さした。はめられている指輪が輝く。〈ハウレス〉という名前の赤い指輪。その輝きを見た瞬間、私はもう勝敗を予感していた。
そして、予想通りの結果がもたらされた。
店じまいの後は、いつにも増して静かだ。
薄暗いリビングにてラジオの音声が響き渡る。何の話をしているか、そもそも何の番組なのか、耳を傾けている余裕が今の私にはなかった。目の前のテーブルには温かな緑茶が置かれている。当たり前の食事を必要としない私たちでも、こうして何かを食べて飲むということは、気分転換になる。
緑茶を淹れてくれたのは霊だ。季節を考えると熱い飲み物なんてといつもなら思うけれど、今は違う。寒気が治まらなかった。カップに触れて温かみを感じていると、心の底からほっとした。
霊は私の向かいに座り、静かに見守ってくれた。話題を無理に提供したりしない。何かしゃべるようにと強制するわけじゃない。まるで初めて会った時のように、彼女は適切な距離を置いてくれた。
でも、いつまでもこの空間にいるつもりはなかった。カップの温もりを味わいながら、私は自分から口を開いた。
「全く気付きませんでした」
反省を述べる。
「死霊って初めて見ました。何もかも普通の人間みたいで……その……倒されるときだってまるで――」
言いかけて、すぐにやめた。
〈ハウレス〉の指輪は魔力を増幅する。その恩恵を受けた吸血鬼の力は、死者の名を穢す死霊の身体を引き裂いた。その光景は、現代の平和な乙女椿国に生きるごく普通の人間には絶対に見せてはいけないようなものだった。
まるで人殺しのような、なんてどうして言えるだろう。目の前にいる私の愛する主人が人殺しだなんて間違っても言えるはずがない。呆然としたままに何てことを言いだしたのだとすぐに後悔した。しかし、霊は平然としていた。緑茶を少しだけ飲み、落ち着いてから答える。
「人殺しのようなものよ」
その声は寂しげだった。
「彼の姿を覚えている。彼の死に際には立ち会ったの。だからこそ、死者を愚弄する死霊は許せない。許せないけれど、彼らを滅ぼしたときのこの感覚は正直言って心に来るものがある。死者を解放するなんて、自分を慰める表現に過ぎないもの」
「霊さん、御免なさい」
その目を見ることが出来なかった。
「死霊が来たのは私のせいです。私がここでお世話になっていなかったら、霊さんにそんな思いをさせずに済んだのです……」
心底、悔しかったし、恥ずかしかった。これは魔女の性を満たしてくれない恥辱でもある。魔女としての自覚やプライドが目覚めかけてきたからこその感覚なのだろう。死霊を見抜くことが出来ず、霊に嫌な思いをさせてしまったことが悔しくて仕方なかったのだ。
「幽のお馬鹿さん」
けれど、霊は言った。私を真っすぐ見ながら。
「私がちょっと不快になったからって、気にし過ぎよ」
それよりも、と霊は立ち上がり、私のすぐそばへと近づいてきた。頬に手を添えられ、目を合わせる。彼女の前でこうして涙を見せるのは何度目だろう。情けなくて泣く涙。辛くて泣く涙だけではない。出来るならば、彼女には嬉し涙ばかり見せていたいものだ。
視界がゆがむ中、私は霊の顔をまじまじと見つめた。その表情には怒りのようなものがほんの少しだけ浮かんでいた。
「それよりも、何? 『私がここでお世話になっていなかったら』?」
頬に爪が食い込んでくる。その目は吸血鬼であることを隠そうとしない。
「冗談もほどほどにしなさい。何の権利があってそんなこと言っているの?」
「霊さん?」
少し恐怖を覚え、無意識に抵抗しようとしたその手首をぐっと掴まれた。
「あなたは誓ったでしょう。私専用の〈赤い花〉になるのだと。私のために咲き、私の為にその赤い蜜をくれるのだと。そう言ったわよね」
「……はい」
「だったら、私の望みは分かるでしょう。もう二度と、そんなことは言わないで。私のことを大切に思うのなら、目の前から絶対にいなくならないで」
ああ、これも主従の魔術のせいなのだろうか。
両肩を掴まれながら、霊は真剣な顔で私を見つめていた。本気で言っている。本気で私を求めている。その事実が嬉しくて仕方ない。ただ、主従の魔術のせいだとしたら。そんな疑惑が脳裏に影をおとしている。
主従の魔術を教えてくれたのは〈アスタロト〉だ。でも、〈アスタロト〉に聞いても、こればかりは分からないだろう。
「……すみません」
ただ私は答えた。
「すみません、霊さん」
目の前の主人は私を求めている。それだけ分かっていれば十分だった。
「私、役立たずで……強くなくちゃいけないって思ってました。でも、霊さんが死霊を倒した時、怖くて震えてしまいました。なんて情けないんだろう。守ってもらうばかりで、震えていることしかできないなんて」
「無理に強くなろうとしなくたっていいの。私のことをもっと頼ってくれていい」
強く抱きしめられて、私はぼんやりと思った。前にもこんなことがあった気がする。いや、ここに来て、霊と共に住むようになってからは、何度もこういう事があった。ある時は私が霊に諭し、ある時は今日のように諭される。まるで最初から二人で生まれてきたかのような感覚だった。
「――ありがとうございます」
縋られているのは私の方だろうか。強く、圧倒的な力で守ってくれた吸血鬼なのに、いつの間にか私よりもずっと霊の方が震えているような気がした。
霊はしばらく私をしっかりと抱きしめると、そっと背中に指を這わせていった。戯れ程度のふれあいだ。官能的というには弱く、ただ共にこうしていられる嬉しさだけが生まれた。その後、霊は言った。
「〈サミジナ〉も困った子ね」
店はいまも沈黙しているだろう。そこに収められている金印を思い浮かべようとしてやめた。人間とばかり思っていた学生の姿を思い出してしまうからだ。
「あれは不幸を呼ぶ品物。悲しみを生み出す忌まわしき物と言われている。三年越しにやっとはっきりとしたわ。やっぱり〈サミジナ〉のせいだった。〈サミジナ〉を利用することで、吸血鬼同士の抗争に蹴りをつけたかったのかしら」
「その後は、誰かが盗みに来るようなことはなかったんですか……」
「――なかったわ。きっと私や笠が警戒するようになったからでしょうね。どちらかが〈サミジナ〉の存在を知り、七五さんの息子を唆して盗ませようとして、どちらかがそれを阻むために翅人に彼を殺させた。やっぱり、〈サミジナ〉だったんだ」
「これから、どうするんですか? 〈サミジナ〉は……」
不可思議な力を持ち、居場所を失った品物。物自体に悪意があったわけではないだろう。それでも、あれは危険なのかもしれない。何より、霊が心配だった。吸血鬼同士でいがみ合うというのなら、霊だっていつ暴力を向けられるか分からないのだから。
しかし、彼女はやはり冷静だった。
「どうもしないわ」
落ち着いた声でそう言った。
「此処で預かっているのが一番安全だもの。今日のことだって、かつて関わって来た吸血鬼たちとは無関係だと思う。あの死霊はただ狩りをしに来ただけなのでしょう。肉体を破壊して、追い返したから心配ない。一度破壊され、解放された死者は、死霊に囚われずに済むと言われているわ。もう二度と、あの人が利用されることはない。だから、奴も亡霊のようにここに侵入できることも、もうない」
「そう……ですか」
もう二度と、あのような脅威はふりかからない。ほっとしたのと同時に、二度も死ぬこととなったかの少年に思いをはせた。二度目の死は彼のものではないだろう。しかし、辱められたのも同然だ。もちろん、霊のせいではない。死霊によって彼は名誉を傷つけられた。これまで何となく知識として理解していた死霊というものが、今までとは全く違って思えた。
「死霊って、どうして存在するのでしょうか」
霊の温もりに縋りながら、私は呟いた。
「この世に不幸をばらまくため? 〈サミジナ〉のように、意味もなくただ存在するだけなのでしょうか」
得体の知れない病気のように。
「吸血鬼のように、あるいは、魔女のように、彼らは存在しているだけよ」
霊はすぐに答えた。
「死霊はただ本能に従って存在しているだけ。その一部が思想と欲望によって私たちの世界に関わろうとする。わざわざ関わってくる死霊には気をつけないといけない」
それは私に言い聞かせるというよりも、自分に言い聞かせているようだった。
霊に慰められているうちに、緊張はだいぶ解れてきた。ラジオでは今日のニュースを放送しているが、内容までは耳に入ってこない。時計の針の音が心音と重なり、心が落ち着いていくのが実感できた。
「それに、あなたは役立たずなんかじゃないわ」
霊は優しく囁いた。
「あなたがいたから、〈サミジナ〉があの事件に関わりがあったのだって知れた。これはとても貴重な事よ。あなたのお陰で知れたこと」
その優しい囁きは、私が求める慰めに違いなかった。獣のように頭を撫でられる感触がとても嬉しかった。
「だから、そんなに自分を貶さないで、幽。あなたを辱めていいのはこの私だけなのよ」
その囁きが媚薬のようだった。
「霊さん」
歪んだ関係だと思う。でも、魔女も吸血鬼もこの世界の歪みにしか存在しない。そもそもの存在がそうなのだから仕方ない。霊を抱きしめ、抱きしめられ、私は心から彼女に愛を囁いた。
「愛しています。ずっと一緒にいます。傍を離れたりしません」
霊の店には品物がある。人々から恐れられ、脅威として認識されているものばかりだ。〈サミジナ〉は、もしかしたらこれからも恐ろしい何かを引き寄せることがあるのかもしれない。抗争の火種となり、悲しみを産むのかもしれない。
でも、〈サミジナ〉は私に教えてもくれた。
世界はこんなにも恐ろしい。けれど、素晴らしいものもあるのだと。霊という人の優しさと、愛情。それを知るきっかけを与えてくれたのかもしれない。
母にはもう会えない。でも、霊とは一緒にいられる。この幸せを手放すことのないようにしなければ。
その日の食事は、とても激しくて、悩ましくて、私にとっても美味しいものとなった。